2023年4月30日日曜日

自由と配慮(2023年4月30日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌第2編 56番 主はその群れを


「自由と配慮」

コリントの信徒への手紙一8章1~13節

関口 康

「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです。」

今日の朗読箇所には「偶像に供えられた肉」をキリスト者が食べてもよいかという具体的な問題が取り上げられています。

結論を先に言えば、パウロ個人はそれを食べないという選択肢を選びます。それどころかパウロは「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)とまで言います。

これは誤解を招きやすい表現です。パウロが菜食主義者だったという意味にはなりません。パウロは条件文を用いています。「わたしの兄弟」は教会の中での信仰に基づく兄弟姉妹です。その人たちをつまずかせないためにわたしは肉を食べないと言っています。「もしつまずく人がいないなら問題なく肉を食べる」という意味だと考えることが可能です。

ここで「つまずく」(ギリシア語「プロスコンマ」)の意味は、人の足を引っかけて転倒させるために意図的に仕掛けられた石でまさに転倒することです。具体的には、信仰をもっている人がその信仰を失うことを指しています。この私パウロがだれかにとっての石になる可能性があるかもしれないので、そうならないようにする、という決意表明です。

パウロはここで、キリスト者である人々が守るべき普遍的な生活規範や原理原則は何かを言おうとしているのではありません。そうではなく、今ここに、わたしたちの目の前にいるこの人あの人が信仰を失わないようにするために、つまずかせないようにために、わたしたちはどうすればよいかをよく考えて行動することが大事であるということを言おうとしています。

しかし、わたしたちの目の前にいる人は、時と場合とによって変わります。わたしたちは必ずいつも同じ人と一緒にいるわけではありません。そのことはパウロも分かっています。パウロが言っていることを広げて言い換えるとしたら、キリスト者である人は、あるひとりの人の前で見せる顔や態度と、別の人の前で見せる顔や態度とが、違う場合があるし、あってよいということです。

しかしまた、そういう人々を怖がる人や軽蔑する人もいます。そのため、別の意味では注意しなくてはなりません。そういう人がなぜ怖がられるのかといえば、まるで怪人二十面相のようだからです。結論はともかく、何が起ころうと何を問われようと、いつでも一定の態度を保ち、首尾一貫している人のほうが単純で扱いやすい相手だと思われるかもしれません。「だって、あの人はこういう人だから」と自分で納得したり他人に説明したりすることが簡単なのは一貫している人のほうです。

しかし、相手次第や状況次第でどんどん態度を変えていく人は、不可解で扱いにくいと感じられて敬遠されがちです。そういう人を軽蔑する人が出て来るのもだいたい同じ理由です。考え方や態度が首尾一貫していない人は優柔不断だとか支離滅裂だとか思われやすく、軽蔑を受けやすいと言えるでしょう。しかし、今日の箇所でパウロが勧めているのは、まさにそのように、相手に合わせてこちらの態度のほうを次々に変えていくあり方です。

「偶像に供えられた肉」を食べてもよいかという問題が取り上げられているのは、コリント教会のほうからパウロにこの件に関して問い合わせがあったので、その問いにパウロが答えようとしているからです。

それを食べることはユダヤ教においては禁じられていました。キリスト教会もそのことを禁じていました。しかし、コリントという町は、ギリシアのアテネから80キロ西にあり、エルサレムから遠く、コリント教会の内部もユダヤ人より異邦人が占める割合が多く、エルサレムあたりと比べればユダヤ教の影響が少なく、「偶像に供えられた肉」を食べることには問題がないだろうと考え、実行しはじめた人々がいたのです。

なぜその人々が「偶像に供えられた肉」を食べたのかといえば、単純に、その肉を食べたかったからという理由が当然考えられます。まだ十分食べることができるのにお供え物にしてからそれを捨てるのはもったいない、と考えた人がいたでしょう。

私の実家には仏壇も神棚もありませんでしたが、私の両親の各実家に仏壇がありました。果物や茶碗のごはんが供えられているのを見たことがあります。あれをどうするのだろうと、私は小さい頃から思っていました。食べたいとは思いませんでした。

しかし、コリント教会の中にいたと考えられる偶像に供えられた肉を食べることにした側の人々は、ただ肉を食べたい、もったいないという理由付けではなく、もっともらしい理屈を考え始めました。「偶像の神」というのは、そもそも存在しないのだと彼らは考えました。

