2021年7月25日日曜日

憐れみの福音(2021年7月25日 主日礼拝)

日本キリスト教団 昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 462番 はてしも知れぬ 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます


「憐れみの福音」

コリントの信徒への手紙二5章16節~21節

関口 康

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」

わたしたちは歴史の中で、歴史と共に生きる存在です。信仰を持って生きる者たちも、歴史と無関係であることは決してありません。しかしそれは、全体の流れに調子を合わせて生きることを全く意味しません。とりわけイエス・キリストと共に生きているわたしたち、今日の聖書箇所の言葉を用いて言えば「キリストと結ばれる人」は、全体の流れにむしろ抵抗して、神の真理を語りかつ実践する者として歴史の中に立たされる場面が多いです。

大げさな言い方をこれ以上続けようとは思いません。私個人は、明確な歴史哲学や政治思想のようなものは持っていません。私が政治について話し始めると空想のような話に終始してしまいます。それは実は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けているからです。

現在のドイツのメルケル首相の所属政党がキリスト教民主同盟です。メルケル氏自身は牧師の子女です。キリスト教政党は、ドイツだけでなくヨーロッパ各国や南アフリカやオーストラリアなどにもあります。日本でも戦後一度だけ(1977年)「日本キリスト党」という政党が作られたことがありますが、一議席も獲得できず解党しました。そのことと関係ありませんが、その政党の党首だった武藤富男氏が東京都東村山市に作った学校で、私はいま聖書の講師をしています。

もしそういう政党があれば、私はそういうところを応援したいと考えます。しかし存在しないので無党派層に属しています。教会が政党のようにふるまうことにも反対です。それだと政治に対して無責任であるということになるかもしれませんが、他にどうすることもできません。

このような話をするのはオリンピックのことが念頭にあるからです。多くの反対を押し切って開催されました。しかし、始まれば、反対していた人たちも含めてテレビに釘付けになっているのではないでしょうか。そのことを責める気持ちが、私にあるわけではありません。

私は理由があって3年前からテレビを全く観ていませんので、オリンピックも観ていません。オリンピックの話をされても私は分かりません。これで何が言いたいか。わたしたちが歴史の中で、歴史と共に生きることと、テレビに釘付けになることとは、別の話であるということです。テレビを観てコメントすることが、教会の社会的責任の果たし方であるわけでもありません。

かろうじてインターネットは用いています。世界中の情報がどんどん入ってきます。開会式で天皇の開会宣言のとき総理大臣の起立が遅かったとか、バッハ会長の挨拶が長かったとか。その知識に何の意味があるのかが理解できないままですが、いろんな人がいろんなことを書きます。

細かいことに関心を持つことが間違っていると言いたいのではありません。「だからどうした」と明確な線を引く権利を、私はむしろ擁護したいです。「それよりも大事なことがあるだろう」と言いたいのでもありません。「知らなくていいこともある」と言いたいだけです。

先ほど一度触れました。今日の箇所にパウロが記している「キリストと結ばれる人」は、原文を補っている訳です。「と結ばれる」という言葉は原文にはありません。5月23日のペンテコステ礼拝で秋場治憲兄が宣教を担当してくださったとき、ローマの信徒への手紙8章1節の「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」という一文を取り上げて、「に結ばれている」について、原文のεν(エン)、英語のin(イン)をNew English Bibleがbe united withと訳したことと結びつけて説明してくださいました。それと同じです。

英語のin(イン)には多くの意味があることは英語の辞書を見れば分かります。しかし、最も単純な意味は「における」や「の中に」でしょう。ギリシア語も同じです。「キリストの中の人」と訳しても意味は通じませんが、原文を直訳するとそうなります。

しかし、コリントの信徒への手紙一(いち)12章27節に「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。今日の箇所は「二(に)」の手紙ですが、「キリストの中の人」と「キリストの体の部分である人」を関連付けることは、不可能ではないでしょう。

「あなたがたはキリストの体である」の「あなたがた」は「教会」であり、「キリストの体」は「教会」です。「キリストの中の人」と「教会の中の人」を区別したい人が私の知り合いに少なくないのですが、私はその区別ができません。2千年前のパウロが必ずそういう意味で言っているという意味で申し上げるのではありません。しかし、「キリストに結ばれてはいるけれども教会には結ばれていない」状態が何を意味するのかが私には理解できません。

