2005年6月26日日曜日

己が十字架を負いて従え

ルカによる福音書9・18~27


今日、これからわたしたちが学びます最初の段落に記されておりますのは、わたしたちの救い主イエス・キリストとその弟子たちとの間で実際に交わされた、一つの会話です。


「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。」


これは少し不思議に思われる言葉です。イエスさまは「ひとりで」祈っておられました。しかし、その場には、「弟子たちが共にいた」とも記されています。


少し不思議に思われることがあります。それは、そのとき祈っておられたのはイエスさまだけであった、という意味だろうか、という点です。


ただひとり、イエスさまだけが祈っておられたのであって、弟子たちは祈っていなかった、という意味でしょうか。


もしわたしたちがここに書いてあることを文字どおり受けとるならば、そういうことになるでしょう。つまり、弟子たちは、祈っておられるイエスさまと共にいながら、しかし、彼ら自身は祈っていなかった、というふうに読めます。


弟子たちは、イエスさまがひとりで何事か熱心に祈っておられる姿を、少し距離を置いたところから見守っていた、という様子を、想像することができるかもしれません。それ以上のことは、言えません。


「そこでイエスは、『群集は、わたしのことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは答えた。『「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、「エリヤだ」と言う人も、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいます。』イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」


イエス・キリストとは何者か。どういうお方であるのか。この重要な問いを、ここではイエスさま御自身が、弟子たちに問うておられます。


当時からすでに、いろんな答えがあったことが分かります。「洗礼者ヨハネだ」と言う人がおり、また「エリヤだ」と言う人がおり、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人がいました。


「洗礼者ヨハネ」とは、イエスさまに洗礼を授けた、あのヨハネです。「エリヤ」とは、旧約聖書・列王記上17章以降に登場する、偉大なる預言者です。「だれか昔の預言者」が、だれのことかは分かりません。


もちろん、ヨハネも、エリヤも、このときには、いません。すでに亡くなっている人、神のみもとに召されている人が、生き返ったのだ、それがイエスという人だと、町の人々が、うわさしていたのです。


このことについては、先週学びました個所にも記されていました。領主ヘロデがイエスさまについてのうわさを、全く同じように聞いていました(ルカ9:7〜8)。


つまり、領主ヘロデが聞いていたのと全く同じ内容のうわさを、弟子たちも聞いていた、ということでしょう。これが意味していることには、二つほどの可能性が考えられます。


一つの可能性は、領主ヘロデとイエスさまの弟子たちは、それぞれの生活圏としている場所が、全く同じうわさを聞くことができるほどに、近かったのではないか、ということです。


もう一つの可能性は、領主ヘロデが政治権力者に特有の地獄耳を持っていたのでないか、ということです。自分の側近たちを町の中に遣わし、自分にとって不利になるようなことならば、どんな小さなことでも情報を収集していた可能性があります。恐怖政治には必ずつきものの、一種のスパイ活動です。


どちらの可能性にせよ、ここで明らかなことは、イエスさまというお方について、町の人々が、いろいろなうわさをしていた、ということです。


しかも、興味深いことは、そのうわさの内容は、「洗礼者ヨハネ」であれ、「エリヤ」であれ、ユダヤ人たちの中では、非常に大きな尊敬を集めた、偉大な人物だった、ということです。


その偉大な人物の生まれ変わりだというのですから、そのうわさをしている人々は、イエスさまのことも、偉大な人物である、と認めていた、ということです。


そしてまた、その同じうわさを聞いたヘロデも、イエスさまの存在が非常に気になり、会ってみたいと思うようになったというのですから、その存在の大きさそのものは、彼も認めざるをえなかった、ということが、分かります。


イエスさまご自身の宣教の目的は、ヘロデのような人を、その権力の座から引き降ろし、その代わりにご自身がヘロデの座に着く、というようなことにあったわけではありません。しかし、結果として、ヘロデが非常に不安を感じるほどに、イエスさまの存在は、大きなものとなっていた、ということが、分かります。


そのことは、おそらく、イエスさまの弟子たちにとっては、うれしいことだったのではないでしょうか。イエスさまの宣教活動の進展と拡大が進んでいくことを、彼らは、自分のことのように喜んでいたに違いありません。


ところが、イエスさまご自身はどうであったか、と考えてみますと、今日の個所を読むかぎり、いくらか微妙な、といいますか、はっきり言えば、とても困った気持ちを持っておられたのではないか、と思われます。


そのように言いうる根拠は何かといいますと、あとでもう一度触れますが、21節に書かれていることです。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じた」。


