2018年12月30日日曜日

将来の輝きを待ち望む(2018年歳末礼拝)


ローマの信徒への手紙8章18~28節

関口 康

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

今日は2018年最後の礼拝です。今年の教会活動をふりかえって総括するようなことは、私は全く考えていません。そういうのは主任牧師の仕事です。

私にできるのはせいぜい自分自身の1年をふりかえることです。しかし、それはあくまでも個人的なことですので、礼拝の中で申し上げるようなことではありません。

そうではなく、今日お話しするのは神学の話です。聖書と教会の伝統に基づくモノの考え方です。難しい話ではありません。

神学に終末論と呼ばれる教科があります。耳で聞くと同じになるウィークエンドの「週末」ではありません。事物の終わりを意味する「終末」です。

恐ろしい話ではありません。神に造られたものが、造られたスタート時点から出発してゴールをめざす。そのゴール(目標)が終末です。

その終末論が扱う議論は大別すると二つあります。その二つは、いろんな呼び方がありますが、比較的分かりやすいのは「個人的終末」と「一般的終末」という呼び方です。

「個人的終末」とは、個人としてのわたしたち人間の命の終わりとしての死です。そして死後に与えられる永遠の命です。他方、「一般的終末」は世界の終わり、または宇宙の終わりです。一般的終末は「宇宙的終末」とも呼ばれます。

なぜ「一般的」なのかというと「個人的でない」という意味です。そして個人の死と世界の終わりが全く無関係であるということはありません。しかし両者をとにかく区別しなければならないというのが神学の共通理解です。

しかし、この区別は、わたしたちにとてつもない落胆や失望を与える可能性があります。考えれば考えるほど、とりあえず一度、あるいは何度も繰り返し、わたしたちを打ちのめします。しかしまた、しばらく忍耐してもう少し先まで考えると急に安心感に満たされます。それでいいのだと思えるようになります。

何の話をしているのか。「個人的終末」と「一般的終末」の区別、その意味は「個人の死と世界の終わりは区別されなければならない」ということです。

別の言葉で言い直せば、私が死んでも世界が終わるわけではない、ということです。私がいなくなっても世界は相も変わらず存続し続ける、ということです。世界の存立にとって私の存在に必然性はない、ということです。私がいてもいなくてもこの世界に大差はない、ということです。

最後に申し上げたことまで言うと、腹が立つ方がおられるかもしれません。先ほど申し上げた、とてつもない落胆や失望が襲いかかる可能性があるのはこのあたりです。「そうか、私はいなくてもいいのか」と気づかされる瞬間です。しかし問題になっている事柄をはっきりさせるためには、そこまで言う必要があります。

それは世界が個人を犠牲にしてもよいとか、個人は世界のために犠牲になれという意味ではありません。とくに近代社会は個人の集合体が世界であるという基本思想の上に立っています。それに反することを神学が考えているわけではありません。

それでは何を考えているのかというと、まさに個人の集合体が世界であるならば、世界を構成する一個人の死が世界の終わりを意味するとしたら、恐怖以外の何ものでもない、ということです。

一国の政治を強権的に支配する独裁者のような人が、自分の命が終わった後に世界が存続するようなことがあってはならないと妄想を抱き、世界を終わらせるスイッチを押すようなことがあってはならない、ということです。どれほど偉大な個人であれ、世界の存続を終わらせる責任を負っていないし、負うべきではない、ということです。

そして、個人の集合体が世界であるならば、世界は個人が地味に地道に積み上げてきた努力の上に立っている汗と涙の結晶ですから、圧倒的な力を持つ一個人の暴力的な力で破壊してよいようなものではありえない、ということです。

みんなの汗と涙の結晶としての世界を次の世代に遺し、これから何百年、何千年先の歴史に遺すためにどうするかを考える必要があります。そのためならば個人が犠牲になってもよいという意味ではありません。しかし、エゴイスティックな個人が自分の死と共に世界を巻き添えにする権利はない、と語ることはできます。

「自分がいなくても世界は存続する」という事実は、考えるとやっぱり寂しくなるようなことではあるのです。先ほど「個人の死と世界の終わりは全く無関係ではない」と申し上げたのは、その寂しさを無視できないからです。少なくとも個人の主体性においては、自分の死と共に自分の世界は確かに終わるのです。その気持ちは、すべての人に理解できることです。

しかし、冷静に考えれば、自分が生まれる前にも世界は存続してきたことに気づきます。そもそも自分は世界の初めに対しても終わりに対しても責任を持っていないし、持つ必要がないことを認識できるようになりますので、それが慰めになるはずです。

