ルカによる福音書22・24~30
「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」
議論「も」起こったとあります。なぜ「も」なのかと言いますと、前回の個所の最後に、ひとつめの議論が記されているからです。今日の個所の議論は、ふたつめです。
ひとつめの議論はイエスさまがお語りになったみことばに対する反応です。
イエスさまは、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」とおっしゃいました。もちろん、イエスさまが指摘しておられるのは、イスカリオテのユダの裏切りです。それに対して、弟子たちは、自分たちのうち、いったいだれがそんなことをしようとしているのかと、互いに議論をしはじめたのです。
弟子たちは、いつも一緒にいたはずのユダの裏切りに全く気づかず、だれが裏切るのだろうかと議論する。そのあまりの鈍感さは、深刻です。
最後の晩餐の席には、ユダ自身も座っていました。ところが、イエスさまは、御自身の目の前にいる裏切り者に対してもパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いてお与えになり、またぶどう酒の杯をも同じようにしてお与えになりました。ユダは、イエスさまを裏切りました。しかし、そのユダをイエスさまは愛しておられたのです。
それが、ひとつめの議論の内容です。イエスさまを裏切るのはだれなのか。つまりそれは、最低(ワースト)の弟子はだれか、という議論であった、と言えるでしょう。
それに対して、今日の個所に記されている「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」という議論は、要するに、最低(ワースト)とは正反対の、いわば最高(ベスト)の弟子は誰なのかを競うものであった、と考えることができるはずです。
つまり、問題になっているのは、最低(ワースト)の弟子と最高(ベスト)の弟子は、それぞれ誰なのか、ということだと考えることができます。
十二使徒は全員男性でした。男だからどう、女だからどう、というようなことは、軽々しく言ってはならないと思いますし、一概なことは言えません。
しかし、わたし自身も男ですので、強いて言うならば、「男」というのは、なるほどそういうことに関心を持ちすぎる存在かもしれません。おれが上だ、あいつは下だ。順位、優劣、甲乙、上下というようなことが気になる。悲しいまでに、そういうことが気になる。
それが、強いて言えば、「男」かもしれません。
「そこで、イエスは言われた。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。』」
イエスさまの教えは、はっきりしています。
男だけではないと思いますが、おれが上だ、あいつは下だ、というようなことばかりが気になり、相手を頭の上から押さえつけ、腕力・暴力・不当な政治力を用いてねじ伏せる。そういうことばかりに興味をもち、そのように実際に行動しはじめる人間の性(さが)に対して、イエスさまは、明確に反対なさいます。「あなたがたはそれではいけない」と。
「それではいけない」と言われている「あなたがた」の意味は、直接的にはイエスさまの十二人の使徒たちですが、もう少し広く言うならば、イエス・キリストを信じる信仰者すべて、すなわち、全キリスト者のことです。
わたしたちキリスト者は、「それではいけない」のです。たとえ冗談でも、そういうことを言ったり、考えたり、行ったりしてはなりません。そもそも、そういうのは冗談になりにくい態度です。洒落にならない。非常に嫌なムードです。
しかし、そういうことが気になるのは、いわば人間の性(さが)です。わたしたちの中から噴き出す激情のようなものです。関心を持つな、気にするな、と言っても、気になるものです。
だからこそ、わたしたちは、そのような思いを意識的に抑えつけなければなりません。意識的にあるいは自覚的に、まさにキリスト者である者たち、わたしたちは、腕力・暴力・不当な政治力を絶対に用いないと、心に誓わなければなりません。
「『あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。』」
いちばん偉い人は、いちばん若い人のようになりなさい。上に立つ人は、仕える者(ディアコノーン=奉仕者、執事など)のようになりなさい。イエスさまの教えは、単純明快です。
しかし、このイエスさまの教えは、どうも、わたしたちの現実からかけ離れているように思える、という方がおられるかもしれません。
実際のところ、この教えを聞くわたしたちの心に浮かぶ思いは、こんなことを言っても世間では通用しないとか、うちの会社で言ったらみんなに笑われるとか、社外の人に馬鹿にされる、というようなことでしょう。わたし自身の中にはそのような思いは全くありませんというと、うそになります。
牧師たちの間でさえ、そのようなことが問題になることがあります。「あの先生は、昔は何々先生のかばん持ちだった」とか、そういう話を時々聞きます。
かばんくらい、自分で持てばよいではありませんか。自分で持ったからどうで、だれかに持たせたからどうだというのでしょうか。わたしは、その種の話が嫌いです。冗談としてでも聞きたくありません。
もちろん、身分制度というのは、国際社会の中には今でも厳然と残っているところがあります。わたしたち一個人の力で、その社会のルールを根本から変える、というようなことはできない場合もあると思います。
しかし、そういうのは、本当に嫌だと感じること、憎むこと、少なくとも心の中で抵抗し続けることが重要です。
古い話ですが、「わたし食べる人、あなた作る人」というCMがあったことを、わたしはよく覚えています(一応そういう世代です)。
どちらのほうが偉いかというと、イエスさまは「食べる人」のほうが偉いと言われているわけです。そんなことを言うと今では激しく怒られると思いますが、イエスさま御自身の意図は反対です。イエスさまは、そこで腹が立つ人々の側に、立っておられます。イエスさまは、作る人であり、また給仕する人の側にお立ちになります。
しかも、それは、わざとらしい謙遜や、ぎこちないポーズや、いやらしいパフォーマンスではありません。何のためらいも、恥じらいもない。苦笑いや、照れ笑いもない。全く自然で、自由で、スムーズな振る舞いとして、人に仕えることができる。奉仕者として振舞うことができる。それがイエスさまです。
しかし、それはまた、イエスさまだけがそうであればよい、という話ではなく、イエスさまの命令として、あなたがた自身が「仕える者のようになりなさい」と語られているのですから、他人事ではなく、わたしたち自身が、イエスさまと同じように「仕える者」にならなくてはならないのです。
わたしは、今日、皆さんにこの話をしました。ですから、ここにいるわたしたちは全員、イエスさまから、この話を聞きました。聞いたことがない、知らなかったと言える人は、ここにはいません。わたしたち全員が「仕える者」になることを、決心し、約束しなくてはならないのです。
わたしが思うことは、その教会に初めて来られた人々が、ここの教会はとても雰囲気がよい、と感じる要素が、もしどこかにあるとしたら、おそらく間違いなく、このあたりのことが問題になっているはずだ、ということです。
無理やりねじ伏せようとする力が働いているような教会は、だれでも嫌でしょう。そういうのは、すぐに分かりますし、動物的直感が働きますし、わたしたちの心の危険信号が鳴り出すものです。
家庭生活、夫婦生活も同じです。会社も社会も、じつは同じです。
わたしたちの心の危険信号は、常に、鳴りっぱなしです!
仕える者として生きること、互いに仕えあうことは、安心で安全な生活を目指す道でもあるのです。
(2006年9月24日、松戸小金原教会主日礼拝)