2018年5月27日日曜日

救いを求める

ローマの信徒への手紙3章27~31節

関口 康

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」

同じことを何度も言うと嫌われますのでそろそろやめますが、毎回冒頭で申し上げていることを今日も繰り返します。今させていただいているのはローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰とは何なのかを確認する作業です。しかし、それはどういう意味なのかについての説明が足りていないかもしれません。

うまく行っているかどうかはともかく、私がずっと意識していることをたとえていえば、もしパウロが今の時代に生きていたら、あるいは「よみがえったら」、彼は何を考え、どのように語るだろうかということです。

反対の方向で考えることもできるでしょう。もしわたしたちがパウロの時代に生きていたら、わたしたちは何を考え、何を語るでしょうか。わたしたちが何らかの方法でパウロの時代に行き、パウロの説教を聴いたら、その説教にわたしたちが納得することができるでしょうか。

どちらにしても難しいことです。しかし、どちらかといえば前者のほうが、パウロがひとりであるという点で、想像のしやすさがあります。それはパウロの言葉、ひいては聖書の言葉全体の「現代的解釈」であると言ってしまえばそれまでです。しかし、現代的解釈とは何を意味するのだろうかと、さらに深く考えなければなりません。

その問いに対して私は、わたしたちがパウロの時代に行くことではなく、パウロにわたしたちの時代に来てもらうことのほうを考えています。

別の言い方をすれば、驚かれるかもしれませんが、今のわたしたちがパウロの言葉をそのまま鸚鵡(おうむ)返ししさえすれば、それがキリスト教信仰であるとは言えない、ということです。なぜなら、パウロはパウロで、彼の時代の中で特定の問題に取り組み、その答えを求めて葛藤し、格闘したからです。それは彼の問いと答えであっても、わたしたちの問いと答えではありません。

もちろん、そのパウロ自身の葛藤と格闘の中で見出された普遍的な真理があるからこそ、それを今のわたしたちが学ぶことに意味があります。しかしそれは、パウロの言葉を鸚鵡返しすればよいということを意味しません。似ても似つかない全く別の言葉になっていきます。

それでいいのです。わたしたちはパウロの言葉を最大限に尊重します。神の言葉であると信じてもいます。しかし、悪い意味で縛られるべきではありません。わたしたちは、わたしたち自身の言葉で語るべきです。

今日朗読していただきましたのは、3章27節から31節までです。前回までの箇所の続きです。特に前回の箇所に記されていた「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべて神の義が与えられること」と「イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされること」、すなわち「贖罪の教理」と「信仰義認の教理」という、いわば二つの教えでもあり、ひとつにつながっているようでもある教えを念頭にして書かれているのが今日の箇所です。

いま「贖罪の教理」とか「信仰義認の教理」とか難しい言い方をしました。しかし、その内容の詳しい解説は、前回もしませんでしたが、今日もしません。どうでもいいことだとは思いませんが、とにかく今日はやめておきます。

それより今日お話ししたいのは、今日の箇所の最初に書かれていることです。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)。

これでパウロが言おうとしていることを言い換えれば、「贖罪の教理」にせよ「信仰義認の教理」にせよ、そのめざすところの目標は「人間の誇りを取り除くことにある」ということです。「誇り」の対義語は「恥」ですから、もっと大胆に言い換えるとしたら、「キリスト教信仰の目標は、人に恥をかかせることにある」ということになるかもしれません。プライドをもって生きている人の鼻をへし折ることにある。

このように言われますと嫌な気持ちになるかもしれません。私もこういうことを言いながら、自分でなんだか気持ちが悪いです。ぞっとする要素があることは確かです。そして、激しく問い詰めたくなるかもしれないのは「なぜそんなことを必要があるのか」ということです。

「人の誇りを取り除く」というのは、人間の尊厳に対する侮辱ではないか。人を貶め、辱める。「あなたがたは何をしたいのか」と抗議の電話が教会にかかってくるかもしれません。それほどのことをパウロが書いていると考えることは不可能ではありません。

しかし、もう少し我慢して、次の言葉を読んでみましょう。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」(29~30節)と書かれています。パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。神は特定の宗教を信じる人々だけを依怙贔屓なさらない方であるということです。

なぜそう言えるのかといえば、繰り返し申し上げてきたことですが、パウロが「ユダヤ人」と書いているのは民族の意味ではないからです。ユダヤ教徒という意味です。しかもそれは、現代の宗教学者が世界のいろんな宗教を分類し、他の宗教と区別して言うような意味ではありません。パウロが書いているのは「聖書の神を信じる人々」というくらいのずっと広い意味です。

