2015年9月30日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 03

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ヨハネによる福音書1・14~18

難解な序文がなお続いていますが、ここで初めて「イエス・キリスト」という名前が出てきます。これまでは「言(ことば)」とだけ呼ばれていました。イエス・キリストの生涯を描く目的で書かれる福音書というジャンルの文書の中でこうした書き方がきわめて特異であることは間違いありません。

14節に「言は肉となった」と記されています。誤訳とまでは言えませんが、誤解を生みかねない訳です。「なった」(become)は原文の直訳ですが、原文で用いられている言葉(エゲネトー)の意味は、この文脈に限って言えば、「成り変わった」とか「変化した」というようなことではなく「生まれた」(was born)です。そして「肉」の意味は「人間」であり、「言」はイエス・キリストです。ヨハネの意図にそって訳しなおせば、「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということです。

しかし、そのことをヨハネは、直訳すれば「言葉は肉となった」と訳すことが全く不可能とまでは言い切れない独特の言葉で表現していることも事実です。現代の多くの聖書学者も、ヨハネの意図はよく分からないと、さじを投げています。英国の有名な聖書学者も「『肉となる』という言葉の意味を確定することは困難である」と書いています。しかし、それでもわたしたちが譲ってはならないのは、ヨハネが人間を「肉」と呼ぶとき、存在の意味と価値をおとしめる意味で「人間は肉に過ぎない」とか「人間とは汚らわしい」と言いたいのではないという点です。

「霊的なものは清いが、肉体的なものはすべて汚らわしい」。このような思想は我々日本人にとって馴染み深いものがあり、すんなりと受け入れることができる、ごくごくありふれたものです。「肉体」と聞けば「汚れた」という形容詞をすぐに思い起こすことができる、といった具合です。

しかし、このような見方は、ヨハネの時代の教会を脅かし、その後のキリスト教会を脅かし続けた、グノーシス主義の思想です。キリスト教会にとっては異端の思想です。教会の歴史の中でこのような考え方や言い方が見出されるとしたら、それらはすべて、教会の外から紛れ込んできたものです。

しかし、わたしたちが信頼してよいことは、ヨハネ自身が異端に陥り、そちら側の考え方の中へとすっかり巻き取られてしまっていたわけではないということです。この福音書の中には「肉」を蔑む表現は見当たりません。今日の個所でもただ「肉となった」と書かれているだけであり、「汚らわしい肉の姿へと落ちぶれた」というようなことが書かれているわけではありません。そのような考え方がヨハネにそもそもありません。ヨハネが書いているのは「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということだけです。もう少し言葉を補うとしたら、「わたしたちと同じ人間としてお生まれになった」ということです。

ただし、この文章の中に上下関係を示す内容はたしかに含まれています。天の神のおられるところが「上」であれば、人間が生きているここが「下」です。その意味に限って言えばイエス・キリストは、上から下へと「降りて」あるいは「下って」来られた方であると語ることは間違っていません。

しかし、この上下関係は、神と人間との関係という点に関してだけ当てはまるものです。「霊的なるもの」と「肉的なるもの」との関係に当てはめることはできません。

私がなるべく明らかにしたいと願っているのはヨハネ自身の意図です。「言は肉となった」。イエス・キリストは、わたしたちと同じ人間としてお生まれになった。その意味は「神の御子が汚れたものになった」ということではありません。そうではなくて、ヨハネの意図は「神の御子がわたしたちと同じ地平に立ってくださった」ということです。それを聞けばわたしたち人間が理解できるほどによく噛み砕かれた「ことば」として、わたしたちの心の奥底に届く「ことば」として、イエス・キリストが、わたしたちの目線までおりて来てくださり、わたしたちにじかに語りかけてくださったのだ、ということです。

もしこの説明で正しいようであれば、これまでのところに「イエス・キリスト」という名前が出てこず、ただ「言」とだけ呼ばれていたことの理由も説明できるようになるかもしれません。「イエス・キリスト」という名前は、地上における名前です。「イエス」という名前はこの方が地上にお生まれになったときに付けられたものです。お生まれになる前から、すなわち永遠から、天地創造の前から、この方が父なる神から「イエス」と呼ばれていたわけではありません。