端的に言えば「キリスト者であること」と「教会員であること」は同一であるというおそらく最も古典的で保守的な理解を、私は持ち続けています。そして、だからこそ私は「キリスト教」と「教会」に対して強い期待を持ち続けています。

今日の箇所の「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(17節)を「キリストの体なる教会と結ばれる人は」と言い換えても同じであると私は心から信じています。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じる」場は「教会」をおいて他にないと信じています。だからこそ私は何があっても教会から離れることができません。

宣教が牧師の意見を述べる場でないことは重々承知しています。しかし、理解の根本がずれているとコミュニケーションがうまく行かないので、私の理解を説明させていただいています。

そして、もちろん「それは事実なのか」という厳しい問いかけが「教会」に対してあり続けていることも知っています。「教会こそが古いものをいつまでも温存し続ける諸悪の根源ではないか」と言われます。その批判に私は負けてしまいます。目を閉じ、耳をふさぎ、大声で叫びたいです。

しかし、今日の箇所の「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(18節)という言葉に、私は深い慰めを覚えます。

わたしたちもまた、かつては神と敵対していました。そのわたしたちを神がキリストを通してご自分と和解させてくださったので、今日のわたしたちがあります。教会にはもはや何の問題もないと言いたいのではありません。わたしたちも日々赦しが必要な罪深い存在です。神の憐れみと赦しなしに(「キリストの体なる教会の部分」である)わたしたちは一日も立っていません。

神はそのわたしたち教会(!)にこそ「和解のために奉仕する任務」を授けてくださいました。「あなたたちのような罪深い存在をこのわたしが愛し、赦しているのだから、あなたたちも互いにいがみ合うのをやめて、新しい仲間を常に求め続けて、互いに愛し合い、赦し合いなさい」と、神がキリストを通して教会(!)にお命じになっているのです。

(2021年7月25日 主日礼拝)

2021年7月18日日曜日

異邦人の救い(2021年7月18日 主日礼拝)

昭島教会はJR青梅(おうめ)線「中神(なかがみ)」駅の北口から徒歩5分です

  
讃美歌21 460番 やさしき道しるべの 奏楽・長井志保乃さん


「異邦人の救い」

ローマの信徒への手紙9章19~28節

関口 康

「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」

「いいかげんにしてほしい」と、誰に言うでもなく、呟きたくなる「コロナ、コロナ、コロナ」の毎日です。この文脈であまり言いたくないことではありますが、今の状況が続けば続くほど、聖書の教えがわたしたちをますます苦しめる原因になるかもしれません。

なぜそうなるのかといえば、聖書の教えの基本が、わたしたちの神さまがただおひとりであり、天地万物が創造者なる神の作品であるという点にあるからです。もし聖書の教えが、良いことや楽しいことは神さまが与えてくださるものだけれど、悪いことや悲しいことは神さま以外の別の存在がもたらすものであるというものであれば、逃げ道ができますが、そうではありません。

もし創造者がおひとりであり、万物がそのおひとりの神がお造りになったものであるならば、世界はどうしてこんなにひどいのか、人生はどうしてこんなに苦しいのかを、途中の議論を全部省いて問いと答えだけをつないで言えば「神さまに原因がある」と言わざるをえなくなるのです。

責任問題を言おうとしているのではありません。誰の責任かという問題の答えは、罪を犯した人間にある、ということになるでしょうし、そういう方向に誘導されていくところがあります。結局「人間が悪い」と責められて、その人間の罪をイエス・キリストの十字架によって神さまが赦してくださり、神の憐れみのうちに生かされて生きる謙遜な人生を送ることがキリスト者たる者たちの目指すべき道である、ということで、だいたい話が終わります。

しかし、それはある意味で問題のすり替えです。原因の問題と、責任の問題は、別問題です。それは今日の聖書の箇所に、使徒パウロがいみじくも書いているとおりです。

「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)とパウロが書いているのは責任の問題です。神が人を責めるとは、世界の悪と混乱の責任は人間にある、ということを意味します。しかし、「そんなふうにわたしたちに責任を問われても困ります」と、神さまに対して反論を企てる人の言葉が持ち出されていると考えることができます。

