2007年5月27日日曜日

「モーセの召命と荒れ野の四十年」

使徒言行録7・17~43



今日は、ペンテコステ礼拝です。歴史的教会の誕生日です。この地上に教会が存在することの意義は、何でしょうか。わたしたちが毎週日曜日や別の日に教会に集まる意味は、何でしょうか。これらの問いの答えを求めつつ、今日の聖書の個所を読んでいきましょう。



今日もまた、先週に引き続き、ステファノの説教の内容を学びます。今日の個所に登場しますのは、モーセです。



モーセのおいたちと活躍を記した旧約聖書の書物は、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と、実に四つの書物に及びます。歴史的に果たした役割やその一人の人物を通して啓示された神御自身の御言葉の量や質から見て、実にモーセは、旧約聖書における最大の人物の一人であると言って、間違いありません。
 
「『神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。』」



17節から22節までに語られていますのは、モーセが生まれたときの時代的な背景と、その中でモーセがどのような境遇で生まれ、育てられたのかという点です。今日はあまり詳しい内容に踏み込んでお話しすることはできません。重要なことは、モーセが生まれたときの背景は、イスラエルの人々にとっては苦しみの時代であった、ということです。



その頃のイスラエル人たちは、エジプトの国の中で生活していましたが、次第に民の数が増え、力を持つようになってきたために、エジプト国王ファラオにとっては邪魔な存在となってきた。戦争が始まると、もしかしたらイスラエル人たちが寝返って、エジプトの敵となり、この国を征服するかもしれない。



そのような理由から、ファラオがイスラエル人たちに対して布いた政策は、彼らを奴隷状態に置くことでした。具体的には強制労働による虐待という方法が採られました。また、そのようなひどいことをするエジプト国王ファラオは、イスラエル人の家に生まれる男の子はすべてナイル川に放り込んで殺せ、という命令を出すまでに至りました。



その時代にイスラエル人の家に生まれたのがモーセでした。モーセは男の子ですから、ナイル川に投げ込まれなければならないところでしたが、神さまの不思議なご配慮により、生き延びました。そして(途中を省きますが)なんとファラオの王女に拾われて、王女の子どもとして育てられることになったのです。



これはモーセの話です。しかし、ここでこそ先週わたしが申し上げましたことを、思い起こしていただきたいのです。説教を聴きながらいろんなことを考えてください。わたしたち自身のこと、家族のこと、また周りにいる多くの人々のことを考えてください。



わたしたちは、モーセとは全く違う時代状況の中に生まれ育ちましたので、比較はできないかもしれません。しかし、皆さんの中には、お生まれになったとき、戦争の真っ只中であったという方が大勢おられます。辛い体験を通り抜けてきた、という方が大勢おられます。モーセと同じように、生んだ親とは別の親に育てられたという方が、この中におられるかどうかは問わないでおきます。



生きるとは、つらいものです。楽しいことばかりではありません。顔では笑って、心で泣いている。そのような人は、大勢いるのです。



イスラエルの人々は、真の神を信じる人々でした。同じ神を信じない、神などそもそも信じない、そのような政治家によって彼らは徹底的に苦しめられました。歴史的に見れば、キリスト教に対して不寛容であり続け、今もそうであるこの国、日本の中でのキリスト者の存在とイスラエルの人々の姿は、いくらか似ている面があるのではないでしょうか。



わたしたちにとって、モーセは、全く赤の他人かもしれません。しかし、彼の生涯には、わたしたち自身の人生を深く考えるきっかけを与えてくれる、多くの材料があるのです。



「『そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。「君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。」すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。」モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。』」



23節から29節までに語られていますのは、モーセが四十歳のときに体験した、一つの大きな出来事です。だいたい、今のわたしくらいの年齢です。若いといえば若い。しかし、だんだん社会的な責任を負わされていく頃です。