そして「イエス」という名前の意味は「救う」です。そのように、マタイによる福音書が記しています。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」(マタイ1・21)。イエスという名前の意味としての「救い」を必要としているのは地上に生きる人間だけです。神には「救い」は必要ありません。救われなければならないのは人間であり、神ではありません。

救い主が必要なのはわたしたち人間です。しかも、救いが必要なのは罪を犯した人間だけであって、罪を犯していない人間に救いは必要ありません。救いとは「罪からの救い」だからです。

「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とヨハネが書いています。ここに出てくる「恵みと真理に満ちた栄光」という言葉には抽象的な響きを感じてしまうかもしれません。具体的な内容は何かまでは分かりません。

しかしわたしたちは、イエス・キリストがこの地上にもたらしてくださった「恵み」と「真理」の内容を知っています。それは結局「救いの恵み」であり、「救いの真理」です。永遠の神の御子が、罪を犯して神の栄光を汚したわたしたち人間を罪の中から救い出してくださるために「人間になって」地上に来てくださったのです。

神の御子がなぜ「人間」になったのかという問題についてはハイデルベルク信仰問答(第12問から第18問まで)に答えが書かれています。それは、わたしたち人間の犯す罪があまりに重すぎるため、それを償うためには、動物の命はもちろんのこと、人間の命をささげても足りないということです。

人間の命は軽いと言っているのではありません。ハイデルベルク信仰問答の意図は逆です。人間の命は重いと考えられています。だからこそ、人間の命ほどの重いものをすべて差し出しても償いきれないほど、わたしたちの罪はあまりにも重すぎるものだということです。わたしたちの罪が真に償われるためには、真の神でありつつ真の人間でもあられるお方(ハイデルベルク信仰問答は「仲保者」と呼んでいます)の命の価が必要であったということです。

わたしたちが覚えるべき大切なことは、それほどまでに人間の罪は重いものであるということですが、それと同時に、それほどまでに神の恵みは大きいということです。人間の存在、その精神や肉体そのものが汚らわしいのではなく、人間の犯した「罪」が汚らわしいのです。

そして、罪から救い出された人間は「清くなる」のです。それを教会は「聖化」(Sanctification)と呼んできました。わたしたちを清めるためにイエス・キリストは来てくださったのです。それこそが、わたしたちに与えられる最高の「恵み」であり「真理」です。

(2015年9月30日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)

2015年9月23日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 02

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ヨハネによる福音書1・6~13

今日の個所に「ヨハネ」が登場します。しかし、このヨハネはこの福音書を書いた著者ヨハネではありません。イエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。しかし、二人が同じヨハネという名前であることにはやはり何らかの意味があると考えられています。

著者ヨハネがバプテスマのヨハネの話をしながら自分の姿を重ね合わせていると考える人がいます。その見方は正しいと私は考えます。この福音書には著者自身の思想的立場が前面に現われています。著者ヨハネの時代(おそらく西暦1世紀末)のキリスト教会における熾烈な戦いが背景にあります。しかし、この個所に登場するヨハネは、直接的にはバプテスマのヨハネのことです。

バプテスマのヨハネは「神から遣わされた」と記されています。「光について証しをするため、またすべての人が彼によって(ヨハネによって!)信じるようになる(光を信じるようになる!)ために」、ヨハネは神から遣わされました。

「光を信じる」とはどういうことでしょう。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」と書かれていました。そして「人間を照らす光」としての「命」が「言(ことば)の内にある」とも書かれていました。この「言」がイエス・キリストです。そして命の光が「言」としてのイエス・キリストの内にあります。その命の光が人間を照らしています。そして、その光が暗闇の中で輝いています。それぞれの関係性を思いめぐらしてみることが大切です。

「暗闇」の意味は、神が創造されたこの世界と我々人間に重くのしかかっている闇です。隣人の姿が見えなくなり、自分のことしか考えられなくなる闇です。それはほとんど「罪」と同義語であると言えます。しかし、ヨハネ(著者ヨハネ)は、世界の暗闇の中で絶望していません。暗闇はイエス・キリストの内に輝いている命の光によって取り払われつつあることを信じています。

イエス・キリストが来てくださったことによって地上の世界に生きているわたしたち人間は誰一人、暗闇の中で絶望しなくてもよい。そのことを「すべての人が信じるようになるために」、二人のヨハネ(!)は神から遣わされた。バプテスマのヨハネが、そして著者ヨハネが多くの人々の前で証言した。それが著者ヨハネのメッセージです。