そうしますと、パウロの言っていることの意味は「聖書の神を信じる人々だけを創造し、救済する神は存在しない」というようなことになります。それは「神は異教徒をも創造し、救済する」ということです。「神が唯一である」とは、そういうことです。ユダヤ教の神とイスラム教の神とキリスト教の神がいるわけではないのです。そういうことを言い出すこと自体が多神教です。

これもわたしたちにとっては相当ぞっとする言葉ではあります。特定の宗教を信じる人を依怙贔屓なさらない神は、キリスト教を信じる人々に対しても同様の態度をおとりになるでしょう。ここで話を終わりにすれば「ならば、なぜ教会に通う必要があるか」と疑問に思う人が出てくるかもしれません。こんなに一生懸命に教会に通っているのに特別扱いしてもらえないのであれば。

しかし、私はあえて「依怙贔屓(えこひいき)」という言葉を使っていますが、もちろん、その意味をよく考える必要があると思っているからです。依怙贔屓することがよく問題になるのは、学校でしょう。学校の先生が、自分の担任するクラスの中のある特定のお気に入りの生徒を特別扱いし、他の生徒を無視したり邪険に扱ったりすること。こういうことを神はなさらないと私は言っているだけです。

この先生はどの生徒も同じように大事にしてくださいます。しかしすべての生徒が先生の公平な眼差しと態度を認めてくれるかというと、話が別です。今の学校には「授業評価」というのがあり、生徒が先生に点数をつける時代です。生徒の見方は歪んでいるとか言い出すのは間違っています。しかし、ひとりの先生を生徒が評価する場合、評価の内容が違うことは十分ありえます。

今申し上げたのは、あくまでもたとえです。神と人間の関係は、先生と生徒の関係と合致するわけではありません。わたしたちが理解すべきことは、神はどの人のことも依怙贔屓なさらない方であり、どの宗教の人に対しても、宗教を持たない人に対しても、宗教を憎む人に対してさえも、同様の態度をお示しになる方であるということです。

そういう先生こそ生徒から信頼される存在ではないでしょうか。それは甘い考え方でしょうか。私は今の学校の事情を正確に把握していませんので、深入りはしません。ただ、いま申し上げた意味の「信頼」と、キリスト教の「信仰」が合致します。そのことを言いたいだけです。

そしてそれはどういう意味かといえば、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義を与えること」(信仰義認の教理)も「イエス・キリストによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とすること」(贖罪の教理)も同じおひとりの神の働きですが、その神をわたしたちが信じるという場合の「信仰」は、「どの生徒も依怙贔屓しないゆえに多くの生徒から信頼される先生がいる」という場合の「信頼」と合致する、ということです。

そのように考えることができるようになれば、いわばそのとき初めて、ひとつ前に申し上げた「キリスト教信仰のめざすところの目標は、人に恥をかかせることにある」という、ひどい言葉の意味が理解できるようになると思うのです。

パウロが取り組んだ問題はユダヤ人の強すぎる宗教的なプライドの問題でした。それが至る所で災いをもたらしました。教会分裂の原因になりました。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が教会内部で対立しあうのです。ユダヤ教徒によるキリスト教徒迫害の理由でもありました。

「自分たちだけが救われて他の人々は救われない」ということを徹底的に信じることのどこに問題があるかといえば、他の宗教を信じる人々に対して排他的で攻撃的な態度を持つようになるということで間違っていませんが、問題の底はもっと深いところにあるように思えます。

私が思うのは、他の宗教に対する排他的で攻撃的な態度は、本来どの人に対しても依怙贔屓をなさらない神への「信頼」を多くの人から奪う結果を生むだろうということです。依怙贔屓するような神なら信じたくないと、多くの人に思わせてしまうのです。自分だけ依怙贔屓してもらいたい人の鼻はへし折られるかもしれません。しかし、そんな鼻はへし折られたほうがいいのです。

依怙贔屓なさらない神に「私はこれだけのことをしました。できました」と自分の業績自慢をしても無駄です。「よしよし、よくがんばった」とほめてはいただけるでしょう。しかし、だからといって、他の生徒よりも先生に寵愛される生徒に自分がなれると思わないほうがいいです。