先週、久しぶりに家族で食事をしました。品川で豪勢に。子どもたちがそれぞれの学業を卒えて就職して頼もしくなってくれました。親の責任が終わったとはまだ言えない状態ですが、親の助けがなくても生きて行ってくれるであろうと期待できる状態まで何とか漕ぎつけたと感じました。

たとえて言えば、「個人的終末」と「一般的終末」の区別の意味は、まさにそのようなことです。その程度のことです。

自分の人生の終わりと世界の終わりが同一であるような人生は、恐怖と絶望以外の何ものでもありません。何のために努力し、苦労してきたかが分かりません。次の世代、将来の世界を担う人々の成長を、目を細めて喜び、愛で、祝うためにこそ、わたしたちは日々努力しているのではないでしょうか。

「自分のいない将来の世界に責任を持てない。そんなものの責任は負えない」と、どうか言わないでください。同じことを昔の人々が全く考えなかったとは思いません。しかし、本気で世界を終わらせることを実行に移していたら、わたしたちもいません。

今わたしたちが生きているのは、将来の世界の輝きを待ち望みつつ努力し、個人の汗と涙の結晶としての世界を我々の世代に託してくれた先人たちのおかげです。だとしたら、わたしたちも次の世代の人々の輝きを待ち望み、わたしたちの汗と涙の結晶を将来の人々のために遺すべきです。

今日開いていただいた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙の8章18節以下です。私が今年1年かけて取り上げると最初に約束して、途中で放棄したままになっているローマの信徒への手紙です。

今日の箇所に記されているのは、三つの存在が世界の将来を待ち望んでいるという話です。

第一の存在は「被造物」(19節)です。

第二は「霊の初穂をいただいているわたしたち」(23節)です。これは、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたち信者であり、同時に教会を指していると考えることができます。

第三は「霊」(26節)、すなわち聖霊です。教会の信仰によれば、聖霊は父・子・聖霊なる三位一体の神の霊です。聖霊は端的に神です。

パウロが書いている順でいえば「被造物とわたしたちと神」、逆の順でいえば「神とわたしたちと被造物」が世界の将来を待ち望んでいるとパウロは信じています。

旧約聖書と新約聖書は区別されなければなりませんが、無関係ではありません。旧約聖書は時間の次元としての歴史を重んじます。それは新約聖書にも当てはまります。

世界に将来があると信じている人は、自分の世代で世界が終わると思っていません。人が死んでも、自分が死んでも、世界が滅びても、永遠の次元において存続する霊の人がおり、霊の世界がありさえすれば、それでよいとも思っていません。

少なくともパウロはそういう考えを持っていません。もし持っていたなら世界伝道旅行などする必要はありません。

パウロが多くの人に福音を宣べ伝え、世界中に教会を作ったのは、自分の世代で世界が終わるのでそのための葬儀場を作りたかったからではありません。時間の次元としての将来の世界において、信仰と忍耐をもって生き延び続ける人々をひとりでも多く得るために、パウロは伝道したのです。

この教会が幼稚園と共に歩んでこられたことを、本当に素晴らしいことだと思っています。教会学校が重んじられてきた教会であるのも素晴らしいことです。

子どもたちはいつまでも子どもではありません。必ず大人になります。世界の歴史の担い手になります。それは永遠の次元だけではとらえることができません。

わたしたちの新しい年が希望に満ちたものとなりますよう、お祈りしましょう。

(2018年12月30日)

2018年12月20日木曜日

見よ、飼い葉桶に救い主がおられる(2018年12月20日 中学校クリスマス賛美礼拝)


ルカによる福音書2章1~7節

関口 康

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

私に与えられた時間は限られています。先ほど朗読された聖書の中で、ひとつの点を取り上げて、考えを深め、思いを集中したいと願っています。

それは、最初に朗読されたルカによる福音書2章1節から7節までに記されていることです。ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出たので、ヨセフとマリアがベツレヘムまで旅をしなければならなくなり、そのベツレヘムに滞在中にイエスを出産したことが記されている箇所です。

特に注目していただきたいのは、ヨセフとマリアが、生まれたばかりの赤ちゃんを「飼い葉桶に寝かせた」とあり、その続きに「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6~7節)と記されているところです。

