2006年11月12日日曜日

「泣きながらイエスの後を追う」

ルカによる福音書23・26~31



今日の個所を読みまして、安心とまでは言えませんが、ほんの少しだけですが、気持ちが落ち着くものを感じることができました。それは、わたしだけでしょうか。



「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」



今日の個所に記されていることは、イエスさまが十字架にかけられるゴルゴタの丘までの道には、大勢の人がいた、ということです。そこは人が誰もおらず静まり返った中を、一人イエスさまだけが、苦しみの道を歩まれた、というわけではない、ということです。



加えて、イエスさまの姿を見て「嘆き悲しむ」人々がいた、ということも分かります。つまり、その日のエルサレム、イエスさまの周りには「イエスを殺せ、バラバを釈放しろ」と騒ぎ立てた人々だけがいたわけではない、ということです。



なんとなく気持ちが落ち着く、と申し上げましたのは、そこにいたのは凶暴な殺し屋のような人々だけではなかったことが、分かるからです。苦しみに満ちたイエスさまのお姿を見て、悲しみという感情を持つことができる、流す涙をもっている、人間の心を持っている人々がいるということが、分かるからです。



これと異なるのは、ヨハネによる福音書です。ヨハネは、イエスさまの周りにはキレネ人シモンや大勢の婦人たちがいた、というようなことは何も書いていません。それこそ、他に誰もいない道を、ただひとりイエスさまだけが、御自分で十字架を背負いつつ歩いておられるようなイメージが浮かびます。



そのヨハネが「イエスは、自ら十字架を背負い」(19・17)と書いています。ところが、ルカによる福音書は、またマタイとマルコも、イエスさま御自身が十字架を背負われた、とは書いていません。ヨハネ以外の三つの福音書は、イエスさまの十字架を背負ったのは、キレネ人シモンという人であるとしています。



どちらが正しいのかという議論は、わたしは苦手です。処刑台としての十字架は非常に重い木材であったと考えられます。嫌な話ですが、それは一人の人間の重さに耐えるだけの強さをもつ木です。



木造住宅の建築現場をご覧になったことがある方、あるいは実際に材木を背負ったことがある方ならば、ちょっとした材木でもその重さや太さや堅さがどれほどかを、ご存じでしょう。



夜通し拷問され、食事も水も口にできず、ひどい裁判を受けておられたイエスさまが、重い木材を運ぶことがおできにならなかったとしても、当然です。



ヨハネ福音書と他の福音書の違いについては、両方とって、十字架の前のほうをイエスさまが担ぎ、後ろのほうをシモンが担いだとか、最初はイエスさまが担いでおられたが、途中からシモンが交代したとか、いろんな可能性を考えることができるかもしれません。いずれにせよ、わたしたちには、書いてあることしか分かりません。



ただし、です。安心とまでは言えない、とも先ほど申し上げました。もちろん、わたしたち自身の苦しみとイエスさまの十字架の苦しみを単純に比較することはできません。しかしそれでも、わたしたちにも分かると言える部分もあります。わたしたちだって、けっこう毎日苦しい思いをしながら生きているからです。



そのわたしたち自身の苦しみを考えるときに、イエスさまの十字架までの道は、だれもいない寂しい道であったと考えるのか、それとも、そこにはたくさん人がいて、悲しみの涙を流す人もいたと考えるのかで、大きな違いが出てくるようにも思います。



とくに考えさせられることは、どちらのほうがより苦しみが大きいかということです。人によって違うかもしれませんが、なかには、だれもいないところで一人で苦しむほうが楽である、と感じる人々も、決して少なくないのではないかと、わたしは思います。



わたしたち人間の心は複雑にできています。わたしの周りには、たくさんの人がいる。わたし以外のみんなのことが、幸せそうに見える。その中で、わたしひとりだけが、なぜ苦しまなければならないのか。そのようなことを、わたしたちは、必ずと言ってよいほど考えるのです。



今、わたしのために涙を流してくれている人々も、心の中では別のことを考えているかもしれないとも、必ず考えるでしょう。素直でないとか、うがった見方、とばかりは言えないはずです。



人の中にいることは、つらい。地獄にいるように感じる、という人がいます。多くの人々に囲まれていることばかりが、幸せではないのです。



多くの人々の只中でひとりで十字架の苦しみを耐えることのほうが、自分一人で苦しむことよりも、つらいかもしれないのです。



「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。『エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、「我々の上に崩れ落ちてくれ」と言い、丘に向かっては、「我々を覆ってくれ」と言い始める。「生の木」さえこうされるのなら、「枯れた木」はいったいどうなるのだろうか。』」



泣きながらイエスさまの後を追いかけている多くの女性たちに向かって、イエスさまがおっしゃったことは、「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」ということでした。これはもちろん、イエスさまの本心からのお言葉であった、と言わなければならないでしょう。



イエスさまは、ある意味で(ある意味で!)、泣いているその人々を、批判されました。その涙の意味は違うでしょうということを、おっしゃいました。涙の流しどころが違うのではないかと。かわいそうなのは、このわたしではない。かわいそうなのは、あなたがたのほうである、とおっしゃっているのです。



