2006年10月1日日曜日

「父よ、御心なら」

ルカによる福音書22・31~46









十字架にかけられる前の夜、イエスさまは、弟子たちと一緒に、最後の晩餐を囲まれました。今日お読みしました個所には、その晩餐の中でイエスさまが使徒ペトロに向かってお語りになった御言葉が記されています。



「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』」



「シモン」とは使徒ペトロの本名です。ペトロはイエスさまがお付けになった名前です。「シモン、シモン」と、二度繰り返されていることには意味があります。これは愛情表現であり、また励ましの意図があります。



イエスさまによりますと、サタンが神さまに願いごとを言い、それが聞き入れられたのです。サタンとは悪魔のことです。神さまが悪魔の言い分をお聞き入れになったというのです。



そんな馬鹿なと、びっくりする方がおられるかもしれません。しかし、これは旧約聖書のヨブ記などに見られる思想です。その思想とは、神は悪魔の計略を「許可」されることにおいて御自身のご計画をお進めになるお方である、というものです。



なぜ神さまはそんな「許可」を出されるのか、という問いが当然出てくると思います。しかし、そのことを詳しくお話しする時間はありません。この問題は神義論と呼ばれるものです。この神義論という問題を深く考えていくことは、わたしたちの信仰生活において非常に重要であると、わたしは考えています。



「小麦のようにふるいにかける」とは、小麦粉の粒の大きさを揃えること、揃わないものはふるい落とすことを意味しています。つまり、これは、明らかに、弟子たちの中から抜け落ちる人が出る、ということについての予言です。



これがイスカリオテのユダを指していることは、文脈から明らかです。ということは、ユダが裏切ることは、神がサタンの計略を「許可」された結果である、ということになります。つまり、ユダの裏切りには、神御自身のご計画という側面がある、ということにもなるのです。



と、こういうふうに説明していきますと、またしても神義論の問題に戻っていきます。時間がありませんので戻りませんが、この問題は本当に難しいものであり、また、まるで迷路の中にいるような感覚にとらわれるものである、ということを申し上げておきます。



ところが、イエスさまは、ここで非常に重要なことを、おっしゃっています。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と。



この御言葉によって分かることがあります。それは、神の許可のもとでサタンが信仰者たちをふるいにかける。あなたがたのうちから抜け落ちる人が出る。そのことで、非常に傷つくのは誰なのかを、イエスさまは非常によく理解しておられるのだ、ということです。



脱落者が出ることで最も傷つくのは、もちろん言うまでもなくイエスさま御自身です。しかしそれでは、イエスさまの次に傷つくのは、だれでしょうか。イエスさまは、それは弟子の中のリーダー的存在であった使徒ペトロであるとお考えになったわけです。



そしてその上でイエスさまがお考えになったことは、その傷によって、ペトロの信仰が無くなるかもしれない、ということでした。仲間の脱落はそれほどの傷を生み出すものである、ということでしょう。だからこそ、ペトロの信仰が無くならないようにと、イエスさま御自身が祈ってくださったのです。



ここから先のことは、わたし自身は、あまり触れたくありません。わたしもこのことで傷ついたことがありますので。しかし、どうしても触れざるをえない。それは、教会から出て行く人々の問題です。



別の教会に移って信仰生活を続けておられる方々のことは、心配しておりません。また連絡関係が保たれている方々のことも心配しておりません。しかし、いちばん心配なのは、関係が全く途絶えてしまっている方々のことです。



そういう人々のことを「裏切り」という言葉で説明することには、わたし自身は非常に抵抗があります。なぜ抵抗があるか。教会の側には問題がなかったのかと、必ず問わざるをえないからです。多くの場合、出て行った人々が一方的に悪い、と考えることはできません。教会にも、いや、かなり多くの場合、牧師にこそ問題があったのです!



しかし、です。本当に困ってしまうのは、実際に問題があったとき、出て行かれてしまうことです。教会と牧師には正しい信仰に基づいて悔い改めるという道があります。われわれは悔い改めます。批判の言葉に耳を傾け、方向を修正していきます。しかし、教会から出て行かれてしまいますと、その方の前に、悔い改めた姿をお見せできなくなります。問答無用の関係になってしまいます。



イエスさまの弟子の群れの中から抜け落ちる人が出ると、リーダーのペトロが傷つく。牧師が傷つき、長老たちが傷つきます。そのことをイエスさまはよくご存じです。「だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というのは深い慰めの言葉です。



「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。』」



ペトロが言っていることは、よく考えると思わず笑ってしまう要素があります。それは「御一緒になら」と言われているところです。



イエスさまと一緒なら、というのですから、「わたし一人では嫌です」と言っているようにも読めます。「あなたは生きてください。あなたの身代わりに、わたしが死にます」とは言っていません。



