2005年4月17日日曜日

岩の上に建てられた家

ルカによる福音書6・43〜49


関口 康


今日は、二つの段落を読みました。しかし、これは一つの話題、統一的なテーマが取り扱われている、と見ることができます。


「『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくはとれないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである』」。


最初の段落でイエスさまが語っておられることを一言でまとめて言いますと、わたしたちの「口が語る言葉」と「心の中にある思い」との関係は何かという問題であるということです。


ただし、この場合、「言葉」ということを、あまり狭苦しく考える必要はなく、わたしたち人間が自分自身の存在の外側に向かって示す表現のすべてが含まれている、と考えてもよいでしょう。


身振り手振り、表情や目線、最近では手話などもあります。あるいはまた、手紙や日記、小説や学術論文の文章なども、十分な意味で「言葉」です。


イエスさまがたしかに語っておられるのは「口が語る言葉」に関することです。しかし、わたしたちは、もう少し範囲を広げて、考えてみることができるでしょう。


その、わたしたちが自分の存在の外側に向かって示す表現のすべては、わたしたちの心の内側から出てくるものである、ということが示されているのです。


そしてまた、さらに、もう少し別の観点から言い直しますと、それは、人間の外面性と内面性の関係は何かということです。


ですから、その人間の外面性と内面性との間には、当然深い関連性がありますし、両者を切り離して考えることはできない、ということにもなるわけです。


そのため、これを、ごく単純に言い切ってしまいますと、わたしがしばしば用いる表現なのですが、人間とは、言うならば、薄皮一枚のような存在なのだ、ということです。


見る人が見れば、わたしたちの内側にあるものは、外から透けて見えてしまうのです。どんなに隠そうとしても、隠しているつもりでも、見られたくないものまで、見えてしまうのです。


そのことを、わたしたちは、覚悟しなければなりません。


そして、少なくとも神は、わたしたちの内側にあるものを全くお見通しである、ということを、わたしたちは、覚悟しなければなりません。


すべてをお見通しである神の御前で、わたしたちは、何を隠すことができるのでしょうか。隠すこと自体、何の意味があるのでしょうか。そのように、自問自答する必要があります。


そして、今日の個所でイエスさまが語っておられることの中で、強調点が置かれているのは、どちらかというと、悪いほうの話です。


「悪い実を結ぶ良い木はない」のほうです。あるいは「悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」のほうです。


肯定的側面のほうよりも否定的側面のほうに、イエスさまの強調があります。


なぜそう言えるかといいますと、46節以下に、イエスさまを「主よ、主よ」と呼びながら、イエスさまの言うことを聞かない人に対する明確な批判が語られているからです。 


「『わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。』」


このイエスさまのたとえ話の中に、わたしにとっては非常に興味深く、注目と熟考に価すると感ぜられる表現が出てきます。


それは、イエスさまの御言を聞いて行う人は皆、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」という、この点です。


ここで、とくに興味深く感じるのは、ルカによる福音書には書かれている「地面を深く掘り下げ」という言葉が、マタイによる福音書(7・24以下)は出てこない、という点です。


ルカの場合、イエスさまは、地面を深く掘り下げたところに「岩」が現われ、そして、その「岩」の上に土台を置いて家を建てる人の話を、語っておられます。


これの何が興味深いのかと申しますと、ルカの場合、そのようにして現われる「岩」が、イエス・キリストの御言を指している、と思われるからです。


地面を深く掘り下げると、そこに岩が現われる。その岩こそがイエス・キリストの御言である。その岩の上に家を建てるべきである。そういう話です。


しかし、ここでわたしが感じる第一の問題は、地面を深く掘ると、そこに必ず岩が現われる、というのは、果たして本当か、ということです。


あまり参考にはなりませんが、たとえば、わたしの岡山の実家のある場所は、元々は海であったところを埋め立てた、いわゆる干拓地です。


そのため、(実際にしたわけではありませんが)、5メートルほども掘り下げると、海水が出てくる、と言われています。お台場あたりは、どうでしょうか。そういう場所も、現実にはあるのです。


もちろん、もっと深く掘ればよいのかもしれません。しかし、海水が出てくるあたりよりも、さらに深く掘るとなると、どれくらい掘ればよいのでしょうか。想像できません。


わたしが感じる第二の問題は、このイエスさまのたとえ話の中で、「地面を深く掘り下げる」のは、誰の仕事として描かれているのか、ということです。


もちろん、その仕事をするのは、地面を深く掘り下げたところに出てくる「岩」の上に家を建てる人である、と言えば、そのとおりです。


しかし、ここで明らかに、「岩」とは、イエス・キリストの御言を指しています。


そうだとすると、イエス・キリストの御言は、地面の中に埋まっている、ということです!