その点は、パウロも完全に同意しています。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(4節)とあるとおりです。私もこの言葉が好きです。神はおひとりだけです。「偶像の神がいる」のではなく「偶像の神はいない」のです。

「偶像の神」は「存在しません」。仏壇や神棚は家具です。そこに何を置こうと、何を供えようと、食べ物自体が変化することはありません。時間が経てば腐ります。何の意味もありません。

ついでに言えば、私は幽霊を見たことがありません。信じたこともありません。心霊現象も信じたことがありません。そのことと神さま、イエス・キリスト、聖霊なる神を信じることは、関係ありません。わたしたちは、教会の建物や、お墓に特別な思いを抱いています。だからといって場所的にここに何かが宿っていると私個人は考えたことも信じたこともありません。

しかし、それはそれです。ここで冒頭の問題に戻ります。偶像の神は存在せず、神は唯一で、他の何も神でないという確信をもって、あらゆる異教的な要素を否定してシンプルに生きることができる人々は「信仰が強い人」であるとパウロは考えます。パウロ自身はそちらにの側に属しています。その一方でパウロは、世の中の人々や、教会の中にいる人々の中にも、そこまでシンプルに考えて行動することができない、様々な事情の中にある人々がいるということも知っています。

信仰の弱い人々のことを単純に「弱い人」と呼ぶとカチンとくる人がいると思いますので、言い方は注意しなくてはなりません。「強い」「弱い」を言うと、勝ち負けの問題になってしまいます。しかし、「弱い人」と言われていることの意味は、様々な異教的な慣習から抜け切れていないということです。

しかし、教会は強者だけの集まりになってはいけないというのが、パウロの結論です。「その兄弟のためにも、キリストが死んでくださったのです」と書いているとおりです。イエス・キリストは信仰の弱い人々のためにも十字架にかかって死んでくださったのです。

今日の宣教のタイトルを「自由と配慮」としました。キリスト者は、唯一の神を信じることによってあらゆる偶像崇拝や異教的慣習から全く解放された自由人です。しかし、わたしたちの自由な生き方が人を傷つけたりつまずかせたりすることがあるのを知っていますし、知っていなくてはなりません。そこで十分な配慮が必要です。

(2023年4月30日 聖日礼拝)


2023年4月16日日曜日

出会いとしての復活(2023年4月16日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 325番 キリスト・イエスは


「出会いとしての復活」

ルカによる福音書24章13~35節

関口 康

「二人が、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』と語り合った」

(2023年4月16日 聖日礼拝)

2023年4月9日日曜日

イースターの喜び(2023年4月9日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 299番 うつりゆく世にも

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「イースターの喜び」

ルカによる福音書24章1~12節

関口 康

「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』」

(2023年4月9日)


2023年4月2日日曜日

十字架のキリスト(2023年4月2日 棕櫚の主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 300番 十字架のもとに


「十字架のキリスト」

ルカによる福音書23章32~49節

関口 康

「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」

今日の聖書箇所についての説教は、昨年11月20日の主日礼拝でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。

私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、昨年11月20日の礼拝では、深く立ち入らないで残した箇所があります。

それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。

そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。

対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。

「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。

「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。

あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救ってみろよ(セーブ・ユアセルフ)、どうせできやしない。

次に起こったことも、わたしたちはよく知っています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」(40~41節)。

イエスさまを罵った側の犯罪人をもう一人の犯罪人がたしなめました。たしなめた理由は、我々は自分たちがおかした犯罪の当然の刑罰を受けているのに対し、この人は無罪なのに刑罰を受けている。我々がこの人を罵倒できる理由は無いはずだ、ということです。

ただし、「たしなめた」は弱い感じです。英語の聖書を4冊(KJV、RSV、NIV、REB)確認しました。すべてrebuke(レビューク)でした。「叱責する、強く非難する、戒める」または「譴責(けんせき)」です。会社などで「譴責処分」と言えば、処罰の度合いとしては軽いほうだと言われますが、辞職勧告や解雇でなくても、始末書を書かされて上司から厳重注意を受けますので、それなりに厳しいです。

しかし、「たしなめる」と言われると、柔らかさや優しさを込めて言い聞かせるというニュアンスを感じるのではないでしょうか。私がいま申し上げたいのは、そうではなさそうだということです。英語聖書のrebukeの「強く非難した」というニュアンスのほうに近いと考えるほうがよさそうです。

