2023年2月19日日曜日

五千人の食事(2023年2月19日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 6番 つくりぬしをさんびします

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「五千人の食事」

ルカによる福音書9章10~17節

関口 康

「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』」

今日の箇所の小見出しに「五千人に食べ物を与える」と記されています。この記事は4つの福音書すべてにあります。どの福音書にも共通しているのは、この奇跡の後、イエスさまがご自分の死と復活についてお語りになることです。十字架において真の神の愛をお示しになることこそが、イエスさまが救い主としてお生まれになったことの意味であり、目的です。そのことをイエスさまが弟子たちにお語りになる前に「五千人の食事の奇跡」が行われたことは記憶されるべきです。

そして、いま申し上げたこととの関連でもうひとつ言えるのは、イエスさまは十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に最後の晩餐を囲まれました。そのときイエスさまはパンをお取りになり、感謝の祈りを唱えてパンを裂かれ、弟子たちにお与えになって、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」とおっしゃいました。またぶどう酒の杯をおとりになって、「この杯はあなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃいました。

この最後の晩餐でイエスさまが示されたのも、まさに十字架における真の神の愛そのものでした。つまり、「最後の晩餐」と「五千人の食事の奇跡」とに明らかに共通する要素がある、ということです。

その「最後の晩餐」を記念する聖礼典が「聖餐式」です。今日の週報をご覧ください。先週の役員会で4月12日のイースター礼拝をもって聖餐式を再開することにしました。3年前の2020年3月1日に最後の聖餐式をして以来の再開です。ぜひ重んじてご出席いただきたくお願いいたします。

しかし、今日これからお話しすることは、「聖餐式」の意義ではありませんし、「最後の晩餐」の意義でもありません。「明らかに共通する要素がある」と申し上げましたが、しかし、明らかな違いもある「五千人の食事の奇跡」についてお話ししたいと願っています。違いについては最後に申し上げます。

「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)とあります。

12人の弟子は「村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやし」ていました(6節)。しかしどの働きであれ休みなく続けることは不可能です。それで彼らはイエスさまのもとに戻りました。すべてをイエスさまに報告する義務があったわけではありません。もっと自由な関係です。楽しい報告だったかもしれませんし、愚痴を聞いていただいたかもしれません。

なぜそう言えるのか。イエスさまは疲れた弟子たちを連れて「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」は、プライベートな慰安旅行を意味するからです。わたしたちでいえば、携帯電話の電源を切る場面です。他の福音書はベトサイダを「村」と呼びますが、ルカは「町」(ポリス)と呼びます。ベツサイダは「村」でした。しかし、ヘロデ大王の子どものヘロデ・フィリポ(在位前4~後34年)が父の死後ガリラヤ湖東岸地方の領主になりました。そしてベトサイダにローマ皇帝アウグストゥスの娘ユリアスにちなんで「ユリアス」と名付けて再建した湖畔のリゾート地でした。イエスさまの弟子たちに対する優しさと思いやりに満ちた、粋な計らいであると言えます。

しかし、どこから情報が漏れたのか、群衆がイエスさまの居場所を突き止めて追いかけてきました。するとイエスさまは、その人々を歓迎され、神の国について語り、治療の必要な人々をいやされた、というのです(11節)。ここで用いられている「語る」や「いやされる」という言葉が繰り返しの行為であることを意味する未完了形であるという解説を読みました。休みたいのに休めない、遊びたいのに遊べない。残業と休日出勤。それでもなお、どこまでも優しく温かい姿勢を貫かれたということです。

「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです』」(17節)とあります。日没がユダヤ教の一日の終わりです。夕食の通常の時間でした。周りの村や里に「宿」があったことが分かります。しかし、そのときイエスさまと弟子たちと群衆は「人里離れた所」にいたというのは砂漠の無人地帯だったことを意味します。その場所はガリラヤ湖の東部の、ユダヤ人が住んでいなかった異邦人の住むデカポリスではないかという解説があります。

「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』彼らは言った。『わたしたちはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり』」(13節)。弟子たちは明らかに驚き、困惑します。彼らはイエスさまに皮肉を返しているのではありません。ひたすら困っているだけです。