先生によりますが、「だめな子ほどかわいい」ということが十分ありえます。「だめとは何か」と叱られるかもしれませんが、いつまでも記憶に残るのは、そういう生徒です。下駄を履かせて(救済!)あげないと及第できない生徒のほうが。

神の愛と憐れみによる罪人の救いとは、そのようなことです。罪人でない人はひとりもいないので、救いの御手(下駄!)はすべての人に差し伸べられます。

(2018年5月27日)

2018年5月20日日曜日

聖霊と生きる

使徒言行録2章29~42節

関口 康

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

おはようございます。今日の礼拝はペンテコステ礼拝としてささげています。「ペンテコステおめでとうございます」という挨拶を私は聞いたことがありません。しかし、今日がおめでたい日であることは確かです。

ペンテコステは、最も単純にいえば全世界のキリスト教会の誕生日です。教会は「団体」ですから「設立記念日」と言っても構いません。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに匹敵するほど大切な記念日です。また、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと同等の価値を持つ祝祭日です。

しかし、これはあくまでも私個人の印象であるとお断りしたうえで申し上げますが、もしかしたら日本の教会に、そうであることの認識が欠けているかもしれないと感じることがあります。全世界の教会の誕生日だからおめでたいと言われてもピンとこないと思われる方がおられませんでしょうか。

たとえば、各個教会に設立記念日があります。日本キリスト教団にも創立記念日があります。それらについても同じことが当てはまるのではないかと思います。「だから何なのか」と感じてしまう。「それが私の人生と何のかかわりがあるのか」と。

「私にとって重要な意味を持つのは、この私の誕生日であり、この私が洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたことを記念する受洗記念日である。それをお祝いするならまだ分かる。教会の誕生日なんかどうでもいい。私とは関係ない」と。

かなり穿った見方が混ざっていますので、そのようなことは一度も考えたことがありませんとおっしゃる方がおられるようでしたらお許しください。どうか怒らないでください。

そして私は、もしこういう感覚をお持ちになる方がおられても責めるような気持ちは全くありません。私自身もこういうことをしょっちゅう考えているからです。もしかしたら皆さんの中に私と同じ感覚を持っておられる方がおられるのではないかと想像して、あえてお尋ねしています。

ひと言でいえば個人主義なのだと思います。「神は好きです。イエス・キリストも好きです。しかし教会は嫌いです」とおっしゃる方がおられます。私の知るかぎりでも少なくありません。「教会などなくても自分の信仰は維持できます。神と自分の一対一の関係が重要なのであって、教会は邪魔になるだけです。面倒くさいものに巻き込まれたくありません」と。

そういう感覚をお持ちの方々を私が責めるつもりがないのは、教会はそういう存在であると私自身が考えているからです。「お邪魔してすみません」と謝りたくなります。「皆様の人生と生活を支配しようなどとは全く考えておりません。もしお役に立てることがあるようでしたら、何なりとお申し付けください」という気持ちがあるだけです。

この気持ちは私が牧師の仕事を始めた最初の日から全く変わっていませんので、かつて牧師をした教会の方々からよくお叱りを受けました。「弱腰すぎる」「頼りない」「もっと権威をもってください」と。「はいはい分かりました」とお答えすると「はいは一回」と言われたり。のれんに腕押し、ぬかに釘。

どの教会もどの牧師も、みんなそうだと思いません。強い権威をもって立とうとする教会もあります。しかし、そのほうがいいと私にはどうしても思えません。私の個人的感想としてではなく、聖書と神学に基づく結論として。教会は個人に「弱く優しく」寄り添う存在以上であるべきでない。

今日開いていただいたのは使徒言行録2章です。最初のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事が描かれている箇所です。しかし、今日の箇所に入る前に見ておきたいのは使徒言行録1章6節以下に記されているイエス・キリストの昇天の出来事です。

昇天は、使徒言行録1章3節によると、イエス・キリストの復活から40日目に起こったことです。そのとき何が起こったのかといえば「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章9~10節)ということです。

これを文字通り受けとるべきかどうかに疑問を持つ方がおられるかもしれません。イエス・キリストの背中に羽根が生えて、鳥か飛行機のように飛んで行かれたのでしょうか。そのようにとらえるべきなのか、それともこれはある意味での比喩としてとらえてよいかの判断は、わたしたちに任せられています。

この箇所で重要な点は、ひとつです。イエスが「彼らの目から見えなくなった」ことであり、「離れ去って行かれた」ことです。つまり、このときからイエス・キリストは地上において不在になられたのです。

