2019年12月8日日曜日

遣わされた神の御子


ヨハネによる福音書5章31~47節

関口 康

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」

今日はアドベント(待降節)第2主日の礼拝をささげています。しかし、私は今日の説教を、アフガニスタンで先週水曜日12月4日に銃撃を受けて亡くなられた中村哲さんのお名前を語らずに始めることに困難を覚えます。今日アフガニスタンで中村さんの国葬が行われるそうです。

しかし、たいへん申し訳ないことに、私は中村さんについてほとんど何も知らずに生きてきました。いま住まわせていただいている牧師館で役員会の許可を得て教会のテレビをお借りしていますが、私は1年以上前からテレビを見る習慣を失ってしまい、今回のことについてもテレビのスイッチを入れる勇気がわいてきません。

私が中村哲さんの名前を最初に知ったのは30年前です。私が東京神学大学大学院を1990年の春に卒業して最初に赴任したのが日本キリスト教団四国教区の南国教会でした。同じ高知分区のひとつの教会に、もう亡くなられましたが、医師をしておられた役員さんがいました。その方とはすぐに親しいお交わりをいただくようになりましたが、その方がおっしゃったことが、私はペシャワール会の中村哲さんを応援している、高知支部の責任者であるということでした。

それが1990年でした。その方からペシャワール会を紹介する本をいただいた記憶があります。その本は私の蔵書に今でもあると思いますが、見つけることができていません。

しかし、それだけです。その後は中村さんのことを全く知らずに生きてきましたので、その私に何かを語る資格はありません。しかし、ここ数日インターネット経由で流れてくる情報の中で、中村哲さんがクリスチャンだったということと、福岡にあるミッションスクールの西南学院中学校の卒業生だったということを知りました。中学時代に聖書に触れ、その後信仰を与えられ、洗礼を受けて、バプテスト教会に属するクリスチャンになられたそうです。

「それだから」大きな働きをすることができたのだ、というような関連づけをするのは、よろしくないでしょう。まるでクリスチャンでない人は大きな働きができないかのように響いてしまいかねません。しかし、人類の歴史に残るような大きな働きをしてこられた中村さんの歩みの原点が、中学時代に学校で学んだ聖書の教えであったということを知ることができたことで、私はとても励まされる気持ちになりました。

聖書を学ぶ人のすべてがそうなるという意味ではありません。しかし、たとえば私が今、明治学院中学校と東村山高校で聖書を教えている生徒の中から、将来、大きな働きをする人物が現れた場合、それは学校の手柄ではないし、教師の手柄でもありません。聖書の教えそのものがそれだけの力を持っていると言わねばならないでしょう。

しかしまた、今申し上げていることについて、別の観点から考えさせられたことがありました。それは、中村さんがクリスチャンだったというならなおさら、どうして神さまは中村さんの命を守ってくださらなかったのか、あのような惨たらしい最期を迎えることになったのかと、そのように考える方がおられるのではないかということです。神さまという方は、人の努力に全く報いてくださらない、なんと冷たいお方なのだろうかと。

わたしたちの神さまは、困った人を助けてくださり、病気の人をいやしてくださり、死んだ人をよみがえらせてくださり、求める人に永遠の命を与えてくださり、その神さまと共にわたしたちは、地上の人生を終えたのちも、天国において神と共に永遠に生きることを約束してくださっているのではないのだろうか。もしそうだというなら、中村さんがクリスチャンであったという事実とあの方の人生の最期の姿は矛盾するのではないだろうかと。

中村さんについての話をこのままずっと続けようとしているわけではありません。すでにお気づきの方がおられると思いますが、先ほど朗読された今日の聖書の箇所に記されていることが不思議なほど噛み合ってきています。

イエスさまは弟子たちに、あなたたちは聖書を勉強すれば永遠の命を与えられると思って、そういう動機があるから聖書を勉強しているわけでしょう、とおっしゃっています。しかも、ここで説明が必要なのは、聖書に記されている意味での「永遠の命」とはどのようなものかということです。