イエスさまのうわさが広まることで、ヘロデのような人々が動きはじめるということを、イエスさまは、よくご存じであった、ということです。


しかし、それは非常に困ることです。ヘロデのような人々に動いてもらっては、困る。なぜなら、そういう人々は、必ずイエスさまのお働きの邪魔をしてくるのですから。


今、イエスさまの助けを必要としている人々が、大勢いるわけです。


それこそ、順番待ちしているような人々が、たくさんいる。今か今かと、イエスさまが来てくださるのを、待っている人々が、たくさんいる。


待ちきれなくて、あるいは、自分に順番が回ってくることはないと考えて、どさくさに紛れて、イエスさまの服に触れるだけでもかまわないと、手を伸ばしてくる人さえ、いる。


イエスさまのご関心は、その人々を、ただ助けることだけです。その救いのみわざを、イエスさまとしては、邪魔されたくなかったはずです。


イエスさまの目的は、ご自身の名前が、あるいは存在が広く知られることにあったわけではありません。


むしろ、ご自身は、できるだけ隠れておられたかった。逃げたり隠れたりする、という意味ではなく、です。今、助けを求めている人々を、今、助ける、ということができなくなるのを、避けたい、とお考えになったのです。


しかし、そのこととは別に、イエスさまは、弟子たちに対して、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。それに対して、ペトロが答えました。「神からのメシアです」と。


これはペトロの信仰告白、あるいはキリスト告白と呼ばれます。イエスさまが弟子たちにお求めになったのは、信仰です。


はっきり言えば、イエスさまは、ご自身の名前が広く知れ渡ることについて、信仰ではない仕方で、町の人々の、ただうわさ話にされてしまうことを、嫌がられたのです。そんなことは、イエスさまにとっては、少しもうれしいことではなく、むしろ、たいへんお困りになることだったのです。


「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」


イエスさまは、ペトロがイエスさまに対する正しい信仰を告白したのちに、そのことをだれにも話さないようにお命じになりました。その理由として考えられることは、先ほど申し上げましたとおりです。


そして、イエスさまは、御自分の身の上に日増しに近づいている危険を、よくご存じでした。


ここで「人の子」とは、イエスさまご自身のことです。人の子は必ず、多くの苦しみを受けるのだ、と。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるのだ、と。


ここで興味深いこと、といいますか、おそるべきこと、注目すべきことは、イエスさまを排斥し殺すのは、「長老、祭司長、律法学者」、すなわち当時のユダヤ教の指導者たち、宗教の専門家たちである、とイエスさまが認識しておられた、ということです。


宗教が、教会が、罪を犯すのです。これは本当に困ったことです。


なぜ、そういうことになるのか、といいますと、一言で言うならば、要するに、ねたみです。宗教家が、教会の指導者が、自分の立場や地位を守るために、イエスさまにねたみを抱き、殺すのだ、ということです。


このイエスさまの予言は、現実のものとなりました。


「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。』」


イエスさまは、弟子たちに「わたしに従いなさい」と言われました。


ただし、条件があります。「自分を捨てること」、そして「日々、自分の十字架を背負うこと」です。その道は、決して容易いものでも、軽いものでもありません。


「自分の十字架を背負う」とは、何でしょうか。説明は、どこにもありません。「十字架」とは、死刑台のことです。自分の死刑台を日々背負って歩きなさい、というのですから、常に死の覚悟をもって歩め、自分の犯した罪や受けるべき罰を強く自覚せよ、ということではないでしょうか。


「自分を捨てなさい」とは、何でしょうか。それは、自分のために生き、自分のために死ぬことの正反対です。


そうです、イエスさまが求めておられるのは、キリストのために生きること、キリストのために死ぬことです。その決意と覚悟をもって、キリストに従うことです。


しかし、それは、キリストの弟子たちにとっては、なんら悲壮なことではありません。


イエスさまは、「わたしのために命を失う者は、それを救うのである」とも言われました。


キリストのために苦労すること、キリストのために死ぬことは、まさに生きることであり、命が救われることである、ということです。


これは、わたしたちにも、当てはまることです。


今、助けを求めている人を、今、助けること。


そのことのために苦労することができる人々は、幸いです。


それは、イエスさまと同じ道を、イエスさまのあとに従って、歩むことです。


邪魔が入るのは困ります。しかし、ねたみや迫害をおそれては、何もできません。


前進あるのみです。


一歩一歩、前に進んで行きたいと思います。


(2005年6月26日、松戸小金原教会主日礼拝)




