今日(2016年4月24日日曜日)は日本基督教団千歳船橋教会(東京都世田谷区桜丘)の主日礼拝に出席させていただきました。首都高経由でちょうど1時間でした(片道57キロ)。東京神学大学の教授でもあられる朴憲郁牧師の説教に感動しました。
2016年4月17日日曜日
柏教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年4月17日日曜日)は日本基督教団柏教会(千葉県柏市)の主日礼拝に出席させていただきました。自動車で20分(5キロ)。春原朱理先生の説教は素晴らしかったです。礼拝の中で熊本地震の被災者のための祈祷のときが持たれました。
2016年4月16日土曜日
いつも喜んでいなさい(東京プレヤーセンター)
東京プレヤーセンター礼拝(2016年4月16日、御茶ノ水クリスチャンセンター、東京都千代田区) |
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
今日、私が選ばせていただいた聖書のことばは、使徒パウロの言葉です。聖書の御言は神の言葉です。そして同時に紛れもなく人間の言葉です。
その意味では、今日のみことばは、ムチャクチャです。これを書いているパウロ本人が、そのことをいちばんよく自覚していたに違いありません。パウロは人間ですから。疲れやすい、傷つきやすい肉体を持っている人間ですから。
「いつも喜んで」など、いられるはずがないではありませんか。ムチャを言うなと言いたくなります。「絶えず祈っているか」と問われれば、絶句するしかないでしょう。形式的に祈りのポーズをとっているかもしれないが、その祈りにいつも心が伴っているのかと問われれば答えられないでしょう。
そして、感謝。どんなことにも感謝することなどできるわけがないではありませんか。「感謝しろ」と無理強いされれば、形式的に感謝のポーズをとることはできるかもしれない。しかし、心の中は荒れている。無理強いされた感謝など、ナチス式敬礼と大差ありません。
そういうことを、これを書いているパウロ自身が知らずにいるわけがないのです。彼こそ弱い人間でした。腹も立つ、落胆もする、涙も流す、絶望もする。その人間パウロがこの言葉を書き記したのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と。
今日は東京プレヤーセンターにお招きいただき、ありがとうございます。上野九五先生から依頼の連絡をいただいたのが今年(2016年)1月7日でした。そのとき私は無職の状態でした。昨年12月末に、それまで11年9ヶ月働かせていただいた教会の牧師を辞職しました。同時にそれまで19年所属していた教派を退会しました。
その後3ヶ月間は、無職で無所属でした。3ヶ月間、全く無関係のアルバイトをしていました。同時に家事をしました。主夫をしました。自分で望んで計画的にそうなったのではありません。私の願う方向とは真逆の方向に引きずられて、そうなりました。詳しい事情はお話しできません。ぞっとする要素を含みますので、お話ししたくないという意味です。
それで、上野先生から1月7日にご連絡いただいたとき一瞬どうしようかと迷いました。無職だし無所属だし。教会の牧師の仕事を辞めれば牧師館に住むことはできないので、近所のマンションに転居しましたが、私の書斎は片付かないし、これから先の見通しが全く立たない状態でした。
高校の常勤講師になることについては、内定をいただいてはいましたが、手元にあるのは紙一枚。一度もしたことがない仕事ですし、どういうことになるのか何も分からない状態の1月7日でした。
上野先生から最初は3月頃にメッセージをお願いできませんかというご連絡でしたが、せめて高校での仕事が始まる4月以降にしていただけませんかと私のほうからお願いしました。それで最終的に今日(4月16日)私がお話しさせていただくことに決まったのが1月26日でした。
そして昨日(4月15日)が、高校教員としての初めての授業でした。45分授業を2コマ続ける形で90分。それを第1学年と第2学年で1クラスずつ担当しました。多くの大学の講義が1コマ90分ですので、それを2つしたのと同じです。
しかし私は、無職で無所属になった直後に上野先生からご連絡をいただいたとき、今日(4月16日)の私がどういう状態になっているかを知りたいという思いを持ちました。そして同時に、この「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というみことばについてお話ししようと決めました。
それは一種の人体実験です。聖書の御言を自分に当てはめて、実験する。どんなふうに想像してもボロボロの状態になっていることが容易に予想できる日に、あえて「いつも喜んでいなさい」という御言について語ることを自分に強いるように設定する実験です。
