2016年1月11日月曜日

いま悩んでいることを書いておきます

記事とは関係ありません(2016年1月10日、関口康撮影)
いま悩んでいるのは、軸足の置き場がこのたび大きく変わったことと、これまで書いてきたことの関係をどうするかだ。はっきり言おう。19年前からファン・ルーラーの神学の研究を続けてきた。私の軸足は「教会」だったし、それしかなかったので、ファン・ルーラー神学の「教会的有用性」を考えてきた。

しかし、今後の私の軸足は「教会」にはない。教会に通うのをやめるわけではないが、勤務先が「教会」から「学校」に変わる。「教会の学」ではなく「学校の学」を営む必要がある。両者は同一ではないのだ。ファン・ルーラーはそのことをよく知っていた。彼は「神学」を「教会の学」と呼ぶことを嫌った。

ファン・ルーラーは「神学は教会の学ではなく、キリスト教化された国家の学である」と言った。これがオランダのような国でしか言えない言葉であるのは間違いない。しかし、彼の意図は、神学を教会の中に幽閉すべきでないということでもあった。神学は万人に開放されるべきポピュラーな学なのだからと。

その意味では私はこれまでファン・ルーラーを相当無理やり「教会の学」の枠組みの中に押し込めることで「教会的有用性」を論証してやろうという気持ちが強かった。しかしそれがうまく行ったためしが私にはない。なぜなら彼の神学は本質的に「教会」の枠を超えようという意志を強く持ったものだからだ。

私も、そして(語弊を非常に恐れつつ名前を並べるが)ファン・ルーラーも「教会」が嫌いなわけではない。むしろ特別な愛を持っている。教会を否定する神学ではないし、教会を嫌忌する神学でもない。しかし、神学を教会の占有物にすることについては、私も、そしてファン・ルーラーも全面的に反対する。

しかし、神学を「教会」の中へと幽閉せず、ファン・ルーラーの言葉を借りれば「キリスト教化された国家の学」として、まだキリスト教化されていないし、あと何世紀か先までキリスト教化されそうにない(と感じる)国の中で神学を展開するとは具体的にどういうことなのかは、実際にやってみるしかない。

なので私は困っている。私は「神学」を「教会の外」(extra ecclesiam)へと連れ出さなくてはならない。古来の教会が「救いなし」(nulla salus)と宣告してきた領域だ。そこに「神学」を持ち出す。しかしそこが本来の居場所であり、目的地なのだ。血沸き肉踊るではないか。