それでイエスさまが行われたのが「五千人の食事の奇跡」です。イエスさまが弟子たちに命じられたのは、まず「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)です。この「五千人」という数は大人の男性だけなのでもう少し多かったと考えられますが、「女性と子どもははるかに少なかった」という解説を読みました。五十人ぐらいずつ分ければ百組。五千人、五十人という数と「五つのパン」が関係あるのかという問いには「何らかの関係があるとは考えにくい」という解説があります。

そしてイエスさまは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、裂いて弟子たちにお与えになりました。イエスさまがなさったのは、ユダヤ社会で主人または家長が行う通常の食事前の行いでした(レビ記 19章24節参照)。ユダヤ教が重んじる『タルムード』には「感謝しないで何でも楽しむ者は神を盗んだようなものだ」と書かれているそうです。

しかし、パンをお裂きになったり、祈られたりしたことに、イエスさまの「最後の晩餐」や初代教会から今日まで受け継がれている「聖餐式」との共通点を見出さないわけには行きません。しかし明らかな違いがあることも見逃すべきではありません。対比してみます(参考:マーシャル)。

五千人の食事の奇跡

最後の晩餐

過越祭「ではない」

過越祭「である」

12弟子でない人が食べ、12弟子は手助け

12弟子だけが食べた

パンと魚の「量が増えた」

パンとぶどう酒の「量は増えていない」

バンと「魚」(「ぶどう酒」ではない)

パンと「ぶどう酒」

イエスさまによる解釈の言葉が「無い」

イエスさまによる解釈の言葉が「ある」

「身体的な休息」との関係が強調される

「霊的な食物」であることが強調される

イエスさまが「天を見上げた」

天を見上げる場面は「ない」

この奇跡の意味の説明は、聖書のどこにも見当たりません。わたしたち自身が考えることができるだけです。はっきり言えるのは、イエスさまの十字架において示された真の神の愛は「最後の晩餐」と「聖餐式」に表される「霊的な祝福」だけでなく、「五千人の食事」と、教会が重んじる「愛餐会」に表される「身体的な休息」においても鮮やかに示されるものである、ということです。

イエスさまはわたしたちの心も体も強めてくださいます。そのように信じようではありませんか。

(2023年2月19日 聖日礼拝)

2023年2月12日日曜日

起きて歩きなさい(2023年2月12日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 390番 主は教会の基となり

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「起きて歩きなさい」

ルカによる福音書5章12~26節

関口 康

「そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた」

今日の朗読箇所に描かれている出来事は大きく分けてふたつあります。欲張らないでどちらかを選ぶことも考えましたが、両方読むことにしました。共通するテーマがあります。どちらも、イエスさまが「病気の人をいやされた」出来事です。

ルカによる福音書の著者ルカは「医者」だった可能性があります。ひとつの根拠は、コロサイの信徒への手紙4章14節に見つかる「医者ルカ」という言葉です。もうひとつの根拠は、まさに今日の箇所などに、医者である人しか用いない医学の専門用語が出て来ることです。

そのひとつが「全身重い皮膚病にかかった人」(12節)です。「重い皮膚病」と訳されています。ギリシア語で「レプラ」と言いますが、初期の新共同訳聖書では「らい病」と訳されていました。

「らい病」と訳された聖書をお持ちの方は「重い皮膚病」と訂正していただきたく願います。大きな問題になった点です。ギリシア語の「レプラ」が「らい病」または「ハンセン氏病」と同じかどうかは不明であるというのが、今日通用している見解です。不明なのにそうだと決めつけてしまいますと、聖書の言葉がその病気で苦しむ方々に対する差別や偏見の原因になりかねません。

しかし、今申し上げた点を踏まえたうえで、この福音書の著者がこの重い皮膚病は「全身」に広がるものであることを描いているのは医学的症状への知識がある人だと考えることができます。また、今日の箇所に出て来るもうひとつの医学用語が「中風を患っている人」(18節)です。体の一部に麻痺している箇所がある人を指します。

