2017年10月11日水曜日

イエス・キリストを模範とすること(国際基督教大学高等学校)

国際基督教大学高等学校キリスト教講演会(2017年10月11日)

講演会の様子が「ICU高校 スクール・ナウ!」に画像付きで紹介されています!

ICU高校 スクール・ナウ!(画像をクリックするとサイトが表示されます)

関口 康(日本基督教団牧師)

はじめに


国際基督教大学(ICU)高等学校のみなさま、はじめまして。関口康です。職業は牧師です。今日は3年生向けのキリスト教講演会の講師としてお招きいただき、ありがとうございます。

キリスト教講演会です。私は牧師です。本来でしたら聖書を開いて説教すべきかもしれません。しかしこれは講演会です。これからお話しするのも「説教」ではありません。そうではなく、これからお話しするのは「お説教」です。

宗教主任の岡田朋記先生からご依頼をいただいたときに言われたのは、大学受験を控えた3年生の励ましになるようなお話をしてくださいということでした。

私自身は受験勉強を真面目にしなかった人間ですので偉そうなことは言えません。しかし、自分の子どもたちの高校受験や大学受験をサポートした経験はあります。とても口うるさい父親で、子どもたちからすっかり嫌われています。

私は教会では「説教」をしますが、家では「お説教」をします。これからお話しするのも「お説教」です。「うるさいなあ」と思いながら聴いていただけますと幸いです。 

Ⅰ 人助けのスキルを身につけること


私が卒業した大学は、すぐそこの東京神学大学です。「三鷹市大沢3丁目」までICUと同じ住所です。岡山の高校を卒業してストレートで入学しました。そして大学院までの6年間、大学の敷地内の学生寮に住んでいました。大学に入学したのが1984年4月、大学院を修了したのが1990年3月です。

東京神学大学に在学していたとき、ICU高校には大変お世話になりました。実は食堂をしょっちゅう使わせていただきました。東京神学大学には食堂がないのです。昼食も夕食も外で食べるのです。それでICUやICU高校の食堂を、私だけでなく東京神学大学の人はみんな使わせていただいています。最近のことは知りませんが、おそらく状況は変わっていないと思います。

ですから、この学校の食堂にちょっとダサメの服のお兄さんお姉さんおじさんおばさんがいたら、東京神学大学の学生かもしれません。ぜひ声をかけてあげてください。必ず喜んでくれます。聖書の話とか詳しく教えてくれるかもしれません。

もうひとつ忘れられない思い出があります。それは悲しい話です。みなさんの中にいつも利用している方がおられると思いますが、本校の北門を出て東京神学大学の前を通る道の突き当りのバス通りに「西野」というバス停があります。私が大学院生だったときなので1988年か1989年ですが、西野のバス停の前で本校の女子生徒が交通事故に遭いました。そのとき私もそこにいたのです。

私もバスに乗ろうと思って道路の向こう側に渡ろうとしていたとき、「どんっ!」という大きな音がしたので、音の方向を見ると女子生徒が倒れていました。私もびっくりして思わず駆け寄りましたが、どうしてあげることもできませんでした。自分の無能さを思い知りました。

ただ、加害者が逃げそうだったので、私が大きな声で「逃げるな!」と怒鳴った記憶があります。そして、携帯電話を誰も持っていなかった頃ですので、交差点の斜め向かいの酒屋の前の公衆電話の近くにいた人に大きな声で「早く警察に電話してください!」とお願いしました。

そしてごめんなさい、女の子でしたが手を握らせていただいて、「大丈夫だから、大丈夫だから」と声をかけさせていただきました。その方は苦しそうな小さな声で「ありがとうございます」と言ってくださいました。するとまもなく警察と救急車が来てくれました。その後もその方がどうなったかを心配していましたが、何か月か後に「無事です、元気です」と風の便りに聞き、ほっとしました。

