ルカによる福音書10・38~42
本日は、ひたちなか教会の皆さまと共に礼拝をささげることができますことを心より感謝いたします。
わたしがこの場所に参りますのは三回目です。最初は長谷部牧師の葬儀です。二回目は李康憲(イカンファン)牧師の就職式です。そして本日です。
何と申すべきでしょうか。ひたちなか教会の皆さまは、この数年の間、激動の中を過ごしてこられたのだと思います。
事情を知らない者が申し上げることができることは何もありませんが、ただ遠くからお祈りしておりました。
そして今日、良い機会を与えられ、皆さまにお目にかかることができると知ったときは、たいへんうれしく思い、この日を心待ちにしておりました。
この礼拝は、すぐに終わってしまいます。しかし、どうかこれからも、末永いお交わりをいただきたく、よろしくお願いいたします。
さて、先ほどお開きいただきましたのは、新約聖書・ルカによる福音書の中ではよく知られた有名な個所です。今日は、この個所を共に学んでいきたいと願っております。
この個所に最初に登場しますのは、イエスさまと弟子たちの一行です。旅行中でした。その一行が、ある村(おそらくベタニア村)にお入りになりました。
その村で一人の女性に出会いました。そして彼女の家に迎えられることになりました。
その女性の名前はマルタでした。その家にはマルタの妹であるマリアもいました。さらに、ここには出てきませんが、この姉妹には、ラザロという名前の弟が、一人いました。
イエスさまは、この兄弟のことを、以前から知っておられたようです。
「長旅、お疲れさまです。ぜひゆっくりお休みになってください。」
「お久しぶりです。ご家族の皆さまは、お元気ですか。」
このような挨拶が、交わされたのではないでしょうか。
そして姉のマルタは、イエスさまのお顔を拝見した瞬間から一種の“戦闘モード”に入ったようです。
さあ、たいへんだ。イエスさまが来てくださった。失礼など絶対にあってはならない。最高のおもてなしをしなくてはならない。そんなふうに考えたに違いありません。
そしてマルタは、まさにトップスピードで忙しく立ち回り始めました。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と書いてあるとおりです。
「いろいろのもてなし」とあります。食事の準備を指していると思われます。ユダヤ人のご馳走は、どんなものでしょうか。肉・野菜・果物、煮物・焼物などいろいろあったでしょう。
わたしたちにも同じようなことがあるでしょう。
急に大切なお客さんが来る。大急ぎで、部屋の掃除。子どもたちが散らかした(!)部屋の掃除。
そして近くの八百屋に買い物。帰ってくると、右手で料理をしながら、左手でテーブルを整え、椅子を並べ、お皿を並べる、などなど。
しなければならないことは、山ほどあります。
目の前におられるのはイエスさまなのですから。最高のおもてなしをしなくてはならない。マルタには、まさに一つの至上命令が下っていたのです。
それで、すっかり戦闘モード。鼻息荒く、目は少し血走っている。
なぜそんなふうに言えるのかといいますと、もちろん根拠があります。二つほどあります。
第一は、そのマルタが、自分のことを手伝ってくれない妹マリアに対して、怒りをむき出しにし、さらにそのことをイエスさまに告げ口していることです。
第二の根拠は、マルタがその怒りを、マリアに対してだけではなく、大切なお客さまであるイエスさまご自身に対してもぶつけているということです。
マルタは明らかに、イエスさまに対しても怒っています。そのように間違いなく語ることができます。マルタはイエスさまに対して、次のように言っています。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
わたしは、このマルタの言葉の中に、彼女の思いの中にある二つの側面を読み取りたいと願っています。
その第一は“怒り”の側面です。そして、第二は“焦り”の側面です。
まず最初に、“怒り”の側面を、読み取ってみたいと思います。
それがよく表われているのは、マルタがマリアを「わたしの姉妹」と呼んでいる点と、「わたしだけにもてなしをさせている」と言っている点です。
マルタがマリアを「わたしの姉妹」と呼んでいることでわたしに思い出されるのは、旧約聖書・創世記4章のカインとアベルの個所です。人類最初の殺人事件です。
弟アベルを殺してしまったカインに神さまが「お前の弟アベルは、どこにいるのか」とお尋ねになったところ、カインは、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えます。
「弟の」とカインは言い、「アベルの」とは言いません。名前を呼ぶことができないのです。
わたしたちにも、同じようなことがあると思います。
いま腹が立っている相手がいて、しかし、その相手のことを話題にしなければならないとき、その人の名前を口にすることができません。名前を言わず、「妹が!」とか「牧師が!」とか言うのです。
またマルタとマリアの場合、ただ名前を口にすることができないというだけではなく、やはり、姉と妹という、ある種の上下関係があることを無視できません。
マルタにとってマリアは妹である。どちらが上で、どちらが下かは、はっきりしている。
それなのに、わたしマルタのほうがまるで奴隷のように動き回っていて、妹は静かにお座りになっておられる。立場が逆ではないのかと、マルタは言いたいのです。
しかも、マルタは、この怒りを直接マリアにぶつけているのではなく、イエスさまに言う。イエスさまに言いながら、その目の前に座っているマリアにも間接的に伝えようとしています。
妹とは向き合いたくない。口を聞くのも嫌だ、という気持ちがあるのかもしれません。
また、もう一つの点ですが、マルタがイエスさまの前で、マリアは「わたしだけにもてなしをさせている」と言っているところも、マルタが怒っている、何よりの証拠です。
「わたしだけにもてなしをさせている」とは、言い方を換えると、「わたしだけがもてなしをさせられている」ということでしょう。
考えてもみてください。
いつ、だれが、マルタに「もてなしをさせた」のでしょうか。マリアがマルタは「させられた」ので嫌々ながら、もてなしていたのでしょうか。自発的に喜んでしていたのではないのでしょうか。
しかも、そういうことをマルタは、大切なお客さまであるイエスさまの前でズケズケと言い始めています。心の中がかなり混乱している様子が、分かります。
しかしまた、わたしはこのマルタの言葉には、もう一つの見逃せない側面があると考えております。それは“焦り”の側面です。
この側面が見逃せないと、なぜそのようにわたしが考えているかと申しますと、この面については、マルタに対してわたしたちが相当の部分で同情に値するところがある、と感じるからです。
マルタは、明らかに非常に焦っていました。それが、彼女の言葉の中に非常によく表われています。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
マルタが、これほどまでに腹を立てた理由の、少なくとも一つとして考えられることがあります。
それは、ひとことでいいますと、マルタとしては、大切なお客さまとしてイエスさまをお迎えできたことに対するもてなしの準備を、一刻も早く終わらせたかったのです。
その気持ちが表われているのが、「わたしだけに」という言葉です。
もしここで、「わたしだけ」ではなく、一人だけではなく、せめてもう一人、手伝ってくれる人がいれば、今わたしがしている仕事は、半分の時間で済むのに、と。
今の仕事を半分の時間で済ませることができたなら、そうすれば、わたしもまたイエスさまのみそばに駆けつけて、心静かに、御言葉に耳を傾けることができるのに、と。
おそらくマルタの思いは、ただ仕事を早く終わらせたいだけなのです。その意味で、彼女はまさに焦っているのです。
これはとてもよく分かる話であり、また、十分に同情に値する話です。
たとえば、これは、家庭や職場や教会に当てはまる話です。
特定の人だけが苦労して、他の人が楽をしている。重荷を負っている人々が極端に偏っている。みんなで力を合わせれば、早く済ませられる仕事なのに、協力しないので、いつまでも終わらない。
しかし、です。マルタがイエスさまにガミガミとまくし立てていることには、やはり、かなりの部分、行き過ぎがあるといわざるをえません。
このマルタに対するイエスさまのお答えは、次のようなものでした。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
ここでイエスさまは明らかに、マルタの怒りを抑制するような、忠告するような口調で語っておられるます。ただし、それだけではありません。
まず一つの点として言いうることは、「マルタ、マルタ」と、マルタの名前を二回繰り返して読んでおられるのは愛情表現である、ということです。マルタの心を落ち着かせるために、愛情をこめて、二度、名前を呼んでおられるのです。
またもう一つの点として言いうることは、「必要なことはただ一つだけである」というイエスさまのお言葉も、多くの仕事を抱えて呻いていたマルタのことを冷たく裁くことが目的であるだけの言葉ではありえない、ということです。
