今日の聖書の個所に記されている主イエス・キリストの御言葉は、おそらくどなたでも同じような感想を持っていただけるのではないかと思いますが、読んでいるうちに、胸のあたりがだんだん苦しくなってくるような気がします。
それはなぜかと言いますと、実際に読んでいただけばすぐお分かりのとおり、この個所でイエスさまはファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の一派に属する人々、また、ユダヤ教の律法学者たちに対する非常に厳しい批判の言葉を、まるで機関銃のように、容赦なく吐き出しておられるからです。
この場面は、イエスさまが、ファリサイ派の人から食事に招待され、その人の家の食卓の席に着かれたところから始まっています。
ところが、その食事の前に、イエスさまが「まず身を清められなかった」ことを、そのファリサイ派の人が見て、「不審に」思った、というのです。
実際に伝えられていることは、当時のユダヤ人たちには、食事の前には必ず、きれいな水で、まず手を洗い、また飲み物や食べ物を入れる食器を徹底的に洗う習慣があった、ということです。
ですから、ここで「身を清める」という言葉の意味として考えられるのは、食事の前に手を洗うことです。そのことを、なさらなかった、ということです。
なんだか汚い話だなあ、と思われるかもしれません。わたしたちだって、食事の前には手ぐらい洗います。子どもたちにも「食事の前には手を洗いなさい」と教えます。
しかし、この個所をわたしたちが、たとえば、そのように読み、イエスさまの側にも問題がありました、というふうに言ってしまうとしたら、ここに書かれていることの真意を全く汲みとることができないように思います。
ユダヤ人たちが食事前の手洗いにこだわった理由については、マルコによる福音書7・3〜4に、次のように詳しく記されています。
「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ってきたときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(マルコ7・3〜4)。
これで分かることが、いくつかあります。
第一に分かることは、彼らが食事前の手洗いにこだわった理由は、「昔の人の言い伝え」を固く守る、という動機づけ、ないし意識ゆえであった、ということです。
ただし、この「言い伝え」は、聖書の御言葉ではなく、モーセの律法でもありません。ユダヤ教団が受け継いできた伝承(Tradition)です。
イエスさまは、ユダヤ教団の伝承と聖書の御言葉そのものを、明確に区別されました。この区別を明確にすることは、わたしたち改革派教会が重んじてきた原理でもあります。
ですから、第二に分かることは、彼らがそのことにこだわった意識の正体は「保守主義」(conservatism)、あるいは「伝統墨守主義」(traditionalism)などと名づけられるべきものであった、ということです。
それは、古いもの、伝統的なものを、とにかく変えない、変えてはならない、むしろ、それを守り抜くこと、現状をいわば永久に肯定し続けることこそが大切である、と考え、そのように行動する立場であると表現できます。
逆に言えば、新しいもの、革新的なもの、冒険的なやり方は、常に危険であり、現状を破壊し、社会を必ず不安と恐怖に陥れるものであるとみなし、それを退ける立場であると表現することもできるでしょう。
これを、イエスさまは、お嫌いになりました。もしそのような考えでよいならば、たとえば、わたしたち「改革派教会」は、常に危険視され、退けられねばならない存在であるとみなされてしまうでしょう。改革派教会とは「(神の言葉によって)常に改革され続ける教会」(ecclesia semper reformanda)なのです。
第三に、マルコが記している、とくに「市場から帰ってきたときには、身を清めてからでないと食事をしない」と言われていることから分かることは、彼らの言い伝えの真意は、(わたしたちは決して口にすべきではない、本当に失礼な言い方だと思いますが)、市場のような場所や、そこに集まるような人々は、汚れている、という一つの思想であった、ということです。
それは一種の偏見であり、もっと厳しく言えば、差別思想です。
このように言いうる根拠があります。わたしが調べた書物によりますと、ユダヤ人たちが食事前に身を清めるために用いた水の量が、普通の場所から帰ってきた場合と市場から帰ってきた場合とで、大きく異なっていた、というのです。
具体的な数字も知られています。普通の場所から帰ってきた場合は、10分の一リットル(100ミリリットル)の水でよかったそうですが、市場からの場合は、486リットルの水が必要だったそうです。
要するに、市場から帰ってきた人は、お風呂に入るくらい徹底的に体を洗わなければ、決して食事をしてはならない、ということです。これが単なる衛生上の問題などではないことは、明らかです。
さらに加えれば、まさにそれこそがファリサイ派的な考えであると言いうることがあります。
「ファリサイ」とは、「聖別された」とか「区別された」という意味であると言われます。彼らが「聖なる領域」と信じている神殿や会堂などの宗教施設やそこに住む住人とは区別されたところにある「この世」とか「俗世間」のような場所や、そこにいる人々は、みな汚れているという考えが彼らにはあった、ということです。
つまり、彼らは、明確な聖俗二元論を持っていたのです。
こういう考えを、イエスさまは、非常にお嫌いになりました。「俗世間」の人々は汚れているが、宗教家たちは清いなどというのは、冗談にも口にしてはならない、全く間違った考えです。そのことを、イエスさまは、明らかにされたのです
ですから、イエスさまがユダヤ人たちの手洗いの習慣を拒否されたのは、全く意図的になさったことであり、また、ユダヤ人たちの考え方そのものに対する拒否の意図があった、ということです。