2005年6月19日日曜日

五つのパンと二匹の魚

ルカによる福音書9・1〜17


関口 康


今日は三つの段落をお読みしました。実際にこのように続けて読んでみますと、三つの段落には何らかの関連がある、ということが分かります。


第一の段落に記されていますことは、イエスさまが十二人の弟子たちを呼び集められ、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」をお授けになり、そして、神の国を宣べ伝え、病気をいやすためにお遣わしになる、という出来事です。


要するに、それは、主イエス・キリストによる、弟子たちの、この世に向かっての派遣、という出来事です。


第二の段落に記されていますことは、領主ヘロデがイエスさまとその弟子たちのうわさを聞いて、イエスというその人に会ってみたいと考えはじめた、という出来事です。


そして、第三の段落に記されていますことは、イエスさまの周りに集まってきた男性たち五千人(ただし成人のみと思われます)、そしておそらく女性や子どもたちを合わせると一万人とも考えられる数の群集がお腹をすかせていたので、イエスさまが、十二人の弟子たちに命じて、五つのパンと二匹の魚だけで、すべての人々を満足させた、という出来事です。


この三つの段落に記されている三つの出来事には、何らかの関連性がある、とわたしには思われます。


それを一言で言いますならば、それは、要するに、その日そのときに至るまでイエスさまが宣べ伝えられてきた「神の国」というものが、次第に進展と拡大を見せ、いよいよもって、多くの人々に大きな影響を与えていく様子が、明らかにされている、ということです。


第一の段落に記されている、イエスさまの、弟子たちに対する、力と権能の付与ないし授与の意味は、神の国の進展と拡大という流れの中で考えていくと、よく分かることです。


別の言い方をしますならば、イエスさまというこのお方の伝道の方法は、どのようなものであったか、ということを考えると、よく分かることであるとも言えます。


それは要するに、救いを求めてイエスさまのもとに訪れる一人一人に対し、あるいはまた、たとえ自分の足でイエスさまのもとに来れなくとも、だれか人を介して、イエスさまのもとに助けを求めてくる一人一人に対して、ひとつずつのみわざを行ってくださる、という方法です。


イエスさまは、一人一人に近づき、一人一人に語りかけ、一人一人に手を置き、一人一人のために祈り、ひとつずつのみわざをなしてくださいます。イエスさまというお方は、そういうお方です。


不特定多数の人々に向かって、「神の恵み」を、一人一人の顔も見ることをせず、一人一人の状況も何ら知らずして、ただばらまき、それだけで事の一切を済ませる、というようなやり方の、ちょうど正反対、とお考えいただくことも、できると思います。


今であれば、テレビという手段があります。そこで、神の御言としての説教を語る。そうすれば、一度に何百万人、何千万人という不特定多数の人々に聖書の御言葉を宣べ伝えることができる、というふうに考え、実際にそのようにしている人々がいます。


わたしは、そのようなやり方に反対したいがために、今、このようなことを申し上げているわけではありません。いろいろな伝道の方法がある、ということは、否定されるべきではありません。


とはいえ、どう控えめに考えてみましても、そのようなやり方は、やはり、イエスさまご自身の伝道の方法とは、相当隔たりがある、と言わざるをえません。


わたしたちがこのルカによる福音書を学びはじめた最初の頃に、わたしが繰り返し強調してお話ししておりましたひとつのことは、イエスさまの伝道には、“みことば”の要素と共に“ふれあい”の要素がある、ということでした。そのことを、ここでも、思い返していただきたいです。


もし、この伝道というわざが、ただ言葉だけによる、というのなら、それこそテレビのような方法、あるいは、著名な牧師や神学者の説教集で、事が足ります。


ところが、実際には、そうではない。伝道は、言葉の伝達に終わらない。そこには必ず“ふれあい”の要素が必要なのです。


要するに、伝道者たちは、苦しみの中で救いと助けを求めている一人一人に“さわりに行く”必要があるのです。そのことなしには、真の意味で、言葉がひとに伝わる、ということさえ、起こらないのです。


しかし、だからこそ、次のこともまた、語られなくてはなりません。


だからこそ、イエスさまは、弟子たちをお選びになり、その弟子たちに、ひとを救い、助けることのできる力と権能を、お授けになるのです。


それは、何のためでしょうか。


神の国の進展と拡大に伴い、イエスさまに助けを求めてくる人々の数も増えてきました。


しかし、イエスさまは、おひとりです。


その人々、その一人一人に、イエスさまが一度に同時にかかわることは、おできにならないし、そのようなことはなさらないのです。


そのように、わたしは、先週申し上げました。


いわば、その代わりに、です。


イエスさまは、御自身がなさるみわざが弟子たちを通しても行われるように、つまり、その弟子たちを通して多数の人々に、一度に同時に救いのみわざが行われるように、弟子たちに、力と権能をお授けになるのです。