いくらなんでも、です。イエスさまともあろうお方が、マルタに対して、多くのことを抱えているあなたのしていることは不必要であり、無駄であるなどと、そんな冷たいことをおっしゃるはずがないでしょう。
イエスさまが、そんなことをおっしゃるかどうかを考えてみれば、すぐ分かることだと思います。
そうではない。そうではないのです。
そうではないのだけれども、しかし・・・、というわけです。
少し落ち着きなさい。忙しいときにこそ、必要なこと、最も大切なことは何かをよく思い起こしなさい、ということを、イエスさまはマルタに求めておられるのです。
それは、次のようなことです。
あなたが最高のおもてなしをしようとしている相手の顔をよく見なさい、ということです。
その方の言葉をよく聞きなさい、ということです。
マルタがマリアに求めていることの意味をよく考えてみていただきたいと思います。
それは、最初から意図的にではないと思いますが、結果的・無意識的に「イエスさまの御言葉を聞くのは、後回しにしなさい。そんなヒマがあるくらいなら、わたしの仕事を手伝いなさい」という意味になってしまっています。
わたしがかつて田舎のほうの教会で働いていましたとき、ご近所の方から「毎週毎週、教会ナンカに通える人は、ヒマでよろしいですねえ」と皮肉を言われたことがあります。
わたしは、むきになって反論したりはしませんでした。とはいえ、もちろん、はっきり言いたいことがなかったわけではありません。
わたしたちは何も、ヒマだから教会に通っているわけではありません。
神さまの御言葉を聞くことが、わたしたちの人生において、他の何ものにも換えがたい、かけがえのないことであるゆえに、わたしたちは毎週、教会に通っているのです。
わたしたちから教会を、礼拝を、そして神の御言葉を取り去ることは、だれにもできないのです。
多忙さえも、わたしたちが神の御言葉、イエス・キリストの御言葉を聞かなくてよい理由にはなりません。
仕事が忙しいから礼拝を欠席するということは、現実には十分ありえますし、仕方がない面が、もちろんあります。
しかし、その理由を自分に与えすぎているうちに、わたしたちは、いつの間にか「ヒマだから教会に通っている。ヒマがないから教会に通えない」という話をしているのと同じことになるのです。
わたしたちは、このあたりで思い違いをしてはならないのです。
ここまでにいたします。
ひたちなか教会の皆さまがこれからも、ますます成長し、発展して行かれますよう、心からお祈りしております。
(2005年8月28日、ひたちなか伝道所主日礼拝)
2005年8月21日日曜日
マルタとマリア
ルカによる福音書10・38~42
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。」
イエスさまが「ある村」にお入りになりました。その村にはマルタとマリアという姉妹がいました。
村の名前は記されていません。しかし、おそらくベタニア村ではないかと思われます。ヨハネによる福音書11・1に「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」(ヨハネ11・1)と書かれています。この姉妹には、ラザロという名の弟もいました。
ベタニア村はエルサレムのすぐ近くです。イエスさまが伝道の最初の拠点をそこに置かれたガリラヤ地方からは、歩けば、遠いところです。その意味で、イエスさまたちは旅の途中であった、と語ることができると思います。
また、イエスさまはマルタとマリアのことをよく知っておられたようです。少なくとも初対面ではなかったようです。このことについてもヨハネによる福音書が参考になります。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11・5)と記されています。
とはいえ、マルタとマリアにとって、イエスさまが自分たちの家に来てくださったことが一大事件であったことは、間違いありません。
わたしたちだって、そうでしょう。自分の家に大切なお客さまが来られるというのは、いずれにせよ一大事件です。部屋を片付けて、とか、お土産も買いに行かなきゃ、とか、お茶やお菓子や食事を準備して、など。けっこうたいへんです。
ところが、です。
自分の家に、大切なお客さまとして、イエスさまが来てくださった、というこの一大事が起こったときに、なんということでしょうか、この二人の姉妹の対応が、ほとんど百八十度といってよいほどに、全く違っていた、というのが、今日の個所のポイントです。
最初に紹介されるのは、妹マリアの側の対応です。
「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」
ある牧師が説教で、「妹マリアには座り癖がありました」と説明されたことが、いまだに忘れられません。いくらなんでも、それはないよなーと、マリアに同情しました。
マリアは、イエスさまのお語りになる御言葉に、耳を傾けていた。ただそれだけです。おそらく、マリアは、そのようにすることこそが、イエスさまに対して歓迎の意を表わす、最もふさわしい態度である、と考えたのです。
あるいは、もう一つ、思い当たることがあります。マリアは、とにかく、御言葉に飢え乾いていたのではないでしょうか。これは、もちろん、想像にすぎません。
おそらく彼女たちは、毎週の安息日には、近くの会堂に出かけて、祭司や律法学者たちから、聖書の御言葉を学んでいたに違いありません。
しかし、どこか腑に落ちないところがある、と感じていた。
そんなときに、です。イエスさまが自分の家に来てくださったのです。真実の御言葉、納得の行く御言葉を携えて。
そのような絶好の機会は、もう二度と訪れないかもしれないわけです。
そこで、マリアは、イエスさま御自身がお語りになる御言葉を、少しも漏らさず聞いておきたい、と願ったのではないでしょうか。
ところが、です。マリアが示したこの態度に、大いに不満を抱いた人がいました。姉のマルタです。
「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」
マルタがしていた「いろいろのもてなし」は、食事の準備であったと考えることができます。「もてなし」という言葉には食事の準備という意味がある、と解説されていました。
ともかく、マルタは、非常にバタバタしていました。そして、だんだん腹が立ってきました。
何に腹を立てたのかと言いますと、いちばん腹が立ったことが、妹マリアが自分のことを手伝ってくれない、ということに、でした。
そして、次に腹を立てたのは、間違いなく、イエスさまに対して、です。
マルタは、不満のはけ口を、イエスさまに向けています。
「主よ、何ともお思いになりませんか」と語っているときの彼女の本心は、「イエスさまは、このわたしの忙しくしている姿をご覧になっても、何ともお思いになっておられないようですね」ということでしょう。
「手伝ってくれるようにおっしゃってください」とは、間違いなく、「イエスさまは何もおっしゃってくださらない」という不満の裏返しです。
マルタは、明らかに、イエスさまに腹を立てているのです。
これは、よく分かる話です。マルタの言い分は、十分に理解できます。実際、こういうことで不満を感じる人が、家庭にも、教会にも、どの時代にも、いるのだと思います。
そして、この種の不満は、ある意味で、十分に語られ、また十分に聞かれなければならないものであると、わたしは思います。
今の時代に「炊事は女性の仕事です」などと言いますと、本当に、激しく叱られます。叱られて当然です。そのような役割分担の考え方は、全く時代遅れになっています。
とは言いましても、現実的には、それを男がするか女がするかはともかく、また炊事だけに限ったことではありませんが、そのような役割分担が厳然と存在するということ自体は、否定できないことでしょう。
炊事にせよ、何にせよ、「だれかがしなければならないこと」というのがあるのです。それをだれかがしなければ、現実に物事は回っていかないのです。
その意味で、マルタは、妹マリアが自分の仕事を全く手伝ってくれない分、仕方なく、損な役回りを引き受けざるをえなかったのです。
そういうふうに、わたしたちは、マルタの立場を、よく理解する必要があるでしょう。
たとえば、です。「マルタは、イエスさまの御言葉には全く興味がなかったのです」などというような読み方をしてしまうことは、マルタに対して失礼ですし、またそれは非常に大きな誤解なのだと思います。
そんなことはないのです。マルタだって、マリアのように、イエスさまの御言葉を聞きたかったに違いありません。
でも、イエスさまのおもてなしも、しなくてならない。マリアのほうは、さっさと台所から出て行って、イエスさまの前に座り込んでしまった。だから、仕方なく、自分がしなくてならなくなった。
それなのに、イエスさままで、わたしのことを無視しておられる。さびしい。悔しい。
そういう気持ちをマルタが持っていたに違いない、と理解することが大切です。
