2005年4月10日日曜日

自分の目の中の丸太

ルカによる福音書6・37〜42


関口 康


今日も、イエス・キリストの「地上の説教」を学んでいきます。


「『人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。』」


今お読みしましたこの御言は、わたしには、理解するのが難しいと感じられます。


先週学びました御言、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」のほうが、はるかに理解しやすいものでした。


まさに、書いてあるとおり、でした。疑問をさしはさむ余地が無いほどに明確な言葉である、と感じられるものでした。ただし、実践することは、とても難しい。そのような御言でした。


それに比べ、今日の個所にある「人を裁くな」とは、どういう意味でしょうか。


これは、たとえば、わたしたちは、どんなことがあっても、裁判というものを起こしてはならない、というようなことでしょうか。裁判官や裁判所はこの世の中から消え失せるべきである、というようなことでしょうか。


もしそうだとしたら、本当に困ってしまいます。


わたしの理解では、裁判官や裁判所の存在意義の一つは、弱者の救済ということにあります。


現実の裁判官や裁判所が、きちんとした裁きを行ってくれるどうかはともかく、です。


あるいはまた、現実の社会の現実の裁判においては、白いものを黒と言い、黒いものを白と言うことが全く無いとは言えないとしても、です。


ともかく、裁きというものは、必要ではないでしょうか。「人を裁くな」と言われてしまうと、わたしなどは、本当に困ってしまいます。


「『赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。』」


今日の個所から考えたいことは、イエス・キリストが、なぜ、このようなことを語っておられるかという、その理由です。


イエスさまは、地上の正義と公平を保つために必要な裁判のすべてを、否定されているのでしょうか。


おそらくそうではないだろう、と思いたいところです。


強調点は、「赦しなさい」のほうではないでしょうか。それならば、受け入れることができるところが出てきます。


少し屁理屈っぽい言い方になってしまいますが、「赦す」かどうかを決めるのは、「裁き」の場所でもあります。


ある罪とそれを犯した罪人が、赦されもし、刑罰を受けるために断罪されるのは、「裁き」の場所です。「裁き」のないところには「赦し」もないのです。


ですけれども、イエスさまが、たしかに語っておられることは、「人を裁くな」ということです。人を裁判にかけるな、と訳してもよいくらいです。


そうであるならば、ここでイエスさまが語っておられることを、わたしたちが、ただ、自分自身に都合がよいように、引き寄せてしまうことは、できません。


ただし、その続きに、「人を罪人だと決めるな」とも語られています。断罪するな、という意味です。


どうやら、わたしたちは、今日の個所全体の中では、とくに、このあたりのことをよく考える必要がありそうです。「断罪するな」と言われている意味は何か、ということです。


断罪するのではなく、赦しなさい、と言われている意味は何か、ということです。


ここで、たしかに思い当たることがあります。


わたしたちが、裁判所と裁判官に、何ごとか裁判してほしいと願う案件を持ち込もうとするとき、たいていの場合、いや、ほとんどの場合、このわたしに危害を及ぼした相手を断罪してほしいという、あらかじめの動機があると思われます。


わたしは赦さないし、赦したくない、という強い思いがあるからこそ、わたしたちは、裁判所に訴え出るのです。


そして、その裁判に期待することは、わたしの勝利であり、相手の敗北です。


そのことを期待することのすべてが悪いと、言いたいわけではありません。むしろ当然のことでしょう。


しかし、そこでおそらくイエスさまは、わたしたちに、ちょっと待て、とおっしゃるのではないでしょうか。


裁判所と裁判官に訴え出る前に、です。


何ごとかに決着をつけ、白黒をはっきりさせる前に、です。


このわたしに罪を犯した相手を憎む前に、とは言えないでしょう。憎しみの心は、すでに動き始め、燃え始めているからこそ、どうにかしたい、と願っているのですから。


ですから、事情はいつでも、相手を憎み始めた後に、です。


しかし、だからこそ、その憎しみの心が、あまりにも大きく広く増幅してしまう前に、です。


そのとき、せめて少しだけでも、わたしたち自身のこと、自分のことを、振り返ってみることが必要ではないか、とイエスさまは、どうやら、おっしゃっているのです。


腹を立てているとき、わたしたちの頭には、たくさん血が上っています。その真っ赤な顔を、一度でよいから、鏡に映して見てみると、よいかもしれません。


おそらく、そのとき、わたしたちは、こわい顔をしています。自分でもおそろしくなるような顔です。


わたしたちに求められているのは、そのような自分を、せめてほんのちょっとだけでも振り返ってみる、心の余裕ではないでしょうか。


「イエスはまた、たとえを話された。『盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。』」


話題に少し飛躍があるように感じます。無理に関連づける必要はないかもしれません。盲人に盲人の道案内はできない、という言い方そのものは、今では差別的と判断されますので、慎重に扱うほうがよいでしょう。