そして、イエス・キリストの昇天から10日目、イエス・キリストの復活から数えれば50日目に起こったのが聖霊降臨の出来事です。そのように使徒言行録が描いています。

「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章1~4節)。

そこで何が起こったのかは、記されていることに基づいて想像するほかはありませんが、これも文字通り受けとるべきなのか、それともある意味での比喩なのかを考える必要がありそうです。「激しい風」や「炎のような舌」といった、大げさというと語弊がありますが、ドラマティックな形容詞や副詞が目立つ文章が続いています。

この中で重要な点は二つです。第一は、ひとつの場所に集まっていたイエス・キリストの弟子たちが「聖霊に満たされたこと」です。第二は、彼らが「ほかの国々の言葉で話しだしたこと」です。

どちらも奇跡的な出来事として描かれています。しかし、第二のほうからいえば、彼らがほかの国々のいろんな言葉で語り出したのは、いろんな国の多くの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためでした。つまり、このときから世界伝道の準備が始まったのです。

そして第一の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことの意味は何かと考えるときに大事なことが、先ほど触れたイエス・キリストの昇天の出来事との関係です。昇天の出来事がイエス・キリストの「不在」の始まりだったとすれば、聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの「代わり」としての聖霊が、弟子たちと共に働いてくださることの始まりだったと言えます。

それとも、イエス・キリストが不在になった時点で、教会は伝道をやめて解散すべきだったでしょうか。初代教会はそうしませんでした。イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの「代わり」に伝道を継続したのです。

キリスト教会の信仰において「聖霊」は、神の力(パワーやポテンシャル)であるというだけにとどまりません。「聖霊」は端的に「神」です。わたしたちの「神」は父・子・聖霊なる三位一体の神です。この点は譲ることができません。

そして「聖霊」が「神」であるとしたら、聖霊降臨の出来事において起こったことは、イエス・キリストの弟子である者たちの存在(体と心)の内部に「神」が宿ってくださることが起こったとしか言いようがない、ということです。

しかも「聖霊」が三位一体の神であるということは、わたしたちの存在(体と心)の内部には「聖霊のみ」が宿るのであって、父なる神もイエス・キリストも宿ってくださらないということではなく、「聖霊」が宿るこの私の中に、父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださることを意味します。

私が教会の方々によくお勧めしてきたのは「山のあなたの空遠くにおられるかどうか分からない方に呼びかけるような祈りではなく、自分に言い聞かせるように祈るとよいと思います」ということです。この私に神が宿っておられ、その神に祈るのですから、それでよいのです。

それはものすごく重要なことであり、驚くべきことです。なぜなら、イエス・キリストの弟子たちは、あくまでも一個人だからです。その一個人の内部(体と心)に「神」が宿ってくださるということは、その現象としての外見上は、神がたくさん増えたかのようです。なぜなら各個人は「ほかの国々の言葉で話しだした」とあるとおり、いろんな言葉で語るからです。

聖霊が注がれた人、すなわち「聖霊なる神が宿ってくださった人」は、それ以前に持っていた記憶も感情も失うのかといえば、決してそうではありません。それらを失うとすれば「洗脳」を意味しますが、各個人は元々の人間のままです。なんら変化はありません。たとえ「上書き保存」されたとしても、元々の記憶も感情も残ったままです。思い出したくないような過去の記憶も事実もすべて。

それでよいのです。元々のこの弱い人間性を持ったままの私を「神」が用いてくださるのです。神はおひとりであり、三位一体の神を信じる信仰は多神教ではありません。しかし、聖霊と共に生きる者たちは、判で押したような同じ言葉しか言わなくなるわけではありません。それぞれ違った言葉や発想で語ります。それが聖霊の働きの特徴です。

教会とはそういうところです。基本的に全く自由な団体です。自分の感情を押し殺す場所ではありません。故意に人を傷つけるようなことは言わないほうがいいに決まっていますが、思ったことを思ったとおり語ることが許されています。わたしたちは何も怯える必要がありません。

そういう場所がわたしたちの人生の中にあることを感謝したいと思います。

(2018年5月20日)

2018年5月13日日曜日

福音を味わう

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

毎回申し上げていますが、私が説教を担当させていただくときにしているのは、ローマの信徒への手紙を読みながら、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の要点を押さえていくことです。

その中で私がいちばん最初に申し上げたのは、ローマの信徒への手紙は、そのほとんど最初の部分から「わたしたち人間は罪人である」ということを、まるで機関銃のようにこれでもかこれでもかの勢いで書いている書物ではありますが、だからといってパウロは、あるいは聖書全体の教えは、神が人間を罪人として創造されたと信じていないし、教えてもいないということです。

