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日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌第2編 56番 主はその群れを
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日本キリスト改革派岡山教会で行われた母の葬式(2023年4月11日) |
私の母、関口維子が先週4月8日(土)92歳で召されました。今週11日(火)日本キリスト改革派岡山教会にて柏木貴志牧師司式により近親者のみで家族葬を行いました。生前の母にご厚情を賜りました皆様に御礼申し上げます。母について記した拙文を公開します。
2023年4月15日
関口 康(二男)
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「関口維子」
関口維子(せきぐちしげこ)(旧姓・長尾(ながお))は、1930年12月18日、父・勘太郎(かんたろう)、母・登美ゑ(とみえ)の三女として生まれた。5人姉弟の真ん中で、姉が2人、弟が2人いる。
私が覚えている母の情報のほとんどは祖母から得たものだ。私は「おばあちゃん子」だった。母自身は自分のことをあまり語りたがらなかった。
維子の父・勘太郎は山陽新聞の記者だった。そのことを祖母が、岡山大空襲で黒焦げになった岡山市街地を祖父が写したモノクロの報道写真を見せながら教えてくれた。
維子の実家である長尾家のルーツは、現在の岡山市の北端に位置する建部(たけべ)にある。建部出身の政治家・江田三郎氏(江田五月氏の父)が血のつながらない親戚であること、祖母(旧姓・佐藤)の父・佐藤一二(いちじ)が女性解放運動の弁士をしていたことなど、祖母が教えてくれた。反権力の政治思想を色濃く受け継ぐ家系であると言えそうだ。「維子(しげこ)」という名は「明治維新」にちなんでつけられた。
しかし、思想と現実は必ずしも一致しない。「女は勉強しなくてもよい」という父・勘太郎の教育方針により、三女の維子を含む3人の女児は、尋常小学校卒業後ただちに就職した。中学以上に進学したのは母より下の弟2人だけだった。
上の姉・洋子(ひろこ)と維子は郵便局で、下の姉・幸子(さちこ)は電電公社(現・NTT)で、それぞれ定年まで働いた。上の姉は茶道の師範に、下の姉は琴・三味線の師範にもなった。上の弟・希男(しずお)は、山陽新聞社で定年まで働いた。下の弟は岡山朝日高等学校と京都市立美術大学(現・芸術大学)を卒業して染色家になり、1995年から2006年まで沖縄県立芸術大学の教授だった長尾紀壽(のりひさ)である。
母の実家は日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)の信仰を受け継いでいた。「不受不施派」の名称の意味は、日蓮の教義である『法華経』を信仰しない人からは布施を受けず(=不受)、その人に対して布施をしない(=不施)、ということである。
同派が日本の歴史においてクローズアップされたのは、豊臣秀吉が権力を誇示するため母方の祖父母の命日に全国から約千人の僧侶を集めて「千僧供養」を始めたときである。「不受不施」の教えに反するという理由で同派の僧侶が豊臣の命令を拒否したため弾圧された。
不受不施派への弾圧は徳川家にも引き継がれ、江戸時代を通じてキリシタンと並ぶ弾圧対象とされた。岡山藩主の池田家も不受不施派を弾圧した。強大な権力に屈せず堪え抜いた不受不施派の信仰を受け継ぐ家庭で、母は幼少期を過ごした。宗教的にも反権力の立場にあった。
母にとっての最大の転機は1941年から1945年までの太平洋戦争だった。母の11歳から15歳までが「戦時中」に当たる。当時の家が岡山市中心地の番町(ばんちょう)にあり、1945年6月29日の「岡山大空襲」のとき頭上に飛来したアメリカ軍の爆撃機から無差別に投下される大量の焼夷弾と多くの死傷者を見ながら逃げまどった。
戦後、自分はどう生きて行くかに悩んだそうだ。詳細は私には分からない。戦前から母の実家の近くにカトリックの修道院や女学校(現在のノートルダム清心女子大学)があった。母は戦後の一時期、カトリックの教会に通い、シスターになろうと考えた。1947年5月に日本キリスト教団岡山聖心教会が、ここも母の実家から徒歩5分の地に開設された。友人に誘われて岡山聖心教会に通いはじめ、永倉義雄牧師司式により、1953年9月6日に洗礼を受けた。今年からちょうど70年前である。当時22歳。
