「ミランDFチアゴ・シウバは、パリ・サンジェルマン(PSG)への移籍に向かっていると言われる。高額サラリーが保証されていると言われる中、同選手がインタビューの中でお金は大事ではないと話していたことが分かった。」(2012年6月13日付け、goal.com記事)
T・シウバ:「お金のことは考えていない」(←上の記事の続きはここを開いてお読みください)
「お金のことは考えていない」。こういうことを堂々と言える人が、ぼくは好きです。
ぼく自身は、お金の話題はわりと平気で口にするほうですし、ぼくなりに経済的にはかなり追い詰められた生活をしていると自覚しています。
ですが、ぼくは、だからといって、お金で買収されて自分の言動を変えたことは、いまだかつて一度もないし、今後ともありえません。これだけは間違いなく明言できるし、この点にこそ、ぼくの牧師としての矜持があります。
使徒パウロの「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」(コリントの信徒への手紙二2章17節)を、ぼくはつい最近の礼拝説教で取り上げたばかりですが、「売り物にしない」と新共同訳聖書が訳している言葉は「買収されない」という意味でもあると解説しました。
神の言葉は買収されない。神の言葉の説教者は、いかなる買収にも応じない。そういう意味であると、ぼくは言いました。
シウバ選手の話からはどんどん離れてしまいますが、「牧師」と「お金」の関係について考えるたびに思い起こすのは、日本キリスト教会東京告白教会の渡辺信夫牧師の主著『カルヴァンの教会論』の「第一版あとがき」(1976年)の、以下のくだりです。
「牧師が研究をすることには社会的には何の評価も援助もないから、心ある牧師たちは自己の生活を切り詰めることによって辛うじて研究費を捻出する。私もそのような牧師の一人であった。このことを今では幸いであると思う。なぜなら、教会に密着して生きることによって、教会というものが深く理解できたし、民間の研究家として、権力や時流から自由な立場でものを考えることができたからである。保障された研究生活では得られないものが、貧しい牧師の書斎の中で得られたと私は思う。」(渡辺信夫『カルヴァンの教会論 増補改訂版』一麦出版社、2009年、324ページ)
ここで渡辺先生が書いておられる「権力や時流から自由な立場でものを考えることができた」という点が、ぼくにとっても決定的に重要です。渡辺先生も「いかなる買収にも応じない牧師」の一人です。
教会員の献金以外の収入源を牧師がもつことが、権力や時流にからめとられることを必ず意味するわけではない。そういうことを渡辺先生が書いておられるわけではありません。しかし、逆は然りだとぼくは思う。教会員の献金だけで牧師が生活でき、他の収入源を探さないで済むなら、「権力や時流から自由な立場でものを考えることができる」。
しかし、渡辺先生は、もう少し言葉を続けておられます。
「ただ、それらが本書によく表現できたかどうかは別問題である。かえって、叙述の貧困さばかり目につくことになったかもしれない。この書物が日本の牧師の学問の貧しさの標本とされないことを願っている。」(Ibid.)
これも、ぼくは同感なのです。シウバ選手の言葉を借りると「お金のことは考えていない」。これは渡辺先生も、多くの牧師たちも、多くのキリスト者たちも、そしてぼくも同じ気持ちです。
しかし、たとえば、学術研究、あるいはスポーツや芸術などの「成果」において経済的な格差が全く無関係と言えるのか。答えは、おそらく「否」です。歴然とした差があると断言してよいとさえ思う。
ここに矛盾があり、葛藤があると言えば、あります。だけれども、どっちかを選べと迫られれば、ぼくはやっぱり「お金は要らない」と言ってしまいそうです。そうやって自ら窮地に陥ってしまう、見通しの甘い人間です、ぼくは。
自分の人生観や価値観を他の人に押しつけるつもりはありません。でも、逆に他の人の生き方を押しつけられたくもないです。なので、いま書いていることは一種の牽制球だと思っていただいても構いません。
「俺の後ろに立つな!命が惜しければ」(ゴルゴ13)みたいな話です、ということにしておきますね(笑)。