2021年1月10日日曜日

イエスの洗礼(2021年1月10日 各自自宅礼拝)


讃美歌21 155番「山べに向かいて」 ピアノ 長井志保乃さん



マタイによる福音書3章13~17節

関口 康

「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。」

おはようございます。今日から再び「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルス感染拡大防止の観点からの措置です。ご理解とご協力を賜りますと幸いです。通常礼拝を再開できる日が一日も早く訪れることを共に祈ろうではありませんか。

今日の聖書の箇所は、新約聖書4ページ、マタイによる福音書3章13節から17節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリスト御自身が洗礼を受けられた、という事実です。

根本的なところからお話ししますと、「イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳であった」とルカによる福音書3章23節に記されています。このルカの証言に基づいて、30歳になられてからのイエスさまの生涯を教会では「公生涯(こうしょうがい)」と呼ぶならわしになっています。

その「公生涯」の最初にイエスさまは「ヨハネ」という名の人から洗礼をお受けになりました。「ヨハネ」とは誰か。その答えがマタイによる福音書3章の1節から4節までに記されています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。(2節省略)ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3章1~6節)。

ヨハネはこういう人でしたということで今日はお許しください。詳しい内容に踏み込むいとまはありません。ヨハネの人となりについての詳細については、機会を改めてお話ししたいと思います。それよりも今日集中したいのは、このヨハネからイエス・キリストが洗礼を受けられたという事実のほうです。なぜイエスさまはヨハネから洗礼を受けられたのかという問題のほうです。

なぜそれが「問題」になるのか、という問題があるように思います。ヨハネは「悔い改めよ」と多くの人に教えました。しかし、いったい人は何を「悔い」、何を「改め」なくてはならないのでしょうか。その答えは、自分が犯した「罪」を悔い、自分の常態にすっかりなってしまっている「罪深い生活」を改めなくてはならないということになるでしょう。

そして、その「悔い改め」のしるしとして洗礼を受けなさいと、ヨハネは教えたのです。そのときの「洗礼」は、ヨルダン川に行って、川の中に入り、その水で体を洗う行為です。

しかし、そこで問題が生じます。イエスさまは「罪のないお方」だったのではありませんか。それなのになぜ「悔い改める」必要があるのでしょうか。「悔い改め」のしるしとしての洗礼を、イエスさまがなぜ受けなければならないのでしょうか。イエスさまも罪人(つみびと)のひとりだったということでしょうか。もしそうであれば、イエスさまは「罪のないお方」であるという話と矛盾するではありませんか、という問題です。

いまご紹介した一連の問いは、他の様々な問題から切り離してこれだけを考えると、なんだか全くどうでもいい、我々の人生と無関係な屁理屈であるように思えるところがあります。しかし、そうではなく、いろんな別の問題とのかかわりを考え始めると、とても深くて複雑で悩ましく、我々の人生にかかわる問題であるということが分かってきます。

いちばん分かりやすいかもしれない点だけいえば、わたしたちの中には、教会で洗礼を受けた人と、まだ受けていない人がいます。「洗礼を受ける」とは何を意味するのか、「受けていない」とは何を意味するのかを、すでに洗礼を受けている人もまだ受けていない人も、必ず毎日考えているということまでは無いにしても、何かの拍子に考える機会があるのではないかと思います。そういうことに今日の箇所の問題がかかわる、ということです。

イエス・キリストは「罪のない方」であるにもかかわらず、「悔い改めよ」と呼びかけるヨハネの言葉に応じ、ヨハネが悔い改めのしるしとしての意味を与えた洗礼をイエス様ご自身が受けられた、ということになりますと、要するに洗礼とは「罪の悔い改め」を意味し、またイエスさまは「罪ある方」だったことを意味する、ということになる。

そして、もしそうであるとするならば、わたしたちが教会で受ける洗礼の意味も、それと同じであることになる。しかし、もしそうであるならば、教会というのは、要するに、犯罪者が収容されて更生を目指す刑務所のようなところなのかというような考え方が成り立つかもしれないでしょう。その考え方が完全に間違っているかどうかはともかく、教会で洗礼を受けることがもしそのようなことだけをもっぱら意味するのだとすれば、進んで喜んで洗礼を受けようと決心する人は誰もいなくなるのではないでしょうか。自ら進んで受刑者になるという意味ですから。

いろいろ考えはじめるときりがありません。今日はひとつの結論だけ申し上げて終わります。実を言いますと、イエス・キリストはなぜ洗礼をお受けになったのかというこの問題は、二千年前の古代教会から問い続けられ、今でも問われ続けているものです。問われ続けている、ということは、はっきりした答えがまだ分かっていない、ということです。しかし、「分かりません」で話を済ませるわけにもいきません。

私より少し上の世代から私より少し若い世代までくらいの多くの牧師が学生時代に読んだ書物の中に、日本語版ではカール・バルトとオスカー・クルマンの共著という形になっている『洗礼とは何か』というタイトルの本があります。

それは、わたしたちと同じ西東京教区の日本キリスト教団国立教会で長年牧会され、つい最近隠退された宍戸達先生がドイツ語から訳され、1971年に出版されました。その本のバルトでなくクルマンが書いたほうの論文に出てくる「総代洗礼」(Generaltaufe(ゲネラールタウフェ))という言葉が有名です。クルマンは次のように書いています。

「イエスの洗礼はすでにあの終点を、その生涯の頂点である十字架を、指し示している。その十字架においてすべての者の洗礼ははじめて成就を見るのである。十字架において、イエスは総代洗礼(Generaltaufe)をお受けになる。それに至る命令を、ヨルダン川でも洗礼に際してかれは受けられたのである」(バルト、クルマン『洗礼とは何か』宍戸達訳、新教出版社、1971年、106頁)。

それは、イエスさまは十字架の上ですべての人の身代わりに死んでくださったように、すべての人の代表者として、「総代」として、洗礼をお受けになった、という理解です。

今のわたしたちの状況へと無理やり結びつける必要はないかもしれません。しかし、今日からわたしたちがそうせざるをえなくなった「各自自宅礼拝」の中で、教会の礼拝堂の中で、牧師であるわたしひとりで礼拝をささげるとき、僭越なことではありますが、教会のみんなを代表して、ある意味での「総代」として礼拝をささげているのだ、という思いなしにいることはできません。

「各自自宅礼拝」が最善の選択であるかどうかは分かりません。わたしたちは、イエスさまとは違い「罪ある者」として、自分たちの判断の正しさを常に疑い、修正を重ねつつ、神の赦しを乞いつつ、共に祈りつつ、今の状況を乗り越えていきます。それが教会です。

(2021年1月10日)



 
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