別の言い方をしておきます。二人のヨハネが神から遣わされた目的は、救い主が来てくださったことを世のすべての人に伝えることでした。それは彼らの人生には「目的」があったことを意味しています。その目的を果たすことができれば、私の人生は最終局面を迎えたと自ら考えることが許される。

バプテスマのヨハネの人生の目的は、これから来てくださる救い主メシアをお迎えにするために我々は準備しなければならないということを、多くの人に知らせることでした。そして、そのことを知らせた後、彼は殺されました。

このヨハネにとって、イエス・キリストは永遠の主人公でした。彼自身は永遠の脇役でした。人間関係的に言えば、ヨハネのほうがイエスさまより年齢が上でした。しかし、ヨハネは自分をイエス・キリストに従う者の位置に置きました。自分の人生を永遠の脇役として理解し、覚悟を決めて生きることは決して容易いことでありません。わたしの人生はわたしのものだ。この椅子は誰にも譲らない。そのように考える人々にとってバプテスマのヨハネの生き方は理解すらできないものかもしれません。

しかし、そのことに著者ヨハネは、自分自身の姿を重ね合わせていると思われます。後者のヨハネの場合は、西暦1世紀の終わり頃、まさに存亡の危機の中にあった教会の正しい信仰を守りぬくための熾烈な戦いに身を置いていたと考えられます。

「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。前回学んだ個所には「暗闇は光を理解しなかった」と書かれていました。ヨハネが「世」とか「自分の民」とか「暗闇」と呼んでいるのは、みな同じものです。イエス・キリストを受け入れない存在と、その存在が生きているこの世界です。

しかし、わたしたちは読み間違えてはなりません。ヨハネはイエス・キリストを受け入れない存在を冷たく突き放して裁くために、このように書いているのではありません。彼の意図は正反対です。彼が強調しているのは、イエス・キリストを通して現わされた神の恵みであり、神の愛です。父なる神のもとから遣わされた真の救い主は、世界に暗闇があることを十分にご存じでありながら、御自分のことを理解せず、認めることさえしようとしない人々のところに、あえて来てくださったのです。たとえ人々に嫌がられようと、罵られようと。

むしろ救い主にとって我慢できないのは、世界が暗闇のままであることです。あなたの心が暗い闇に覆われ、どんよりとした憂鬱な気分のままであることを放っておかれません。イエス・キリストは、「わたしは救いというものなど必要ない」と思っているような人々をこそ、お救いになるのです。

ヨハネは続けて「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と書いています。

ここでもヨハネは、「その名」、つまりイエス・キリストの名を信じる人々に「神の子となる資格」をお与えになる方はイエス・キリストを信じない人々にはその資格を与えないという点ばかりを強調したいわけではありません。むしろここでわたしたちが考えるべきことは、生まれたときから先天的に信仰をもって生まれた人は誰一人いないということです。信仰は血によって遺伝するようなものではないということです。そのことをヨハネは「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」という言葉で表現しています。

ヨハネの意図は、すべての人は「神の子となる資格」を持たずに生まれてきたのだということです。しかしそれにもかかわらず、イエス・キリストはすべての人がその資格を得ることを望んでおられ、救いたいと願われます。「わたしには神の子となる資格など無い」と自覚しているあなたのところに、イエス・キリストは来てくださるのです。

ヨハネはイエス・キリストを「人間」と「世」を照らす命の光をもつ方であると信じました。つい思い出すのは天照大神です。しかし、イエス・キリストの光が「天」だけを照らしているのではなく、地上の世界全体と、地上に生きているすべての存在を、そしていまだに真の信仰に至っていない人々をも十分に照らしています。

聖書と教会の歴史に登場する多くの信仰者たちは、世界と自分の人生の暗闇の中でその光を見た人々です。絶望したままで生きていける人は、通常いません。すべての人に信仰と希望と愛、そして喜びが必要です。絶望の暗闇の中に救いの光が輝いているのを見て、袋小路からの出口が見つかったことを喜び、「わたしたちはまだ生きることができる」と多くの人に呼びかけ、共に約束の地をめざす。わたしたちもそのような存在であり続けたいものです。

(2015年9月23日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)