なぜ責任を問われても困るのか。そもそもこの世界を造ったのは神さまでしょう、なぜ神さまは悪と混乱の原因になるようなものをこの世界に造ったのですか、そんなものがそもそも世界に存在しなければ、悪も混乱もなかったでしょうに、と反論者が言おうとしているわけです。

しかし、それに対するパウロの答え方が乱暴と言えば乱暴です。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」(20節)と一刀両断です。「黙れ、文句を言うな」と言っているのと同じです。学校の先生が生徒から質問を受けたときにこういう答え方をしたら大問題になるでしょう。

「造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないものに用いる器に造る権限があるのではないか」(21節)とパウロが続けています。言い方を換えれば、先ほどから申し上げているとおり、責任の問題と原因の問題は区別しなければならない、ということです。

ごく分かりやすくたとえれば、ご本人の前で申し上げることをお詫びしなくてはなりませんが、石川先生と私の体型の違いの問題などを考えてくださると、すぐにご理解いただけるのではないでしょうか。石川先生はお若いころから今日に至るまでスマート。私はご覧のとおりです。

私が神さまに「どうしてこんな体型に私をお造りになったのでしょうか。私の責任ではないではありませんか」と言うと、神さまから「黙れ、文句を言うな」と叱られる流れです。「何をどのように造ろうとも焼き物師の勝手だろうが」という論法なので、納得が行かないも何もないわけです。原因は神さまにあると、はっきり言えるわけです。

しかし、造られた側が自分の造作やら何やらが気に入らなくて、他の人と比較してひがんだり、腹を立てたり、文句を言ったりするのは、創造者なる神に逆らうことを意味するので、それは罪であり、人間の責任だと言われることになります。つまり、原因は神さまにあるが、責任は人間にある、という一見矛盾しているようにも思えることが両立することになる、というわけです。ただし、この理屈に納得できない人は、「神に口答えするとは、あなたは何者か」と、まるで恫喝されているかのような言葉を聞かなくてならないことにもなります。

しかし、わたしたちを本当に悩ませ、苦しませる問題は、責任の問題のほうではなく、原因の問題ではないでしょうか。なぜ神はこのような世界を造られたのか、なぜ私はこのような存在に造られたのか。この問いは、神さまに責任をとってほしいと言いたいわけではないのです。ただ、どうしてこうなのかの理由を知りたいだけです。

これと同じ問いであるとあえて断言したいのは、イエスさまが十字架の上で絶叫されたと聖書に記されている「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という問いです。これはイエスさまが失敗者として失意と絶望のうちにあられたことを意味するわけではないと、石川先生がお話しくださったことを覚えています。私もそうだと思います。そうではなくイエスさまも原因、あるいは理由を問われたのだと思います。

そのことが悪いわけではないと私は申し上げたいのです。「どうしてこうなのか」という問いは、いくら問うても答えがない場合が多いです。だからといって「問うのをやめなさい。それは信仰的に未熟な人の問いである」などと言って制したり禁じたりする権限がだれにあるでしょうか。

コロナだけではありません。地震、津波、土石流、気候変動。すべてを人間の罪の責任にするのは簡単です。人災の面がないわけではない場合がありますし、政治批判や訴訟問題につなげていくこともできなくはありません。しかし「だれのせいなのか」という責任の問題と、「どうしてこうなのか」という原因の問題は別です。なぜ神はこのような世界とこのような人間をお造りになったのかを真剣に問う人を責めたりからかったりすべきではありません。たとえ答えが無くても、問い続けることを妨げてはなりません。そうでないかぎり、人間の心はおさまりません。

その問いを問うたうえで、世界にはさまざまな悩みや苦しみがあることを認めたうえで、その問題の解決と和解の道を求めていくことが大切です。ユダヤ人も異邦人も共に「神の憐れみの器」(24節)とされたことを互いに認め合い、イエス・キリストの体なる教会へと共に連なる同士、協力して生きていこうではないかと、パウロは今日の箇所で呼びかけているのだと理解できます。