神は人間を「きわめて善い」存在として創造されました(創世記1章31節)。人間性の本質は善です。人間を初めから罪人として創造するような神を、少なくとも私は真面目に信じることができません。人生の悩みと世界の混乱の原因としての罪を自分で作っておいて、その罪の中からあなたを救ってあげましょうと言い出すような神は、マッチポンプ(自作自演)の神です。

そうではありません。火をつけたのはあなたです。わたしたち人間です。理屈を言いたい人は、もし神が人間を初めから罪を犯すことができない存在へと創造してくれていたならば、世界に罪など起こりようがなかったのに、神が人間に罪を犯すこともできる自由を与えたばかりにとんでもない結果を生み出してしまった。そうであれば罪の原因も責任もすべて神にあると言います。

そして、そのように考える人は、罪は神のせいであり、永遠の定めであり、逃れがたい宿命であり、「人が罪を犯すのは当然である」などと言い出して、罪に市民権を与えはじめます。

しかし、神はわたしたち人間を、命令通りに動く機械仕掛けの存在にしたくなかったのです。神を信じることも、神の戒めを守ることも、神御自身がそれを人間に強制なさりたくなかったのです。神の願いは、強制ではなく自由のうちに神を愛する人間であってほしいということです。そもそも自由でなければ愛ではないのです。強制された愛は偽装です。これが、神が人間に自由をお与えになった理由です。

もちろん、神から与えられたその自由を、神を愛することに用いるのではなく、神に背くことにこそ用いるようになってしまった人間を、聖書が描いていることは事実です。しかし、だからといって神は、わたしたち人間から神に背くことができる自由を奪おうとなさいません。それは神が罪を放置しておられるからではありませんし、人間に無関心だからでもありません。

正反対です。神は人間をはらはらしながら見守っておられます。御自身のもとに帰ってくるのを待っておられます。それは、放蕩息子の帰りを待つ父親の姿そのものです(ルカ15章)。

あの放蕩息子の父親は、非難を受けやすい存在です。親のくせに自分の子どもを、なぜ捜しに行かないのか。なぜ待っているだけなのか。自分の子どもへの愛があるなら、あらゆる手を尽くして捜せばいいではないか。そうしないのは愛がないからだ、冷たい親だと、さんざんです。

その反対の存在として神を描いているように見えるのが、99匹の羊を野原に残してでも1匹の迷子の羊を捜しに行く羊飼いを描く、イエス・キリストのたとえです。ここで疑問を持つことは許されるかもしれません。なぜ神は、1匹の迷子の羊のことは捜しに行くのに、放蕩息子は捜しに行かなかったのかと。

その答えを私は知りません。迷子の羊は動物だけど、放蕩息子は人間だからでしょうか。羊は持っていないが放蕩息子は持っている「人間としての意志」を尊重するというテーマが隠されているからでしょうか。いろいろ想像したくなります。

しかし、二つのたとえに共通しているのは、迷子の羊を捜しに行く羊飼いも、放蕩息子の帰りを待っている父親も、愛を失ったわけでも関心を失ったわけでもないことです。羊飼いは迷子の羊を全力で捜す。父親は放蕩息子を全力で待つ。

「全力で待つ」というのは言葉の矛盾か、捜しに行かない怠慢の言い訳だ、詭弁だと言われてしまうかもしれません。しかし、子どもは、親の所有物ではありません。自分の意志を持つ存在です。たとえ親であっても自分の思い通りになりようがない、それが子どもです。どれほど非難を受けようと、自分の子どもの帰りを「全力で待つ」という態度を貫くのが、父親としての神のお姿であると言えるかもしれません。

今日開いていただいたのは、ローマの信徒への手紙3章21節から26節です。ここに記されているのは、この手紙の1章18節から3章20節までに記されている「人間の罪」の問題に対する神の態度決定の内容であると申し上げておきます。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と記されています。「律法とは関係なく」と訳すのは誤解を生みかねません。

原文には「律法なしに」という意味の言葉が記されているだけです。これは直前の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)を受けていますので、もし敷衍するとしたら、「律法を実行するという方法ではなく別の方法で得られる神の義が示されました」というあたりです。

「律法とは関係なく」と言いながら「しかも律法と預言者によって立証されて」と言うのは、何を言っているのか分からない感じですが(関係ないものが立証する?)、ここで「律法と預言者」はひとつの熟語であると考えるべきです。