聖書のみことばを自分に当てはめることをしないで、他人に説教するようなことをしてはダメです。それは危険なことです。しかし、人体実験のほうも一般的には禁止事項です。専門家の指導のもとでやってください。
さて、人体実験の結果を発表します。なるほどそういうことかということが分かるものがありました。パウロが書いていることの意味が必ずそういう意味であるという意味ではありませんが、私なりに分かったと思えることがあります。
それは、喜びと祈りと感謝を失うと、そこで私の中の「何か」が本当に終わってしまうので、立つことも歩くこともできない状態になるということです。そして、とくに大事なのは「喜び」だということも改めて分かりました。
しかも、この「喜び」は普通の喜びです。普通の喜びということで私が言いたいのは、日常生活を普通に営むことができること自体を喜ぶことです。一日一日を丁寧に生きることが大事です。
人生の「微分」が必要です。1億円をもらって1億円のものを買うというような大雑把な生き方でなく、千円なら千円を徹底的に細かく割って配分する生き方です。そのほうが、よほど豊かで贅沢な生活です。
だいこん一本、にんじん一本の価値と味を知る。どのように料理すれば美味しいごちそうになるかを知る。探求し続ける。そういう人生は毎日本当に楽しいです。「いつも喜んでいる」とは、私に言わせていただけば、そのようなことです。
無理に作り笑いをする必要はありません。そういうのはすぐバレます。楽しいイベントを常に企画して、精神的・心理的な高揚を図り続けることではありません。そんなことではなく、普通の喜びが大切であり、必要です。
自分で食事を作り、皿を洗い、掃除し、洗濯することです。「そういうことはすべていつも自分でやっています」などと、いばる必要はありません。当たり前のことなのですから。
私が言いたいのは、そういうことを自分で全くやらないで、「私の日常生活には何の喜びも楽しみもない。だから感謝の思いはまるでない」と言い出す人たちに対する懲らしめです。身に覚えのある人は懲らしめられてください。
4月16日、私はまだ立っています。歩いています。笑うことができます。ガードを下げたボクサーが顔面を打たれるだけ打たれたような状態でそれでも立っている。それと似たような状況です。その状態でもなお、私の心に「喜び」があります。「祈り」があります。「感謝」があります。まだ残っています。
ただし、その「喜び」は、感覚的には、私の垂直的な真上ではなく、私の前にあります。垂直的な真上を見上げて、わたしたちには神さまのおられる天国に行ける希望があるということを強調するのが悪いわけではありません。しかし、私の希望は「上」というより「前」です。「上」を目指しながら地に足がついている、その意味での「前」です。「斜め上」かもしれません。あくまで感覚的な話です。
それでも、さすがの私も疲れていますので、ズルをしようと思いまして、今日の聖書の箇所について私のブログに貼り付けてある過去に教会で行った私自身の説教の原稿を探してみました。他人の説教の盗作はいけませんが、自分の説教であれば使い回しは可能だろうと。
すると、ブログで公開している今日の箇所についての説教の原稿が、2つ見つかりました。自分で驚いたのは、ひとつは「葬儀説教」で、またもうひとつは「結婚式説教」だったということです。それで説教原稿の使い回しのほうは断念しました。
そのとき何を話したかは、今でも自分でよく覚えています。ああ私は、結婚式でもお葬式でも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と説教する牧師だったのかと、思い返せるものがありました。
「喜び」と「祈り」と「感謝」は、状況によってあってもなくてもよいようなものではありません。特に「喜び」は、あればラッキーで、無くても構わないというようなものではないです。
「喜び」は人生の付録(オプション)ではなく、土台(ベース)です。それがないと立てないし、生きていけない。それほど切迫しているものです。
4月16日、私は今日立っています。これが人体実験の結果です。
(2016年4月16日、東京プレヤーセンター礼拝、御茶ノ水クリスチャンセンター404号室)
2016年4月13日水曜日
「日本基督教団教務教師」登録のお知らせ
2016年4月10日日曜日
人生をもっと楽しめ(千葉若葉教会)
日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(2016年4月10日、千葉市若葉区千城台東) |
「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
前回の説教を「次回に続く」という形で終わらせていただきました。先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」を前回も取り上げました。このたとえ話についての説教の続きをこれからお話しします。内容をなるべく繰り返さないようにと願っていますが、前回いらしていなかった方々もおられますので、少しだけ振り返ります。