ここに書かれているのは二つのことです。一つは、イエス・キリストが寝かされた場所が「飼い葉桶」だったということです。飼い葉桶は家畜小屋にあります。その意味は、イエス・キリストは家畜小屋の中で生まれたということです。もう一つは、イエス・キリストを含めた三人家族に「泊まる場所がなかった」ということです。

二つのことを聖書は関係づけています。しかし、勘が良い方はこの関係づけに必然性があるかどうかに疑問を感じるかもしれません。「宿屋に泊まる場所がなかった。だからイエス・キリストは家畜小屋で生まれた。なぜそうつながるのか。他にも選択肢があるのではないか」と思われる方がおられませんか。

そもそもなぜ「宿屋に彼らの泊まる場所がなかった」のか。よくなされる説明は、アウグストゥスの勅令は全領土の住民が対象だったので、同じ目的で旅をしていた人々が大勢いた。だからどの宿屋も満室だったので泊まる場所がなかったということです。

しかし、それはひとつの説明です。他の可能性があります。「宿屋に彼らの泊まる場所がない」と書かれている以上、宿屋そのものがベツレヘムになかったわけではありません。しかし、すべての部屋が満室だったとも書かれていません。もしかしたら空室だらけだったかもしれません。確証はありませんが、「どこの宿も満室だった」とも書かれていませんので引き分けです。

しかし、問題はその先です。もし仮に実際の宿屋は空室だらけだったのに「彼らの泊まる場所がなかった」ということがありえたとしたら、その意味は何かということです。答えは簡単です。宿屋に支払うお金がなかったということです。宿屋はあり、部屋はあっても、それが「彼らの泊まる場所」になるとは限りません。

しかし、もしそうだとしたら、この話はどうなるのでしょうか。いつ生まれるかが分からない子どもを身ごもった状態で、大したお金も持たずに遠い町への旅に出て、旅の途中で破水して、宿屋に入れてもらえず、挙句の果てに家畜小屋での出産を余儀なくされた。

もしそうなら、政治のせいなんかではない。自分の準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの生き方をしてきた結果ではないか。無責任すぎないか。子どもが迷惑する。

というふうにお感じになる方が皆さんの中におられませんでしょうか、とお尋ねしたい気持ちです。いま申し上げたように私が言いたいわけではありません。しかし、尊重されるべき意見かもしれないと思うところがあります。

私は二人の子どもの親です。ひとりは明治学院大学の卒業生です。それ以上のことは言いません。彼らの個人情報ですから。私が言いたいのは、私にも子どもを育てた経験があるので、もし皆さんの中にヨセフとマリアは無責任な親の代表者だとお感じになる方がおられるとしたら、ヨセフとマリアに代わって「おっしゃるとおりです。ごめんなさい」と謝りたい気持ちになる、ということです。

しかし、謝るだけで終わりにしません。だから嫌われるのですが。そして私はこう言いたくなります。「それはそうかもしれない。しかし、状況が整わないからといってヨセフとマリアにイエスを生まないという選択肢がありえただろうか」と。その答えはノーです。その選択肢はありませんでした。だからこそイエス・キリストは「飼い葉桶」に寝かされたのです。

中学生の皆さんに妊娠や出産の話をこれ以上続けるのは荷が重いです。代わりに、皆さんが強い関心を持っておられるに違いない受験や就職、目の前のテストや成績、部活動のことに話題を向けます。

皆さんの中に、良い結果が出ることが見込めそうにないとあらかじめ予測できることについては、初めから関わらない、努力しない、見向きもしないという方がおられませんか。そういうのを悪い意味の完璧主義(パーフェクショニズム)というのです。完璧にならないことはしない。その結果、何もしない。百点でなければ零点と同じ。だから初めからテストを受けない、受けたくない。

初対面の皆さんにケンカを売りに来たのではありません。しかし、身に覚えのある方は耳を貸してほしいです。そして聞きたいです。親と学校が環境を整備し、状況がすべて整えば勉強するのですか。努力しないのは、環境を整えてくれない親と学校のせいですか。こんな家に生まれて、こんな学校に来て、お先真っ暗だと、そう思っている方がおられませんか。

ここでちょっと開き直らせてもらいたいです。もし仮に、あなたの人生があなたの親の見切り発車から始まり、その後もすべて準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの家庭で過ごしたとしても、だからなんなんだ。

ヨセフとマリアが子どもを「飼い葉桶」に寝かせたのは、見切り発車であろうと、状況が整わなかろうと、何がどうだろうと「この子を生まない」という選択肢だけはありえなかったことの証拠かもしれないのです。新しい命の誕生を最優先した結果であると言えるかもしれません。

