日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 300番 十字架のもとに
「十字架のキリスト」
ルカによる福音書23章32~49節
関口 康
「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」
今日の聖書箇所についての説教は、昨年11月20日の主日礼拝でしたばかりです。4か月しか経っていません。「また同じ箇所か」と思われる方がおられるかもしれません。
私はそのことを忘れて、今日この箇所を選んだわけではありません。受難節と復活節が毎年巡って来ることは分かっていますので、そのとき改めて取り上げようと考え、昨年11月20日の礼拝では、深く立ち入らないで残した箇所があります。
それはゴルゴタの丘にイエスさまと2人の犯罪人がはりつけにされた「3本の十字架」が立てられたことについてです。そのことをすべての福音書が記しています。「犯罪人たち」(κακούργοι)と記しているのは、ルカ(23章32節、33節、39節)だけです。マタイ(27章38節)とマルコ(15章27節)は「強盗たち」(λησταί, ληστάς)。ヨハネ(19章18節)は「二人」(δύο)と記しているだけです。
そして、ルカによる福音書には3人とも十字架にはりつけにされた状態のままの、イエスさまと2人の犯罪人の対話が記されていますが、他の福音書にはそのようなことは何も記されていません。その対話の内容を知ることができるのは、今日開いている箇所だけです。
対話の内容はわたしたちが繰り返し学んできたとおりです。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」(39節)。
「自分を救え」は英語でセーブ・ユアセルフです。今日の箇所に3回繰り返されます。最初はユダヤ最高法院の議員たち(35節)。2度目はローマ軍の兵士たち(37節)。3度目がこの犯罪人です(39節)。
「世界を救え」はセーブ・ザ・ワールド、「子どもたちを救え」をセーブ・ザ・チルドレン。それと同じ言い方ですが、イエスさまに向けられた言葉は罵倒と嘲笑です。
あなたは自称メシアだろう。それなのに惨めだね。あなたは世界を救えない。ユダヤ人も救えない。異邦人も救えない。せめて自分ぐらい救ってみろよ(セーブ・ユアセルフ)、どうせできやしない。
次に起こったことも、わたしたちはよく知っています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」(40~41節)。
イエスさまを罵った側の犯罪人をもう一人の犯罪人がたしなめました。たしなめた理由は、我々は自分たちがおかした犯罪の当然の刑罰を受けているのに対し、この人は無罪なのに刑罰を受けている。我々がこの人を罵倒できる理由は無いはずだ、ということです。
ただし、「たしなめた」は弱い感じです。英語の聖書を4冊(KJV、RSV、NIV、REB)確認しました。すべてrebuke(レビューク)でした。「叱責する、強く非難する、戒める」または「譴責(けんせき)」です。会社などで「譴責処分」と言えば、処罰の度合いとしては軽いほうだと言われますが、辞職勧告や解雇でなくても、始末書を書かされて上司から厳重注意を受けますので、それなりに厳しいです。
しかし、「たしなめる」と言われると、柔らかさや優しさを込めて言い聞かせるというニュアンスを感じるのではないでしょうか。私がいま申し上げたいのは、そうではなさそうだということです。英語聖書のrebukeの「強く非難した」というニュアンスのほうに近いと考えるほうがよさそうです。
そしてその人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と応えてくださいました(42~43節)。
以上が今日の箇所に記されている内容の説明です。比較的細かく説明させていただいたのは、前回11月20日の礼拝でも申し上げたことですが、昭島教会の週報の表紙に、今から55年前の1967年1月29日号(第792号)から今日まで「3本の十字架」のイラストが描かれていることと関係あります。
イラストだけでなく、同じ1967年に教会の敷地に高さ約10メートルの3本の十字架の鉄塔が立てられました。昨年70周年を迎えた昭島教会は、55年間「3本の十字架」を掲げて歩んできました。
なぜ「3本の十字架」なのかと言うと、その理由が今日の聖書箇所にあることは間違いありません。しかし、ただ単に、二千年前のゴルゴタの丘に3人の死刑囚をはりつけた十字架が3本立てられたことが歴史的な事実なので、わたしたちも同じようにしたということではありません。
それよりも大切なことは、まさに今日わたしたちが開いているルカによる福音書に詳しく記され、他の福音書には記されていない、イエスさまと2人の犯罪人との対話そのものです。
この対話をどのように理解するかについて、今日的に大きな影響を与えたひとつの説教があることを私は知っています。それは、スイス生まれのプロテスタント神学者カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が、1957年4月19日(受難日)にスイスのバーゼル刑務所の礼拝で行った説教です。
説教題は「イエスと共なる犯罪人」です。その説教の日本語版が『カール・バルト著作集』第17巻(新教出版社、1970年)177頁以下に、その後『カール・バルト説教選集』第11巻(日本基督教団出版局、1992年)に、いずれも日本キリスト教会の蓮見和男牧師の訳で収録されました。
昭島教会に「3本の十字架」が立てられた1967年は、バルトのその説教の日本語版が出版される1970年より前ですので、「昭島教会のほうが早い」と言ってよいと思います。
バルトが何を言ったかは、ぜひご自身でお読みいただきたいです。前後の祈りを含めて14頁もある長い説教です。しかし、最も大切なことが比較的冒頭で語られています。以下はバルトの言葉です。
「『イエスと共なる犯罪人』、それが何を意味するのか、御存知であろうか。『それは、最初のキリスト教会である―最初の、確かな、解消することも打ち破ることもできないキリストの教会である』と申し上げたとしても、あまり驚かないでいただきたい。キリスト教会は、イエスが近くにおり、イエスが共にいる人びとの集いのあるところ、どこにも存在する。―つまり、イエスの約束・確言・確約が直接にじかにふれられるような―イエスの全存在は自分たちのためであり、イエスの全行動は自分たちのために行われたということを聞くことができる、この約束によって生かされているような場所である。それこそがキリストの教会であって、この二人の犯罪人は、最初の確かなキリスト教会であったのである」(『著作集』179頁、『説教選集』122頁)。
カール・バルトは1935年から1968年に亡くなるまでスイスのバーゼル大学神学部の教授でしたが、1954年から並行してバーゼル刑務所で受刑者対象の説教を続けました。バルトの刑務所説教の比較的初期に今ご紹介した説教が行われました。「2人の犯罪人は最初の教会である」と明確に語られました。
「ひとり」ではなく「ふたり」です。自分の罪を認め、悔い改めた人だけが「教会」ではありません。イエスさまに「自分自身と我々を救ってみろ」と罵った人も「教会」です。
バルトが言ったから正しいという意味で申し上げるのではありません。教会は正論だけを語る人の集まりではありません。愚痴を言っていいし、イエスさまに文句を言っても構いません。すべてイエスさまが受け入れてくださいます。それが、イエスさまの十字架の愛のもとで生きる「教会」の姿です。
(2023年4月2日 棕櫚の主日礼拝)