「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。』」
このお答えの中で、まず注目していただきたいのは、「マルタ、マルタ」と二回続けて、マルタの名前を呼んでおられるところです。
これは、イエスさまのマルタに対する愛情表現である、と言われています。マルタの心をなだめ、落ち着かせるために、二度、名前を呼ばれたのです。
ここではっきり申し上げることができるのは、このときイエスさまは、マルタを叱っておられるわけでも、責めておられるわけでも、裁いておられるわけでもない、ということです。
しかしまた、マルタの今の心の中にあるものを、イエスさまは、見抜いておられます。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱していると。イライラしないで、落ち着きなさいと、イエスさまは、言っておられるのです。
「『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」
これは、もしかしたら、マルタにとっては大きなショックを感じる言葉だったかもしれません。
「必要なことはただ一つ」とある「ただ一つ」とは、この前に出てくる、マルタが思い悩んでいた「多くのこと」との対比で理解しうる言葉です。必要なことは、たくさんではなく一つである、という意味が、たしかに含まれている、ということです。
ということは、マルタがバタバタ忙しくしてきたことは全く不必要なことだったのだ、と言われた、というふうに、マルタが感じたかもしれません。
イエスさまから不必要だと言われてしまうようなことのために、バタバタし、イライラし、大切なお客さまであるイエスさまにまで文句を言わなくてはならないほどに追い詰められたわたしは、今まで一体、何をしてきたのだろうかと、ショックを受けてしまったかもしれません。
しかし、ここは、どうか冷静に・・・と、マルタにお願いしたくなる場面です。
「必要なことはただ一つだけである」と言われているイエスさまの御言葉の真意を理解する必要があるでしょう。
最初にはっきり申し上げたいことは、先ほども申し上げましたとおり、イエスさまは、マルタのことを叱ったり、責めたり、裁いておられるわけではない、ということです。
第二は、イエスさまが「必要なことはただ一つだけ」と語っておられる意図は、必要な「一つ」のほうを選んだマリアをほめた上で、その返す刀で、不必要な「多くのこと」に悩まされていたマルタを切り捨てておられる、というような単純な話ではない、ということです。
第三に申し上げたいことは、イエスさまが語っておられる「必要なことはただ一つだけである」という御言葉は、マルタ自身もよく分かっていたはずのことを、イエスさまが、マルタ自身に確認しておられることである、ということです。
それは、イエスさまがマルタとマリアの家をお訪ねになった目的は何なのか、ということです。
このときのイエスさまのお気持ちは、わたしがこのようにあなたがたの家に来た目的は、ご飯を食べさせてもらうためではありませんよ、あなたがたに御言葉を伝えるためですよ、ということではなかったでしょうか。
マルタよ、そのことは、あなたもよく分かっているはずですよ、ということではなかったでしょうか。
ですから、「必要なこと」とは、イエスさまが、彼女たちに願っておられたことです。
わたしの言葉を聞きなさい、ということです。
マリアは、今、それをしているのだから、それを取り上げてはなりません、ということです。
話は、ここで終わっています。ですから、この先の話は、ただの想像です。
その家にイエスさまがおられる間は、マルタも、お話を聞くことができます。
イエスさまは、マルタに「早く、今していることを済ませて、わたしの話を聞きに来なさい」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。
(2005年8月21日、松戸小金原教会主日礼拝)
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。」
イエスさまが「ある村」にお入りになりました。その村にはマルタとマリアという姉妹がいました。
村の名前は記されていません。しかし、おそらくベタニア村ではないかと思われます。ヨハネによる福音書11・1に「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア」(ヨハネ11・1)と書かれています。この姉妹には、ラザロという名の弟もいました。
ベタニア村はエルサレムのすぐ近くです。イエスさまが伝道の最初の拠点をそこに置かれたガリラヤ地方からは、歩けば、遠いところです。その意味で、イエスさまたちは旅の途中であった、と語ることができると思います。
また、イエスさまはマルタとマリアのことをよく知っておられたようです。少なくとも初対面ではなかったようです。このことについてもヨハネによる福音書が参考になります。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11・5)と記されています。
とはいえ、マルタとマリアにとって、イエスさまが自分たちの家に来てくださったことが一大事件であったことは、間違いありません。
わたしたちだって、そうでしょう。自分の家に大切なお客さまが来られるというのは、いずれにせよ一大事件です。部屋を片付けて、とか、お土産も買いに行かなきゃ、とか、お茶やお菓子や食事を準備して、など。けっこうたいへんです。
ところが、です。
自分の家に、大切なお客さまとして、イエスさまが来てくださった、というこの一大事が起こったときに、なんということでしょうか、この二人の姉妹の対応が、ほとんど百八十度といってよいほどに、全く違っていた、というのが、今日の個所のポイントです。
最初に紹介されるのは、妹マリアの側の対応です。
「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」
ある牧師が説教で、「妹マリアには座り癖がありました」と説明されたことが、いまだに忘れられません。いくらなんでも、それはないよなーと、マリアに同情しました。
マリアは、イエスさまのお語りになる御言葉に、耳を傾けていた。ただそれだけです。おそらく、マリアは、そのようにすることこそが、イエスさまに対して歓迎の意を表わす、最もふさわしい態度である、と考えたのです。
あるいは、もう一つ、思い当たることがあります。マリアは、とにかく、御言葉に飢え乾いていたのではないでしょうか。これは、もちろん、想像にすぎません。
おそらく彼女たちは、毎週の安息日には、近くの会堂に出かけて、祭司や律法学者たちから、聖書の御言葉を学んでいたに違いありません。
しかし、どこか腑に落ちないところがある、と感じていた。
そんなときに、です。イエスさまが自分の家に来てくださったのです。真実の御言葉、納得の行く御言葉を携えて。
そのような絶好の機会は、もう二度と訪れないかもしれないわけです。
そこで、マリアは、イエスさま御自身がお語りになる御言葉を、少しも漏らさず聞いておきたい、と願ったのではないでしょうか。
ところが、です。マリアが示したこの態度に、大いに不満を抱いた人がいました。姉のマルタです。
「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」
マルタがしていた「いろいろのもてなし」は、食事の準備であったと考えることができます。「もてなし」という言葉には食事の準備という意味がある、と解説されていました。
ともかく、マルタは、非常にバタバタしていました。そして、だんだん腹が立ってきました。
何に腹を立てたのかと言いますと、いちばん腹が立ったことが、妹マリアが自分のことを手伝ってくれない、ということに、でした。
そして、次に腹を立てたのは、間違いなく、イエスさまに対して、です。
マルタは、不満のはけ口を、イエスさまに向けています。
「主よ、何ともお思いになりませんか」と語っているときの彼女の本心は、「イエスさまは、このわたしの忙しくしている姿をご覧になっても、何ともお思いになっておられないようですね」ということでしょう。
「手伝ってくれるようにおっしゃってください」とは、間違いなく、「イエスさまは何もおっしゃってくださらない」という不満の裏返しです。
マルタは、明らかに、イエスさまに腹を立てているのです。
これは、よく分かる話です。マルタの言い分は、十分に理解できます。実際、こういうことで不満を感じる人が、家庭にも、教会にも、どの時代にも、いるのだと思います。
そして、この種の不満は、ある意味で、十分に語られ、また十分に聞かれなければならないものであると、わたしは思います。
今の時代に「炊事は女性の仕事です」などと言いますと、本当に、激しく叱られます。叱られて当然です。そのような役割分担の考え方は、全く時代遅れになっています。
とは言いましても、現実的には、それを男がするか女がするかはともかく、また炊事だけに限ったことではありませんが、そのような役割分担が厳然と存在するということ自体は、否定できないことでしょう。