わたしたちが立っている、この地面の中に、です!


そうだとすると、もしわたしたちが、自分の家の土台を、その岩の上に置きたいと願うならば、わたしたち自身が立っているこの地面を、深く掘り下げなければならないのです。


そういうものとして、イエスさまは、ご自身の御言の本質を描き出しておられるのです。


なぜわたしが、この点にこだわるか、その理由は何かを申し上げます。


「イエス・キリストの御言」ということで、わたしたちが通常思い描くのは、それは「上から」啓示される、ということです。


神の御子イエス・キリストにおける神の啓示は、地面の中に埋まっているようなものではなく、天から、上から降ってくるようなものである、と言われることが多いのです。


ところが、ここでルカが記していること、イエスさまご自身がそのように語られた、と言われていることは、それとは明らかに異なるのです。


「上から」ではなく、むしろ「下から」です。地面があるのは、わたしたちの足許です。イエス・キリストの御言を土台にして家を築くために、わたしたちの足許を深く掘り下げることが求められています。


もっとはっきり言うならば、わたしたちの足許とは、「地上の現実」、「日常の生活」ではないでしょうか。


そこを深く掘ると、イエスさまの御言が出てくる、ということは、見方を変えて言うなら、イエスさまの御言とは、地上の現実を深く掘り下げたところに根ざした、まさに現実的な言葉である、ということです。


もしそうだとすると、地面を深く掘り下げるのは、誰の仕事でしょうか。


わたしたち自身の務めでもある、と言うべきです。


しかし、いわばそれ以上に、あるいは、それ以前に、まず最初に、イエスさまご自身が、地面を深く掘り下げてくださったのです。


そして、そこに、イエスさま御自身が、御言という岩を、置いてくださったのです。


そのように考えることができるのです。


今日の個所で、イエスさまの一連の説教についての学びが終わります。


わたしは繰り返し、ルカは、この説教を「地上の説教」として描いている、と申し上げてきました。


イエスさまは「山から下りて、平らな所にお立ちになった」(6・17)ということを、ルカは、わざわざ強調しているのです。


その説教のしめくくりの部分に、「地面を深く掘り下げること」が語られているのです。そして、そこに現われる「岩」の上に立つことが求められているのです。


この一連の説教を理解するためのキーワードが、「山から下りること」、「平らな所に立つこと」、そして「地面を深く掘り下げること」というあたりにある、と思われてならないのです。


イエスさまの御言とはどのようなものであるのか、ということについて、イエスさまご自身がどのようにお考えになっておられるのかが、ここから分かります。


それは、地上の現実の上にしっかり立つために学ぶべき御言です。現実から目をそらすことや、地に足のつかない思想を持つことではありません。


また、それは、耳で聞くだけで、あるいは、頭で覚えるだけで済ませることのできない御言です。「聞き置いた」などというのは、イエスさまに対して失礼な言い方です。聞いたなら、それを行うべきです!


「御言を行う」とは、それを生きること、それで生活すること、です。実践すること、具体化すること、現実化することです。目に見えないもの(言葉)を目に見えるもの(現実)へと転換し、展開し、具現化することです。「絵に描いた餅」のままにしておくべきではありません。


また、先週学びました個所には、「修行を積む」ということが語られていました。わたしたちにとっての「修行」は、何だったでしょうか。


「まず自分の目から丸太を取り除いてから、兄弟の目にあるおが屑を取り除く」修行です。


「ひとを断罪するのではなく、ひとの罪を赦す」修行です。


「右の頬を打たれたら、左の頬を向ける」修行です。


それは難しいことです。だからこそ、「修行を積む」ことが求められているのです。


現代は「修行」ということがあまり重んじられない時代である、と言われます。


我慢すること、忍耐することができない人々が、増えています。


キレやすい。すぐ爆発する。自分のことを棚に上げて、ひとを責めることばかりに、心を用いる。


わたしたちは、ぜひ、「御言を生きる修行」を積み重ねて行こうではありませんか。


(2005年4月17日、松戸小金原教会主日礼拝)