(2021年7月18日 主日礼拝)

2021年7月11日日曜日

生活の刷新(2021年7月11日 主日礼拝)

昭島教会へようこそ
落ち着いた礼拝堂です

  
536番 み恵みを受けた今は 奏楽・長井志保乃さん

「生活の刷新」

使徒言行録19章11~20節

関口 康

「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

今日の朗読箇所と宣教題も、これまでと同じように日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。

日本キリスト教団がそうすることを諸教会に求めているのではありません。あくまで便利に利用させてもらっているだけです。しかし、自分で考えて決めると、自分の狭い興味や関心の中で話してしまうので、それを防ぐメリットがあります。

今日の箇所もそうです。私にとっては自分で選ぶことがまず無いような箇所と宣教題です。

「生活の刷新」という宣教題も『日毎の糧』から戴いた表現です。面白がって使わせてもらいました。現在は、いろんな言葉の意味をインターネットで調べることができます。

「刷新」という言葉を調べてみたところ、複数の辞書を見比べて共通している要素は、「刷」にペンキやほこりを払う「刷毛(はけ)」という道具があるように「こすって清める、はく」という意味があり、つまり従来のあり方の中の悪い部分を取り除く仕方で、よりよき新しいあり方へと変えることを指すと分かりました。

類語として「更新」や「革新」などがあるけれども、それぞれ意味が違うというようなこともずいぶん詳しく説明してくれているウェブサイトも見つけました。

聖書日課の作者がそこまで考えて付けた題かどうかは分かりません。しかし、たしかに今日の聖書箇所に記されているのは、いま申し上げた意味での「刷新」であるということを、このたび学ばせていただきました。

今日の箇所の出来事は、使徒パウロが生涯で3回行った伝道旅行の、3回目のときに起こったことです。19章1節に「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て」と記されていることから、彼がエフェソで遭遇した出来事であることが分かります。

エフェソでのパウロの姿に、少し前の17章に描かれていたアテネにいたときとは違う宣教姿勢を読み取ることができるかもしれません。アテネのパウロは「憤慨」(17章16節)していました。「あなたが説いている新しい教え」を聞かせてもらいたいと興味本位で集まってきたアテネ市民に対して腹立ちまぎれの当てこすり説教をするパウロの姿が描かれています。

しかし、エフェソのパウロについては、反対者との直接対決を避ける姿勢があったかのように描かれています。「ある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(9節)とあるとおりです。

元々パウロが攻撃性と柔軟性を兼ね備えた人だったのか、それともアテネで示したあからさまな攻撃性が宣教の妨げになったことに自分で気づくなり反省したりして、エフェソを訪れた頃には柔軟な姿勢を学んでいた、というようなことが言えるかどうかは分かりません。しかし、教会の宣教のあり方を考える際の大切な問題が含まれていると私には思えてなりません。

「押してダメなら引いてみろ」と言うではありませんか。全く異なる文脈で用いられる言葉かもしれませんが、全く無関係でもなさそうです。

しかし、今申し上げていることが「生活の刷新」を意味すると申し上げたいのではありません。パウロが自分の宣教姿勢を反省して、強引で攻撃的なものから柔軟なものへと変化させたことがそうであると。そのことが大事でないとは申しませんが、もっと大事なことは、パウロの宣教によって、エフェソの人々の側に「生活の刷新」がもたらされたことです。

今日の箇所で特に興味深いのは、ユダヤ人の祭司長スケワの7人の息子たちが、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という言葉で悪霊払いをする祈祷師のようなことをしていたと書かれていることです。すると、悪霊が彼らに言い返してきた、というのです。

「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と悪霊が言い出して、このスケワの7人の息子を含む祈祷師たちに飛びかかって来て、押さえ付けて、ひどい目に遭わせて、彼らを裸にして、傷つけてきたので、逃げ出したというようなことが書かれています。

悪霊払い(エクソシズム)については、昔の映画「エクソシスト」で描かれたような怪奇現象が本当にあるのかどうかは、私には全く分かりません。しかし、世界は広いです。わたしたちの知らないことがまだまだ多くあるかもしれない、と言うだけにとどめておきます。