その出来事の内容は、ステファノが語っているとおりです。モーセは、エジプト人から虐待を受けていたイスラエル人を助けたいと思うあまり、虐待行為をしていたエジプト人を殺してしまいました。それが良いことであると、モーセは確信していました。ところが、その事件はモーセにとっては意外な結末を迎えることになりました。それは、彼が助けたはずのイスラエル人から恐れられ、嫌われ、憎まれるという結末でした。



仲間を助けるためならば、殺人をも厭わない。尊い目的のためには、どのような手段を用いても構わない。このような考えをもっていたに違いないモーセは、自分の手で助けた人自身から憎まれる、という厳しい裁きを受けることになったのです。



ここでまた、わたしたち自身のことを振り返って考えてみましょう。皆さんの人生の中で、こうすることこそが正しいことであり、多くの人々もきっと理解してくれるだろうと確信して行ったことによって人を傷つけてしまったとか、空回りしてしまったとか、全く予想外の落とし穴にはまってしまった、ということが、なかったでしょうか。



若気の至り、という言葉で済ませてよいかどうかは分かりません。モーセにも空振り・空回りの時代があった、ということです。この出来事が、モーセの生涯の中で重大な意味を持ち続けたことは、間違いありません。



「『四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。そのとき、主はこう仰せになりました。「履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。」人々が、「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。』」



30節から35節までに語られていますのは、四十歳のときからさらに四十年たったとき(つまり八十歳のとき)に出会った出来事です。それは、主なる神の声を聞いた、という出来事です。



これを「召命」(calling)と呼びます。神から呼ばれることです。それは、このわたしのために備えられた神の御心を知ることであり、また、わたしが神とこの世の中でどのような働きと役割を果たすことがふさわしいのかを自覚し、そのためにこの身を献げること、まさに“献身”することです。召命や献身は「牧師になること」だけを意味しているわけではありません。神の御心に従って生きるすべての人に、当てはまることです。



モーセは、神さまから「履物を脱げ」と言われました。神を畏れる態度を具体的に示せ、という意味ではないでしょうか。そしてモーセは「さあ、今あなたをエジプトに遣わそう」とも言われました。エジプトにいるイスラエル人たちを助けるためです。主なる神御自身がモーセを遣わしてくださいました。神御自身が、奴隷の家エジプトから約束の地カナンまでイスラエルの民を率いていく指導者として、モーセを選んでくださったのです。



ここで再びわたしたちの姿を顧みてみましょう。何をやっても空振り・空回り、良かれと思って行った親切が裏目に出て、人から文句を言われたり、嫌われたり、相手との人間関係が壊れてしまった。そのとき、わたしたちの心の中にあるものは何でしょうか。自分が良いことをしている、という傲慢な思いではないでしょうか。



そのときに大切なことは、神さまの御心は何かを知ることです。そして、この神というお方の召命に応えて生きること、神の御心に従って生きることが重要です。それは、このわたしが良いことをしている、という生き方とは、根本的に異なるものです。



先週の個所で、ステファノがヨセフについて語っていたのは、「神がヨセフを離れず」ということでした。ヨセフが神から離れず、ではないと申しました。神がモーセを遣わしてくださったというときの主導権は、常に神にあります。モーセは何もしていないという話ではありません。しかし、主なる神さまの御前で徹底的に謙遜であることが求められます。傲慢な思いは、神御自身に打ち砕いていただかなければならないのです。



「『この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。「神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。」この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。「わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。」彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。「イスラエルの家よ、お前たちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え物を献げたことがあったか。お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる。」』」



36節から43節までに語られていますのは、エジプトから脱出したモーセとイスラエルの民による荒れ野の四十年の様子です。彼らはエジプトを出た後、約束の地カナンに入るまで、なんと四十年もかかったのです。距離の問題ではありません。歩くと四十日で辿り着く距離であると言われます。問題は、彼らの信仰であった、というのが聖書の見方です。荒れ野の四十年を通して、神御自身が、彼らの信仰をお試しになったのです。彼らの信仰が強くなるように、神御自身が訓練してくださったのです。