最初に登場する重い皮膚病にかかった人のことから申します。どの皮膚病かは特定できません。しかし、今日の箇所に記されているのは、その皮膚病にかかった人のその病気が治ったときは、祭司のところに行って自分の体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をする必要がありました(14節)。「祭司」は宗教家です。

なぜそのようなことをしなければならなかったのかといえば、あくまで古代社会の話ですが、この皮膚病にかかった人は、過去になんらかの罪を本人か親か先祖が犯したと考えられました。そしてその罪の結果としての神の罰がその病気であると考えられました。「応報思想」と言います。善いことをした人には神から善い報いをいただける。しかし、悪いことをした人には神から悪い報いを受ける、「天罰が下る」と信じられていました。つまり、病気の問題は宗教の問題でした。

17節以下の「中風の人」についても同じことが言えます。この話はルカだけでなくマタイにもマルコにも記されています。比較すると違いがあります。しかし、共通しているのは、この病気の人をなんとかしてイエスさまのところに連れて行こうとした人たちがいた、という点です。

「医者ルカ」と記されているとおり、紀元後1世紀のユダヤ社会に病気治療の専門家としての「医者」はいました。しかし、イエスさまは医者ではありません。福音を宣べ伝える宣教者です。宗教的な存在です。その方のところに人々が病気の人を連れて行こうとしたのも、病気の問題は宗教の問題だったからです。その人がかかった病気は「天罰」だと考えられていたからです。

イエスさまは、「重い皮膚病」にかかった人の皮膚病も、また「中風」にかかった人も、お癒しになったことが今日の箇所に記されています。これも宗教の観点からとらえる必要があります。今日の医学の観点から考えても正しい答えは出ません。次元が違うとしか言いようがありません。

しかし、だからといって私は、今日の箇所の2人の人の病気をイエスさまがいやされたことを疑っているわけでも否定しているわけでもありません。病気とは何を意味するか、病気が治るとは何を意味するかと、根本問題を考えています。

病気を甘く考える意図はありません。ひどい苦しみに疲れ果てて身動きがとれなくなっている状態からほんの少しでも解放されて動けるようになれば、それはそれで「治った」と言えるのではないでしょうか。「病気」の問題についてはいろいろ微妙で、複雑で深刻なお立場におられる方が多いと思いますので、これ以上のことは申しません。医学を否定する意図は全くありません。

もうひとつ大事な点があります。今日においてはもはや病気の問題は、いかなる意味でも宗教の問題ではないのでしょうか。決してそうではないと私は考えます。今日の箇所の2人にイエスさまがなさったことが、まさに当てはまります。

重い皮膚病にかかった人がイエスさまのもとに来て、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます」(12節)と願ったとき、イエスさまはその人の体に直接手でさわられ、「よろしい。清くなれ」(13節)とおっしゃいました。皮膚病の患部に直接さわられました。それは「あなたは宗教的な意味で忌み嫌われなくてはならない存在では断じてない」という強い意思表示です。

また、その人が遠慮がちに言った「御心ならば」という言葉に対するイエスさまの返事としての「よろしい」は、「あなたがだれからも遠ざけられたり偏見で見られたりしないようになることこそが神の御心である」というその人の存在への全面的な肯定です。

さらにイエスさまは、中風の人に対して「あなたの罪は赦された」(20節)とおっしゃったことに疑問を抱いた律法学者やファリサイ派の人々に「『あなたの罪は赦された』というのと、起きて歩けと言うのと、どちらが易しいか」(23節)と尋ねられました。

どちらが易しいかの模範解答は、昨年もお話ししました。簡単なのは「あなたの罪は赦されたと言うこと」のほうです。なぜか理由はお分かりでしょうか。どれも古いですが今回3冊の註解書(Plummer (ICC):1896, Marshall (NIGC):1978, Nielsen (PNT):1979)を丁寧に読みました。どれも同じ理由でした。罪が赦されたかどうかは「確認できない」ので言うだけなら簡単だが、起きて歩けるようになったかどうかは「具体的な証拠が必要」なので難しい、ということです。