そしてその人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と応えてくださいました(42~43節)。

以上が今日の箇所に記されている内容の説明です。比較的細かく説明させていただいたのは、前回11月20日の礼拝でも申し上げたことですが、昭島教会の週報の表紙に、今から55年前の1967年1月29日号(第792号)から今日まで「3本の十字架」のイラストが描かれていることと関係あります。

イラストだけでなく、同じ1967年に教会の敷地に高さ約10メートルの3本の十字架の鉄塔が立てられました。昨年70周年を迎えた昭島教会は、55年間「3本の十字架」を掲げて歩んできました。

なぜ「3本の十字架」なのかと言うと、その理由が今日の聖書箇所にあることは間違いありません。しかし、ただ単に、二千年前のゴルゴタの丘に3人の死刑囚をはりつけた十字架が3本立てられたことが歴史的な事実なので、わたしたちも同じようにしたということではありません。

それよりも大切なことは、まさに今日わたしたちが開いているルカによる福音書に詳しく記され、他の福音書には記されていない、イエスさまと2人の犯罪人との対話そのものです。

この対話をどのように理解するかについて、今日的に大きな影響を与えたひとつの説教があることを私は知っています。それは、スイス生まれのプロテスタント神学者カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が、1957年4月19日(受難日)にスイスのバーゼル刑務所の礼拝で行った説教です。

説教題は「イエスと共なる犯罪人」です。その説教の日本語版が『カール・バルト著作集』第17巻(新教出版社、1970年)177頁以下に、その後『カール・バルト説教選集』第11巻(日本基督教団出版局、1992年)に、いずれも日本キリスト教会の蓮見和男牧師の訳で収録されました。

昭島教会に「3本の十字架」が立てられた1967年は、バルトのその説教の日本語版が出版される1970年より前ですので、「昭島教会のほうが早い」と言ってよいと思います。

バルトが何を言ったかは、ぜひご自身でお読みいただきたいです。前後の祈りを含めて14頁もある長い説教です。しかし、最も大切なことが比較的冒頭で語られています。以下はバルトの言葉です。

「『イエスと共なる犯罪人』、それが何を意味するのか、御存知であろうか。『それは、最初のキリスト教会である―最初の、確かな、解消することも打ち破ることもできないキリストの教会である』と申し上げたとしても、あまり驚かないでいただきたい。キリスト教会は、イエスが近くにおり、イエスが共にいる人びとの集いのあるところ、どこにも存在する。―つまり、イエスの約束・確言・確約が直接にじかにふれられるような―イエスの全存在は自分たちのためであり、イエスの全行動は自分たちのために行われたということを聞くことができる、この約束によって生かされているような場所である。それこそがキリストの教会であって、この二人の犯罪人は、最初の確かなキリスト教会であったのである」(『著作集』179頁、『説教選集』122頁)。

カール・バルトは1935年から1968年に亡くなるまでスイスのバーゼル大学神学部の教授でしたが、1954年から並行してバーゼル刑務所で受刑者対象の説教を続けました。バルトの刑務所説教の比較的初期に今ご紹介した説教が行われました。「2人の犯罪人は最初の教会である」と明確に語られました。

「ひとり」ではなく「ふたり」です。自分の罪を認め、悔い改めた人だけが「教会」ではありません。イエスさまに「自分自身と我々を救ってみろ」と罵った人も「教会」です。

バルトが言ったから正しいという意味で申し上げるのではありません。教会は正論だけを語る人の集まりではありません。愚痴を言っていいし、イエスさまに文句を言っても構いません。すべてイエスさまが受け入れてくださいます。それが、イエスさまの十字架の愛のもとで生きる「教会」の姿です。

(2023年4月2日 棕櫚の主日礼拝)

モーツァルト ピアノソナタk331 第1楽章主題・第1変奏

昭島教会の富栄徳さんがモーツァルトの「ピアノソナタk311 第1楽章主題・第1変奏」の演奏動画をご提供くださいました。ありがとうございます! 

 「イースターも近づくこの季節、桜も満開となりました。モーツァルトの響きも心地良いです。(ここの演奏では疑問ですが・・・)新たな道に進もうとしている方に力が与えられますことを祈ります」(富栄さん)