2007年5月13日日曜日

「アブラハム・イサク・ヤコブの神」

使徒言行録7・1~8



今日の個所から始まっております、かなり長い説教は、ステファノという人物が語っているものです。このステファノはたいへん有名な人です。ステファノがどのことで有名なのかといいますと、この人こそが、長い二千年のキリスト教会の歴史のなかで最初に殉教の死を遂げた人である、という点で有名である、ということです。



このステファノは、先週学びましたとおり、教会の中で起こったある一つのトラブルをきっかけにして、そのトラブルに対処するために特別に選ばれた七人の教会役員の一人でした。その教会役員の職名を、先週私は「奉仕者」または「執事」と呼んでもよいと申し上げました。しかし、あとではっと気づいたことは、新共同訳聖書において彼らの職名は「奉仕者」とも「執事」とも書かれていないということです。少し説明が必要であるようだということに気づきました。



ステファノたち七人のことを「奉仕者」または「執事」と呼ぶことができるための根拠は、新共同訳聖書では、いくらか隠された形で出てきます。注目していただきたいのは、「日々の分配」(6・1)という言葉と、「食事の世話」(6・2)という言葉です。この「分配」の原語がディアコニア、また「世話」の原語がディアコネオーと言い、これがわたしたち改革派教会の中で「執事」(ディーコン)と呼んでいる職務の語源になっているのです。



ですから、わたしたちは安心して、ステファノのことを「執事」と呼んでもよいです。彼は使徒ではなく、また牧師でも長老でも神学者でもありません。しかし今日の個所から始まっている説教は、間違いなくステファノ執事が語ったものです。そしてこの説教者でもあるステファノ執事こそが、キリスト教会の歴史における最初の殉教者となった人なのです。



さて、ステファノの説教の内容に入っていく前に、このステファノの人となりについて書かれていることに触れておきます。三つあります。それは、第一に「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6・8)という点、第二に「彼〔ステファノ〕が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった」(6・10)という点、そして第三に「最高法院の席についていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」(6・15)という点です。



ただし、私は、この三つの点を別々に扱うつもりはありません。実は同じ一つの事柄が別の表現で言い直されている、と読むことができると考えております。そして、それは、難しいことではありません。キーワードは「恵みと力」、「知恵と霊」、「天使の顔」です。これらに共通していることは、いずれも、人間存在の外側から、あるいはこの地上世界の外側から、内側へと“入って来た”ものである、という点です。



「恵み」は神のプレゼントであり、ギフトです。「霊」は「聖霊なる神」です。「天使」は、聖書に登場する存在のなかでは最高度に謎めいている存在であるわけですが、少なくとも言えることは、彼らは人間ではないということです。天使とは神の被造物でありつつ、人間ではない、霊的な存在である、と説明されてきました。



それらが外側から入って来た、という意味は、もともとは無かったものである、ということです。「恵み」も「霊」も「天使の顔」も、また「力」や「知恵」でさえも、それらをステファノは、生まれたときから持っていたわけではありません。すべては神から与えられたものです。また、それらは、生まれたときからではないという意味で、あとから得たものです。そしてとりわけそれは、“信仰”によって、また “教会” (キリストの体!)を通して得たものなのです。



はっきり言いますと、神さまから信仰を与えられ、教会に連なっている人々すべてに、このステファノと同様の「恵み」と「霊」、そして「天使の顔」を与えられているのだ、ということです。もちろん、わたしたちもそうです。今お手元に鏡を持っておられるなら、ご覧になったらよいのです。皆さんの顔は「さながら天使の顔」のようです!



天使とはどんな顔なのかということを疑問に思う必要はありません。信仰をもって喜んで感謝して生きている人々の顔が「天使の顔」なのです。こういうことを私が言いますと、「わたしの顔は、とてもじゃないが天使のようではない」とお感じの方もおられるに違いありません。強いて言うとしたら、信仰の確かさの違い、あるいは信仰生活・教会生活に喜びを感じる度合いの違い(信仰の喜びの違い)が表情に現れているのです。しかしそれは、変わりうる要素です。



ただし、です。一つの点は、注意が必要かもしれません。結果的にそうなったという話ではあるのですが、このステファノに神さまから与えられていた「恵みと力」、「知恵と“霊”」、そして「天使の顔」がいわば招いた結果として、多くのユダヤ人たち、そしてまたしてもユダヤ教団の最高指導者たちの嫉妬や怒りを買うことになり、ステファノは逮捕されて、ユダヤ最高法院の場に引きずり出されることになってしまった、ということです。そして、6・11以下にありますとおり、ステファノは、でたらめな偽証を行う人間たちから、ありもしないことを言われたり、物理的な暴力を加えられたりしました。そして最終的には殉教という最悪の結果に至ってしまいました。



どの点に“注意が必要”なのでしょうか。それは、(半分くらいは冗談めかした言い方をするのをお許しいただきたいのですが!)、わたしたちが「天使の顔」をしていると、嫉妬や怒りを買うことにもなる、ということです。幸せそうな人を見ると嫌な気持ちがするという人が、必ず出てくるのです。信仰生活・教会生活が充実している人々、喜びと感謝に満たされている人々は、そうでない人々から憎まれることにもなるのです。