弟子たちのなすわざは、イエスさまのみわざと全く同じとは言えないかもしれませんが、イエスさまが弟子たちにお与えになった力と権能のゆえに、彼らもまた、救いのみわざを行うのです。


このように考えますと、今日お読みしました個所の第一の段落に記されている事柄は、神の国の進展と拡大に伴う出来事である、ということを、ご理解いただけるのではないかと思います。


第二の段落に記されている、領主ヘロデがイエスさまのうわさを聞いて、イエスさまに会いたくなった、というのも、やはり同じように、イエスさまが宣べ伝れられた神の国の進展と拡大に伴う出来事であった、と理解することができます。


「領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」とあります。なぜヘロデは「戸惑った」のでしょうか。おそらく、なんらかの圧力を感じ、身の危険を感じたのです。


ヘロデは、いわゆる政治家です。神の国ではなく、ヒトの国、人間の国の支配者です。かたやイエスさまは、神の国の支配者として、王として、この地上に来てくださいました。しかし、そのことは、ヘロデに圧力や身の危険、不安をもたらすことになりました。


ここで考えるべき問題は、はたして、イエス・キリストが王としてお立ちになる神の国は、ヘロデのような人が支配するヒトの国、人間の国と競合するものであろうか、ということでしょう。


はっきり言いうるひとつの点は、イエスさまは、ヘロデのような人に圧力をかけるために、神の国の福音を宣べ伝えられたわけではない、ということです。


イエスさまは、地上の一国の王になるために来られた方ではありません。そのようなことが、イエスさまが父なる神のみもとから来られた理由や目的ではありません。


しかし、それにもかかわらず、ヘロデは、イエスさまの動きに「戸惑い」を覚え、不安を感じました。それはおそらく、自分の支配が崩れるかもしれない、という不安でしょう。


地上の権力者は、いつでもそういうことを考えます。その支配のあり方が独裁的なものであればあるほど、自分の地位や立場を脅かすことになるかもしれない存在を許すことができません。


そう、そのような人々は、自分の思い通りにならないものの一切の存在を、許すことができないのです。


この点については、ヘロデの嗅覚は、なるほど、たしかなものであった、ということができそうです。


イエスさまも、イエスさまの弟子たちも、まさに神の国に生きる者たちとして、ヘロデのような人の思い通りにはなりません。


神の国とは、神の御言葉によって立つ国です。不法や不正を許しません。


わたしたちの救い主は、正義と公正の主です。その方が来てくださるとき、不法や不正によって成り立っている地上の国とその支配者は、打ち砕かれるのです。


第三の段落に記されている、イエスさまのみもとに集まった一万人以上とも考えられる群集のお腹を、イエスさま御自身が、弟子たちの働きを用いて、五つのパンと二匹の魚をもって満たされる、ということもまた、同じように、神の国の進展と拡大に伴う出来事であった、と理解することができます。


イエスさまの十二人の弟子たちは、イエスさまに「群集を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と言いました。彼らは、ごく普通の、当たり前の判断をしたにすぎません。


ところが、イエスさまは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお命じになりました。


今、群衆を解散させる必要はない、ということです。イエスさまの御言葉を聞いた人々が食べ物を得ることは、彼らの責任ではなく、あなたがた弟子たちの仕事である、ということです。


これは明らかに、第一の段落に記されている、イエスさまが、その弟子たちに対して、人々をいやす力と権能をお与えになった、という出来事に関連しています。


人々をいやす、というのは、ただ単に、今、いわゆる病気にかかっている人々の、その病気をいやす、ということに、とどまりません。


おそらくもっと広い意味です。お腹がすいている人のそのお腹を満たすことも、立派にいやしです。十分な意味でのいやしのひとつです。


それができるように、イエスさまは、弟子たちに、力と権能をお与えになったのです。


ところが、弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と、至極もっともらしい、しかし、ちょっと情けないことを言いはじめます。わたしたちにはできません、と。