ですから今日の最初にお話ししようと思ったのは、くれぐれも交通事故には気を付けてくださいということです。今日私も電車とバスで来ました。西野のバス停で下りました。ここに来るたびにその日のことを思い出します。

そしてこのようなことをお話しする理由は、みなさんの教訓にしていただきたいからです。自分の目の前に、たとえ見ず知らずの人であっても、事故に遭い、命の危険がある人がいるとき、みなさんはどうしますか、何ができますか。そのことを考えていただきたいのです。

先月終わったフジテレビの月9ドラマをご覧になりましたか。「コードブルー」。私は夢中で観ました。あのドラマの若い医師たちのように事故現場でいきなり頭にドリルで穴をあけて脳の外にたまっている血を外に出すとか、胸やお腹をメスで切って自分の手を突っ込んで心臓マッサージを始めるとか、そんなことができる人はそうそういません。

もし皆さんの中にそういうお医者さんをめざしている方がおられるなら心から応援します。しかし、私が皆さんにお願いしたいのは、もっとずっと手前のことです。自分の目の前に命の危険がある人がいる、助けを求めている人がいる、そのときみなさんはどうしますか。忙しいから無視する、自分の都合を優先する、ということでいいでしょうか。それを考えていただきたいのです。

そして、そういう人を助けることができるスキルをみなさんに身につけていただきたいと願っています。

Ⅱ 人間にもっと関心を持つこと


今申し上げたことをもう少し抽象的な別の言い方で言い直しますと、それは次のようなことです。皆さんは人間に関心がありますか。今日の私の第二のお願いは「人間にもっと関心をもってほしい」ということです。

そんなことを言われなくても、家族や学校の友達や先生たちには関心があると言いたい人は多いと思います。それと、急に遠く離れてテレビやネットの俳優さんや声優さんや歌い手さん、また政治家や有名人にも関心があると思います。問題は近い人と遠い人のあいだの中間にいる人たちです。距離的にも心理的にも近い人たちと、逆に非常に遠い人たちのあいだの中間にいる人たちのことです。

はっきりいえば、知らない人です。電車やバスでたまたま一緒にいる人たち。町を歩いているときにすれ違う人たち。行ったこともない他の国の人たち。いちいち気にしていると気が変になりそうだと思うほどたくさんいる世界中の人たちのことです。35億の2倍の70億の人です。

そんなことを言われても困ると思う人がおられるのは分かっています。電車やバスの中で知らない人に関心をもっていつもじろじろ見ていたりすると「ストーカーですか」と言われるかもしれません。私が言いたいのはそういうことではありません。

ならば何を言いたいのでしょうか。こんなふうに言われるとますます腹が立つかもしれませんが、「みなさんは自分の周りにいる人々を自分と同じ人間だとどれほど認識できていますか」というようなことです。それは、この学校の皆さんにはきっと理解していただけることだと思っています。

こんなことを部外者に言われたくないかもしれませんが、ICU高校の皆さんは全国的に見てもトップレベルの優秀な方々です。私なんか逆立ちしても入学させてもらえません。私は逆立ちできませんが。

しかし、みなさんは私からこういうことを言われると、たぶん嫌な気持ちになるのではないかと想像します。勉強を一生懸命がんばったから今の自分があるのだと、感じるのではないでしょうか。

途中の努力の部分をあなたは見たのか。何も知らない人に「あなたは優秀だ。みなさんは優秀だ」などと評価されたくないと思うのではないでしょうか。そういうことを言ってもよいのは私と同じか私以上の努力をし、苦しんだことがある人だけだと。今日初めて会ったばかりのあなたに何が分かるのか。私の、わたしたちの何を知ってるのかと。

先ほど言いました「みなさんは自分の周りにいる人をどれくらい自分と同じ人間として認識できていますか」という問いは、今申し上げたことと関係しています。

わたしたち人間にはプライドがあります。それは誇りであり、「矜持」です(「矜持」は漢検一級レベルの言葉ですので、ぜひ覚えてください)。しかし、それは他の人も同じであると私は言いたいのです。もしあなたにプライドがあるとしたら、あなたの周りにいる人々にも、あなたと同じだけあるのです。

