2006年10月8日日曜日

「闇が力をふるう時」

ルカによる福音書22・47~53



この個所に記されているのは、イエスさまが弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りによってユダヤ教の指導者たちに捕らえられる瞬間の言葉のやりとりです。時間にすれば、せいぜい数秒ないし数分の出来事でしょう。聖書全体の中でおそらく最も暗く、また最も嫌な場面と言えるでしょう。



「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた。」



このときイエスさまは、何を「話しておられ」たのでしょうか。考えられるのは直前の言葉です。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。



これは、オリーブ山でイエスさまが祈っておられたときに、弟子たちが眠っていたことについての忠告の言葉です。おそらくこの忠告の言葉を語っておられる最中に、ユダが、イエスさまを裏切るために近づいてきたのです。



ここで考えさせられたことがあります。それはこの場面の独特の滑稽さです。笑ってはならないと思いますが、ある意味で、これはとてもおかしな場面です。



とくに、わいてくる疑問は、だれが裏切り者なのだろうか、ユダだけだろうかというものです。



もちろん、ユダの裏切りは、本当に卑怯なものです。お金でイエスさまを、文字どおり売り渡したのですから。そして、今や、接吻をもってイエスさまを裏切ろうとしているのですから。



しかし、イエスさまが真剣に祈っておられる最中に眠っていた弟子たちは、どうなのでしょうか。これは、裏切りとまでは言えないかもしれませんが、イエスさまのお気持ちを著しく害する態度であることは、確実です。



また、今こそ思い返されるのはペトロです。先週読んだ個所には、イエスさまがペトロに対して「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」とお語りになった場面が出てきました。



ペトロがイエスさまのことを「知らない」と言う。うそつきではありませんか。立派な裏切りではありませんか。そのように考えることも、できると思います。



問題は、裏切りの定義かもしれません。裏切りとは一体何なのか、です。



もちろん、わたしの考えは、先週すでに申し上げました。ペトロがイエスさまのことを「知らない」と言ったことを、ユダがイエスさまを裏切ったのと同じ意味での“裏切り”という言葉で説明することは、わたしにはできないと申し上げました。



しかし、だからといって、ペトロがイエスさまを裏切っていないと申し上げるつもりは決してありません。また、イエスさまが祈っておられるときに居眠りしていた弟子たちの態度もまた、いわば裏切りです。しかし、ユダのそれとはレベルが違う、という言い方が許されるかもしれません。



イエスさまのことを「知らない」と言ったペトロと、イエスさまの横で居眠りしていた弟子たちとに、共通している要素があると思われます。それは、要するに「弱さ」です。



ペトロはいわば内弁慶です。精神的な弱さがあります。イエスさまの前や、弟子仲間の前では、少々大口をたたく。しかし、人前に出ると、逃げる、隠れる。信仰に関する争いには巻き込まれたくない。信仰の異なる人々の前では、黙ってやり過ごすのが得策である。これは現代人の知恵です。ペトロの姿は、われわれの姿です。



居眠りの問題は、何といっても体力の問題です。睡眠とは、身体的・生理的な行為です。眠いものは眠い。こればかりは、どうすることもできません。



両者に共通している要素があるとしたら、要するに「弱さ」です。



しかし、「弱さ」は罪でしょうか。わたしたちの「弱さ」は、責められ、追及され、悔い改めを迫られなければならないものでしょうか。



わたしは、そのように考えることはできません。「弱さ」であれば、許されなくてはならないし、かばわれなくてはならないはずです。



この世界には強い人と弱い人がいると思います。強い人だけで、この世界は成り立っていません。弱い人が必ずいます。もしわたしたちが、ペトロや他の弟子たちを裏切り者と呼ばなければならないなら、弱い人々はみな裏切り者です。心も体も強靭である人々だけの世界を実現することが神の御心である、という話になっていくでしょう。



しかし、それは、キリスト教ではありません。強い人は、弱い人を裁いてはなりません。強い人は、弱い人の弱さを担うべきです。それがキリスト教です。



ところが、ユダは違います。わたしたちは、ユダの罪を「弱さ」という言葉だけで、説明することはできません。具体的なお金のやりとりがありました。信頼関係を自ら意図的に破壊し、すべてをお金に換える。悪質な意図があったことは明らかです。



決して間違ってはならないことは、わたしたちは、なんでもかんでも一緒くたに考えてしまってはならない、ということです。すべての罪を「弱さ」のせいにしてよいわけではなく、その意味で許してしまってよいわけではありません。



泥棒を働いて、飲酒運転をして、薬物におぼれて、姦淫を犯して。そういうことがみな「弱さ」から来るものだから許される、というような話を、教会がしているわけではないのです。それは悪質な言い逃れです。ユダの罪と、ペトロや他の弟子たちの罪とは、区別されなければなりません。