しかし、イエスさまは、彼らとは全く違うことを、お考えになりました。そして、そのお考えどおりになさいました。


「イエスは弟子たちに、『人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」


わたしは、ここで、ものすごく単純なことを申し上げたいと思います。


それは、イエスさまは、純粋な意味で「分けて食べる」ということを、お考えになり、そのようになさったのだ、ということです。


イエスさまは、「分けて食べる」ということを、なさいました。そうすると、パンと魚の量が、増えました。理由は、分かりません。神の奇蹟と呼ぶほかはありません。


この個所を読む人々の中には、そのとき集まっていた群衆が、じつは、それぞれお弁当を隠し持っていたので、増えたのだ、というような、きわめて合理的で、身も蓋もない話にしてしまう人々も、いるようです。


しかし、わたしたちは、そのような説明で納得できるでしょうか。なんだか嫌な気分にさせられます。


まさか、そんな話ではないはずです。イエスさまは、まさに純粋に、そしてごく単純に「みんなで分けて食べる」ということを、実践なさったのです。それ以上でも、それ以下でも、ありません。


ただ、しかし、ひとつの点だけ、いくらか合理的な話もしておきます。


今日のこの個所の話は、ひとりで食べる食事を体験したことがある人(おそらく、ここにおられる皆さんすべて)ならば、きっと、理解していただけるのではないか、ということです。


おいしくないです。さびしいです。どんなにたくさんあっても、どんなに高級な食材が使われていても、ひとりの食事は味気ない。おそらく、このことは、多くの人々に了解していただけることではないでしょうか。


食事とは何か、を考えさせられます。それは、わたしたちの日常生活全体を考えることでもあります。


少し大げさに言わせていただくならば、わたしたちが何のために生きるのか、という問いそのものを考えることでもあります。なぜなら、わたしたちが仕事によって手にするものの多くは、わたしたちの食べるもののために消えていくからです。


イエスさまと共に生きること、そして、イエスさまを信じる人々と共に食卓を囲む喜びを味わったことのある人々は、きっと、その問いの答え――食事とは何かという問いの答え――を知っています。


おそらく、わたしたちにとって、食事の満足は、その量や味だけで、得られるものではありません。


信仰が必要です。


賛美の祈りが必要です。


みんなで分け合うこと、


そして、楽しい語らいが必要です。


イエスさまと共に生きること、それは、イエスさまと共に、またイエスさまを信じる人々と共に食卓を囲むことでもあります。


それが、それこそが、神の国なのです!


わたしたちは、日常生活の中で、神の国を真に体験することができるのです!


(2005年6月19日、松戸小金原教会主日礼拝)




2005年6月12日日曜日

おそるな、ただ信ぜよ

ルカによる福音書8・40〜56


関口 康


今日の個所に描き出されておりますイエスさまのお姿は、一言で言うならば、たいへん忙しそうです。


「イエスが帰って来られると、群集は喜んで迎えた。イエスを待っていたからである。」


イエスさまは、休むひまがありません。旅先から帰ってこられた途端、たくさんの人々に囲まれてしまいました。そして、ただちに、次の仕事が飛び込んできました。


「そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」


非常に重い仕事です。会堂長ヤイロの娘は、そのとき十二歳だったというのです。


ルカが記している、会堂長がイエスさまに願った内容は「自分の家に来てくださるように」ということだけです。


しかし、マルコは、こう書いています。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」


もちろん、そういうことだと思います。十二歳で終わってよい人生などあるはずがないと、親ならば、そう考えるに決まっています。


どんな結果になろうとも、です。最後までもがき、助けを求めるでしょう。


イエスさまに来ていただきたい。娘の上に手を置いていただきたい。そうすれば、娘は助かり、生きる。そのことを、ヤイロは信じたのです。


その願いを聞いたイエスさまは、どうされたか。うれしいことに、ただちに腰を上げてくださいました。「旅行で疲れているので明日にしてください」とは言われませんでした。


もちろん、そうでしょう。人の死には「待ったなし」という面があります。


ところが、です。大急ぎでヤイロの家に向かおうとされている、そのイエスさまの行く手を阻むかのような事件が起こりました。


「イエスがそこに行かれる途中、群集が周りに押し寄せてきた。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群集があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた。」


一つの仕事の途中に、全く違う別の仕事が入ってきた、という感じです。


「仕事」と呼んでしまうと、少し冷たく響いてしまうかもしれません。仕事だから仕方ない、という意味が生じてしまうかもしれません。


わたしは、決して、そういうことを申し上げたいわけではありません。しかし、一つの点だけ、ちょっと気になること、気にしておくべきことがあるのではないか、と感じています。