このたとえ話は「天の国」(14節)、すなわち天国のたとえです。天国にはどのような人が歓迎され、どのような人は歓迎されないのかという話であると考えることができます。ある人が必ず戻ってくる「旅行」(14節)に出かけました。その前にその人は3人の僕を呼んで1タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンは当時のお金の単位で、今の日本円に換算すればざっと5億円、2億円、1億円だと言ってよいほど莫大な規模のお金です。
今の日本では資本金5億円以上か、あるいは200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を「大会社」と呼びます。資本金2億円でも1億円でも小さな会社とは言えないでしょう。つまり、このたとえ話を読んでわたしたちが思い描いてよいイメージは、資本金5億円、2億円、1億円のそれぞれ大会社の社長が3人いて、その人々が「僕」で、3つの会社を統合するグループの会長が「主人」であるというようなことです。
そういう話であると言ってしまえば、なんとなく身も蓋もない感じになってしまうかもしれません。これは天国のたとえ話であると、すでに申し上げました。天国というのは結局のところ、生きている間に仕事がうまく行ってたくさんお金を儲けて成功した勝ち組だけが入ることができて、そうでない人は地獄の火に焼かれてしまう。それがイエス・キリストの教えの趣旨なのかと考えられてしまうかもしれません。そのあたりで私は、前回の説教を終わりました。
しかし、私がそのあたりで説教を終えることができたのは、皆さんに対する信頼ゆえです。それは、皆さんがそのような誤解をなさることはありえないだろうという信頼です。「天国」なるところが成功者だけの集まりで、失敗者は地獄送りであるというのがイエス・キリストの教えであるというようなことを、よもやみなさんがお考えになるはずはないだろうと信頼しました。
もちろん、そんな話ではありません。私自身もそのようなことを全く考えたこともないし、信じたこともありませんので、どうぞご安心ください。ただ、今日これからお話しさせていただきたいのは、このたとえ話の中で比較的見落とされやすいのではないかと思われる要素です。
それは、五タラントン預けられた僕と二タラントン預けられた僕の二人について、「商売」(16節)をしたと書かれているところです。彼らは商売をしたのです。つまり働いたのです。仕事をしました。そして、それによって主人から預かったお金を倍に増やすことができました。このことは重要な点だと思いますが、案外見落とされやすいところです。
私自身は本当に会社勤めをしたことがないので、会社というのがどのようなものかは想像でものを言うしかない面があります。ただ、そんな私でも想像できるのは、資本金5億円の会社の社員が一人だけということは考えにくいということです。必ず多くの社員を雇うのではないでしょうか。
また、商売というのは、ただ金儲けをすることだけが目的ではないでしょう。何かを作ったり生み出したりする。しかも、良いものを作り、生み出す努力をする。悪いものを売って暴利を貪るだけなら商売ではなく詐欺です。良いものを売って、買ってもらって世と人にとって役立つことをする。それが会社の仕事でしょう。そして、そのような仕事をした結果として、あるいは報酬として利益を得ることができるのであって、何もしないのに収入を得られるということは、通常考えにくいわけです。
しかしまた、いま私が申し上げていることの中に仕事していない人を責める意図は全くありません。私が言いたいのは「商売」には必ずリスクが伴うということだけです。必ず成功する商売はありえません。5億円が自動的に10億円になるわけではありません。そういうことが書いてある本があれば、それは商売ではなく詐欺の本です。
ちゃんとした商売をしようと思うなら、社員に給料を払わなくてはならないし、社員の家族の面倒を見なくてはならないし、新しくて良いものを作り、生み出すことにも莫大な費用がかかります。「商売」を始めれば、お金が増えるどころか、どんどん減っていくものです。
先ほども申しましたが、今の日本の「大会社」の定義は、5億円以上の資本金か、200億円以上の負債をもつ、どちらかの条件を満たす株式会社を指します。200億円以上の負債を抱えるリスクを背負うのが会社の使命です。
しかし、だからといって、「商売」は、ただひたすら苦痛に耐えて、嫌々ながら、借金を返さなければならないからする、というような暗くネガティヴな思いだけで取り組むようなことなのだろうかということをよく考える必要があると思います。そういう感覚で取り組む人がいないとは思いません。しかし、5タラントン預けられた僕と2タラントン預けられた僕の二人には、そのような悲壮感がないと思われるのです。