だからこそ、イエスさまはその人の罪が本当に赦されたことの具体的な証拠を見せるために、その人に「起きて歩きなさい」と言われ、その人は本当に起きて歩くことができました。「あなたの罪は赦された」とイエスさまがおっしゃったのは、その人の犯した罪が原因で病気にかかっていたことを意味しません。そうではなく、あなたの病気とあなたの罪は関係ないという切り離しです。応報思想に対する全面的な抵抗です。「あなたの病気は天罰ではない」という宣言です。

それを立証するのは、わたしたちには不可能です。イエスさまは奇跡を起こすことがおできになりました。立証できないわたしたちは「言葉」が必要です。言うだけなら簡単ならば、言えばいいではありませんか。「あなたの罪は赦された」と。「あなたは神に愛されている」と。「あなたの人生は肯定されている」と。そのように遠慮なくどんどん言えばいいではありませんか。

教会の役割が今日まだ残っています。それは、神がわたしたちを全面的に肯定してくださっていることを語り続けることです。イエスさまがしてくださったことを受け継ぐことです。

(2023年2月12日 聖日礼拝)

2023年2月5日日曜日

忍耐して実を結ぶ(2023年2月5日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 412番 昔主イエスの

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「忍耐して実を結ぶ」

ルカによる福音書8章4~15節

関口 康

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」

今日の聖書の箇所に記されているのは「種を蒔く人のたとえ」です。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)のすべてに記されています。たとえ話はクイズの一種です。質問と正解がペアになっています。テストであるとも言えますが、成績はつきません。点数の問題ではなく、よく考えることが大切です。イエスさまは、どのたとえ話においても、趣旨や意図を考えてほしいと願っておられます。

ただしその場合、すでに入門しているかまだ入門していないか、弟子であるかそうでないかは区別されます。その区別自体が、イエスさまがたとえを用いて語られた理由です。このように言うと困惑する方がおられるかもしれません。しかし、イエスさまは意地悪な方ではありません。ご自分の弟子でない人たちをからかったり非難したりする方ではありません。

もしそうでないとしたら、区別の意図は何でしょうか。まだ弟子でない人々には「神の国の秘密」(10節)がたとえで伝えられます。秘密の答えが分かる弟子とそうでない人に明確な違いがあります。その違いは「知識」の差です。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」(10節)と言われます。

それなら話は簡単です。勉強すればいいだけです。知らないことがあるから我々は学び続けるわけでしょう。イエスさまは、知識が無い人をからかったり非難したりしておられるのではなく、真理を知るために光の中に入ってきてほしい、同信の仲間に加わってほしいと強く呼びかけておられます。

ある人が種蒔きに出て行きました。道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまいました。石地に落ちた種は、芽は出ましたが、水気が無いので枯れてしまいました。他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまいました。「茨」はパレスチナの畑を悩ませたとげのある雑草の総称です。その茨が若芽のときに、良い種と一緒に落ちたと理解する必要があります。一緒に成長したとき、茨が「押しかぶさった」とは、良い種が「窒息」したことを意味しています。しかし、他の種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結びました。

イエスさまはこのように言われて、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われました。「大声で言われた」のギリシア語の原意は「大声で泣く」です。イエスさまが泣かれたという意味かどうかは分かりません。泣くほどの勢いで感情をこめて強く激しく訴えられたと考えることができます。

このたとえ話は、畑にとうもろこしを蒔くパレスチナの農夫のイメージが用いられています。このたとえの趣旨は、多くの実を結ばなければならないという成果主義の教えなのかどうかが必ず問題になると思います。そうではないと私は申し上げたいですが、そのように言うための根拠が必要です。

11節以下に記されているのがイエスさま御自身によるこのたとえの説明です。道端のもの(12節)、石地のもの(13節)、茨の中に落ちたもの(14節)、良い土地に落ちたもの(15節)と四者の存在が描かれていることは明白ですし、四者が比較されていると考えることは可能です。