それは、ごく分かりやすく言うなら、イエスさまも人間であられる、ということです。


わたしたちの信仰告白によりますと、イエスさまは、まことの神ご自身でもあられますが、まことの人間、わたしたちと同じこの肉体を持つ人間として、この地上の世界に来てくださった方です。


イエスさまもまた、わたしたちと同じ人間性というものを持っておられます。


わたしたちと同じ、この肉体を持っておられます。


わたしたちと同じ、この空間と時間の枠組みの中で生きる、という地上的な制約の中に立っておられます。


そういうお方なのですから、ある意味でわたしたちと全く同じ、と考えてよい点もあるわけです。


今、この聖書の個所を読みながら、イエスさまとわたしたちとが全く同じだ、と考えてよい点があるとしたら、それは、ここです。全く違う二つの仕事を、全く同時に行うことはできない、ということです。


一人の女性が、イエスさまの服に触りました。


この人も、大きな苦しみを抱えて生きてきた人です。


なんとかしてこの苦しみから逃れたいと願ってきた人です。


イエスさまなら何とかしてくださる、と信じて、その手をイエスさまの服へと、伸ばしたのです。


もしかしたら、です。あまりよくない仮定の話かもしれません。しかし、もしかしたら、イエスさまは、どさくさに紛れてご自分の服に触った人のことを、無視することもおできになったかもしれません。


わたしは忙しい。しかも、今、わたしが向かっている行き先には、死を目前にしている小さな子どもがいる。通りがかりの人の求めにかまっている時間はない。


こういうふうに、これこそまさしく冷たい態度をとって、足ばやに先に進んでいくことも、おできになったかもしれません。


しかし、です。これは、やはり、あまりよくない仮定の話です。


イエスさまには、それがおできになりませんでした。立ち止まられ、振り返られました。そして、ご自分の服に触った人の姿を、一生懸命に探しはじめられたのです。


「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」


「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し」と書かれています。なぜ隠そうとしたのでしょうか。なぜ震えているのでしょうか。なぜひれ伏すのでしょうか。


彼女は、何か悪いことをしたでしょうか。助けを求めただけです。イエスさまに助けていただきたかっただけです。


イエスさまがあまりにお忙しそうにしておられるので、自分のような者などにかかずらわっていただくのは申し訳ない、とでも考えたのでしょうか。


もしそういう理由であるとしたら、イエスさまは「それは違うよ」とおっしゃるのではないでしょうか。


イエスさまが、いつ、助けを求めてきた人を助けなかったでしょうか。「求めよ、さらば与えられん」は、イエスさまご自身の御言葉です。有言実行、ではないのでしょうか。


「今は忙しいので、今度にしてね」と、イエスさまは、言われません。イエスさまは、今、助けを求めている人を、今、助けてくださる、そういうお方なのです。


「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」


もしかしたら、いえ、おそらく間違いなく、会堂長ヤイロは、イエスさまの到着が遅いことに、不満を感じたことでしょう。


十二歳の自分の娘が、今、亡くなった。もう危ない、ということは、イエスさまには、お知らせしたはずだ。


そしてイエスさまは、旅先から帰ってこられたばかりであったにもかかわらず、ただちに腰を上げてくださり、まっすぐにわが家に駆けつけてくださろうとした。


しかし、それにもかかわらず、あろうことか、イエスさまは寄り道された。途中で一件、別の仕事をお済ませになった。


そのせいで、とは言えないかもしれないけれども、イエスさまの到着が遅れ、娘の死の瞬間に間に合わなかった。


こういうときの遺族が、なんともいえない複雑な気持ちになる、ということは、わたしたちにも想像できるところではないかと思います。


もちろん、そうです。たしかに、イエスさまは、ある意味で寄り道されました。ヤイロの家に、わき目もふらず、まっすぐに行かれたわけではありませんでした。


しかし、どうでしょうか。わたしたちは、ここで何を、どう考えるべきでしょうか。


「十二年間も出血の止まらない」、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」この一人の女性が、いわば最後の望み、最後の賭けとしてイエスさまに、いえ、イエスさまの服に伸ばした手を振り払ってでも、イエスさまは、ヤイロの家に、まっすぐに行くべきだったでしょうか。


ここでぜひ考えてみたいこと、考えてみていただきたいことは、人の不幸というものは、単純に比較することはできないものである、ということです。


「わたしの苦しみは、あなたの苦しみよりも大きい」と、苦しむ人ならば、だれでも、そう思います。しかし、じつは、みんな、そう思っているのです。


そして、残念ながら、というべきでしょうか、イエスさまは、まことの神ご自身であられると同時に、まことの人間でもあられます。この地上の時間と空間の枠組みの中で活動された、歴史上の一人物でもあられるのです。