2015年9月22日火曜日

親目線で申し訳ない

2015年9月18日(金)17時から19時半まで「A1」にいました

参議院本会議の最後の福山議員の名演説の中で「シールズ世代」の日本史的背景への言及がありましたが、その中に「ゆとり、ゆとりと、さんざんdisられた世代」という点がなかったのは、唯一残念でした。ゆとりの逆襲だよね(うちにもゆとりの子がいるので分かる)。百倍返しだよ。あっぱれだと思う。

今の大学生や高校生くらいの方々には嫌われることを知りつつあえて書いていますが、「親目線」で見守っている人たちは、ほぼ全面的に味方だからね。尊敬してくれなんて思わないし、むしろ大いに軽蔑し、踏みつけてほしいくらいだけど。バブルを謳歌しましたし。だけどさ、だからこそ猛省もしてるのよ。

親目線で「見守る」なよ、一緒に戦えよ、距離とってんじゃねえよ、てめえらのせいで今こうなってんじゃねえの、と思われるだろうけどさ。それも分かるよ、痛いほど分かる。痛すぎるほど。だから反省してます。ごめんなさい。反論もできません。「応援」とかもされたくないと思うよ、くずの親世代には。

だけどさ、これ反論じゃないけどね、だけど、だけどさ、きみたちが大学や高校に行くのにもかなりお金かかったし、そのための生活ベースづくりもけっこうたいへんだったし、今もその状態は変わっていない。親世代の生活基盤が奪われたら、大学生や高校生の「戦い」のための「楽屋」もなくなってしまう。

あ、でも、親世代をdisるのが学生さんたちの本分です。それでいいと思う。いてまえ、です。くそバブラー世代のせいで今の世の中になってしまった。あいつら倒すまでおれら死ねん、みたいに決意を抱くのはいいと思う。そこをむしろ応援したい。本気でそう思うよ。本当に申し訳ないと思っています。

蓮舫さんが演説している頃の写真です



2015年9月9日水曜日

ヨハネによる福音書の学び 01

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ヨハネによる福音書1・1~5

関口 康

新約聖書には、イエス・キリストのご生涯を描いた「福音書」があり、四番目に位置づけられるのがヨハネによる福音書です(そのため「第四福音書」Fourth Gospelと呼ばれます)。四つの福音書のうちでは最後に書かれました。書かれた時期は西暦一世紀の終わり頃です。

他の三つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は性格が似ています。現代の聖書学者は最初にマルコが書かれ、次にマタイ、三番目にルカが書かれたとします。しかもマタイはマルコを参考にしながら書き、さらにルカはマルコとマタイの両方を参考にしながら書いたとします。単語や語順がぴったり合うほど、まるごと引き写していると思われるところもあります。この三つの福音書は「共観福音書」Synoptic Gospelと呼ばれてきました。

他の三つの福音書(共観福音書)とヨハネによる福音書(第四福音書)の違いはどのあたりにあるのでしょうか。私にとって最も納得が行くのは、ヨハネによる福音書が執筆された時代の歴史的背景からの説明です。西暦一世紀末のキリスト教会が直面した現実とこの福音書は、深い関係にあります。

書物が書かれるとき、それを書く著者自身にも必ず言いたいことがあります。もちろん「福音書」はイエス・キリストを描く目的で書かれますので、著者自身の主張はできるだけ後ろに引き下がった位置にあるべきです。共観福音書の場合、著者自身の主張が出てくるところがあっても、どこか遠慮がちであり、イエスさまの背後に隠れています。しかし、ヨハネの場合はそれが前面に出てきます。そのあたりに大きな違いがあります。

そしてその違いの理由はヨハネによる福音書が書かれた時代的背景にあるという説明が私にとっては最も納得できるものです。西暦一世紀末は、キリスト教会が存亡の危機に直面していた時代です。この時期のキリスト教会は多くのグループへと分裂していました。異端的な教えを奉じるグループも乱立し、混乱の極みにありました。もしその時代の教会が異端との戦いに敗北していたら、その後の1900年間のキリスト教の歴史は存在しなかったほどです。

特に西暦一世紀末には流行の兆しを見せた「グノーシス主義」との戦いは熾烈を極めたものでした。「グノーシス」の意味は「知識」ですが、「グノーシス主義」は固有名詞です。この異端が教えていたのは、要するに地上の人生を軽んじる道です。グノーシス主義者は「天国」なり「天使」なり、地上の現実を超えた天上の事柄(彼岸)については関心や憧れを抱きました。しかし、地上の人生、世界の現実については、絶望に近いものを感じとったり、無関心を決め込んだり、それはもっぱら汚れたものであるゆえに憎むべきものでさえあると考えたりしました。地上の人生を重んじるのではなく、むしろ軽んじていました。