「借りた金は返さなければならない、借りた金は返さなければならない」と、ただひたすら憂うつな気持ちでいる。「それを返すために働かなければならない。失敗したらどうしよう。返せなかったら貸してもらった人に怒られる。ああ、どうしよう、どうしよう」と、そのようなことばかり考えて、身動きがとれなくなってしまう。そのような悲壮な面持ちを前二者の僕には感じられません。
イエスさまは、5タラントンを10タラントンに増やした人も、2タラントンを4タラントンに増やした人も「商売」をしたと、ちゃんとおっしゃっています。手品ではなく(手品が悪いという意味ではありません)、タネも仕掛けもある方法で、彼らは利益を得たのです。その彼らの努力は決して過小評価されてはならないと私は思います。
そういうことを全くしなかった人が三番目の僕です。そして、次のように言う。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる恐ろしい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」(24~25節)。
これを読んで私が思うことは、もし私自身がこの主人の立場でこんなことを言う人の言葉を聞くと腹が立つだろうということです。私を馬鹿にするなと言いたくなります。「あなたは恐ろしい人だ」とか言われると、あなたに私の何が分かるのかと言いたくなります。もし本当に、あなたの言うとおり私が恐ろしい人間であるならば、最初から1タラントン(1億円相当)を預けたりはしない。何のためにあなたにそれだけのものを託したか、その思いと期待をなぜそうやって踏みにじり、裏切るのかと言いたくなります。
私は会社勤めはしたことがありませんが、子どもを2人育ててきました。子どもたちの教育にお金がかかります。親が借金しなければならないほど。それでやっと分かるようになりました。親が子どもに期待するとはどういうことか、が。
もし子どもたちが私に三番目の僕と同じようなことを言ってきたら、手を出したりはしませんが、こっぴどく説教すると思います。何のために私がお前たちのためにリスクを背負っているのか。将来何かを返してもらいたいからではない。世で成功してもらいたいからでもない。世のため人のために役立つ働きができるようになってもらいたいだけだ。そして、人の役に立つことができるようになることが、お前たち自身の喜びや楽しみになる。人生を楽しめ。そのための投資を惜しむことはない。私ならそう言います。
イエスさまが私とは全く違うお考えを持っておられるかどうかは分かりません。ただ、言えることは、自分に預けられた1億円を地に埋めて隠した僕は、こっぴどく叱られた、ということだけです。
わたしたちの人生にチャンスがあるのではありません。わたしたちの人生そのものがチャンスです。生きていること自体がチャンスです。一人で生まれる人はいません。必ず親がいます。一人で生きる人はいません。必ず他者がいます。社会があります。国があります。世界も宇宙もあります。
意識が自分ひとりだけの中に閉じこもってしまうことは、わたしたちによくあることです。その状態がひどくなると病気になります。なんとかして意識を自分の外側に向けることが必要です。
この主人は僕たちに、預けたタラントンを増やしてもらいたかったのでしょうか、それとも、使ってもらいたかったのでしょうか。私は後者だと思います。使ってもらいたかったのです。増やすことができた僕たちは、使ったから増えたのです。それが「商売」です。
地に埋めて隠した僕が叱られたのは、増やせなかったからではなく、使わなかったからです。世のためにも、人のためにも、そして自分のためにも使わなかったので、叱られたのです。
結論:人生は楽しむものです。お金は使うものです。飾っておくものではないし、しまいこむものでもありません。そして、お金は使わなければ増えません。
神さまはわたしたちに、生命と課題と目標を与えてくださいました。世のため、人のため、そして自分のためにも生きることが、わたしたちの主人である神さまの御心です。その御心を踏みにじる人は、神さまから叱られます。
神さまから叱られるのは、人生を楽しもうとしない人です。悔い改めて、もっと人生を楽しんでください。そのことを今日はみなさんにお伝えしに来ました。
(2016年4月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)
2016年4月3日日曜日
千葉本町教会の主日礼拝に出席しました
今日(2016年4月3日日曜日)は日本基督教団千葉本町教会(千葉市中央区)の主日礼拝に出席させていただきました。岸憲秀牧師はまもなく30年の知己ですが、説教を聴くのは初めてでした。素晴らしい説教でした。ありがとうございました。
2016年4月1日金曜日
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