その意味で、です。イエスさまは、一度に同時に、別の場所にいる別の人をいやす、ということは、なさいませんでした。冷たいと思われようとも、どう思われようとも、一人一人に対して、一つ一つのわざを、順を追ってなさるほかはありませんでした。


しかし、です。イエスさまは、ヤイロに言われました。


「イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。『恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』」


こう語られたあとイエスさまは、そのお言葉どおり、現実に、ヤイロの娘を死の向こう側から呼び返してくださいました。


イエスさまは、一度に同時に、別の場所にいる別の人をいやすことは、なさらなかったかもしれません。


しかし、一人の人をいやされたのち、イエスさまは、すでに亡くなった人を、もう一度呼び返される、という大いなるみわざをもって、ヤイロの家族を慰めてくださったのです。


先ほど、冒頭で、人の死には「待ったなし」という面がある、と申しました。


しかし、イエスさまは、違います。


ヤイロの娘の死に「待った」をかけてくださった!


すでに亡くなっているヤイロの娘を、もう一度、呼び戻してくださった!


このような離れわざをもって、イエスさまは、ヤイロとヤイロの家族とを心から愛してくださったのです。


「恐れることはない。ただ信じなさい。」


イエスさまは、今も、わたしたちに、こう語りかけてくださっています。


(2005年6月12日、松戸小金原教会主日礼拝)




2005年6月5日日曜日

驚くべき救いの出来事

ルカによる福音書8・26〜39


関口 康


今日の個所に紹介されている出来事は、マタイによる福音書8・28〜34、そしてマルコによる福音書5・1〜20にも紹介されています。


ただし、マタイは、悪霊にとりつかれていた人は、二人いた、としています。それ以外の点は、だいたい同じです。この点だけ注意しておきたいと思います。


「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。」


「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」とあります。カファルナウムの港から舟に乗ってガリラヤ湖をわたった向こう岸、舟から上がったところの町です。


今はフェリーが動いています。フェリーを降りたら、港の近くにピーターズフィッシュ(ペトロの魚)と呼ばれる魚の料理を食べさせてくれる食堂がありました。


そのように、今では観光地になっています。


バスガイドが、「この場所で、イエスさまが悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出され、その悪霊が豚の群れに取りつき、その豚の群れが湖になだれ落ちていったのです」と、一つのなだらかな丘を指差して、見せてくれました。


そのように、今では、まるでごく普通の昔話のように、一つの語り種になっているのが今日の出来事です。


「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」


この男性を、変わった人だ、とか、かわいそうな人だ、というふうに見ることが妥当かどうか、そのような見方が正しいかどうかは、微妙です。


過去の彼の身に何があったのかというようなことは、何も知らされていません。


ただ、ほかの人々から見て、普通でないと感じられる格好をし、また普通の人なら住みたいとは思わないような場所に住んでいたことだけは、たしかです。


たとえば、今の日本の国の中で、この人と同じような格好をし、また同じような場所に住んでいる人がいたら、おそらく、ただちに警察の人が飛んで行って、事情を聞くなり、保護するなり、何らかの処置をするでしょう。


この人が、そのような何か特殊な事情を持った人である、と見られても仕方のないような格好、また生活をしていた、ということは、否定できません。


しかし、この人は、イエスさまを見ると、大声で何かを言いはじめた、ということが、次に記されています。


「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」


このような展開は、イエスさまならば当たり前だ、と考えることができるでしょうか。


たとえば、わたしたちならば、です。


この人のような、なんとなく近づきがたいところをもった人物に初めて出会い、その姿や様子を目の当たりにしたときに、どのような態度をとるでしょうか。


どうしても、つい、距離をとってしまうのではないでしょうか。


おそらくどうしても、まず最初に少し様子を見るだろうと思います。すぐに近づき、すぐに声をかけ、その人とかかわりを持とうとはしないのではないかと思います。


おそらく、わたしもそうです。牧師のくせに何だ、と思われるかもしれません。しかし、そうしてしまうであろうことを否定できません。


初対面の人、しかも、ある種の特殊性というものを持っていると感じられる人に対して、何のためらいもなく、即座にかかわることは、難しいことです。


ところが、イエスさまは、違いました。


実際、すぐに、この人から、「かまわないでくれ!(余計なお世話だ!)」という反応が返ってきました。


しかし、イエスさまは、そのような反応は、いわば全くお構いなしに、彼のふところの奥深くに入り込んで行かれたのです。「汚れた霊に男から出るように命じられた」のです。


「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、『名は何というか』とお尋ねになると、『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。」


