ヨハネによる福音書15・11~17
「『これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。』」わたしたちは今日、3名の新入会員をお迎えすることができました。1名の方の加入式、また2名の方の洗礼式を行うことができました。本当にうれしいことです。
さて、まさか計算して決めたわけではないのですが、今日の聖書の個所は、読めば読むほど今日のこの日にふさわしい内容であると思いました。ここに記されていますことを一言でいえば、イエス・キリスト御自身とイエス・キリストを信じて生きる者たちとの関係は何かということです。ですから、この個所に記されていることを正しく理解することができれば、キリスト教の入門講座は卒業です。心から喜んで、確信をもって、教会生活を送ることができるようになります。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)とあります。「これらのこと」とはもちろん先週の個所に記されていた例え話のことでもあるでしょう。しかし同時に、イエスさまが弟子たちに話して来られたすべてのことが含まれていると考えることもできるでしょう。イエスさまは弟子たちに多くのことを話して来られました。そのイエスさまのみことばには一つの明確な目的があったのだと考えることができるのです。
その目的とは何でしょうか。それが「わたしの喜びがあなたがたの内にあること」であり、「あなたがたの喜びが満たされること」であるというわけです。それはどういうことでしょうか。それは結局のところ、イエスさまの心の中に満たされている喜びをあなたがた弟子たちの心の中に満たすためであるということに他なりません。別の言い方をすれば、イエス・キリストの心の中の喜びを弟子たちの心の中に移しかえる手段は、イエス・キリストのみことばであるということです。そしてそのことは同時に、イエスさまがこの地上に来られた目的そのものでもあります。イエスさまが御自身の言葉によってイエス・キリストを信じて生きている人々を「喜ばせること」、このことこそが、イエスさまがこの地上に来られた目的そのものなのです。
このように申し上げることによって私が皆さんにお伝えしたいことは、次のことです。「キリスト者」とは要するに「喜んでいる人」のことであるということです。悲しい顔をしている人はキリスト者ではないと、そんなことまで言うつもりはありません。しかし、いつまでも悲しい顔をし続けている人はキリスト者でしょうかとお尋ねしなければならなくなります。なぜなら、キリスト者の心の中にはイエス・キリストの喜びが確実に伝えられているからです。そういうわけですから、わたしたちは、たとえどんなことがあっても、いつまでも悲しみ続けることはありません。
「いや、そんなことはありません。わたしはいつも悲しくて悲しくて仕方がありません」と思われる方がおられるでしょうか。そのような方にお勧めしたいことは、キリストの言葉をたくさん学び、それを心の中に豊かに蓄えていただきたいということです。そのために教会があるのです。悲しくて悲しくて仕方がない人こそ、教会で聖書を学び、賛美歌をうたい、祈りをささげていただきたいのです。
使徒パウロのコロサイの信徒への手紙には、次のように記されています。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ3・16~17)。
「教会」と名のつくところであればどの教会も同じであると、そのように本当に言えるかどうかは分かりません。しかし、「松戸小金原教会は大丈夫です」と申し上げておきます。わたしたちは教会で何をしているのかといえば、聖書を学び、賛美歌をうたい、祈っているのです。このことをとにかく繰り返しているのです。「お前たちはそれだけしかやっていないじゃないか」と言われても仕方がないほどです。しかし、このことがわたしたちの心に喜びをもたらします。いつまでも悲しみ続けること、悲しみの悪連鎖の中から逃れることができます。落ち込んで落ち込んで、最悪の結果ばかりを考えてしまう、底なしの泥沼から抜け出せなくなってしまうことから解放されます。イエスさまはそのために来てくださったのです。そして、イエスさまはそのために地上に教会を建ててくださったのです。わたしたちの心に喜びが満たされるためです。このことをぜひ信じていただきたいのです。
「喜び」の次は「愛」です。次に記されていることは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)です。
とにかくこれだけははっきりしているということは、愛というものは、どう考えても一人では成り立たないものであるということです。そこには必ず複数の人が必要です。自分で自分を愛することも重要です。しかし、自分ひとりだけで完全に自己完結しているというだけでは正しい愛の形とは言えません。イエスさまが弟子たちを愛してくださいました。その愛に基づいて弟子たちは、そして教会は、互いに愛し合うのです。つまり、愛というものが成り立つために必要なのは、とにかくだれかと一緒にいることです。この点にも教会の役割と意味と使命があると言えます。教会に通わない、自分ひとりだけの信仰では、イエス・キリストの愛というものを正しくとらえることができないのです。