また、イエスさまだけではなく、弟子たちも、この習慣を拒否しました(マルコ7・2)。もちろん、イエスさまが、弟子たちに、そのような言い伝えは守らなくてよいと、お教えになったからです。
さて、39節以下で、イエスさまは、ファリサイ派の人々に対する激しい批判の言葉を、一気に吐き出しておられます。
イエスさまが指摘しておられる事柄の中心は、最初に語られている「あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」(39節)という点であると言えるでしょう。
要するに、あなたたちの存在の内側と外側は、まるで別世界のようだ、ということです。あなたたちが美しいのは、外側だけであって、内側は汚れている、ということです。
そのような、言うならば存在の二重性、あるいは、内と外との悪い意味での使い分けに潜む非常に大きな問題性に、あなたたちは気づくべきである、ということです。
他人の存在を「汚れている」と見たり、彼らに近づいたときには、徹底的に身を清めるべきである、などと考えたりする前に、です。
そして、あなたたちには、そもそも、他人に向かってそんなことを語りうる資格はない、ということです。それほどあなたたちは清くない、ということです。
「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります』と言った。」
ここに登場する、イエスさまのお言葉に横から口をはさむ「律法の専門家」の言葉は、もし本気で語られていたとするならば、あまりにものんきすぎます。自分の置かれている立場について全く無自覚だった人である、と言わざるをえません。
と言いますのは、この人の耳には、これまでイエスさまが語ってこられたことは、あくまでも「ファリサイ派の人々」に対して限定的に言われていることなのであって、自分には何の関係もないことである、というふうに、最初は聞こえていたに違いないからです。
しかし、この人は、イエスさまのお話を聞いているうちに、だんだんと、自分たちのことまで責められているような気がしてきたわけです。
当然です。イエスさまは最初から「ファリサイ派の人々」のことだけを問題にしておられたわけではありません。最初から「律法の専門家」のことも、視野に入っていました。
当時のユダヤ教団の指導者たち全体のこと、そしてそれだけでもなく、わたしたち聖書の御言葉の読者たちすべてのことも、視野に入っていたのです。
だれ一人として、イエスさまの御言葉を他人事のように聞き流すことができる人は、いないのです。
律法の専門家に対するイエスさまの批判の中心は、これも最初の言葉にあると思います。
「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしないからだ。』」
イエスさまが指摘しておられることは、要するに、あなたたちは口ばっかりだ、ということです。
「人に背負いきれない重荷を負わせる」と言われている中の「重荷」とは、聖書や言い伝えに基づいて語られる説教の内容です。
あなたたちは、こうすべきである。あなたたちには、このような義務や責任があると、説教者が語る。
しかし、その説教者自身は、自分で語ったことを、何一つ実行しようとしない、ということです。
たいへん厳しい言葉であると思います。図星を当てられたというような気持ちを、だれもが持つでしょう。
わたしなども、イエスさまからこのようなことを言われた日には、おそらく寝込んでしまうでしょう。熱が出てきそうです。
事実、イエスさまからここまで言われた彼らは、イエスさまに対して殺意を抱きました。この殺意が、やがてイエスさまをゴルゴタの丘へと導いていくことになります。
もちろん、これまでにもいくつか、十字架への伏線がありました。しかし、事柄がより明確になってきたのは、イエスさまがファリサイ派や律法学者たちに、面と向かって強く批判したこのときです。
彼らの殺意を指して「それは当然のことです」とは決して申しません。しかし、厳しい言葉でさんざんに批判された人が、思わず握りこぶしを作ってしまうときの心境を、「全く分かりません」と言える人がいるでしょうか。
しかし、それでもなお、です。わたしたちは、イエスさまの御言葉から耳を遠ざけてはならないのだと思います。また、御言葉に示されている真理そのものから、目を背けてはなりません。
厳しい言葉で批判されても仕方がないようなことが、わたしたちには、今でもおそらく、たくさんあるはずです。
ふだん親しいと思っている人から厳しく言われると、ますます傷つくのが、わたしたちかもしれません。
しかし、そうであればこそ、です。多くの人々から非難されるようになる前に、イエスさまの御言葉に耳を傾け、また人の言葉を通して語られる神の御言葉に耳を傾けることによって、自分の罪や過ちを悔い改め、人生の方向修正を行うことができるなら、そのほうが幸いです。
反対に、イエスさまの御言葉を軽んじ、真理から目を背けて生きようとすることこそが、不幸です。
改革派教会に加わる前のことです。尊敬できない一人の牧師の口から、信じがたい言葉を聞きました。
「牧師になれば分かる。牧師は、いろんな人から、いろんなことを言われ、批判される。それを、右の耳から聞いて、左の耳に流せるようにならなければ、身が持たない」。
わたしは、そのような言葉を耳にしたとき、心底から、がっかりしました。
わたしは、そうは思いません。皆さんの前で格好をつけたいわけではありませんが、わたしは、そのように考えたくありません。
それどころか、自分に対する批判の言葉を、右から左へと聞き流せばよいと考えはじめた時点で、その牧師は進退を考えるほうがよい、と思っているくらいです。
われわれは、大きな責任を負わされているのです。
たしかに、「身が持たない」と感じることはあります。胃に穴が開くのではないかと思うほど、厳しい言葉を聞くことがあります。
しかし、そのことを、わたしたちは、むしろ、神さまが与えてくださった光栄であると思うべきです。
(2005年9月25日、松戸小金原教会主日礼拝)