そしてそれは、はっきり言えばしばしば屈折しています。「あなたは優秀だ。みなさんは優秀だ」という言葉は褒め言葉のはずですが、そんなふうに言われても全然うれしくない。むしろ腹が立つ。そこで起こるのは、自分のことを何も知らない人に自分の「評価」などされたくないと思う心です。よほど尊敬できる先生ならともかく、普通のおじさんのくせに知ったふうなことを言わないでほしいという思いです。

いかがでしょうか。そんなことを自分は一度も考えたことがないという方がおられるようでしたら、お許しください。しかし、その思いは大なり小なりみんな持っています。それをどこまで互いに尊重し合うことができるかが問題です。

Ⅲ 上を目指して突き進むこと


いま申し上げたことと、その前に言いました、電車やバスでたまたま一緒にいる知らない人に関心を持つこととがどう関係するのかと思われるかもしれません。その関係をこれから説明します。

先ほども言いましたが、今日はバスと電車で来ました。私はバスにも電車にもよく乗りますので、これからお話しするのは今日の話ではありません。それはたいてい夕方ですが、高校生たちが学校が終わって家に帰る電車やバスの中で繰り返し見かける光景であり、そのとき耳にする話し声です。

どこのバス停やどこの電車の駅から乗ってきたかでどこの高校の生徒かが分かってしまうのですが、そのバスや電車に乗ってきたときから下りるまで、とにかくずっと、大きな声で大学受験の話をしている生徒たちがたくさんいます。

しかも、それはたいてい大学そのものの話ではなく、大学の偏差値の話です。この偏差値だと自分は入れるか入れないかと、いつまでも言い続けている。そういう話を他のお客さんが大勢いるところで、電車に乗ってきたときから下りるまでずっとしている。他に話題がないのかと言いたくなるほど。

その高校生たちの気持ちは私にも分かるのです。しかし残念な気持ちになります。特に私が気になるのは、その高校生たちにとって楽勝だと思っているほうの大学の話をしているときです。「あそこは偏差値が低いので誰でも入れる」とか「あいつはあの大学程度だろう」とか、そういう話。

失礼だと思いませんか。同じ車内にその大学を受験しようとしている高校生がいるかもしれません。その大学の学生や卒業生がいるかもしれません。むかし自分が受験しようとして失敗した大学の話だと思って聴いている大人の人もいるかもしれません。大学受験とか進路の話というのはすべての人に関係することなので、みんな黙っていますが、耳をそばだてて興味津々で聴いています。そして、その話を聴いて傷ついている人々がいます。

そういうことまで考えたことがありますかと、皆さんにお尋ねしたいのです。そして、そういう考え方や価値観を持ち続けているかぎり、大学生になっても、会社に勤めるようになっても、同じようなことをいつまでも繰り返すことになると思います。

厳しい言い方になりますが、中途半端な人がいちばん人を見くだします。本当に勉強している人は人を見くだしたりしません。上を目指している人は「上には上がある」ことを知っています。自分はまだまだこれからだということが分かっているので謙遜です。

しかし、中途半端な人は自分の下を見て安心しようとします。自分の下の人を見くだし続けることにおいてしか自分の位置を確認することができないし、安心できないのです。しかし、そういうのは本当にみっともない、見苦しい考え方や価値観であると言わざるをえません。

ですから、私は皆さんにはぜひ遠慮なく上を目指して突き進んでいただきたいと願っています。自分の下との比較なんかどうでもいいです。上だけ見てください。上を目指してください。そのほうが謙遜な生き方ができます。人を見くだすよりも、はるかにましです。