しかし、難しいことは、わたしたちはそれを教会でどのようにして実現するのかという点でしょう。たとえば私が教会の皆さん一人一人をつかまえて「わたしはあなたのことが大好きです」などと言いますと、ただ誤解されるだけでしょう。危ない人だと思われるだけでしょう。いつもお互いに気遣うこと、配慮すること、助け合うこと、励まし合うことならば、できますし、これまで実際にしてきたことでしょう。配慮とは微妙なものです、細心の注意と、デリカシーが必要です。ひどく落ち込んでいるときには、だれにも会いたくない、干渉されたくない、介入されたくないと考えるのも、わたしたちです。そういうときに、ずけずけ割り込んでいくことが愛ではないということを知っているのも、わたしたちです。そういう人を助けるにはどうするかということを慎重に配慮するのが教会の役割であり、とくに教会役員たちの責任でもあります。
幸いなことは、繰り返しになりますが、教会には聖書があり、賛美歌があり、祈りがあるということです。そして礼拝があります。いま皆さんは、前を向いておられます。そのことが問題解決の糸口になるかもしれません。今朝、教会に来られる前に夫婦喧嘩をされたばかりという方がおられるかもしれませんが、しかし、教会に来れば、お互いの顔を見るのではなく、前を見ることができるのです。お互いの顔を見るだけで、互いに対峙するだけで、にらみ合うだけでは、和解のときは訪れません。しかし礼拝では、お互いの顔を見るのではなく、神を見るのです。神という方が、対峙するお互いを仲裁してくださり、和解へと導いてくださるのです。ですから、今朝は激突した二人も、この礼拝が終わって家に帰られると、怒りが和らぎ、笑顔が取り戻されていることでしょう。
次に記されているみことばは、わたしたちの多くを驚かせるものであり、また恐れさせるものです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(13節)と言われています。
イエスさまはご自分の弟子たちを「友」とお呼びになりました。これは文字通りの「友人」という意味であり、その関係は「友情」です。弟子たちはイエスさまのフレンドです。その関係はフレンドシップです。これは驚くべき、また恐れ多いお言葉であることは間違いありません。しかし、イエスさまのほうからこのように言ってくださっているですから、恐縮する必要はありません。
とはいえ、イエスさまとわたしたちの関係を悪い意味でのお友達づきあいや馴れ合いの関係のようなものと考えることは、行き過ぎでしょう。イエス・キリストは「友のために御自分の命を捨てて」くださったのです。これこそがイエスさまの十字架の意味です。「これ以上に大きな愛はない」と言われています。イエスさまは、馴れ合いの関係のために命を捨てられたのでしょうか。わたしたちは、馴れ合いの関係のために命を捨てることができるでしょうか。そのようなことが「これ以上に大きな愛はない」とまで言われるようなことなのでしょうか。いくらなんでも、それはないと思います。
しかし、それでも、イエスさまは、この個所で「友」という言葉を「僕」という言葉と対比させて語っておられます。この点はイエスさまが「友」という言葉をどのような意味でおっしゃっているかを正しく理解するために重要です。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(14節)と。どのような対比であるかということも、割合はっきりしています。「僕」が上下関係を表す言葉であるとしたら、「友」は対等の関係を表す言葉であると言えるでしょう。垂直関係か水平関係か、でもよいかもしれません。あなたがたとわたしの関係は、これまでのような上下関係ではない。これからは対等の関係であるとイエスさまが言われていると読むことも可能でしょう。
しかしこのように言いますと、皆さんの中には心理的な抵抗を感じる方々がおられることでしょう。実は私自身もかなり抵抗を感じています。イエスさまとわたしが全く一般的な意味での「対等の関係」であるとか「水平の関係」であるはずがないと言いたくなります。わたしたちが抱く心理的な抵抗は決して間違ったものではないと申し上げておきます。イエスさまが「あなたがたはわたしの友である」と言われていることの意味は、たとえば、戦前の権威主義的な日本人が戦後の民主主義的な日本人に変わったというような話と全く一緒くたにしてしまうことはできないものです。
それではそれは何なのかということについて詳しくお話しすることができる時間は、もう無くなりました。キーワードだけをお伝えしておきます。それは「和解」です。本来は罪人であり、神の罰を受けなければならない人間が、イエス・キリストの救いのみわざによって、その罪が赦されることによって、神と和解するのです。この「和解」こそ、イエスさまのおっしゃる「友情」なのです。
(2010年5月16日、松戸小金原教会主日礼拝)