先週結婚式の中で触れましたヨハネによる福音書15・12の御言葉、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」は、あなたと一緒なら死ぬことができます、一緒に死にましょうという意味ではありません。



「あなたはどうか生きてください」と言わなくてはならない。「あなたが生きるために、わたしの命をささげます」と言えなくてはならない。イエスさまが語っておられるのは“心中のすすめ”ではありません。



しかし、そのような愛は、わたしたちにはできそうもないことです。結婚式の中で申し上げたことは、「相手のために死ねるかと、結婚式の日に、考えてみるくらいのことは必要でしょう」ということでした。必要でしょう、と申し上げたのは、“考えてみること”だけでした。



実際に「相手のために死ぬこと」は、わたしたちにはおそらくできません。「一緒に死にましょう」という話ではありません。「あなたは生きてください」という話でなくてはならない。それが愛なのです。



そこでわたしたちが感じるのは、なんともいえない寂しさ、むなしさでしょう。わたしだけが、いなくなる。わたしが存在しない世界が続いていく。わたしがいなくても何とかやっていける家族がある。わたしなど、じつは最初から必要なかったのか。ただの邪魔者にすぎなかったのか。こういうことを考えはじめてしまうのが、わたしたちです。



いや、実際には、そういうものなのだと思います。このわたしなしにもこの世界は存在するのです。このわたしなしにも家族はなんとかやっていくし、やっていかなければならないのです。そこで、すねたり、いじけたりすべきではないのです。



しかし、です。実際に、あなたが生きていくためにわたしの命をささげる、ということは、できるかと言われるなら、できませんと答えるのが、だれにとっても正直のところではないでしょうか。



ところが、ペトロは、「御一緒なら」という但し書き付きではありますが、「命をささげます」というようなことを易々と言う。イエスさまは、そのようなことはペトロには無理である、ということを、あらかじめはっきりと見抜いておられたのです。そしてペトロに「今日、鶏が鳴くまでに三度、わたしを知らないと言うだろう」と予告されたのです。



このイエスさまの予告の言葉は、“ペトロの裏切りについての予告”と呼ぶべきでしょうか。ペトロもユダと同じような意味で“裏切った”と考えなければならないのでしょうか。そのとおり、ペトロも裏切り者である、と言わなければならない面もあると思いますが、そのような見方は、やや厳しすぎるという感じもしなくもありません。



わたしたちは、いつでも、どこでも、誰の前でも、このわたしはキリスト信者であり、松戸小金原教会のメンバーであり、毎週の礼拝に通っていますと語ることができているでしょうか。もしわたしたちにそれができているとするならば、それができなかったペトロは“裏切り者”と呼ぶべきかもしれません。



しかし、実際のペトロは、わたしたちの姿によく似ていると思います。いろいろと遠慮したり、配慮したりするゆえに言葉を濁す場面があります。それを語るや否や、ただちに論争に巻き込まれることがあらかじめ分かっているというような場面では、黙ってやり過ごすというようなことが、わたしたちにはありえます。もしそれが裏切りだというならば、ペトロは裏切り者です。



ペトロはイエスさまを裏切っていないとは、決して申しません。しかし、わたし自身は、ペトロのことを、ユダと同じ意味では、“裏切り者”と呼ぶことができません。



「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」



はたして、わたしたちは、「イエスさまは十字架の死を“喜んで”お受け入れになった」というふうに語ることができるでしょうか。それは無理であると思われます。なぜなら、イエスさまは、ここではっきりと「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っておられるからです。



もちろん、痛いのが嫌だとか、死にたくないとか、自分の命が惜しいとか、そのような次元のことを、おっしゃっているのではありません。しかし、わたしたちの場合には、そのような次元のことを考えたり語ったりすることは許されると思います。



死んでも構わないとか、自分の命は惜しくないというのは、たとえ本当にそう思ったとしても、あまり人前では言わないほうがよいです。周りの人々から、ただ心配されるだけです。どこかしら、やけっぱちで、投げやりな感じに響きます。死んでも構わないという言葉を聞くと、周りの人は「ああ、この人は死にたくないんだな」と考えるものです。



しかし、イエスさまの場合は全く異なります。イエスさまの御意志はただ一つ、父なる神の御心に忠実に従って生きること、そして、死ぬことです。



それでもなお、イエスさまにとって、父なる神さまに「取りのけてください」と願う杯がありました。それは何でしょうか。考えられることは、こうです。



愛する弟子の裏切りという道を通ってしか十字架への道にたどり着くことができない、という「神の御心」が、イエスさまにとっては、あまりにも耐え難いものだったのです。



(2006年10月1日、松戸小金原教会主日礼拝)