それぞれの特徴も描かれています。道端のものとは、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たち(12節)。石地のものとは、試練に遭うと身を引いてしまう人たち(13節)。茨の中に落ちたのは、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまで至らない人たち(14節)。そして、良い土地に落ちたのは、忍耐して実を結ぶ人たち(15節)。

四者は確かに比較されています。しかし、強調されているのは、神の言葉を聞く人の側の責任ではなく、神の言葉それ自体の行方です。聞き方が悪いとか、根がないことが悪いとか、悪魔による妨害や、試練や、人生の思い煩いや富や快楽の支配下にいるのが悪いと人間の態度や状況を責めているのではありません。

そうではなく、このたとえの趣旨は、神の言葉の宣教には、失敗する場合も成功する場合もあるということです。「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」と石川啄木が詠んだあの詩と同じ言葉をつぶやきながら宣教する教会と説教者を慰めることにあります。

だいぶ古い英語の註解書に危険な解釈を見つけました。それによると、このたとえはキリスト者の中に4つの「階級」があることを教えています。たとえば、イスカリオテのユダは第3の「階級」に属しています。しかし、我々自身や他の人々がどの「階級」に属するかは人間の目で見分けることはできないので、自分のことかもしれないと、常に自分の胸に手を当てて考えなければなりません。

これは危険な解釈です。なぜ危険かといえば、わたしたちは、そのように言われても、自分の胸に手を当てて考えたりはしないからです。他の人に当てはめて責める道具にしはじめるからです。あの人は道端の人、この人は石地の人、その人は茨の人であると、他人の言動の分析に明け暮れ、差別と排除の論理に用いはじめるからです。

いや、そうではない。私は自分の胸に手を当ててばかりであると、反発を感じる方がおられるかもしれません。まさに自分のことだと、自分を取り巻き、がんじがらめにしている環境を恨む。夫婦、親子、兄弟、親戚、地域社会、国、経済、政治、時代、運命。そういうものに苛まれて、私は信仰を失った。私のせいではない。私が悪いなどとだれにも言わせない。私は十分すぎる意味で石地の上や茨の中にいるし、鳥だろうと怪獣だろうと絶え間なく容赦なく襲いかかって来るので、信仰など持つ余裕も理由もありません、と言いたい方がたくさんおられるかもしれません(いえ「おられます」)。

しかし、今申し上げた線の上に立っておられる方々にとっては、この種蒔きのたとえは、解釈さえ間違えなければ慰めになるはずです。特に思うのは、第3の「思い煩いや富や快楽」という茨の問題です。この茨と無関係でいられる人がどこにいるでしょうか。お金の心配も欲望も関係ないほど裕福な「階級」の人だけが真のキリスト者でしょうか。非常に愚昧な結論です。

しかも、「道端のもの」や「石地のもの」と「茨のもの」との違いは時間の差です。踏みつけられたり食べられたりするのは一瞬です。しかし、茨が覆いかぶさるまでには時間がかかります。この点は大事です。そして、その時間の問題と、第4の「良い土地に落ちたもの」が「忍耐して実を結ぶ」と言われていることが関係しています。「忍耐」は時間的な概念だからです。一瞬の忍耐には意味がありません。ずっと長く、とにかく耐えることが「忍耐」です。

「忍耐して実を結ぶ」という言葉は、同じたとえ話が出て来る他の福音書(マタイ、マルコ)には記されていません。記しているのはルカだけです。どういう意味だろうと調べてみましたが、「忍耐」という言葉の意味が説明されているだけで、なぜこの文脈で「忍耐」なのかは分かりませんでした。ですから、これから申し上げるのは、あくまで私の解釈です。

「種は神の言葉である」(11節)と言われているのですから、「忍耐して実を結ぶ」のはわたしたちの功績ではなく、「神の言葉」それ自体の力です。わたしたちの努力や辛抱強さではなく、神御自身が圧倒的な恵みの力で、わたしたちの中に多くの実を結んでくださいます。そのことを信じようではないかという呼びかけです。わたしたちが絶望しているときも、神はわたしたちをあきらめません。イエス・キリストはわたしたちをあきらめません。そのことを教えるたとえ話です。

(2023年2月5日 聖日礼拝)