2007年5月20日日曜日

「神はヨセフを離れず」

使徒言行録7・9~16



今日も先週に引き続き、キリスト教会最初の殉教者となったステファノの説教を学んで行きたいと思います。



この説教の直後に、ステファノは殺されました。その意味で、この説教はステファノの遺言です。この人の生涯の最期に語られた言葉です。



今日の個所でステファノが取り上げていますのは旧約聖書の創世記の物語です。ヨセフという名前が出てきます。創世記37章から50章まで続くいわゆる「ヨセフ物語」です。



ヨセフ物語の詳細な内容につきましては、直接創世記をお読みいただきたいと思います。とても長い、そして非常に感動的な物語です。私は、新共同訳聖書に変えたことによって、最も読みやすく、また強い感動を覚えるようになったのは、このヨセフ物語です。



ヨセフ物語自体は長いものですが、ステファノは、それを短い言葉で要約しています。ステファノの要約する能力は、非常に優れています。



「この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。」



ここで気になるのは、「この族長たち」(7・9)という表現です。また、続く個所に二度繰り返されている「わたしたちの先祖」(7・10、15)という表現です。



これはイスラエルという名前でも呼ばれたヤコブの、子どもたちのことです。ヤコブの子どもは、12人いました。そしてヨセフもヤコブの子どもであり、12人のうちの11番目に生まれたのですが、「この族長たちはヨセフをねたんで」とありますので、「この族長たち」の中にはヨセフは含まれませんし、また、ヨセフの弟ベニヤミンも含まれないと考えるべきですので、「この族長たち」の人数は10人である、と考えるのが適当でしょう。



この10人の族長たちのことを、ステファノは、「わたしたちの先祖」とも呼んでいます。これで分かることの第一は、ステファノ自身も生粋のユダヤ人であったということです。



第二は、「わたしたちの先祖」である「この族長たち」は、ヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまったと語ることにおいてステファノは、「わたしたちの先祖」に対して明らかに少し距離を置いており、またかなり強く批判的な思いを抱いている、ということです。



しかしまた、第三に、そのように批判的な思いを抱いている相手が「わたしたちの先祖」であると語る点でステファノは、まさにステファノ自身の先祖であるヤコブの子どもたちが犯した罪というものを他人事のようには考えず、むしろ、先祖たちの犯した罪の責任を自ら負うという仕方で、ある種の連帯責任を表明しているように読める、ということです。



ヨセフをエジプトへ売るとは、れっきとした一人の人間であるヨセフをエジプトの奴隷商人相手に売り渡した、という意味であり、人身売買を行ったということであり、要するに“人間をお金に換えた”ということです。



もっとも、創世記の記事を細かく見ていきますと、「ミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった」(創世記37・28)とあり、ヨセフを売ったのは兄たちではなく、たまたま通りかかったミディアン人であった、と読めることなども書いてありますので、少し注意深く語るほうがよいかもしれません。



とはいえ、ヨセフが明らかに、実の兄たちから辱めを受けたという点は否定できません。ヨセフはまさに心も体も深く傷つけられました。



もっとも、長男ルベンは、いくらか弟思いのところがありました。他の兄弟がヨセフを傷つけていたときに、ルベン一人が反対してヨセフを庇おうとする場面なども出てきます。



しかし、そのあたりの細かいことはステファノの説教の中では取り上げられていません。むしろ、強く前面に出して語られていることは、「わたしたちの先祖」がヨセフに対して罪を犯した、という点です。



そして、その罪の責任をこのわたしも受け継いでいるという自覚が「わたしたちの先祖」である「この族長たち」が、ヨセフをエジプトへ売ってしまった、という言葉の中に詰め込まれているのです。



ところで、「わたしたちの先祖」によってエジプトに売られてしまった“ヨセフ”とは、はたして“誰”のことでしょうか。あるいは「わたしたちの先祖」とは“誰”のことなのでしょうか。それはどういうことか。ヨセフは、もちろんヨセフです。それ以外の誰でもありません。しかし、ステファノは、ここで明らかに、ヨセフの話をしながらも、「わたしたちの先祖」ユダヤ人たちによって辱めを受けた、もうひとりの人のことを思い浮かべているように思われるのです。