イエス・キリストが「飼い葉桶」に寝かされたことは、聖書の普及と共に世界中の人に知らされてきました。それは、見方によれば恥ずかしいこと、隠したいことかもしれません。しかし、けらけら笑ってばかにする人は、いるかもしれませんが、その人は自分のしていることの意味が分かっていないのです。

その人の人生のどのページかに、その人自身の「飼い葉桶」が登場する人々と共にイエス・キリストはおられます。「おお、きみとぼく、おんなじだね」と言ってくださいます。その人の気持ちを、その人が置かれている状況を、イエス・キリストは理解してくださいます。

あなたのためにイエス・キリストはお生まれになりました。そのことを今日お伝えしに来ました。クリスマスおめでとうございます。

(2018年12月20日、明治学院中学校クリスマス賛美礼拝説教)

2018年12月16日日曜日

主があなたと共におられる(アドベント説教)


ルカによる福音書1章26~38節

関口 康

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」

先ほど朗読していただきましたのは、毎年クリスマスが近づくたびに世界中の教会の礼拝で開かれ読まれる聖書の箇所です。先週の礼拝で学んだ個所もそうです。

そのときイエス・キリストが何をお語りになったかが記されている箇所ではありません。普通に考えてそれは無理です。イエス・キリストは生まれたばかりの赤ちゃんだったわけですから。

それでは何が記されているのかといえば、二つの言い方ができます。一つの言い方は、イエス・キリストの父なる神が天使を用いて、イエス・キリストの母となり父となる人たちにお伝えになった言葉が記されています。しかし、そんなふうに言われるだけでは全く理解できないと感じる人々は少なくないでしょう。

そういう方々のためにもう一つの言い方を用意する必要があります。それは、とにかくイエス・キリストの母となり父となった人たちが、イエス・キリストが生まれる前に何を考えたのか、その具体的な内容が記されているとも言えるということです。

その中に天使が登場します。その天使がイエス・キリストの父なる神の言葉を彼らに伝えています。そのようなことが起こったのだと言えば、さっぱり理解できない話であるとまでは言えないようだとお感じいただけるはずです。

今日の箇所には書かれていないことですが、先週学んだマタイによる福音書には、マリアの夫(正確にはいいなずけ)ヨセフに天使は「夢に現れた」(マタイ1章20節)と記されています。

ああ、そうかヨセフは眠っていたのか。天使は夢の話だったのか。言われてみれば、わたしたちも夢は見る。夢の中で空を飛んだことがあるし、谷底に落ちたこともある。しかし、目が覚めたら元に戻れた。それと同じかと考えていただけば、全く理解できないことではないとお感じいただけるでしょう。

それともう一つの言い方もあるといえばあります。神を信じているか信じていないかにかかわらず、かなり多くの人々が、自分の子どもが生まれるときになにかしらの宗教心を抱くことが十分ありうるということです。

皆さんの中にご自分の名前を親が決めたのは姓名判断の占いだったという方がおられませんでしょうか。それは良いことだとか悪いことだとか言いたくてお尋ねしているのではありません。

子どもの親になる人に共通しているのは、たとえ自分の子どもであっても親の願いどおりにはならないことを必ず体験するということです。男の子が欲しい、女の子が欲しいと、いくら願っても、その通りにならないし、こういう顔の、こういう形の、こういう能力のと、いくら期待しても、その通りにはならない。

その通りにならなくてよいのです。親は子どもの創造者(クリエイター)ではないからです。その現実を突きつけられるほうがよいのです。だれの思い通りにもならないで、わたしたちは生まれてきたのです。そうであるなら、わたしたちの子どもたちも、わたしたちの思い通りになるわけがないし、させようとすること自体が傲慢です。

しかし、だからこそ、みんながみんな同じではないかもしれませんが、かなり多くの人々が、自分に子どもが生まれるというときに、なにかしらの宗教心を持つことがありうると先ほど申し上げたことが当てはまります。

それが聖書の神への信仰と直接結びつくとは限りません。人間としての自分自身の限界を自覚することと神を信じることの間には大きな断絶があります。その断絶を越えるために強い決心と勇気が必要です。

しかし、どこかで気づいているはずですし、気づくべきです。自分の思い通りにならない存在が生まれるとは何を意味するのかを。最初の命を創造(クリエイト)し、わたしたちの命を生み出し支えている存在がどこかにおられることを。