厳密な話ではありませんが、いわゆるユダヤ教の聖書はキリスト教会の「旧約聖書」と内容は同じですが、「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビーム)、「諸書」(ケスビーム)という三部構成になっていることと関係あります。「トーラーとネビームの内容と矛盾していない神の義が示されました」という意味であると理解できます。

別の言い方をすれば、そもそも「トーラーとネビーム」、キリスト教会にとっての「旧約聖書」が教えているのは「律法を実行することによって神の義を得る」という道ではないというパウロの信仰が表明されています。旧約時代はそうだったが、新約時代はそうではなくなったわけではありません。変化が起こったのではありません。

神の義を得る道に変化はありません。「神の義」という言葉が分かりにくければ「神の救い」と言い換えても構いません。「神の義」ないし「神の救い」は、わたしたち人間がこれこれこれだけの条件を満たしたから得ることができるというような、要するに自分の努力によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものだと、パウロは言っているのです。

しかもそれは、「律法と預言者」(ネビームとケスビーム)においてはそうでなかったわけではないと言っているのです。そのときから今日に至るまで、神の態度は全く変わっていないのです。

「神の義」ないし「神の救い」は、神の戒めをどれだけ忠実に守ったか、それをどれだけ破らなかったかによって評価され、点数と成績をつけられて、その面で秀でた人たちだけに与えられる賞状や勲章のようなものではありません。そういうのは典型的な功績主義です。行為義認主義です。しかし、神の義(救い)はそういうものではありません。

しかもそれは旧約聖書の頃はそうだったというわけではありません。神は最初からずっと変わりません。神は御自分に背く罪深い存在になってしまった人間をご覧になって、だから見捨てるとか、愛するのをやめるとか、関心を失うことは、いまだかつて一度もありません。

しかし、今日の箇所に記されていることのいわばもうひとつの中心点は、神に背く罪深い存在になってしまった人間を罪の中から救い出す方法として「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」という方法が、いわば新たに加わったということです。しかしまた、それは究極的な方法であるために、過去の方法が不要になったということです。

「イエス・キリストの贖いの業を信じることによる神の義」(23~26節)について今日は詳細に説明できません。その機会は必ずありますので、今日は簡単な説明だけでお許しください。

ここにパウロが書いていること自体は、わたしたちの「旧約聖書」、ユダヤ教の「律法と預言者」(トーラーとネビーム)をユダヤ教がそのように理解した贖罪の儀式と関係づけて説明する必要があります。

神は「人間の罪を無視する、ごまかす、記録を改竄する」というような意味で「人間の罪を見逃す」のではありません。罪は罪として厳正に裁き、必ず処罰するのが神です。しかし、人間の罪はあまりにも重すぎるため、もし人間の罪の全責任を人間自身に負わせるとしたら、全人類を滅ぼさざるをえないほどです。しかし、そうなさることを神が惜しまれるのです。

それで、いわば人間の代わりに動物に死んでもらうことによって、本来は人間が受けるべき罰を代わりに動物に受けてもらうのがユダヤ教の動物犠牲の趣旨です。しかし、それでは足りないほど人間の罪は重い。「人をあやめた人にいくら賠償金を支払ってもらっても死んだ人の命は返ってこない」と言われることに通じます。動物の命も、あるいはお金も、罪の償いとしてそれで十分だということはありえません。

そこで、究極的で完璧な犠牲として、神の御子イエス・キリストが人間の身代わりに殺されることによって人間自身が神の罰を受けずに見逃される道が開かれました。それが、23節から26節にパウロが記している教えの趣旨です。贖罪の教理です。

しかし、このような説明を聞いても、ぼんやりするだけではないでしょうか。難しい理屈を聞かされたという気持ちになるだけかもしれません。その感覚は正常です。福音は理屈で納得するものではありません。福音は「味わうもの」です。体験するものです。

神の方法は人間の予想を超えるものです(「予想を超えること」を現代用語で「斜め上」と言うそうです)。イエス・キリストの十字架の死がなぜわたしたちの救いになるのかを、わたしたちが完全に理解することはできません。

それで全く構わないと私は思います。要するにわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死によって、神の救いを得ているのだ。罪の中にとどまったままではないのだ。神の罰を受けないで永遠の命に至る約束を得ているのだ。そのことを信じ、感謝し、喜ぶことが求められています。

(2018年5月13日)