「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた。」



イエスさまの周りが、騒然としてきました。夜であり、山の上でしたので、周囲は暗闇でした。光があるとしても、月や星の光か、あるいは、せいぜい、だれかの手に小さな火があったかにすぎません。



その中で、もみ合いが始まりました。オリーブ山でイエスさまと一緒にいた弟子たちの数をルカは書いていませんが、マタイとマルコはペトロとヤコブとヨハネの三人であったことを告げています(マタイ26・37、マルコ14・33)。



つまり、書かれているとおりだとすれば、イエスさまの側は四人。それに対して、ユダが導いたユダヤ教の指導者側の人数は「群集」(47節)と呼ばれるほどの数だったようです。多勢に無勢、です。



闇の中で群衆にいきなり襲いかかれて、相当パニックに陥っていたであろう弟子の一人が、持っていた刃物で、大祭司の手下を切りつけ、右の耳を切り落としてしまいました。これは決してよいことではありませんが、状況的には理解できないものではありません。



ただ、気になることがあります。それは、前回読みましたが触れることができなかった個所(ルカ22・35~38)で、イエスさまが「財布のある者は持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」(22・36)と、弟子たちにお命じになっているところです。



とくに気になるのは、剣を買え、とイエスさまが言われているところです。武装せよ、ということでしょうか。イエスさまらしくないご発言のようにも感じられます。もっとも、弟子たちは、イエスさまがお命じになる前から剣を持っていたようです。「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」(22・38)と言っているとおりです。



しかし、この個所は、注意深く読むべきです。理解するための鍵は、イエスさまが弟子たちに「今は持て」とお命じになったのが、「財布」と「袋」と「剣」であるという点です。



意味が分からないのは「袋」ですが、これは、旅行用の、荷物を詰め込むための袋のことです。リュックサックのようなものと思えばよいでしょう。



ですから、ここで考えられることは、イエスさまがお命じになったのは、一種の旅支度であろうということです。財布にお金を入れて、旅行かばんをもって。ならば「剣」は、護身用のナイフでしょう。それらを持って旅に出かける準備をしなさい、と言われているのではないかと思われるのです。



しかしまた、もう少しだけ突っ込んで考えてみたい気もします。イエスさまが弟子たちにお命じになったことが、もし本当に旅支度だったとすれば、なぜ旅支度なのか、ということが気になります。イエスさまは、このときまさに、御自身の死の覚悟と決意をされているところだからです。



考えてみていただきたいわけです。自分の地上の生涯は、まもなく終わる。そのことを覚悟し決意している人が、自分の子どもや仲間たちに、旅支度をさせる。その意味は何かということを、です。



あなたは生きていきなさい、という意味でしょう。わたしは死ぬが、あなたは生きていきなさい。いつまでも、わたしに(悪い意味で)依存したままではいけない。自分の旅を始めなさい。このように、イエスさまがお命じになっているのです。



つまり、イエスさまが「剣を買え」とおっしゃっているのは、攻撃のための武装の意味ではない、と考えることができそうです。



昔の旅路は強盗だらけです。「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10・25~37)も、旅人が追いはぎに遭う話でした。だから、わたしたちも刃物を持ち歩いてもよい、という話にはなりませんが、イエスさまが弟子たちに武装をお勧めになったわけではないと考えることができるなら、少しほっとした気持ちになれると思います。



弟子の一人が大祭司の手下の耳を切り落としてしまったのをご覧になったイエスさまは、「やめなさい」とお止めになりました。「もうそれでよい」というのは、耳だけでよい、という意味ではないでしょう。抵抗するな、という意味に違いありません。



実際、イエスさまは、抵抗されませんでした。刃物や武器でチャンバラを始めるのは、あなたがたであると、襲い掛かって来た人々を、じっとご覧になりました。



「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。』」



ここでイエスさまは、少し苦笑いしておられるような感じもします。やれやれ、まるで強盗扱いだねと。



しかし、わたしの姿、わたしのしてきたことを、あなたたちは、ちゃんと見てきたはずです。わたしは逃げも隠れもせず、堂々と「神殿の境内で」神の御言葉を語ってきました。それ以外の何をわたしがしましたか、と問い返しておられるように感じます。



神殿の境内の主役は、本来ならば、あなたたちのほうでしょう。祭司長さん、神殿守衛長さん、長老さん!



それなのに、わたしが皆の前で話しているときには、あなたたちは、何もできなかった。あなたたちは、陰に隠れて、こそこそと何をやっていたのですか?



「『だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。』」



公の場で、堂々と、明確にお語りになるイエスさまのお姿は、光り輝いています。



他方、闇に隠れて蠢(うごめ)き回り、大人数で圧倒する人々の姿は、不気味に薄暗い。



とても対照的な両者です。



(2006年10月8日、松戸小金原教会主日礼拝)