日本に住んでいるわたしたちが「永遠の命」とか「天国」とかいう言葉を聞くとどうしても思い浮かべるであろうイメージは、地上の時間的な人生が終わった後に、天使の翼が与えられて空の彼方に飛んでいき、そこに行けば神と共にまさに永遠に生きることができる、地上の世界とは全く無関係の別の国に移される、というようなことです。

しかし、聖書の意味での「永遠の命」はそういうものではありません。それがどのようにして実現するかについてはともかく、地上の時間的な人生がどこまでも続き、地上の世界が天国さながらになるというほうが、聖書の教えです。

その意味で、人は死なないのです。死んでもよみがえるのです。よみがえって再び地上の世界に戻ってくるのです。地上の世界が永遠に続くのです。だからこそ、地上の世界と地上の命は大事にしなくてはならないのです。いま送っているこの人生は、どうでもいいものではないのです。

その実現方法が聖書に記されているので、それを学ぶために聖書を研究する。それがあなたがたの聖書研究の目的でしょうと、イエスさまが言っておられます。しかし、イエスさまは、そのような聖書の学び方は間違っているとおっしゃっているのです。

そうではなく、聖書はこの私を、イエス・キリストを証ししていると、イエスさまがおっしゃっています。この本に書かれているのは私のことだよと、イエスさま御自身が御自分を指さしながらおっしゃっているのです。

しかし、それに続く次の言葉が気になります。「それなのに、あなたたちは、命を得るために、わたしのところへ来ようとしない」。この「命」の意味も、永遠の命です。これで分かるのは、イエスさまは、永遠の命を得る方法を知るために聖書を研究すること自体が間違っているとおっしゃっているわけではない、ということです。

そうではなくイエスさまは、そのために「わたしのところへ来ようとしない」ことが間違っているとおっしゃっています。永遠の命は欲しいので、そちらには近づくが、それを得るためにイエス・キリストには近づかないわけです。

その気持ちは、よく分かります。永遠の命を得るためにイエス・キリストのほうに行くとどうなるかは、わたしたちはよく知っていることです。

イエス・キリストは、まさに御自分の命を投げ出し、困っている人を助け、病気の人をいやし、悩んでいる人の相談に乗り、多くの人々をまさに救ってくださいました。しかし、その結果として妬まれたり嫌われたりし、とうとう御自身は十字架にかけられて殺されるという残酷な最期をお迎えになるのです。

それは大変なことだということは誰でも分かることなので、できるだけラクな道を通りたい人はイエス・キリストのほうの道を決して通ろうとしないのです。しかし、イエス・キリストのほうの道を通ろうとする人は、イエス・キリストが味わったのと同じ苦しみを味わうのです。

中村哲さんの話に戻すことは、もうしません。ここから先はわたしたち自身の問題です。

わたしたち自身は、イエス・キリストではありませんし、救い主でもありません。もし仮に、わたしたち自身が十字架にかけられて死んだとしても、わたしたちの死が世の罪の贖いになるわけではありません。イエス・キリストによる贖いのみわざは、すでに完成しています。わたしたちはそれになにひとつ付け加えることができませんし、そうする必要がありません。

しかしまた、それではわたしたちにできることは何もないのかというと、そうではありません。わたしたちはイエス・キリストの死にあずかることができます。イエス・キリストの死のさまにあやかり、ならうことができます。それは、へりくだって世と人に仕え、自分の命を投げ出して献身と奉仕の人生を送り、それを全うすることです。

それはわたしたちに可能なことです。あの先生にしかできない、あの人にしかできない、というようなことではありません。すべての人に可能です。クリスチャンではない人にも可能です。

イエス・キリストは、わたしたちの人生の模範になってくださるために、父なる神のもとから遣わされた神の御子なのです。

(2019年12月8日、日本キリスト教団昭島教会)