「生活の刷新」に該当するのは、ここから先です。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」という呪文で悪霊払いをしようとした祈祷師たちが悪霊から反撃を受けたといううわさが広がったことで、エフェソの人たちがすっかり恐れを抱いて、信仰に入ったことが記されています。きっかけはなんでもいいかもしれません。

そして、そのうえで、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18~19節)と書かれています。

ここが今日の箇所の核心部分です。「刷新」の意味は「過去の悪いものを刷いて新しくすること」です。キリスト教以外の宗教のすべてが「悪い」と私が言いたいのではありません。各自が自分で気づいて判断するしかない面があります。第三者が命令したり強制したりしてどうなるものでもありません。

しかし、「この道が正しい」と信じた人が、それまで信頼してきたものを抱え込んだままであるか、それともこれまでのもの、過去のものは、きっぱり捨てるかで、その後の歩みに違いが出てくるかもしれません。そのことについては、黙っていないほうがよいでしょう。

エフェソの人たちがキリスト教を受け入れたとき「自分たちの悪行をはっきり告白した」(18節)とか、魔術を行っていた人たちもその書物を「焼き捨てた」(19節)と書かれていることの意味は大きいです。

「銀貨五万枚」は、現在の5億円ほどです。「そんな勿体ないことを、どうして」と考える方もおられるでしょう。焼き捨てたりしないで「魔法図書館」を建てて保存しておけば、21世紀の今ごろ、多くの研究論文のテーマとして取り上げられたかもしれないのに、と。

そういう考えも一理あるかもしれません。しかし、そこから先は各自の判断です。わたしたちは宗教学者になるのか、それともイエス・キリストの十字架を目指して生きるキリスト者になるのかの分かれ道が、いずれ訪れるでしょう。

(2021年7月11日 主日礼拝)

2021年7月4日日曜日

祈り(2021年7月4日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

  
讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を 奏楽・長井志保乃さん


「祈り」

テモテへの手紙一2章1~7節

関口 康

「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」

先週6月27日(日)一人の姉妹の洗礼式が石川献之助名誉牧師の司式によって行われました。主にある仲間が新たに教会に与えられましたことを心から慶び、感謝しています。

キリスト者としての信仰生活の基本は、主の日ごとの礼拝と日ごとの祈りと賛美にあります。もちろんそこに聖書の学びが含まれます。しかし、おそらくどのキリスト教の入門書を見ても、聖書はキリスト教の「正典」であり、「正典」は英語でcanonと言い、「ものさし」や「基準」という意味で、わたしたちの心や日々の生活と照らし合わせながら、神に喜ばれるよりよき人間へと成長するためにあるという趣旨のことが記されています。

それが何を意味するのかを分かりやすくするために少し大げさな言い方をお許しいただけば、聖書そのものはものさし以上ではないということです。ものさしも大事です。しかしそれで測るもののほうがもっと大事です。私たちの心と生活、そして長きにわたる人生のほうが大事です。わたしたちが自分の人生を大切にし、家族や社会、そして教会の仲間と共に、喜んで生きていくために聖書が役立つことがありうるというくらいの線で十分すぎるほどです。

このように申し上げることは、石川先生が過去70年昭島教会で教えてこられたことと軌を一にしていると私は信じています。聖書そのものは、今のわたしたちにとっては、古代文献であるという以外に表現のしようがありません。書かれている内容は、新約聖書は2000年前、旧約聖書は4000年前から2400年前ほどまでの事実とも伝説とも区別をつけにくい事柄です。わたしたちは、そのようなことをあくまで参考にしながら、今の時代の中で現実的に生きることが大切です。

最近私は、学校の授業の中でちょうど40年前の日本のテレビで放送された「アニメ親子劇場」(1981年)や「トンデラハウスの大冒険」(1982年)といった聖書物語を描いたアニメを見せています。40年前は私が高校生だったころです。

その内容は、かわいらしい主人公や友人がタイムマシンで聖書の時代の世界まで飛んで行き、そこで起こる出来事を聖書の登場人物たちと一緒に体験したうえで、もちろん必ず再び現代社会に戻ってきて自分の心や生活について反省するというものです。その「現代社会に戻ってくること」が重要であって、聖書の時代に行ったきり、戻って来られなくなるようでは意味が無いのです。