説教とはしばしば、そのような仕方で語られるものです。純粋に聖書の御言葉を語りながら、目の前にいる一人一人のことを心配したり考えたりしながら語っているところが、必ずあります。



ですから、わたしは皆さんに、説教中はいろいろ余計なことを考えてください、と言いたいのです。説教の目的は、聖書のみことばを記憶することではなく、聖書のみことばを読みながらいろんなキーワードがあることに気づかされ、そこからいろいろと連想される自分自身の実際の生活や人生について、あれこれと思い巡らすことなのです。



さて、それでは“ヨセフ”とは、誰のことでしょうか。それは、おそらくわたしたちの救い主イエス・キリストのことです。そして“わたしたちの先祖”とは、誰か。おそらくイエスさまを十字架にかけて殺したユダヤ人たちを指している、と考えることができるのです。



ここでステファノは、イエス・キリストに苦しみと死をもたらしたユダヤ人たちのことを間違いなく連想させる「わたしたちの先祖」という表現を用いています。



そしてそれによってステファノ自身は、ユダヤ人たちに殺されたイエス・キリスト御自身の側ではなく、むしろイエス・キリストを殺したユダヤ人たちの側に立って、彼らと自分自身の連帯責任を表明しているのです。



ステファノはユダヤ人たちに対して、「あいつらが悪いのだ」と指差して言うのではなく、自分自身もユダヤ人の一人として、「わたしたちがイエスさまを殺したのだ」と語っているのです。



ところが、です。ステファノは次に、感動的な言葉を語っています。



「しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。」



「神はヨセフを離れず」。これは、「ヨセフは神を離れず」ではないところに大きな意味があるように思います。ヨセフの信心深さや努力の大きさは、問われていません。



神の側にどこまでも主導権(イニシアチブ)があり、神が恵みと憐れみの御手をもってヨセフを捉えて離さないでいてくださり、ヨセフ自身にどこまでも伴い続けてくださった様子が表現されているのです!



ヨセフは、ひどい目にあわされたのですから、たとえ絶望したとしても、誰も責めないであろうどころか、多くの人々の同情や共感を得ることができたでしょう。



しかし、ヨセフは絶望しませんでした。なぜ絶望しなかったのでしょうか。



神さまが、ヨセフを離れなかったからです!



神さまが、いつもヨセフと共にいてくださったからです!



ヨセフが「大臣」になったとか、飢饉の時代にエジプトの人々とヤコブの子ら(ヨセフを捨てた兄たち!)を政治家として救済した、という点は、もちろん大切なことです。



しかし、いわばもっと大切なことがある。それが、「神はヨセフを離れず」という点です。ヨセフの政治家としての成功や活躍は、神御自身がヨセフからお離れにならなかった結果として起こったことなのであって、その逆ではありません。



ステファノが語ろうとしていることは、単なるヨセフの立身出世物語(サクセスストーリー)ではありません。むしろ、ステファノは、ヨセフがたとえどのように困難で厳しい状況にあっても、「神が離れずにいてくださる」という事実があり、その事実を事実として信じる信仰があり、その神御自身がまさに生きて働いてくださり、たえず生ける真実の御言葉とみわざをとおして、現実の慰めと現実の励ましを与えてくださったので、彼が絶望することは全くなかったのだ、ということを語ろうとしているのです。



皆さんは、神さまが生きておられる、ということを信じておられますか。



皆さんは、人から見れば「絶望的な状況である」と思われても仕方がないだろうと自覚された場面には、たくさん遭遇されてきたことでしょう!



でも、そのとき絶望されましたか。



神の臨在が、そして、神の臨在を信じる信仰が、皆さんを励ましてくれたのではないでしょうか。



わたしたちも、同じように告白できるはずです。今、つらい思いを味わっている方ならば、なおさらです。



「神は、このわたし○○からも、離れることはない!」と(○○のところに自分の名前を入れて告白してください!)。



それだけで、ただそれだけで、ファイトが沸いてきます。



(2007年5月20日、松戸小金原教会主日礼拝)