炊事にせよ、何にせよ、「だれかがしなければならないこと」というのがあるのです。それをだれかがしなければ、現実に物事は回っていかないのです。
その意味で、マルタは、妹マリアが自分の仕事を全く手伝ってくれない分、仕方なく、損な役回りを引き受けざるをえなかったのです。
そういうふうに、わたしたちは、マルタの立場を、よく理解する必要があるでしょう。
たとえば、です。「マルタは、イエスさまの御言葉には全く興味がなかったのです」などというような読み方をしてしまうことは、マルタに対して失礼ですし、またそれは非常に大きな誤解なのだと思います。
そんなことはないのです。マルタだって、マリアのように、イエスさまの御言葉を聞きたかったに違いありません。
でも、イエスさまのおもてなしも、しなくてならない。マリアのほうは、さっさと台所から出て行って、イエスさまの前に座り込んでしまった。だから、仕方なく、自分がしなくてならなくなった。
それなのに、イエスさままで、わたしのことを無視しておられる。さびしい。悔しい。
そういう気持ちをマルタが持っていたに違いない、と理解することが大切です。
「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。』」
このお答えの中で、まず注目していただきたいのは、「マルタ、マルタ」と二回続けて、マルタの名前を呼んでおられるところです。
これは、イエスさまのマルタに対する愛情表現である、と言われています。マルタの心をなだめ、落ち着かせるために、二度、名前を呼ばれたのです。
ここではっきり申し上げることができるのは、このときイエスさまは、マルタを叱っておられるわけでも、責めておられるわけでも、裁いておられるわけでもない、ということです。
しかしまた、マルタの今の心の中にあるものを、イエスさまは、見抜いておられます。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱していると。イライラしないで、落ち着きなさいと、イエスさまは、言っておられるのです。
「『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」
これは、もしかしたら、マルタにとっては大きなショックを感じる言葉だったかもしれません。
「必要なことはただ一つ」とある「ただ一つ」とは、この前に出てくる、マルタが思い悩んでいた「多くのこと」との対比で理解しうる言葉です。必要なことは、たくさんではなく一つである、という意味が、たしかに含まれている、ということです。
ということは、マルタがバタバタ忙しくしてきたことは全く不必要なことだったのだ、と言われた、というふうに、マルタが感じたかもしれません。
イエスさまから不必要だと言われてしまうようなことのために、バタバタし、イライラし、大切なお客さまであるイエスさまにまで文句を言わなくてはならないほどに追い詰められたわたしは、今まで一体、何をしてきたのだろうかと、ショックを受けてしまったかもしれません。
しかし、ここは、どうか冷静に・・・と、マルタにお願いしたくなる場面です。
「必要なことはただ一つだけである」と言われているイエスさまの御言葉の真意を理解する必要があるでしょう。
最初にはっきり申し上げたいことは、先ほども申し上げましたとおり、イエスさまは、マルタのことを叱ったり、責めたり、裁いておられるわけではない、ということです。
第二は、イエスさまが「必要なことはただ一つだけ」と語っておられる意図は、必要な「一つ」のほうを選んだマリアをほめた上で、その返す刀で、不必要な「多くのこと」に悩まされていたマルタを切り捨てておられる、というような単純な話ではない、ということです。
第三に申し上げたいことは、イエスさまが語っておられる「必要なことはただ一つだけである」という御言葉は、マルタ自身もよく分かっていたはずのことを、イエスさまが、マルタ自身に確認しておられることである、ということです。
それは、イエスさまがマルタとマリアの家をお訪ねになった目的は何なのか、ということです。
このときのイエスさまのお気持ちは、わたしがこのようにあなたがたの家に来た目的は、ご飯を食べさせてもらうためではありませんよ、あなたがたに御言葉を伝えるためですよ、ということではなかったでしょうか。
マルタよ、そのことは、あなたもよく分かっているはずですよ、ということではなかったでしょうか。
ですから、「必要なこと」とは、イエスさまが、彼女たちに願っておられたことです。
わたしの言葉を聞きなさい、ということです。
マリアは、今、それをしているのだから、それを取り上げてはなりません、ということです。
話は、ここで終わっています。ですから、この先の話は、ただの想像です。
その家にイエスさまがおられる間は、マルタも、お話を聞くことができます。
イエスさまは、マルタに「早く、今していることを済ませて、わたしの話を聞きに来なさい」とおっしゃりたかったのではないでしょうか。
(2005年8月21日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年8月7日日曜日
善いサマリア人
ルカによる福音書10・25~37
今日の個所に記されているのは、イエス・キリスト御自身が語られた、有名なたとえ話の一つです。
イエスさまは、このたとえ話を通して、わたしたちに、何を教えようとしておられるのでしょうか。そのことを考えながら読んで行きたいと思います。
ルカは、まず、イエスさまがこのたとえ話を語られた状況はどのようなものであったかを明らかにすることから始めています。
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」
「ある律法の専門家」とは、いわゆる律法学者のことです。聖書のみことばを研究する、ユダヤ教の神学者のことです。
その人がイエスさまに、試験問題を出しました。「試す」とは、試験することです。その問題は、永遠の命を受け継ぐ方法は何か、というものでした。
ところが、です。イエスさまは彼の質問にお答えにならず、逆にイエスさまのほうから質問し返されました。質問するのは、あなたではなく、わたしであると、言われたいかのようです。
「イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った。」
なぜ、彼は「自分を正当化」しなければならなかったのでしょうか。この点をどう理解するかが、今日のポイントです。
それは、次のように説明できると思われます。
この律法学者がイエスさまの問いかけに応じて引き合いに出した二つの戒めは、聖書にはそう書いてある、と言っているだけです。
しかし、この二つの戒め自体は、彼自身にとっては、永遠の命を受け継ぐ方法ではなかったのです。
そうではなくて、むしろ、彼自身の答えは、この二つの戒めのうちの一つ、すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めのほうだけを選ぶことだったのです。
「神を愛しなさい」という戒めは、言うならば、宗教的熱心が問われることです。これに対して、「隣人を愛しなさい」という戒めは、一種の博愛主義が問われることです。
律法学者は、この二つの戒めは必ずしも両立するものではない、と考えていたのです。答えは、どちらか一つなのだと。
そして、彼自身は、律法の専門家、宗教の専門家、ユダヤ教の神学者として、「神を愛しなさい」という戒めこそが、永遠の命を受け継ぐ方法である、という答えを持っていたのです。これは、ある意味で、当然のことと言えるでしょう。
ところが、です。イエスさまの答えは、この律法学者自身が期待したものとは、大きく異なっていたのです。だからこそ、彼は「自分を正当化」しなくてはならなくなりました。
イエスさまの答えは、「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めのほうも、守らなくてはならない、ということであった。それで、律法学者は困ってしまったのです。
「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、すなわち、宗教的熱心と博愛主義とは必ずしも両立するものではないと、この律法学者が考えていたに違いない、という点につきましては、さらに説明が必要でしょう。
しかし、その説明は、このたとえ話をご説明させていただく中で、することができると思いますので、今は触れないでおきます。
「イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。』」
このたとえ話の中に出てくる「ある人」が置かれていた状況は、「エルサレムからエリコへ下って行く途中」でした。
この人がエルサレムで何をしていたのかということについては、何も語られていません。ただ一つ、思い当たることは、やはり、エルサレムには神殿があり、そこで行われていた礼拝に出席していた人ではないか、ということです。
そして、その後、当然、自分の家に帰ろうとしていた。ところが、その帰り道で、追いはぎに遭ってしまった、ということではないか、ということです。