いま申し上げたのはわたしたちの誕生に関することです。しかし、イエス・キリストの誕生は話が別だと言わなくてはなりません。

先週学んだマタイによる福音書1章に記されていたのはイエス・キリストの父となるヨセフの側に起こった出来事でしたが、今日開いていただいているルカによる福音書1章に記されているのはイエス・キリストの母となるマリアの側に起こった出来事です。

内容は共通しています。どちらにも天使が現れました。それは「夢」の話だとマタイによる福音書に記されていましたので、今日の箇所の出来事も同じであると言ってよいかもしれません。わたしたちが夢の中で空を飛んだり崖から落ちたりするように、マリアとヨセフは夢の中で天使に出会い、神の言葉を聞いたのです。そのように言えば納得していただけるのではないでしょうか。

そしてその天使がマリアに告げたのが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉でした。それが最初の言葉だったことは、いろんな意味で興味深いです。そのすぐ後に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)と記されています。

マリアが戸惑ったのは、天使が先に用件を言わないで、いきなり「おめでとう」と言ったからです。電話でも電子メールでも、用件を先に言ってから「おめでとう」と言わないと驚かれます。「何がめでたいのかを先に言ってください」と叱られますので、気をつけてください。

しかし、先に用件を言わずに「おめでとう」だけを言った天使が続けて告げた言葉にマリアはさらに驚きます。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30~33節)。

このお告げはマリアにとって驚きでしたが、それ以上に不安を感じることでもあったはずです。マリアは結婚していなかったからです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)とすぐに反論しているとおりです。

しかし、それだけではありません。あなたは王の母になると言われたからです。何を言われているのかが分からなかったに違いありません。なんでもすぐにわたしたちの話にしてしまうのは私の悪い癖で申し訳ないですが、もしわたしたちが同じことを言われたらどのように感じるだろうかと考えてみるほうがよいと思いました。

あなたは王の母になると言われた人は、子どもを王として育てる責任が生じます。まさに帝王教育です。

子どもは親の思い通りになりませんので、親の教育とは無関係に勝手に王になってくれる子どもがいないとは限りません。しかし、自分の子どもが王になってくれたとき、その親である人が必ず脚光を浴び、クローズアップされますので、その日に備えて、王の親にふさわしい人間にならなくてはなりません。

しかし、いま申し上げたことは、特に重要なことではないかもしれません。子どもが生まれるときに親が見る夢は、大なり小なり大げさな要素があるし、それはやむをえないと思います。

「そんなことを言われても、私は子どもを産んだことがないので分かりません」と、どうか言わないでください。あなたが生まれたとき、あなたの親は、夢を見たのです。

少なくとも自分の夢を託せる人になってほしいと、自分の子どもに期待しない親はいません。「たぶんいません」と誤魔化さないでおきます。あなたは王の母になると言われたマリアが、これから生まれる子どもが将来王になることを期待し、がんばってほしいという願いを持つことはありえたし、それが悪いわけではありません。

しかしマリアの場合、それだけでもありません。天使は続けます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(35~37節)。

天使のこの言葉で、マリアはいよいよ驚いたはずです。あなたから生まれる子どもは、将来王になるだけでなく、神の子であると言われたからです。何を言われているのか分からない状態が極まっていると言わざるをえません。

もういいのです、それ以上のことは考えなくても。考えても分からないことです。自分の子どもが将来どうなるかが分からないことと、世界の将来がどうなるかが分からないことは通じ合っています。

分からないことは分からなくていいのです。自分の願い通りにならないことがあることを正直に認めればよいのです。自分自身はこの世界の中のひとつのことでさえ創り出すこと(クリエイト)ができないことを、ただ受け容れればよいのです。

マリアにはそれができました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と天使に応えました。これは、「神の言葉が私の存在においても実現しますように」という祈りです。

自分自身の願いを持つことが悪いわけではありません。むしろ持つべきですし、持たないのは無責任に通じます。しかし大人になればなるほど、どれほど願っても叶わないことがあることを知ります。胸が張り裂けるほど。

そのときに、自分の願いをはるかに超えた、もっと大きく広い次元で、神が何かを実現しようとしておられることを、私は信じます。

その内容は私には分からないけれどもとにかく神が実現しようとしておられることが、この私の存在においても現れますようにと、私は信じます。

神の大きな計画の中で、この私の存在が用いられますように、という信仰に基づく祈りです。

このマリアからイエス・キリストが生まれました。これが、聖書が教えるクリスマスの知らせです。

(2018年12月16日)