2011年9月16日金曜日

放課後の蜃気楼

ズズタト、ズズタト、タカトントン、タカトントン、トカタカトン、ジャーン!

ドラムの練習中だ。もじゃもじゃ頭の秋保くんが叩いてる。学業成績抜群、明るい性格、友達多数。

ギュワーン。おっと、次はギターだな。長ぼそい顔の三井くん。三井くんの家には正門と裏門がある。正門から玄関まで徒歩二分はかかるお屋敷だ。

キーン。おいおい、マイク、ハウってるよ。ボーカルは道明くん。お父さんは長身の商社マン。道明くんはみんなのアイドル。滑舌が若干悪いが、気にしない、気にしない。

ブベン、ブベン。ベースは坂本くん。ルックスはかなり地味だが、練習熱心。チョッパー系をベロベロベロリンとかできちゃう。

まだ聞こえないのはキーボードだ。小柄な女の子、ミーコ。今日は来てないのかな。

バンド名はまだ無い。募集中。泣く子も黙るロック系なので、「死神エースキラーGTR」とか「マッドビーナス25(トゥエンティファイブ)」とか、やたら強そうなのを考えてるらしい。

おー、いまごろミーコが走ってきた。は、は、は。息切らしてる。遅刻だね。でも大丈夫だよ、まだ彼らイラついてなさそうだし。

蜃気楼がゆらめく灼熱の校庭に響き渡る、魅惑のロックンロール、はじまり、はじまりー。

と思ったけど、あれ?部室から聞こえるのは泣き声。ミーコだ。どうした?

「なにやってんの?」とか三井くんの声が聞こえる。どうやら、ミーコがとんでもない忘れ物をしたらしい。なにやってんだ、ミーコは。

あ、泣き声が止まった。で、またキーンだ。だからマイク、ハウってるって、道明くん!

おー、やっと始まった。ドラムロール。道明くんのシャウト。「アウ!」とか言ってる、あはは。愛されるキャラだよ、あいつ。三井のギターも冴えてるなあ。昨日は、夜遅くまで麻雀やってたはずだが。

一時間たっぷり練習した彼ら。おんぼろの扇風機だけで、よくがんばってるよ。ライブの本番、近いもんなあ。えらいよ。

広い校庭には、野球部とラグビー部と陸上部の子たちがひしめき合っている。ま、棲み分けはいちおう成り立っているけど、危ないぜ、いつホームラン軌道の硬球が、陸上部の子の頭蓋骨を直撃するか分からんね。

お、ミーコが部室から飛び出してきた。ぷぷぷ、また走ってるよ。どこに行くんだろ。もう家に帰るのかな。ま、いいか。でも、かわいいなあ。

え、ぼく?

ただ見てるだけー。聞いてるだけー。ぼーっとね。図書室じゃないよ。教室でもない。暑くて死にそうな校庭のベンチに一人で座ってんの。蜃気楼が面白くてね。

だって、こんな時間、今だけだぜ、たぶん、と思うもの。大学とか入ったら、みんなバラバラだしね。

また会えるのかな。


2011年9月14日水曜日

神学者たちへの(かなり屈折した)エール

今まさに、神学を恥じる小児病のようなものにかかっているところかもしれません。「神学では食えない」と痛感するから。しかし、それじゃあ何ならば食えるのかとか、哲学なんかもっと食えないじゃんとか、そもそも物書きで食えると思っている妄想こそどうよとか考えはじめると、その小児病が少しは解けて我に返れるものがあるんですけどね。

それはともかく、神学の再構築には大賛成です。既存の本に唾を吐きかけ、「こんなもの」と罵倒する態度をもってではなく、また我々は本だけ読んで(神学的に)生きているわけではないのだから、既存の本がもたらした教会的実践的諸帰結や諸現象のほうにも目を向けて、いわばそこから「帰納的にも」神学を再構築していくことに賛成です。

あとは神学部や神学校というフレームワークというかゲシュタルトというか、まあインスティチュートで良いと思うのですが、そういうものは、「必要悪」とまでは言いませんが、どんなに欠陥や問題点が多いとしても、不可避的だし、要りますねえと思います。

それは、「ファン・ルーラー研究会」というインターネット上の(ただの)メーリングリスト(にすぎないグループ)を12年半ほど続けてきて思うことです。神学部、神学校を(少なくとも直接的な意味で)背景にもっていないグループがいかに無視され、軽んじられるかを12年半ほど痛みをもって感じ続けてくると、もうね、少しくらいは面の皮が厚くなりますよ。

カネのために神学をするんじゃない。それは声を大にして言いたいですよ。でも、「神学では食えない」と失意のうちに神学を断念する人の多くは、神学部や神学校という枠の中に入れてもらえない個人プレーヤーです。ネットに何千万字の文章を書いても、一円にも換金されない。「学校」という枠の中にいる人々ならば、カビの生えた講義ノートを毎年引っ張り出して読み上げるだけでも、地位も名誉も、ある程度の財産までも保障される。

月並みな言い方ですが、一人のイチローの陰に、失意のうちにプロ野球の道を断念した何千、何万のプレーヤーがいる。神学部、神学校の教授たちも然りですよね。なりうる人、なった人には、やっかみも集まりやすいけど、がんばってほしいなあと思います。

既存の神学部、神学校に不満を抱く人々の中に新しい学校を作りたがる人がいますけど、そういうのを見ると虚しさを感じるばかりです。既存のものを作り変えましょう。ただし、自分の生きている間にできそうなことまでしか約束できない。「三百年後に実現いたします」とか言う詐欺商法はやめる。今ある神学部、神学校を二十年、三十年くらいの単位のスパンで小改革していく。そのために教会が全力を尽くして応援する。そういうやり方を私は好みます。