Ⅳ イエス・キリストを模範とすること


以上、どこがキリスト教講演会なのか分からないような内容で申し訳ありません。三点述べました。第一は「人助けのスキルを身につけること」、第二は「人間にもっと関心を持つこと」、第三は「上を目指して突き進むこと」。

しかし、最後はやはりキリスト教講演会にふさわしい内容にしなければならないと思っています。そこで申し上げたいのは、みなさんがこの高校で3年間学んだ聖書の教え、特にイエス・キリストの生き方がみなさんの生き方のモデルであるということです。

イエス・キリストは、困っている人なら知らない人でも助けてくださいました。そして、誰よりも謙遜に生きられました。そのお姿こそが、みなさんの人生の模範であり、モデルです。

しかし、それだけ言っても抽象的すぎて何のことか分からないかもしれませんので、具体的な提案を二点させていただきます。二つともカタカナの言葉です。第一は「ノブレス・オブリージュ」、第二は「ハイブリッド・シナジー」です。

第一の「ノブレス・オブリージュ」はフランス語です。英語で言えばnoble obligationです。その意味を噛み砕いていえば、身分や地位が高い人であればあるほど、その身分や地位にふさわしい人間でありうるために果たさなければならない義務や責任がある、ということです。それは、上の人が下の人々を見くだして偉そうにすることの反対です。偉い人ほどへりくだって、人に仕える人間になることです。

それはイエス・キリストの生き方そのものです。神の御子であられる方が人間になられました。父なる神のみもとで何不自由なく暮らせたお方が面倒くさい地上の世界に来てくださいました。そして、十字架にかかってわたしたち罪人のために死んでくださいました。イエス・キリストの上から下へおりてこられたその道に私たちも従うべきです。私たちも謙遜にならなければなりません。

第二の「ハイブリッド・シナジー」は最近の自動車のトレンドです。ガソリンエンジンと電動式モーターの両方を搭載した自動車の仕組みのことです。それがいまお話ししていることに関係します。

みなさんはこの学校で聖書とキリスト教を学びました。しかしここは学校です。学校とは「学問」(サイエンス)を教える場所です。それは可能でした。聖書科の先生がたは全員、宗教の教員免許を持っています。それは日本の文部科学省と各都道府県の教育委員会が「宗教を学校で教えること」を認めていることを意味しています。日本のミッションスクールの「聖書科」は他のすべての教科と全く対等な「学問」(サイエンス)であるということを、我々が持っている宗教の教員免許が証明してくれています。

しかし、おそらくみなさんが感じておられるのは、聖書科の授業や学校礼拝の説教は他の教科と性質が違うということでしょう。それは私もそのとおりだと認めます。しかし、性質が違うからこそ「ハイブリッド・シナジー」の生き方が皆さんに可能になっていると、私は信じています。

それは何のことかといえば、他の教科で学んだ徹底的な現代的科学的な考え方と、聖書とキリスト教の教えに基づく考え方とを「ハイブリッド・シナジー」の関係で両立させることが皆さんには可能になっている、ということです。「イエス・キリストの生き方に学びながら、徹底的に科学的に考えて生きること」が、ICU高校を卒業する皆さんには可能である、ということです。

どの学問も決して完璧ではありません。宇宙は謎だらけ、世界は謎だらけ、人間は謎だらけです。将来みなさんが何を勉強し、どのような働きに就くのかは、私には分かりません。しかし、私に分かるのは、みなさんがどの道を行くにせよ必ず行き詰まるときがくる、ということです。

宗教が完璧だと言いたいのではありません。宗教も謎だらけ、聖書もキリスト教も謎だらけです。だからこそ科学と宗教はタイアップしなければならないと私は考えています。そうすれば、どちらかが行き詰ったとき、もう一方のエンジンが力強く皆さんを前に運んでくれます。

皆さんのこれからの歩みのためにお祈りさせていただきます。

ご清聴ありがとうございました!

(2017年10月11日、国際基督教大学高等学校 キリスト教講演会)