38節の「命の言葉」が、いわゆるモーセの十戒であり、もろもろの律法です。律法は、とりわけ十戒は、命の言葉です。わたしたちすべての人間が神の御前にあって正しく誠実に生きていくために必要な言葉です。生活の言葉であり、人生の言葉です。



この命の言葉をモーセがシナイ山で神さまから授かっている最中に、山のふもとでは、モーセの兄弟アロンを中心に偶像礼拝が行われていたという話も出てきます。この話には続きがあります。ステファノは語っていませんが、山から降りてきたモーセがアロンたちの偶像礼拝の様子を見てかんかんに怒り、拝まれていた偶像(金の子牛)をぶっ壊して、粉々にして、その人々の口の中に流し込んで飲ませた、という恐ろしい話が、出エジプト記32章に出てきます。



「親の心、子知らず」。神さまの御心を神の子どもたちは、正しく聞こうとしないのです。日曜日の礼拝では神さまを力強く賛美する。家に帰った途端、すべてをすっかり忘れる。こういうことは、昔から繰り返されてきたことです。



しかし、です。そうであるからこそ、わたしたちには、教会というものが必要なのです。一回聞いたくらいでは覚えられない、忘れっぽい人間(わたしのことです!)のために、教会があるのです。わたしたちが定期的に教会に通う意味は、これです。



松戸小金原教会の歴史は、やや複雑な面がありますが、ときわ平団地での伝道開始の年(1965年)から数えると、四十年を過ぎたところです。



1965年生まれの私には、まだ語ることが許されていない言葉かもしれません。しかし、あえて申します。教会が教会らしくなるためには、少なくとも四十年はかかるのではないでしょうか。四十年くらいすれば、「ようやく教会らしくなった」ということが言えるようになるのではないでしょうか。もちろん、この「四十年」は象徴的な意味を含んでいます。すべての教会に「荒れ野の四十年」が必要なのです。



わたしたちが、さまざまな苦労を体験し、主の訓練を受けてきたことが、無駄に終わることはありません。



ステファノの説教を読みながら教えられることは、このようなことです。



(2007年5月27日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年5月20日日曜日

「神はヨセフを離れず」

使徒言行録7・9~16



今日も先週に引き続き、キリスト教会最初の殉教者となったステファノの説教を学んで行きたいと思います。



この説教の直後に、ステファノは殺されました。その意味で、この説教はステファノの遺言です。この人の生涯の最期に語られた言葉です。



今日の個所でステファノが取り上げていますのは旧約聖書の創世記の物語です。ヨセフという名前が出てきます。創世記37章から50章まで続くいわゆる「ヨセフ物語」です。



ヨセフ物語の詳細な内容につきましては、直接創世記をお読みいただきたいと思います。とても長い、そして非常に感動的な物語です。私は、新共同訳聖書に変えたことによって、最も読みやすく、また強い感動を覚えるようになったのは、このヨセフ物語です。



ヨセフ物語自体は長いものですが、ステファノは、それを短い言葉で要約しています。ステファノの要約する能力は、非常に優れています。



「この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。」



ここで気になるのは、「この族長たち」(7・9)という表現です。また、続く個所に二度繰り返されている「わたしたちの先祖」(7・10、15)という表現です。



これはイスラエルという名前でも呼ばれたヤコブの、子どもたちのことです。ヤコブの子どもは、12人いました。そしてヨセフもヤコブの子どもであり、12人のうちの11番目に生まれたのですが、「この族長たちはヨセフをねたんで」とありますので、「この族長たち」の中にはヨセフは含まれませんし、また、ヨセフの弟ベニヤミンも含まれないと考えるべきですので、「この族長たち」の人数は10人である、と考えるのが適当でしょう。