それは外見上は禁欲主義的でもあるのですが、刹那的な快楽を求める道と紙一重の面を持っていました。軽んずべき世界と自分の人生をおとしめる生き方をすることは、彼らにとっては難しいことではありませんでした。

「天国」や「天使」を強調する人々こそ宗教的に熱心で敬虔である場合がありますので、そちらのほうが正しいのではないかとお感じになる方がおられるかもしれません。しかし、グノーシス主義はキリスト教会の存亡にかかわる最悪の異端でした。「地上の世界」や「人生」を重んじない宗教は異端なのです。

もっともヨハネによる福音書の歴史的な背景は「グノーシス主義異端との戦い」という一点だけで説明することはできません。もっと複雑な要素が絡み合っています。しかし、その中でグノーシスとの戦いという問題は際立って重要です。別の言い方をすれば、この福音書には地上の人生を軽んじる人々との戦いという意図があるということです。

しかし、事情はさらに複雑です。上記の意図を持つこの福音書は、グノーシス主義者たちが好んで用いていた言葉をあえて多用しています。それは、たとえば、わたしたちが仏教の人々にキリスト教を説明しようとする場合、キリスト教用語でなく仏教用語で説明するようなやり方に似ています。

わたしたちが体験的に知っているのは、キリスト教信仰をキリスト教用語で説明しようとしても、相手が理解してくれない場合があるということです。キリスト教用語で話して理解してくれるのは、それを長年学んできた人々だけです。相手の言葉を用いて語ること、つまり、教会用語を異なる宗教や思想の人々の用語へと“翻訳すること”で初めて相手に伝わるものが生まれる場合があります。

ヨハネによる福音書は難しい書物です。その原因は、この書物が書かれた時代の教会が異端とみなしていた立場の人々の言葉を用いて、イエス・キリストが真の救い主であることを立証しようとしているからです。しかしまたその複雑な事情は、この福音書をこのうえなく興味深いものにしています。共観福音書におけるイエス・キリストは、旧約聖書的な背景を持つ、教会の言葉で描かれています。しかし、ヨハネによる福音書はそこが違うのです。しかし、ヨハネが異端に巻き込まれていたからではありません。ミイラ取りがミイラになったわけではありません。そうではなくて、ヨハネの意図は、異端の人々を正しいキリスト教信仰へと招き入れるためでした。

ヨハネによる福音書の冒頭には、共観福音書の場合はイエス・キリストの御降誕の次第が描かれている位置に、全く異なる印象をもつ言葉が書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」この「言」(ロゴス)がイエス・キリストです。「初め」とは天地創造よりも前です。3節に出てくる「万物は言によって成った」とあるのが天地創造の出来事です。それ(天地創造)より前の時点を指しているのが「初めに」です。天地創造より前にイエス・キリストがおられた。イエス・キリストは父なる神と共におられた。イエス・キリストは神御自身であった。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネの意図をくみつつ言い換えますと、次のようになります。天地万物はイエス・キリストによって形づくられた。形あるものでイエス・キリストによらないものは何一つなかった。ヨハネが述べていることは、神の御子イエス・キリストは、父なる神と共に天地創造のみわざに関与しておられたということです。この地上にあるすべてのもの、すべての人は天地創造に関与なさったイエス・キリストと無関係に存在しているのではない。イエスさまがキリスト(メシア)であることを信じない人の人生にもイエス・キリストは関わっておられる。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

「光と闇」の対比はグノーシス主義者たちが好んで用いた言葉です。しかし、ヨハネの意図は彼らとは全く異なります。ヨハネが語ろうとしているのは、天地創造に関与したイエス・キリストだけが光り輝いていて、地上の世界はひたすら暗黒であるということではありません。むしろ逆です。「暗闇の中で輝く光」としてのイエス・キリストの光が、すでに世界を照らしはじめている。世界は全くの暗黒ではありえない。夜明けは来ている。希望のあさひは地上を照らしている。わたしたちの人生は輝いている。そのように言いたいのです。


(2015年9月9日、日本キリスト改革派松戸小金原教会祈祷会)