イエスさまは、その人の名前をお尋ねになりました。「名は何というか」。


あなたの名前は何ですか。それは、一人の人との人格的な関係を始める、はじめの一歩です。


わたしたちの存在に、名前が付けられています。


名前を呼ばれるときに、それはわたしである、と気づく。


名前を尋ねられるときに、わたしの存在に関心を持っている人がいる、ということに気づく。


それが、わたしたちの名前の持つ役割、あるいは意義です。


通常、わたしたちの名前は、親たちが決めるものです。生みの親であるか、育ての親であるかはともかく、です。親の子に対する思いなども、名前にこめられています。


イエスさまは、その人の名前をお尋ねになることによって、その人との人格的かかわりを始めようとされました。


ここに、イエスさまの、人々に対する、基本的な姿勢がある、と言えます。


誰に対しても、です。


「かまわないでくれ、余計なお世話はごめんです。かかわらないでほしい」と言い出すことが分かっているような相手であっても、です。


これで分かることは、イエスさまは、この人のことを「恐ろしい人である」というふうには全く考えておられなかったに違いない、ということです。


「人を恐れる」という言葉には、いろんな意味が含まれていると思われます。


最も悪い意味は、誰かある人自身を悪魔であると見ること、あるいは悪魔的であると見ることです。


そのような見方は、本当に間違っているものです。そのように見てしまいますと、その相手とのかかわりを、完全に断ち切り、遠ざけてしまうことになるのです。


「そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」


ここに書かれていることは、わたしたちにとって躓きに満ちたものである、ということは、ほとんど確実です。


悪霊がその人から出て行ったとか、その悪霊が豚に取りついたとか、その豚が死んだらその人が正気に戻ったとか、このようなことを、そのまま受け入れなさい、と言われると、多くの人々が困ってしまうでしょう。


わたしは、ここに書かれていることを読んで、現代のような医学も何もない時代の話という面があると考えることは、ある程度、許されるであろうと考えております。


この記事は、歴史的・時代的な制約を持っている、ということが認められて然るべきです。


しかしながら、次の二つのことは、しっかりと受けとめられなければなりません。


第一は、今日の個所の最後に語られているイエスさまの御言葉の中に出てくる点です。


「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。この人の身に起こった出来事は「神がなさったこと」である、というこの点が、重要です。


悪霊が豚に取りついて云々、という一つ一つの描写の是非はともかく、その一切を「神がなさったこと」として受けとめることができれば、わたしたちとしては十分である、と思われるのです。


そしてまた第二に重要な点は、この人、つまり「悪霊に取りつかれている」と自他共に認めてきたこの一人の人が、イエスさまのみわざによって、正気に戻ったこと、自分自身を取り戻すことができたというこのこと、この結果そのものです。


途中のプロセスがどうであるかはともかく、です。


イエスさまも、これは「神がなさったこと」であるというこのこと、また結果そのものを重視されました。


イエスさまは、町の人々から出て行ってくれと言われたとき、あまり食い下がりませんでした。


イエスさまご自身は、その人から悪霊が出て、それが豚たちに取りついて、その豚たちが死んだら、この人が正気に戻ったのだ。


だから、わたしがしたことは、この人を助けるためだったのだとか、


だから、自分のしたことに間違いはないのだとか、


非難を受ける筋合いはないのだとか、


そういうことは何もお語りになりませんでした。


それどころか、町の人々に対しては、ほとんど何も言わず、再び舟に乗り、ガリラヤ湖をわたって、カファルナウムへとお帰りになりました。


これは神がなさったことである、ということ。また起こった出来事そのもの、この一人の人が、自分自身を取り戻すことができた、というこの出来事そのものに満足されました。それでご自分の役割は終わったとして、その町を立ち去られたのです。


「そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」


この人は、自分の家に帰ることができたでしょうか。家族は、彼の帰りを待っていたでしょうか。そのようなことは、何も分かりません。


しかし、自分自身を取り戻し、自分の家に帰ること、自分の本来の姿に立ち返ること、これができるときに、ひとは「救い」の喜びを、静かに味わうのです。「救い」とは、特殊な出来事ではありません。


そのための道、この人がこの人らしさを取り戻す道を、イエスさまは、開き示してくださったのです。


安心して、わが家に帰ることができる。


そのことこそが、“驚くべき救いの出来事”なのです。


(2005年6月5日、松戸小金原教会主日礼拝)