この10人の族長たちのことを、ステファノは、「わたしたちの先祖」とも呼んでいます。これで分かることの第一は、ステファノ自身も生粋のユダヤ人であったということです。



第二は、「わたしたちの先祖」である「この族長たち」は、ヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまったと語ることにおいてステファノは、「わたしたちの先祖」に対して明らかに少し距離を置いており、またかなり強く批判的な思いを抱いている、ということです。



しかしまた、第三に、そのように批判的な思いを抱いている相手が「わたしたちの先祖」であると語る点でステファノは、まさにステファノ自身の先祖であるヤコブの子どもたちが犯した罪というものを他人事のようには考えず、むしろ、先祖たちの犯した罪の責任を自ら負うという仕方で、ある種の連帯責任を表明しているように読める、ということです。



ヨセフをエジプトへ売るとは、れっきとした一人の人間であるヨセフをエジプトの奴隷商人相手に売り渡した、という意味であり、人身売買を行ったということであり、要するに“人間をお金に換えた”ということです。



もっとも、創世記の記事を細かく見ていきますと、「ミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった」(創世記37・28)とあり、ヨセフを売ったのは兄たちではなく、たまたま通りかかったミディアン人であった、と読めることなども書いてありますので、少し注意深く語るほうがよいかもしれません。



とはいえ、ヨセフが明らかに、実の兄たちから辱めを受けたという点は否定できません。ヨセフはまさに心も体も深く傷つけられました。



もっとも、長男ルベンは、いくらか弟思いのところがありました。他の兄弟がヨセフを傷つけていたときに、ルベン一人が反対してヨセフを庇おうとする場面なども出てきます。



しかし、そのあたりの細かいことはステファノの説教の中では取り上げられていません。むしろ、強く前面に出して語られていることは、「わたしたちの先祖」がヨセフに対して罪を犯した、という点です。



そして、その罪の責任をこのわたしも受け継いでいるという自覚が「わたしたちの先祖」である「この族長たち」が、ヨセフをエジプトへ売ってしまった、という言葉の中に詰め込まれているのです。



ところで、「わたしたちの先祖」によってエジプトに売られてしまった“ヨセフ”とは、はたして“誰”のことでしょうか。あるいは「わたしたちの先祖」とは“誰”のことなのでしょうか。それはどういうことか。ヨセフは、もちろんヨセフです。それ以外の誰でもありません。しかし、ステファノは、ここで明らかに、ヨセフの話をしながらも、「わたしたちの先祖」ユダヤ人たちによって辱めを受けた、もうひとりの人のことを思い浮かべているように思われるのです。



説教とはしばしば、そのような仕方で語られるものです。純粋に聖書の御言葉を語りながら、目の前にいる一人一人のことを心配したり考えたりしながら語っているところが、必ずあります。



ですから、わたしは皆さんに、説教中はいろいろ余計なことを考えてください、と言いたいのです。説教の目的は、聖書のみことばを記憶することではなく、聖書のみことばを読みながらいろんなキーワードがあることに気づかされ、そこからいろいろと連想される自分自身の実際の生活や人生について、あれこれと思い巡らすことなのです。



さて、それでは“ヨセフ”とは、誰のことでしょうか。それは、おそらくわたしたちの救い主イエス・キリストのことです。そして“わたしたちの先祖”とは、誰か。おそらくイエスさまを十字架にかけて殺したユダヤ人たちを指している、と考えることができるのです。



ここでステファノは、イエス・キリストに苦しみと死をもたらしたユダヤ人たちのことを間違いなく連想させる「わたしたちの先祖」という表現を用いています。



そしてそれによってステファノ自身は、ユダヤ人たちに殺されたイエス・キリスト御自身の側ではなく、むしろイエス・キリストを殺したユダヤ人たちの側に立って、彼らと自分自身の連帯責任を表明しているのです。