彼は、半殺しの目にあい、自分の力では動くことができない状態で、道端に放置されてしまいました。
ところが、です。そこで登場するのが「ある祭司」です。宗教の専門家です。その祭司が、彼を見つけましたが、道の向こう側を通って行ってしまったのです。
この祭司についても、「その道を下って来た」とあります。つまり、それは、エルサレムからエリコに向かう下り道です。これで分かることは、この祭司も、たしかにエルサレムにいた、ということです。
この祭司も、エルサレム神殿で行われていた礼拝に参加していたのではないでしょうか。ただし、祭司の場合は、礼拝を司る側として、聖職者として、宗教の専門家として、です。
そのような人が、なぜ、目の前にいる、半殺しにされて、道端に放置されている人を、見殺しにしたのでしょうか。「道の向こう側」を通って行ったのでしょうか。
彼の気持ちを見抜くためのヒントは、やはり、この祭司が「エルサレムからの下り道」を歩いていた、という点にあると思われます。
祭司の仕事は、神殿での奉仕です。宗教の仕事です。彼は、自分のなすべき仕事は十分果たした、と感じていた。心も、体も、ぐったりと疲れていたのではないでしょうか。
そういうときに、です。この祭司は、自分にはもはや、通りがかりに出会った、たしかに困っているようだが、全く見知らぬ赤の他人を、助け起こすことができるだけの、気力も体力も残っていない、と感じたのではないでしょうか。
だから、道の向こう側を通って行った。つまり、ここでイエスさまが問題にされていることは、宗教の専門家である祭司が行うべき仕事の“質”というよりも、むしろ“量”であると思われます。
たとえ祭司であっても、です。一人の生身の人間であり、彼のこなしうる仕事の量には、限界がある。だからこそ、彼は、自分の限界を越えたわざを避けて通ろうとした。それで、半殺しの目にあっている人を、見殺しにしてしまったのではないでしょうか。
祭司の次に通りかかった「レビ人」も、道の向こう側を通って行ってしまいました。
レビ人の仕事は、神殿において祭司の仕事を助けることです。ですから、彼らについても、祭司と同じことを考えることができると思われます。
レビ人たちも、自分の仕事に疲れていたのではないでしょうか。だから、通りがかりに出会った、困っている人を助けるだけの、気力も体力も残っていなかった。
これは、わたしたちにとって、とてもよく分かる話であると思います。
ここでこそ、先ほど触れました問題を思い起こしていただくのがふさわしいと思います。
それは、イエスさまに試験問題を出した律法の専門家が、「神を愛しなさい」という戒めと「隣人を愛しなさい」という戒めの二つを引き合いに出した。しかし、最も大事な戒めはどちらか一つであって、両方ではない、と考えていたのではないか、という問題です。
彼が「自分を正当化」しようとしたことの理由を、イエスさまは、はっきりと見抜いておられたに違いありません。
今、あなたが考えていることは、まさに、今、わたしが語っているたとえ話に出てくるこの祭司やレビ人と同じではないか、ということです。
宗教の専門家たちは、「神を愛すること」、すなわち、宗教の事柄が大切であると考える。そのことは、もちろん、そのとおりである。
しかし、だからと言って、そのあなたがたが「隣人を愛すること」を軽んじてよいかというと、そんなことはありえない。
気力や体力の限界など、言い訳にならない。
そのことを、イエスさまは、教えておられるのです。
「『ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」
「サマリア人」とは、当時のユダヤ人たちが忌み嫌っていた民族の名前です。ですから、イエスさまの意図は、「たとえサマリア人であっても」ということです。
あなたがたが最も嫌っているサマリア人であっても、もしこういうふうに、通りがかりに出会った、困っている人を助けることができる人がいるならば、です。
道の向こう側を通って行こうとするあなたがたよりも、はるかに優れているではないか。そのように、イエスさまは、おっしゃりたいのです。
実際、たとえば、このたとえ話は、わたし自身にとっても、たいへん耳が痛い、いえ、耳だけではなく、頭も、お腹も、痛くなるような話です。
毎週日曜日の夜、わたしは、いくらか不機嫌な顔をしています。そのことを、わたしの家族は、よく知っております。はた迷惑で申し訳ないと思いながらも、家族の前で不機嫌な顔をしているわたしがいます。
気力と体力の限界を痛感させられます。
日曜日は、牧師が最も不機嫌でありうる日でもあるのです。
しかし、だからといって、その牧師が、たとえ日曜日の夜であっても、です。
家族や友人たち、また助けを求めてくる人々のことを拒んでもよい、と言いうる理由は、ありません。
もちろん、これは、牧師だけの話ではないでしょう。
皆さんの中にも教会と仕事、また教会と家庭の両立、というような問題に悩んでいる方々がおられるはずです。実際、教会が皆さんの家庭にたいへんなご負担をおかけしているのではないかと、心苦しく思うことが、しばしばあります。
しかし、です。わたしたちは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とを両立させなければなりません。そのように、イエスさまが命じておられるからです。
そうなると、わたしたちには、他の人々よりも、二倍の気力、二倍の体力、二倍の時間が必要である、という話になるかもしれません。
眠るひまもない。休むひまもない。真面目に考えると、死んでしまいそうだ、とお感じになる方もおられるでしょう。
しかし、ここでぜひ、みなさまに御理解いただきたいことがあります。それは、イエスさまのこのたとえ話は、明らかに、ここに出てくる律法学者への反論として語られているものである、ということです。
文脈から切り離して、このたとえ話を読んではならない、ということです。
律法学者が自分を正当化するために「神を愛すること」は「隣人を愛すること」よりも重要である、と語ったのと同じように、偏った考え方をする人々を戒めるために、このたとえ話は、語られているのです。
「神は大好きだが、人間は嫌いである」とか「教会の奉仕には誠実で熱心だが、家庭や社会では、ぶっきらぼうである」というようなことでは、やはり、困るのです。
神学者は神学だけやっておればよい、ということはありません。牧師は聖書の勉強だけをし、説教だけをしておればよい、というわけには行かないのです。
わたしたちは、神と人間の両方を、同時に、等しい重さをもって、重んじなければならないのです。
そして、両方を重んじることは、わたしたちにとって可能なことです。イエスさまは、次のように言われていました。
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(ルカ9・48)。
「この子供」も、隣人の一人です。「この子供を受け入れる」とは隣人を愛することです。イエス・キリストの名のために隣人を愛することは、イエス・キリストを愛することであり、イエス・キリストの父なる神を愛することです。
この点から言えば、「隣人を愛すること」こそが「神を愛すること」である、ということになります。
今、目の前にいる、今、助けを求めている人を、今、助けること。
そのことを、神は喜んでくださる。よきサマリア人がしていることは、それである。
わたしたちも、このサマリア人のように、隣人を愛さなければならない。
そのことを、イエスさまは、教えておられるのです。
(2005年8月7日、松戸小金原教会主日礼拝)
今日の個所に記されているのは、イエス・キリスト御自身が語られた、有名なたとえ話の一つです。
イエスさまは、このたとえ話を通して、わたしたちに、何を教えようとしておられるのでしょうか。そのことを考えながら読んで行きたいと思います。
ルカは、まず、イエスさまがこのたとえ話を語られた状況はどのようなものであったかを明らかにすることから始めています。
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」
「ある律法の専門家」とは、いわゆる律法学者のことです。聖書のみことばを研究する、ユダヤ教の神学者のことです。
その人がイエスさまに、試験問題を出しました。「試す」とは、試験することです。その問題は、永遠の命を受け継ぐ方法は何か、というものでした。
ところが、です。イエスさまは彼の質問にお答えにならず、逆にイエスさまのほうから質問し返されました。質問するのは、あなたではなく、わたしであると、言われたいかのようです。
「イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は『「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」とあります。』イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った。」
なぜ、彼は「自分を正当化」しなければならなかったのでしょうか。この点をどう理解するかが、今日のポイントです。