岡山聖心教会は外国ミッションや教団や教区から援助を受けない「自給開拓伝道所」として歩みを始めた。初代牧師の永倉義雄氏は救世軍士官学校を卒業した元救世軍士官だったが日本聖教会に移籍し、1940年の宗教団体法に基づいて1941年に実施された30余派の旧教派の合同で日本キリスト教団第9部所属となり、南京教会の牧師になる。しかし、軍部による日本キリスト教団第6部と第9部(ホーリネス系)弾圧により、永倉氏は南京で逮捕・抑留される。戦後、岡山聖心教会を開設した。この教会にも独特の意味で反権力の背景がある。
母は岡山聖心教会の最初期メンバーとなり、約45年、教会学校教師として奉仕した。私の父と母が知り合ったのも岡山聖心教会の青年会であり、結婚式が1960年4月3日に教会で行われた。1961年生まれの兄と1965年生まれの私は岡山聖心教会附属ひかり幼稚園に通った。園舎は教会から約10キロ離れた新興住宅地の岡山市(現・南区)築港新町に建てられた。園舎まで徒歩3分の築港緑町に私の実家がある。
母のキリスト教入信に祖父母も姉弟も反対したが母は従わなかった。母は実家からしばらく勘当された。亀裂を埋めるために違いないが、毎週日曜と水曜、教会の礼拝と祈祷会のたびに、我々家族が母の実家に立ち寄り、しばらくの時間を共に過ごした。
祖母と伯母たちと叔父たちは兄と私に愛情を注いでくれた。教会のクリスマス礼拝には祖母や伯母が出席してくれた。「クリスマス礼拝の説教が毎年同じでつまらない」と祖母が私につぶやいた。私が牧師になったことを祖母も伯母たちも喜んでくれた。
その母が父と共に岡山聖心教会を退会し、1994年12月25日に日本キリスト改革派岡山教会に加入したのは、二男の私が日本キリスト改革派教会へ教師移籍する意向を固めたことによる。父は千葉大学園芸学部の学生だった頃日本キリスト教団松戸教会(千葉県松戸市)で受洗し、就職のため岡山に単身で移住し、岡山聖心教会に移籍した者だったため、岡山聖心教会から日本キリスト改革派教会への移籍についての考え方は父と母とでニュアンスの違いがあった。
母は終生、岡山聖心教会に思いを残していた。私は18歳で東京神学大学に入学して以来、年に数日程度の帰省以外に実家には全く帰っていないので詳細は不明ながら、岡山聖心教会つながりの旧友が岡山市内に大勢いて、絶えず交流していたと思われる。
1961年10月生まれの私の兄も、1965年11月生まれの私も戦後日本の高度成長期に生まれた。父は岡山県立の農業高校の教員で、母は郵便局員だったので、我々兄弟は「鍵っ子」だった。母についての私の記憶は、幼稚園児だった頃から始まる。お弁当を包んだハンカチを開くと、私を応援してくれる母の直筆のカードがはさまれていた。朝から夕方まで郵便局で働き、疲れ果てて帰宅し、不機嫌な顔で手早く食事の準備をしてくれた。毎週日曜日と水曜日は、兄と私を教会に「引きずって」行った。私の高校卒業後は、40年近くも遠距離から電話で話すだけの関係だったが、物心両面で全面的に支援してくれた。2023年4月8日死去。92歳だった。
私が高校3年の夏休み(1983年8月)に「牧師になろうと思う」と母に初めて打ち明けたとき、「分かっていた」と返された。言った覚えは一度もないが。そのとき、母はローマ人への手紙8章28節(口語訳)を開き、「この御言葉を大事にしなさい」と教えてくれた。そのことを私は一日も忘れたことはない。
(2023年4月15日記す)
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日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
「『イエスと共なる犯罪人』、それが何を意味するのか、御存知であろうか。『それは、最初のキリスト教会である―最初の、確かな、解消することも打ち破ることもできないキリストの教会である』と申し上げたとしても、あまり驚かないでいただきたい。キリスト教会は、イエスが近くにおり、イエスが共にいる人びとの集いのあるところ、どこにも存在する。―つまり、イエスの約束・確言・確約が直接にじかにふれられるような―イエスの全存在は自分たちのためであり、イエスの全行動は自分たちのために行われたということを聞くことができる、この約束によって生かされているような場所である。それこそがキリストの教会であって、この二人の犯罪人は、最初の確かなキリスト教会であったのである」(『著作集』179頁、『説教選集』122頁)。