ステファノはユダヤ人たちに対して、「あいつらが悪いのだ」と指差して言うのではなく、自分自身もユダヤ人の一人として、「わたしたちがイエスさまを殺したのだ」と語っているのです。



ところが、です。ステファノは次に、感動的な言葉を語っています。



「しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。」



「神はヨセフを離れず」。これは、「ヨセフは神を離れず」ではないところに大きな意味があるように思います。ヨセフの信心深さや努力の大きさは、問われていません。



神の側にどこまでも主導権(イニシアチブ)があり、神が恵みと憐れみの御手をもってヨセフを捉えて離さないでいてくださり、ヨセフ自身にどこまでも伴い続けてくださった様子が表現されているのです!



ヨセフは、ひどい目にあわされたのですから、たとえ絶望したとしても、誰も責めないであろうどころか、多くの人々の同情や共感を得ることができたでしょう。



しかし、ヨセフは絶望しませんでした。なぜ絶望しなかったのでしょうか。



神さまが、ヨセフを離れなかったからです!



神さまが、いつもヨセフと共にいてくださったからです!



ヨセフが「大臣」になったとか、飢饉の時代にエジプトの人々とヤコブの子ら(ヨセフを捨てた兄たち!)を政治家として救済した、という点は、もちろん大切なことです。



しかし、いわばもっと大切なことがある。それが、「神はヨセフを離れず」という点です。ヨセフの政治家としての成功や活躍は、神御自身がヨセフからお離れにならなかった結果として起こったことなのであって、その逆ではありません。



ステファノが語ろうとしていることは、単なるヨセフの立身出世物語(サクセスストーリー)ではありません。むしろ、ステファノは、ヨセフがたとえどのように困難で厳しい状況にあっても、「神が離れずにいてくださる」という事実があり、その事実を事実として信じる信仰があり、その神御自身がまさに生きて働いてくださり、たえず生ける真実の御言葉とみわざをとおして、現実の慰めと現実の励ましを与えてくださったので、彼が絶望することは全くなかったのだ、ということを語ろうとしているのです。



皆さんは、神さまが生きておられる、ということを信じておられますか。



皆さんは、人から見れば「絶望的な状況である」と思われても仕方がないだろうと自覚された場面には、たくさん遭遇されてきたことでしょう!



でも、そのとき絶望されましたか。



神の臨在が、そして、神の臨在を信じる信仰が、皆さんを励ましてくれたのではないでしょうか。



わたしたちも、同じように告白できるはずです。今、つらい思いを味わっている方ならば、なおさらです。



「神は、このわたし○○からも、離れることはない!」と(○○のところに自分の名前を入れて告白してください!)。



それだけで、ただそれだけで、ファイトが沸いてきます。



(2007年5月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年5月13日日曜日

「アブラハム・イサク・ヤコブの神」

使徒言行録7・1~8



今日の個所から始まっております、かなり長い説教は、ステファノという人物が語っているものです。このステファノはたいへん有名な人です。ステファノがどのことで有名なのかといいますと、この人こそが、長い二千年のキリスト教会の歴史のなかで最初に殉教の死を遂げた人である、という点で有名である、ということです。



このステファノは、先週学びましたとおり、教会の中で起こったある一つのトラブルをきっかけにして、そのトラブルに対処するために特別に選ばれた七人の教会役員の一人でした。その教会役員の職名を、先週私は「奉仕者」または「執事」と呼んでもよいと申し上げました。しかし、あとではっと気づいたことは、新共同訳聖書において彼らの職名は「奉仕者」とも「執事」とも書かれていないということです。少し説明が必要であるようだということに気づきました。



ステファノたち七人のことを「奉仕者」または「執事」と呼ぶことができるための根拠は、新共同訳聖書では、いくらか隠された形で出てきます。注目していただきたいのは、「日々の分配」(6・1)という言葉と、「食事の世話」(6・2)という言葉です。この「分配」の原語がディアコニア、また「世話」の原語がディアコネオーと言い、これがわたしたち改革派教会の中で「執事」(ディーコン)と呼んでいる職務の語源になっているのです。