それは、次のように説明できると思われます。
この律法学者がイエスさまの問いかけに応じて引き合いに出した二つの戒めは、聖書にはそう書いてある、と言っているだけです。
しかし、この二つの戒め自体は、彼自身にとっては、永遠の命を受け継ぐ方法ではなかったのです。
そうではなくて、むしろ、彼自身の答えは、この二つの戒めのうちの一つ、すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めのほうだけを選ぶことだったのです。
「神を愛しなさい」という戒めは、言うならば、宗教的熱心が問われることです。これに対して、「隣人を愛しなさい」という戒めは、一種の博愛主義が問われることです。
律法学者は、この二つの戒めは必ずしも両立するものではない、と考えていたのです。答えは、どちらか一つなのだと。
そして、彼自身は、律法の専門家、宗教の専門家、ユダヤ教の神学者として、「神を愛しなさい」という戒めこそが、永遠の命を受け継ぐ方法である、という答えを持っていたのです。これは、ある意味で、当然のことと言えるでしょう。
ところが、です。イエスさまの答えは、この律法学者自身が期待したものとは、大きく異なっていたのです。だからこそ、彼は「自分を正当化」しなくてはならなくなりました。
イエスさまの答えは、「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めのほうも、守らなくてはならない、ということであった。それで、律法学者は困ってしまったのです。
「神を愛すること」と「隣人を愛すること」、すなわち、宗教的熱心と博愛主義とは必ずしも両立するものではないと、この律法学者が考えていたに違いない、という点につきましては、さらに説明が必要でしょう。
しかし、その説明は、このたとえ話をご説明させていただく中で、することができると思いますので、今は触れないでおきます。
「イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。』」
このたとえ話の中に出てくる「ある人」が置かれていた状況は、「エルサレムからエリコへ下って行く途中」でした。
この人がエルサレムで何をしていたのかということについては、何も語られていません。ただ一つ、思い当たることは、やはり、エルサレムには神殿があり、そこで行われていた礼拝に出席していた人ではないか、ということです。
そして、その後、当然、自分の家に帰ろうとしていた。ところが、その帰り道で、追いはぎに遭ってしまった、ということではないか、ということです。
彼は、半殺しの目にあい、自分の力では動くことができない状態で、道端に放置されてしまいました。
ところが、です。そこで登場するのが「ある祭司」です。宗教の専門家です。その祭司が、彼を見つけましたが、道の向こう側を通って行ってしまったのです。
この祭司についても、「その道を下って来た」とあります。つまり、それは、エルサレムからエリコに向かう下り道です。これで分かることは、この祭司も、たしかにエルサレムにいた、ということです。
この祭司も、エルサレム神殿で行われていた礼拝に参加していたのではないでしょうか。ただし、祭司の場合は、礼拝を司る側として、聖職者として、宗教の専門家として、です。
そのような人が、なぜ、目の前にいる、半殺しにされて、道端に放置されている人を、見殺しにしたのでしょうか。「道の向こう側」を通って行ったのでしょうか。
彼の気持ちを見抜くためのヒントは、やはり、この祭司が「エルサレムからの下り道」を歩いていた、という点にあると思われます。
祭司の仕事は、神殿での奉仕です。宗教の仕事です。彼は、自分のなすべき仕事は十分果たした、と感じていた。心も、体も、ぐったりと疲れていたのではないでしょうか。
そういうときに、です。この祭司は、自分にはもはや、通りがかりに出会った、たしかに困っているようだが、全く見知らぬ赤の他人を、助け起こすことができるだけの、気力も体力も残っていない、と感じたのではないでしょうか。
だから、道の向こう側を通って行った。つまり、ここでイエスさまが問題にされていることは、宗教の専門家である祭司が行うべき仕事の“質”というよりも、むしろ“量”であると思われます。
たとえ祭司であっても、です。一人の生身の人間であり、彼のこなしうる仕事の量には、限界がある。だからこそ、彼は、自分の限界を越えたわざを避けて通ろうとした。それで、半殺しの目にあっている人を、見殺しにしてしまったのではないでしょうか。
祭司の次に通りかかった「レビ人」も、道の向こう側を通って行ってしまいました。
レビ人の仕事は、神殿において祭司の仕事を助けることです。ですから、彼らについても、祭司と同じことを考えることができると思われます。
レビ人たちも、自分の仕事に疲れていたのではないでしょうか。だから、通りがかりに出会った、困っている人を助けるだけの、気力も体力も残っていなかった。
これは、わたしたちにとって、とてもよく分かる話であると思います。
ここでこそ、先ほど触れました問題を思い起こしていただくのがふさわしいと思います。
それは、イエスさまに試験問題を出した律法の専門家が、「神を愛しなさい」という戒めと「隣人を愛しなさい」という戒めの二つを引き合いに出した。しかし、最も大事な戒めはどちらか一つであって、両方ではない、と考えていたのではないか、という問題です。
彼が「自分を正当化」しようとしたことの理由を、イエスさまは、はっきりと見抜いておられたに違いありません。
今、あなたが考えていることは、まさに、今、わたしが語っているたとえ話に出てくるこの祭司やレビ人と同じではないか、ということです。
宗教の専門家たちは、「神を愛すること」、すなわち、宗教の事柄が大切であると考える。そのことは、もちろん、そのとおりである。
しかし、だからと言って、そのあなたがたが「隣人を愛すること」を軽んじてよいかというと、そんなことはありえない。
気力や体力の限界など、言い訳にならない。
そのことを、イエスさまは、教えておられるのです。
「『ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」
「サマリア人」とは、当時のユダヤ人たちが忌み嫌っていた民族の名前です。ですから、イエスさまの意図は、「たとえサマリア人であっても」ということです。
あなたがたが最も嫌っているサマリア人であっても、もしこういうふうに、通りがかりに出会った、困っている人を助けることができる人がいるならば、です。
道の向こう側を通って行こうとするあなたがたよりも、はるかに優れているではないか。そのように、イエスさまは、おっしゃりたいのです。
実際、たとえば、このたとえ話は、わたし自身にとっても、たいへん耳が痛い、いえ、耳だけではなく、頭も、お腹も、痛くなるような話です。
毎週日曜日の夜、わたしは、いくらか不機嫌な顔をしています。そのことを、わたしの家族は、よく知っております。はた迷惑で申し訳ないと思いながらも、家族の前で不機嫌な顔をしているわたしがいます。
気力と体力の限界を痛感させられます。
日曜日は、牧師が最も不機嫌でありうる日でもあるのです。
しかし、だからといって、その牧師が、たとえ日曜日の夜であっても、です。
家族や友人たち、また助けを求めてくる人々のことを拒んでもよい、と言いうる理由は、ありません。
もちろん、これは、牧師だけの話ではないでしょう。
皆さんの中にも教会と仕事、また教会と家庭の両立、というような問題に悩んでいる方々がおられるはずです。実際、教会が皆さんの家庭にたいへんなご負担をおかけしているのではないかと、心苦しく思うことが、しばしばあります。
しかし、です。わたしたちは、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とを両立させなければなりません。そのように、イエスさまが命じておられるからです。
そうなると、わたしたちには、他の人々よりも、二倍の気力、二倍の体力、二倍の時間が必要である、という話になるかもしれません。
眠るひまもない。休むひまもない。真面目に考えると、死んでしまいそうだ、とお感じになる方もおられるでしょう。
しかし、ここでぜひ、みなさまに御理解いただきたいことがあります。それは、イエスさまのこのたとえ話は、明らかに、ここに出てくる律法学者への反論として語られているものである、ということです。
文脈から切り離して、このたとえ話を読んではならない、ということです。
律法学者が自分を正当化するために「神を愛すること」は「隣人を愛すること」よりも重要である、と語ったのと同じように、偏った考え方をする人々を戒めるために、このたとえ話は、語られているのです。
「神は大好きだが、人間は嫌いである」とか「教会の奉仕には誠実で熱心だが、家庭や社会では、ぶっきらぼうである」というようなことでは、やはり、困るのです。
神学者は神学だけやっておればよい、ということはありません。牧師は聖書の勉強だけをし、説教だけをしておればよい、というわけには行かないのです。
わたしたちは、神と人間の両方を、同時に、等しい重さをもって、重んじなければならないのです。