ただ、全く関係ない話が突然入ってきていると考えるのではなく、何らかの関係があると考えてよいならば、思い当たる点が全く無いわけではありません。


ここでイエスさまが語っておられるのは、師と弟子、教師と生徒の関係は、どのようなものであるのか、ということです。


そして、盲人と盲人の関係も、師と弟子の関係について考える際の参考として語られている、と受けとるのが自然でしょう。


そうであるならば、思い当たる可能性は、それほど多くはありません。


「師」とは、道案内ができる人のことです。道案内ができない人は「師」と呼ばれるにふさわしい者になるまでに至っていない、ということです。


それに対して、「弟子」とは、道案内ができる人に、道案内してもらう人のことです。


初めての海外旅行に、ツアーガイドなしで出かけるのは、かなり無謀な行為です。


教習所に通ったことがない人が、自動車の運転をするのは、無免許運転です。


そのような無茶をしないで、自分よりも事情の分かった人に道案内をしてもらうことができる人が、「弟子」と呼ばれるにふさわしい人です。


だからこそ、イエスさまは、弟子もまた、修行を積めば、師のようになれる、と語っておられるわけです。


イエスさまにとって、「師」と「弟子」の関係は、上と下の関係、というよりも、前と後の関係です。


弟子は、師の後ろを、追いかけていくのみです。ついていくのみです。


そうしているうちに、弟子のまた弟子が現われるでしょう。弟子が師となり、次の弟子が現われるでしょう。弟子が師に追いつくことがある。追い越すこともあるのです。


ここで、前の話題との関連づけを考えてみることが、できそうです。


人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。


人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。


赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。


このことを、わたしたちは、師と弟子の関係というこの観点から考えてみることができるように思われます。


次のように、考えてみることはできないでしょうか。


ここでの問題は、そもそもイエスさまが、この個所で「師」と呼んでおられるのは、何についての師であるのか、つまり、何を教える師なのか、ということです。


ひとの罪を赦す道を教える師、ではないでしょうか。


そして、その場合、その人が罪の赦しを教えることができる師となるために受けるべき修行とは、何についての修行であるのか、つまり、その人は何を学ぶべきなのか、ということも、問題になります。


師となるべき人が受けるべき、おそらく最もふさわしい修行とは、その人自身が犯した罪を赦してもらう喜びと感謝の体験を積み重ね、味わい知り、十分に学ぶこと、ではないでしょうか。


すでに言い古された、やや平板というべき言い方を許していただくなら、ひとから自分の罪を赦してもらったことがある人だけが、ひとの罪を赦すことができるのです。


自分が犯した罪に対して、深い反省と悔い改めをしたことがある人だけが、罪を犯して反省し、悔い改めている人の心の中にあるものを、理解することができるのです。


逆の言い方ができます。ひとの罪を赦したことがなく、ただ断罪することしか知らない人に、罪の赦しの道を教える資格は、ありません。教師になる資格がないのです。


イエスさまこそが、わたしたちの真の教師です。わたしたちの罪を赦してくださり、またわたしたちが人の罪を赦す道を教える師です。この師に従って、わたしたちもまた、ひとの罪を赦さなくてはならないのです。


頭に血が上っているときにこそ、わたしたちは、イエスさまの教えを思い起こすべきです。


わたしたちは、イエス・キリストによって罪赦された者である、ということを自覚することができるとき、このわたしの憎しみの心に、和らぎと安らぎが訪れることを信じてよいのです。


そのことを、です。そのことを学ぶことこそが、イエスさまがわたしたちに課せられた「修行」の内容なのです。


「『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。』」


ここでイエスさまが語っておられることは、受けとり方によっては、非常に辛辣な皮肉のようにも響きます。


兄弟の目の中におが屑があることを指摘し、それを取り除こうとする前に、自分の目の中の丸太に気づくべきであり、何よりも先に、それを取り除くべきである、と言われています。


ごく分かりやすく言うなら、自分のことを棚に上げるな、ということでしょう。


しかし、「ひとのふり見てわがふり直せ」とか「他山の石」というようなことよりも、もう少し先に進んでいます。


兄弟の目におが屑があることを指摘し、それを取り除こうとすることは、わたしたちに許されていることであり、なすべきことでもあるのです。


他人のことなどは放っておけ、余計なお世話である、と言われているわけではないのです。そのような個人主義が語られているわけではありません。


むしろ、イエスさまは、わたしたちが積極的に「師となる道」を教えておられると言えます。兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる者になれ、と言われているのです。


そのためにこそ、です。


わたしたちは「自分の目の中の丸太」に気づく必要があります。ただ、それを取り除くことができるのは、自分自身ではないかもしれません。だれかに取ってもらう以外にないかもしれません。


「気づかないのか」と、イエスさまは、おっしゃいました。イエスさまには、わたしの目の中の丸太が、見えておられるのです。


見えなければ、取ることもできません。見えておられる方に、取っていただく必要があるのです。


いや、必ず取ってくださいます。


わたしたちを罪の中から救い出し、わたしたちの中から罪を取り除いてくださるために、イエス・キリストは、来てくださったのです!


(2005年4月10日、松戸小金原教会主日礼拝)