牧師などをしておりますと、他の人々よりも少し厳しい見方や言われ方をされる場合もあります。「“教会さん”なのだから、もうちょっとしっかりしてくださいよ」とか。なんとなくムカッときますが、教会の名誉のために抑えて抑えて。



だから、わたしたちは、いつも暗い顔をしていましょう、という話になるでしょうか。それは、いくらなんでも変な話でしょう。喜んでいる人が無理に暗い顔をしたり、怖い顔をしたり、無理に泣いたりする必要はないはずです。偽悪者ぶる必要も、格好つける必要もないはずです。



強いて言うならば、ステファノには、この種の格好つけのようなことが、一切なかったのです。もしかしたらステファノは、ちょっと子どもっぽい感じに見えたかもしれません。心の中にある信仰の喜び、救われた者としての喜びが、彼の表情や態度を通して、外側にはっきりと見えていたというのですから!天真爛漫で無邪気で明るい信仰者の姿が、目に浮かびます。



わたしたちは、わたしの信仰に対して、わたしの心の確信に対して、そして、わたしの救い主イエス・キリストに対して、正直であるべきです。たとえ迫害の危険があっても、です!



わたしたちもステファノのように信仰の喜びをもっと外側に表わしてよいのではないか。心理的なバリアーを解除すべきではないか。そのようなことを、ステファノの姿を通して考えさせられます。皆さんはどのようなご感想をお持ちでしょうか。



さて、それでは、ここからステファノの説教の内容を見ていきたいと思います。ただし、今日は最初の段落だけにとどめます。



「大祭司が、『訴えのとおりか』と尋ねた。そこで、ステファノは言った。『兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産も何もお与えになりませんでした。一歩の幅の土地さえも、しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」と約束なさったのです。神はこう言われました。「彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。」更に、神は言われました。「彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。」そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。』」



この説教の最初にステファノが引き合いに出しているのは、旧約聖書の創世記12章から36章まで続く、いわゆる族長物語です。信仰の父アブラハム、その子どもイサク、そしてイサクの子どもヤコブと三代続く信仰の家系の物語です。



ステファノが語っていることは、まさに旧約聖書・創世記に書かれているとおりのことです。物語のあらすじです。しかし、興味深いことは、ステファノのまとめ方、つまり、聖書の御言葉の要約の仕方が、とても上手である、ということです。こういうのは、ぜひ真似をしてみたいところです。学ぶべき点がたくさんあります。



家族や友達から「聖書ってどういう話なの?短く要約すると何なの?」と聞かれる機会があるかどうかは分かりません。しかし、あるとしたら、わたしたちは、それにきちんと答えなければなりません。その場合、長々だらだらと答えてはなりません。話のあらすじを正確にとらえて、短く的確な言葉で語らなければ、相手は聞く耳を持ってくれません。使徒言行録7章のステファノの説教は、新共同訳聖書で1500ページ以上もある旧約聖書のあらすじをたった3ページ(!)で要約してくれているという点で、たいへん貴重な文書である、と見ることが可能です。



なぜステファノは、アブラハム、イサク、ヤコブの話をもって、とくにアブラハムの話をもって、この説教を始めたのでしょうか。この説教のこの部分の意図がどこにあるかは明白です。ステファノがはっきりと見出しているのは、アブラハムの生涯における苦難の要素です。



アブラハムは、生まれ故郷、父の家を離れて、主なる神が「行け」とお命じになった町に出かけていきました。行く先も知らずに(ヘブライ11・8)です!要するに、家出です。これほど無謀なこと、危険なこと、そして、これほどでたらめなこと、いいかげんなことが、他にあるでしょうか。私なら、自分の息子や娘が、行く先も知らずに家を出て行くと言い出したら、体を張ってでも止めると思います。しかし、アブラハムは止まらない!



ところが、アブラハムは、神さまから「行け」と言われて行った町で、まとまった財産を全く手にすることができませんでした。「一歩の幅の土地さえも」!いわばまさに“その日暮らしの生活”です。いつ追い出されても文句を言えない。自分の所有の土地や、ある一定の財産を全く持たないことが、どれほどの不安であり、どれほどの苦しみであるかは、牧師という仕事をしている者(移動生活者!)には、少し分かります。



そのなかでアブラハムがひたすら頼ったのは、神さまだけでした。格好をつけるわけではなく、他にどうすることもできないという仕方で、アブラハムは、神に祈りましたし、神の約束をひたすら信じたのです。



「行け」と言われたのは神御自身なのだから、そして「あなたを祝福する」と約束してくださったのは神御自身なのだから、神は必ずその約束を実現してくださるであろう、とアブラハムは信じたのです。“信じること”だけが、アブラハムに残された最後の選択肢であり、希望だったのです。



そのことをステファノは語ろうとしています。当時のキリスト者たちの姿をアブラハムの姿に重ね合わせているのではないでしょうか。



われわれは、土地も財産も、何にも持っていない。



しかし、信仰がある!



信仰によって生かされている人生があり、喜びがある!



あなたがたに、それがあるのか、迫害者たちよ。



そのような問いかけを、読み取ることができるように思います。



(2007年5月13日、松戸小金原教会主日礼拝)