学校の話は教会ではあまりしないようにしています。しかし私は教会にいるときと学校にいるときとで異なる人格を使い分けているわけではありませんし、していることに差があるわけでもありません。学校でも私は「聖書の知識は程々で良いので、それよりも今の時代をどう生きるかのほうが大切だ」と教えています。教会の皆さんにも全く同じことを申し上げたい気持ちです。

今日はテモテへの手紙一2章1節から7節までを朗読しました。この手紙は使徒パウロが弟子のテモテに書き送ったものであると、冒頭の挨拶の中に記されています。本当にこれをパウロが書いかどうかについての議論がありますが、その問題には立ち入らないでおきます。

そのことより大事なことは、今日の箇所に記されている内容に基づいて、西暦1世紀の教会の中で「祈り」についてどのように理解されていたかを知ることです。そして、わたしたち自身の祈りのあり方を吟味し、よりよき信仰生活を送るように成長していくことです。

「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)とあります。「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」と、4つの言葉が並んでいます。「それぞれの意味と違いを述べなさい」という試験問題になりそうですが、私もうまく答えることができません。

この4つに明確な区別がもしあるとしたら、たとえば「願い」と「祈り」の違いは何かという問題を考える必要があるでしょう。比較的分かりやすいのは「感謝」です。わたしたちは「願い」ばかりを祈るのではなく、神の恵みに対する「感謝」を祈ることが大切であると言えそうです。

さらに、それとは区別される「執り成し」は、対立関係にある甲と乙の仲介役になることです。最も深刻な対立関係にあるのは、神と人間です。つまり、神と人間の間に立って祈ることが大切だということになるかもしれません。しかし、今日の箇所に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(5節)とも記されています。そうなりますと「執り成しの祈り」は人間には不可能であると言わなくてはならないかもしれません。こういうことは、考えれば考えるほど、深い謎の森の中に入っていくでしょう。

「願い」と「祈り」と「執り成し」と「感謝」の区別の問題も大事かもしれません。しかし最も大事なのは、それらの祈りを「すべての人々のために」ささげなさいと言われている点でしょう。その「すべての人々」は、どう間違えてもキリスト者である人々だけを指していないという点が大事です。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(2節)と言われているとおりです。言うまでもないことですが、西暦1世紀の世界にキリスト教会で洗礼を受けた王は存在しませんでした。キリスト教国もキリスト教政党も全く存在しませんでした。

「王たち」(2節)がどの王かは分かりません。しかし、旧約聖書に登場するような、たとえば紀元前11世紀のサウル、ダビデ、ソロモンの各王のために祈りなさいという意味ではありません。そうではなく、そのときそのときの世界を支配する政治的支配者のために祈りなさいという意味です。キリスト教会にとっての迫害者や敵対者のために祈りなさいという意味です。

なぜそのような人のために祈るべきでしょうか。その人たちも、イエス・キリストへの信仰によって救われるべき存在だからです。わたしたちは、政治的支配者になるような人は、常に悪意に満ちていて、聖書に示されている神もイエス・キリストも信じることはありえず、キリスト教的行動をとることもありえない、ということを確信すべきではありません。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)とあるとおりです。

神が全世界と全人類とに強い関心を持っておられるのです。もちろん牧師だけでなく、すべてのキリスト者が、教会から世界へと派遣され、救いのみ言葉を告げ知らせるべきなのです。

すべての人が教会に来て洗礼を受けて、教会が栄えることを祈りなさいという意味かどうかは分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。

20世紀の教会は「教会の外」に「隠れたキリスト者」がいるという議論を、盛んにしました。キリスト教信仰に立っていないが、生き方と行動においてはキリスト者よりはるかに優っている人々がいるというようなことも、しばしば語られました。

私は「そうである」とも「そうではない」とも言いません。教会とキリスト者に対する期待と希望を持っています。それが正しいかどうかも分かりません。「私はそう祈る」と、申し上げたいだけです。人それぞれの祈りを妨げるべきではありません。

(2021年7月4日 主日礼拝)