そして、両方を重んじることは、わたしたちにとって可能なことです。イエスさまは、次のように言われていました。
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(ルカ9・48)。
「この子供」も、隣人の一人です。「この子供を受け入れる」とは隣人を愛することです。イエス・キリストの名のために隣人を愛することは、イエス・キリストを愛することであり、イエス・キリストの父なる神を愛することです。
この点から言えば、「隣人を愛すること」こそが「神を愛すること」である、ということになります。
今、目の前にいる、今、助けを求めている人を、今、助けること。
そのことを、神は喜んでくださる。よきサマリア人がしていることは、それである。
わたしたちも、このサマリア人のように、隣人を愛さなければならない。
そのことを、イエスさまは、教えておられるのです。
(2005年8月7日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年8月1日月曜日
いつも喜んでいなさい
テサロニケの信徒への手紙一5・16~22
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスに置いて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」
今日わたしたちは、Hさんの前夜式を執り行うために、ここに集まっております。
ご本人とおくさまの御意向で、ここには、ごく親しいご友人がたと、松戸小金原教会の者たちだけがおります。それでも、このように盛大な葬送の儀となりました。ご参列くださいました皆さまに、心より感謝申し上げます。
林さんの在りし日をしのびつつ、静かなひとときを過ごしたいと思います。
先ほどお読みしましたテサロニケの信徒への手紙一5・16~22は、今から約二千年前に活躍した、いにしえのキリスト教伝道者、使徒パウロが書き残した言葉です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
このみことばは、たいへん有名です。教会生活が長い方ならば、どなたでもよく知っていますし、わたしの愛唱聖句であると決めておられ、記憶しておられる方も多いものです。
しかしまた、このみことばは、たしかにそういうものではありますけれども、つまり、とても有名で、また多くの人々によく知られており、記憶されている、そういう御言葉ではありますけれども、そのことと同時に、次のような面を持っている御言葉でもあります。
それはどういう面かといいますと、このみことばは、わたしたちにとっては、厳しいと感じられ、またつらいと感じられるものでもある、という面です。
その理由は、はっきりしていると思います。
わたしたちは、「いつも喜んで」などいないからです。
「絶えず祈って」などいないからです。
「どんなことにも感謝」などしていないからです。
そのため、このみことばは、そのようなわたしたちの欠点や短所をズバリと指摘する、そのような、厳しくて、つらい言葉でもある、ということです。
わたしたちの現実は、まさに正反対ではないでしょうか。
「いつも怒っている」
「しょっちゅう祈りを忘れる」
「年がら年中、不平不満をつぶやいている」
この事情は、クリスチャンである者たちであっても、それほど変わりはしません。大差はないと思います。
それでも、です。クリスチャンである者たち、すなわち、キリスト教信仰というものを受け入れて生きている者たちは、この件に関して少しくらいはマシなところもあるかな、と思えるところもある、と言いうる点を、ひとつだけ申し上げさせていただきます。
それはどの点かといいますと、クリスチャンは、まさにこの「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という聖書の御言葉といつも向き合いながら生きている、という点です。この御言葉を思い出すたびに、「あ、いけない」と反省し、喜ぶ努力をはじめようとするのが、クリスチャンです。
実際、わたしたちは、聖書のみことばに接するたびに、自分の顔やかたちが、今、どのようなものであるか、ということに、ハッと気づかされます。
気づいたほうがよいと思います。なぜなら、だれだって、友達がほしいでしょう。また夫や妻、親や子供や兄弟がいる人は、できるものなら、そういう人々と仲良くしていたいと思うでしょう。だれだって、ひとりで居ることは、さびしいものです。
そういうときに、です。あの人はいつも怒っているし、喜びも感謝もない。神に対しても人に対しても、不平や不満をつぶやいている。そういう人には近づきたくないと、だれでも感じるはずです。自分自身のこととして考えてみれば、分かっていただけるはずです。
ですから、やはり、わたしたちが、自分の顔やかたちが、今どのようなものであるかに気づくことは非常に大切なことです。そのときクリスチャンである者は、聖書のみことばに接するたびに、自分の姿に気づかされるのです。
今日は、Hさんの在りし日をしのぶために、わたしたちは、集まっています。
わたしと林さんとのお付き合いは、決して長いとはいえない、全くそうではない、ごく短いものでした。しかし、林さんがどう思われたかは分かりませんが、わたしは、本当に素晴らしい、深いお付き合いをさせていただいたと感じております。感謝しております。
今年の6月19日(日)には、入院されていた国立がんセンター東病院の一室で、Hさんの洗礼式を執行することができました。もちろん、Hさんご本人の願い出によります。幼い頃には教会に通っていたのだ、と言われました。しかし、戦争のどさくさの中で、洗礼を受けるきっかけを失ってしまった。だから今、洗礼を受けたいのだ、と。
Hさんが洗礼を受けたいという願いを持っておられる、というお話を、わたしは最初、この教会の中では最も親しい関係にある長谷川和子さんを通して、伺いました。
そこでわたしは、林さんの気持ちを確かめるために、Hさんの病室に参りましたところ、最初じっと黙っておられ、それから少し頭を下げ、ひょいっと、頭を前に出されました。そして「お願いします」と言われました。両眼を失明されている林さんは、そのときすぐに洗礼式が始まると思われたようです。
「いや、そうではなくて・・・」と、そこから少し説明をさせていただきました。洗礼を受けるには、少しの準備が必要である。本来ならば、きちんと教会に通っていただいて勉強会を開くことになっております、と申し上げました。「それは、そうですね」とすぐに理解し、納得してくださいました。しかし、林さんの場合には、特別に、ごく短い期間で準備させていただきました。
そして、先ほど申し上げましたように、6月19日(日)に洗礼式を行いました。Hさんがクリスチャンになられました。わたしもうれしかったです。感謝しました。感動しました。
Hさんはとても明るい方でした。洗礼を受けられる前のHさんのことを存じ上げませんので、比較して申し上げるわけではありません。しかし、洗礼を受けられ、クリスチャンになられたことを、林さんは、とても喜んでくださっていたと、信じております。
病院では、いろんなお話をさせていただきました。話題が豊富でした。プロ野球の話、お好きだった旅行や山登りの話、政治や経済の話など、いろいろでした。
またHさんは、とても優しい方でした。いつも、いろいろと配慮してくださるのです。先週の土曜日、いちばん最後にお話しくださったことは、「この部屋の温度は何度ですか」ということと、「牧師さんは夏休みにどこに行かれますか」ということでした。
緩和ケア病棟におられましたので、痛みはないのです。痛みがないということが、これほどまでに人の心を落ち着かせ、平安にするのかと思わされました。わたしも、もし自分が同じ病気にかかったら、この緩和ケアというのをしてもらいたいと、本当に思いました。
ベッドの上ですが、起き上がって、自由に何でも食べることができますし、話すことができます。トイレに行ったり、顔を洗ったりすることも、直前まで御自分でしておられました。
しかし恐ろしい面もある、と言わなくてはなりません。それは、ただひとつ、終わりが突然訪れる、ということです。この点は、緩和ケアというものの運命であると思います。
先週の木曜日、ということは、まだたったの四日前です。とてもお元気だったそうです。ところが、その翌日から突然、がくっと力が抜けた感じになられました。
土曜日の午後、病室に伺いました。わたしたちの質問に「イエス」ならば首を縦にふられ、「ノー」ならば右手を横にふられました。帰り際に「そろそろ帰ります」と言いましたら、手を伸ばして握手を求められましたので、させていただきましたところ、まだ力がありました。最後の力だったようです。
Hさんの笑顔が、忘れられません。わたしたちは今、Hさんの生涯が祝福に満ちたものであったことを喜び、感謝しつつ祈るべきです。そう言うと、Hさんには「いや、わたしも、いろいろと苦労しましたよ」と言われると思いますが。
もちろん、そうなのです。
祝福に満ちた人生には、苦労があるのです!
