2005年3月13日日曜日

神の国とは何か

ルカによる福音書6・12〜26


関口 康


今日は少し長く、三つの段落を読みました。


最初の段落に書かれていることは、イエス・キリストが弟子たちの中から十二人を特別に選び、「使徒」と名付けられた、という出来事です。


この中で最も気になるのは、言うまでもなく、十二番目に名前を紹介されている「後に裏切り者になったイスカリオテのユダ」のことです。


関心を抱かざるをえないことは、イエスさまはなぜこのような人をお選びになったのか、ということです。


当然考えてよいことは、少しとげのある言い方をお許しいただきたいのですが、救い主の目は節穴だったのだろうか、ということです。


この人がのちに自分を裏切るかもしれない、ということをイエス・キリストは、この人を選ぶ前に見抜くことがおできにならなかったのか、ということです。


再来週の日曜日に、わたしたちは、イースターを迎えます。その前の週に当たる来週の日曜日から、教会の暦で言うところの受難週を迎えます。


イエス・キリストがエルサレムの町に入られたとき、エルサレムの町の人々は、歓迎の意を表しました。


ところが、そのわずか4日後に、イエスさまは、ユダの裏切りによって逮捕され、その翌日、十字架につけられて死に・・・いえ、殺されました。


こんなふうに考えることは許されないでしょうか。もしこのユダがイエスさまの弟子でなかったとしたら、イエスさまが十字架にかけられることはなかったかもしれない、と。


しかし、このユダを弟子としてお選びになったのは、間違いなくイエスさま御自身でした。


そうだとしたら、イエスさまは、この人の問題性を見抜くことができなかったという点で判断を誤った、と言われても仕方がないのではないか、と。


事実としてたしかに言いうることは、ユダの裏切りがなければ、イエスさまの十字架もなかった、ということです。イエス・キリストは、ご自分がお選びになった弟子によって、死の道を歩まれることになったのです。


この問題には、ただ一つだけ、解決の道が開かれています。わたしたちは、ユダを使徒の一人に選んだことについて、イエスさまを失敗者と呼ぶことはできません。


むしろ、わたしたちに開かれているただ一つの解決の道とは、こうです。


イエスさまが十字架についてくださったのは、わたしたちを罪の中から救うためでした。


それは父なる神ご自身の御心でした。


わたしたちを罪の中から救い出すために、父なる神は、御子イエス・キリストを十字架につけてくださったのです。


そうであるならば、ユダは、父なる神と御子イエス・キリストとによる、わたしたちを罪の中から救い出すというみわざとそのご計画の中で、使徒として選ばれたのです。


恐ろしい考えかもしれません。しかし、神さまというお方は、わたしたち人間には図り知ることのできない方法で、わたしたちを救いへと導いてくださるお方なのです。


今日お読みしました第二番目の段落に書かれていることは、大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスさまの教えを聞くために、また病気をいやしていただくために、集まってきた、という出来事です。


ここでも、イエスさまのみわざとして、二つのことが書かれています。教えることと、いやすことです。“みことば”と“ふれあい”です。


興味深いことは、この個所に書かれていることは、イエスさまが、人々に、触れられた、という話ではない、ということです。主と客が逆転しています。


人々が、イエスさまに、何とかして触れようとした、という話です。「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあるとおりです。


イエスさまに触れるとどうなるか、についても次のように書かれています。


「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」


何が興味深いか、と言いますと、そこに実際に現実にいやしが起こったとされる“ふれあい”は、まさに「ふれ“あい”」であった、ということです。双方性と相互性がある、ということです。


イエスさまのほうから手を伸ばされたのでなくても、人びとのほうから手を伸ばしてイエスさまに触れたときにも、いやしが起こったのです。


その人々は、イエスさまのほうへと自分の手を伸ばし、イエスさまから自分のいやしを、自分で手に入れたのです。イエスさまから、力を奪い取ったのです。強奪したのです。


イエスさまから力を奪いに来た人々は、「大勢の弟子とおびただしい群集」です。イエスさまは、くたくたです。


それでも、人々は遠慮しません。イエスさまの教えを聞きたい、病気をいやしていただきたい、という強い願いを持っていたのです。


ここでわたしたちが考えるべきことは、わたしたち自身は、イエス・キリストの御言を聞きたい、病気をいやしてもらいたい、という強い願いや求めを持っているだろうか、ということです。


イエスさまがくたびれておられようと、全くお構いなし、というのは、まずいかもしれません。イエスさまの力を奪い取る、強奪する、というのも、やり方としてはひどいかもしれません。