ただし、このイエスさまは、腹を立てておられるわけではなく、怒っておられるわけではなくて、また意地悪を言っておられるのでもなく、本心から女性たちの心配をしておられるのです。また、そこにいた女性たちから将来生まれるであろう、子どもたちの心配をしておられるのです。



なぜ心配をしておられるのか、その理由は、はっきりしています。イエスさまが、つい先ほどまでおられ、ひどい目に合わされていた場所に集まっていた人々、すなわちユダヤの最高法院の人々(祭司長、律法学者、長老など)、そしてまた、ローマ総督ポンティオ・ピラト、ユダヤの領主ヘロデ、この人々が全くでたらめだったからです。



このような全くでたらめな人々が支配している国は必ず行き詰るであろう、滅びるであろう、ということを、イエスさまは、おっしゃっているのです。



イエスさまが語っておられるのは、神の民イスラエルの住むこの国も、エルサレム神殿も、滅び、焼き尽くされる日が来る、ということの予言であり、予告です。



山に向かって「われわれの上に崩れ落ちろ」とか、丘に向かって「われわれを覆え」と言うのは、わたしたちを殺してくれ、という意味でしょう。人生に絶望し、この苦しみの日々が続くくらいなら、この人生を早く終わりにしたい、終わらせてくれ、と願う人々が多くなる、ということの予言です。



「生の木」と「枯れた木」の意味は、必ずしも明快に分かるとは言えないものですが、考えられることは、「生の木」とは神の民イスラエルのこと、「枯れた木」とは異邦人のことではないか、というあたりです。



神の民イスラエルは、神の言葉を委ねられた特別に選ばれた人々です。信仰のいのちを与えられた人々です。その人々でさえ、つまり、“いのちの水をたくさん含んだ燃えにくい生木”にさえ火が放たれ、焼き尽くされてしまうのに、まして“燃えやすい枯木”の場合は、どうなるのか。たちまち燃え尽きてしまうだろう、という意味ではないかと考えることができます。



つまり、イエスさまは、これから十字架の上にかけられて死ぬ・殺されるという直前にあって、考えておられたこと、心配しておられたことは、御自身のことではなかった、ということです。イエスさまは、目の前にいる人々についての心配であり、この国の人々、神の民と異邦人の運命であり、この地上の世界の歴史と将来を、心配しておられるのです。



イエスさまは、命乞いをするようなことは、一切なさいませんでした。しかし、絶対に誤解していただきたくないことがあります。イエスさまは、御自分の命を粗末にしておられるのではない、ということです。死んでも構わないとか、命など惜しくないとか、この地上の人生などどうだっていいのだ、というようなことを、考えておられたわけではないのです。そのようなことではないのです。命乞いをしないことと、自分の命を軽く考えることは、全く違います。



そうではなくて、イエスさまは、御自身の命をかけて、その国に生きている人々の将来を心配しておられるのです。そして、自分の罪を悔い改めること、神を信じること、信仰によって生きることの意味を、最期まで、語り続けられたのです。



わたしたちにイエスさまと全く同じことができるわけではないかもしれません。しかし、そういうことは、わたしたちにも、ある程度までは、できるのだと思います。



もちろん、わたしたちは、自分の命を大切にしなくてはなりません。今にも殺されそうだというときに命乞いをすることは、わたしたちには許されていることであり、必要なことでもあるのではないかとさえ、わたしは思います。



しかし、その面と同時に考えなければならないことがあります。それは、わたしたちの命には、限りがある、ということです。すべての人は、いつかこの世を去らなければならない、ということです。



そして、その場合に、です。「わたしは、どのみちあとわずかで死ぬのだから、他人のことを考えたり心配したりしている暇はない。自分のことだけで精一杯である」というふうに考えるのか。



それとも、「残されている時間は残りわずかであるからこそ、その短い時間を、共に生きている人々を愛し、心配し、また世界と人類の将来について深く考え、祈ることのために、ささげよう」と決心するのか。



ここに大きな違いが出てくると思うのです。



後者の決心は、イエスさまにしかできないことではなく、このわたしたちにも、できることです。のこされる人々のことを愛すること、心配することは、わたしたちになしうる最後にして最良の奉仕なのです。



また、自分の国がでたらめな人々によって支配されていることを心配する思いもまた、イエスさまだけではなく、昔から今日に至るまで、多くの人々が抱いてきたものでもあります。



自分が世を去るときに、次の世代ないし時代の人々のことを心配すること。



人類の歴史、世界の将来をおもんぱかる、という思い。



これは、非常に高邁なものです。



このようなことを、自分の人生の最期に考え語ることができるかどうか、というあたりで、急に心もとなくなってしまうのも、わたしたちです。



実際は、何も分からない状態になってしまうかもしれません。しかし、神さまにお委ねしましょう。



わたしたちの最期の日に、この心の中に、人のことを思いやる気持ち、心配する気持ち、また、願わくは“愛”が残っていることを、祈り求めようではありませんか。



そしてまた、神さまを見上げ、信じる思い、“信仰”が残っていることを、祈り求めようではありませんか。



十字架に向かって歩まれるイエスさまのお姿を思いながら考えさせられるのは、このようなことです。



(2006年11月12日、松戸小金原教会主日礼拝)