すべてを忍び、すべてを受け入れ、すべてを感謝し、すべてを喜ぶことができる人は、かならずや、いろんな苦労を体験しておられるのです。
一人の立派な人生の先輩を天に見送ることができた幸いを、感謝したいと思います。
(2005年8月1日、葬儀説教、於 松戸小金原教会)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスに置いて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」
今日わたしたちは、Hさんの前夜式を執り行うために、ここに集まっております。
ご本人とおくさまの御意向で、ここには、ごく親しいご友人がたと、松戸小金原教会の者たちだけがおります。それでも、このように盛大な葬送の儀となりました。ご参列くださいました皆さまに、心より感謝申し上げます。
林さんの在りし日をしのびつつ、静かなひとときを過ごしたいと思います。
先ほどお読みしましたテサロニケの信徒への手紙一5・16~22は、今から約二千年前に活躍した、いにしえのキリスト教伝道者、使徒パウロが書き残した言葉です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。
このみことばは、たいへん有名です。教会生活が長い方ならば、どなたでもよく知っていますし、わたしの愛唱聖句であると決めておられ、記憶しておられる方も多いものです。
しかしまた、このみことばは、たしかにそういうものではありますけれども、つまり、とても有名で、また多くの人々によく知られており、記憶されている、そういう御言葉ではありますけれども、そのことと同時に、次のような面を持っている御言葉でもあります。
それはどういう面かといいますと、このみことばは、わたしたちにとっては、厳しいと感じられ、またつらいと感じられるものでもある、という面です。
その理由は、はっきりしていると思います。
わたしたちは、「いつも喜んで」などいないからです。
「絶えず祈って」などいないからです。
「どんなことにも感謝」などしていないからです。
そのため、このみことばは、そのようなわたしたちの欠点や短所をズバリと指摘する、そのような、厳しくて、つらい言葉でもある、ということです。
わたしたちの現実は、まさに正反対ではないでしょうか。
「いつも怒っている」
「しょっちゅう祈りを忘れる」
「年がら年中、不平不満をつぶやいている」
この事情は、クリスチャンである者たちであっても、それほど変わりはしません。大差はないと思います。
それでも、です。クリスチャンである者たち、すなわち、キリスト教信仰というものを受け入れて生きている者たちは、この件に関して少しくらいはマシなところもあるかな、と思えるところもある、と言いうる点を、ひとつだけ申し上げさせていただきます。
それはどの点かといいますと、クリスチャンは、まさにこの「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という聖書の御言葉といつも向き合いながら生きている、という点です。この御言葉を思い出すたびに、「あ、いけない」と反省し、喜ぶ努力をはじめようとするのが、クリスチャンです。
実際、わたしたちは、聖書のみことばに接するたびに、自分の顔やかたちが、今、どのようなものであるか、ということに、ハッと気づかされます。
気づいたほうがよいと思います。なぜなら、だれだって、友達がほしいでしょう。また夫や妻、親や子供や兄弟がいる人は、できるものなら、そういう人々と仲良くしていたいと思うでしょう。だれだって、ひとりで居ることは、さびしいものです。
そういうときに、です。あの人はいつも怒っているし、喜びも感謝もない。神に対しても人に対しても、不平や不満をつぶやいている。そういう人には近づきたくないと、だれでも感じるはずです。自分自身のこととして考えてみれば、分かっていただけるはずです。
ですから、やはり、わたしたちが、自分の顔やかたちが、今どのようなものであるかに気づくことは非常に大切なことです。そのときクリスチャンである者は、聖書のみことばに接するたびに、自分の姿に気づかされるのです。
今日は、Hさんの在りし日をしのぶために、わたしたちは、集まっています。
わたしと林さんとのお付き合いは、決して長いとはいえない、全くそうではない、ごく短いものでした。しかし、林さんがどう思われたかは分かりませんが、わたしは、本当に素晴らしい、深いお付き合いをさせていただいたと感じております。感謝しております。
今年の6月19日(日)には、入院されていた国立がんセンター東病院の一室で、Hさんの洗礼式を執行することができました。もちろん、Hさんご本人の願い出によります。幼い頃には教会に通っていたのだ、と言われました。しかし、戦争のどさくさの中で、洗礼を受けるきっかけを失ってしまった。だから今、洗礼を受けたいのだ、と。
Hさんが洗礼を受けたいという願いを持っておられる、というお話を、わたしは最初、この教会の中では最も親しい関係にある長谷川和子さんを通して、伺いました。
そこでわたしは、林さんの気持ちを確かめるために、Hさんの病室に参りましたところ、最初じっと黙っておられ、それから少し頭を下げ、ひょいっと、頭を前に出されました。そして「お願いします」と言われました。両眼を失明されている林さんは、そのときすぐに洗礼式が始まると思われたようです。
「いや、そうではなくて・・・」と、そこから少し説明をさせていただきました。洗礼を受けるには、少しの準備が必要である。本来ならば、きちんと教会に通っていただいて勉強会を開くことになっております、と申し上げました。「それは、そうですね」とすぐに理解し、納得してくださいました。しかし、林さんの場合には、特別に、ごく短い期間で準備させていただきました。
そして、先ほど申し上げましたように、6月19日(日)に洗礼式を行いました。Hさんがクリスチャンになられました。わたしもうれしかったです。感謝しました。感動しました。
Hさんはとても明るい方でした。洗礼を受けられる前のHさんのことを存じ上げませんので、比較して申し上げるわけではありません。しかし、洗礼を受けられ、クリスチャンになられたことを、林さんは、とても喜んでくださっていたと、信じております。
病院では、いろんなお話をさせていただきました。話題が豊富でした。プロ野球の話、お好きだった旅行や山登りの話、政治や経済の話など、いろいろでした。
またHさんは、とても優しい方でした。いつも、いろいろと配慮してくださるのです。先週の土曜日、いちばん最後にお話しくださったことは、「この部屋の温度は何度ですか」ということと、「牧師さんは夏休みにどこに行かれますか」ということでした。
緩和ケア病棟におられましたので、痛みはないのです。痛みがないということが、これほどまでに人の心を落ち着かせ、平安にするのかと思わされました。わたしも、もし自分が同じ病気にかかったら、この緩和ケアというのをしてもらいたいと、本当に思いました。
ベッドの上ですが、起き上がって、自由に何でも食べることができますし、話すことができます。トイレに行ったり、顔を洗ったりすることも、直前まで御自分でしておられました。
しかし恐ろしい面もある、と言わなくてはなりません。それは、ただひとつ、終わりが突然訪れる、ということです。この点は、緩和ケアというものの運命であると思います。
先週の木曜日、ということは、まだたったの四日前です。とてもお元気だったそうです。ところが、その翌日から突然、がくっと力が抜けた感じになられました。
土曜日の午後、病室に伺いました。わたしたちの質問に「イエス」ならば首を縦にふられ、「ノー」ならば右手を横にふられました。帰り際に「そろそろ帰ります」と言いましたら、手を伸ばして握手を求められましたので、させていただきましたところ、まだ力がありました。最後の力だったようです。
Hさんの笑顔が、忘れられません。わたしたちは今、Hさんの生涯が祝福に満ちたものであったことを喜び、感謝しつつ祈るべきです。そう言うと、Hさんには「いや、わたしも、いろいろと苦労しましたよ」と言われると思いますが。
もちろん、そうなのです。
祝福に満ちた人生には、苦労があるのです!
すべてを忍び、すべてを受け入れ、すべてを感謝し、すべてを喜ぶことができる人は、かならずや、いろんな苦労を体験しておられるのです。
一人の立派な人生の先輩を天に見送ることができた幸いを、感謝したいと思います。
(2005年8月1日、葬儀説教、於 松戸小金原教会)
登録:
投稿 (Atom)