しかし、今まさに苦しみの中にいる人が、「もしよろしければ、助けてくださいませんでしょうか」などと遠慮する必要はないのです。


ここから先はどうでもよい話ですが、わたしがこれまで経験した少し大きめの病気は、椎間板ヘルニアともう一つ、尿管結石です。


特に後者は、痛み始めると、待ったなしです。横になっていても、痛くて痛くて、バンバンと床を叩き始めます。ギブアップです。


病院に駆け込む。お医者さんと看護婦さんに、泣きそうな顔で、「この痛いの何とかしてください」とお願いする。そして、モルヒネを注射してもらって一件落着です。


何が言いたいか。助けを求めるとは、まさにそのようなことではないでしょうか、ということです。遠慮などしている場合ではないはずなのです。


イエスさまに対しても、です。父なる神に対しても、教会に対しても、わたしたちは、そうであってよいはずです。


どうか、あまり遠慮なさらないでください。悩みや苦しみを自分一人で抱え込まないでください。我慢しないでください。


そして、今日お読みしました第三番目の段落に書かれていることは、イエスさまが実際に語られた説教の内容です。


マタイによる福音書5章以下のほうが、有名かもしれません。同じ説教が紹介されています。


ただし、マタイの場合、イエス・キリストは、山の上で説教しておられます。そのため、この説教は「山上の説教」とか「山上の垂訓」と呼ばれてきました。


ところが、ルカの場合、イエスさまがおられるのは、山の上ではありません。わざわざ「イエスは彼らと一緒に山から下りて」(6・17)と書かれています。そのため、ルカ福音書のこの個所は、「平地の説教」と呼ばれています。


聖書学者たちの間で一致している意見は、ルカはマタイによる福音書を知っている、ということです。


そうであるならば、まるでルカは、マタイが書いたことを修正しているかのようです。イエスさまが説教をされた場所は、山の上でなくて、山の下である、ということを、わざわざ強調しているかのようです。


マタイとルカのどちらがより史実に近いか、というような問題は、問うてみたところで答えは出ません。そのようなことよりも、もっとわたしたちが考えてみるべきことがあります。


ルカはなぜ、マタイが書いていることをまるであからさまに否定しているかのように、イエスさまを山の上から引き下ろしているのか、その意図は何なのか、ということです。


マタイが描き出している、山の上にお立ちになって語るイエスさまのお姿は、モーセの姿に重ね合わせている、と言われます。モーセが神から律法を授かった場所は、シナイ山の上でした。


マタイによると、イエスさまは、山の上で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)と語られました。


この場合の「律法」とは、モーセの律法のことです。そしてイエスさまは、この説教の中で、モーセの律法を廃止するために、わたしが来たのではない、ということを強調しておられます。


しかし、イエスさまの教えには、新しい律法も含まれています。かつてモーセが山の上で神から受けとった古い契約を、今やイエス・キリストが、またしても山の上で新しい契約として語りなおしておられるのです。


しかし、ルカの場合は、この説明が成り立ちません。成り立たないように、わざわざ、ルカ自身が仕向けているかのようです。


ですから、ルカには明らかに、マタイとは異なる意図があるのです。それでは、この「平地の説教」の意図は、何でしょうか。


結論的なことをいろいろと言う前に、説教の内容に触れておきたいと思います。


ここには、四つの幸福と四つの不幸が語られています。そして、この四つの幸福と四つの不幸の内容は、対になっています。


「貧しい人々は幸いである」に対しては、「富んでいるあなたがたは不幸である」と語られています。


「今飢えている人々は、幸いである」に対しては、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」と語られています。


「今泣いている人々は、幸いである」に対しては、「今笑っている人々は、不幸である」と語られています。


「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」に対しては、「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」と語られています。


そして、気づかされることは、「今飢えている人々」、「今泣いている人々」という仕方で、「今」ということが明らかに強調されている、ということです。


先ほどわたしが申し上げた、今まさに苦しんでいる人々は、遠慮などしないし、遠慮する必要は全く無いですよ、という意味での「今」です。


切羽詰った思いをもって、イエスさまのもとに駆けつけている人々の「今」です。


そのような人々のために、イエスさまは、一肌も、いえ何肌も脱いでくださり、くたくたになっても付き合ってくださり、助けてくださるのです。


そういう方が、今、あなたがたの前にいるのだ。このわたしが、今、あなたがたと共にいるのだ。


「神の国はあなたがたのものである」。


このわたしの救いの求めに応えてくださる救い主が、このわたしの目の前に、手を伸ばせば届く距離に、そして実際に触れ合うことができ、強い力を受けとることができる場所に、立っておられる。


そのような場所、そのような現実を、イエスさまは「神の国」とお呼びになったのです。


そのような場所、そのような現実を、わたしたちは、持っているでしょうか。


わたしたちの教会は、わたしたちの家庭は、そのような場所になっているでしょうか。


そのように、わたしたちは、自分自身に問いかけてみるべきです。


わたしは、マタイの「山上の説教」とルカの「平地の説教」が矛盾しているとか、一方が正しくて、他方は間違っている、などと言いたいわけではありません。


ただ、強調点には明らかな違いがあります。ルカの強調は、距離の近さにある、と思われます。


イエスさまは、「祈るために」山に行かれた、と書かれていました(6・12)。一緒にいたのは、信頼できる少数の弟子たちだけでした。


心静かに祈ることができる場所にいつまでも留まっていることができるなら、それはそれで、とても幸いなことでしょう。


しかし、イエスさまは、わざわざ、山の上から下りてこられました。


「大勢の弟子たちとおびただしい民衆」の中でもみくちゃにされ、面倒なことに巻き込まれることが初めから分かっているような場所へと、あえて入っていかれたのです。


イエスさまと弟子たちの関係は、上から下に、というよりも、横並びです。


「神の国」は、空の上にあるのではなく、空中にあるのでもありません。


まさに今、苦しみの中にあり、助けを求めている人々の前に、現実として、あるのです。


(2005年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)