ですから、わたしたちは安心して、ステファノのことを「執事」と呼んでもよいです。彼は使徒ではなく、また牧師でも長老でも神学者でもありません。しかし今日の個所から始まっている説教は、間違いなくステファノ執事が語ったものです。そしてこの説教者でもあるステファノ執事こそが、キリスト教会の歴史における最初の殉教者となった人なのです。



さて、ステファノの説教の内容に入っていく前に、このステファノの人となりについて書かれていることに触れておきます。三つあります。それは、第一に「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6・8)という点、第二に「彼〔ステファノ〕が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった」(6・10)という点、そして第三に「最高法院の席についていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」(6・15)という点です。



ただし、私は、この三つの点を別々に扱うつもりはありません。実は同じ一つの事柄が別の表現で言い直されている、と読むことができると考えております。そして、それは、難しいことではありません。キーワードは「恵みと力」、「知恵と霊」、「天使の顔」です。これらに共通していることは、いずれも、人間存在の外側から、あるいはこの地上世界の外側から、内側へと“入って来た”ものである、という点です。



「恵み」は神のプレゼントであり、ギフトです。「霊」は「聖霊なる神」です。「天使」は、聖書に登場する存在のなかでは最高度に謎めいている存在であるわけですが、少なくとも言えることは、彼らは人間ではないということです。天使とは神の被造物でありつつ、人間ではない、霊的な存在である、と説明されてきました。



それらが外側から入って来た、という意味は、もともとは無かったものである、ということです。「恵み」も「霊」も「天使の顔」も、また「力」や「知恵」でさえも、それらをステファノは、生まれたときから持っていたわけではありません。すべては神から与えられたものです。また、それらは、生まれたときからではないという意味で、あとから得たものです。そしてとりわけそれは、“信仰”によって、また “教会” (キリストの体!)を通して得たものなのです。



はっきり言いますと、神さまから信仰を与えられ、教会に連なっている人々すべてに、このステファノと同様の「恵み」と「霊」、そして「天使の顔」を与えられているのだ、ということです。もちろん、わたしたちもそうです。今お手元に鏡を持っておられるなら、ご覧になったらよいのです。皆さんの顔は「さながら天使の顔」のようです!



天使とはどんな顔なのかということを疑問に思う必要はありません。信仰をもって喜んで感謝して生きている人々の顔が「天使の顔」なのです。こういうことを私が言いますと、「わたしの顔は、とてもじゃないが天使のようではない」とお感じの方もおられるに違いありません。強いて言うとしたら、信仰の確かさの違い、あるいは信仰生活・教会生活に喜びを感じる度合いの違い(信仰の喜びの違い)が表情に現れているのです。しかしそれは、変わりうる要素です。



ただし、です。一つの点は、注意が必要かもしれません。結果的にそうなったという話ではあるのですが、このステファノに神さまから与えられていた「恵みと力」、「知恵と“霊”」、そして「天使の顔」がいわば招いた結果として、多くのユダヤ人たち、そしてまたしてもユダヤ教団の最高指導者たちの嫉妬や怒りを買うことになり、ステファノは逮捕されて、ユダヤ最高法院の場に引きずり出されることになってしまった、ということです。そして、6・11以下にありますとおり、ステファノは、でたらめな偽証を行う人間たちから、ありもしないことを言われたり、物理的な暴力を加えられたりしました。そして最終的には殉教という最悪の結果に至ってしまいました。



どの点に“注意が必要”なのでしょうか。それは、(半分くらいは冗談めかした言い方をするのをお許しいただきたいのですが!)、わたしたちが「天使の顔」をしていると、嫉妬や怒りを買うことにもなる、ということです。幸せそうな人を見ると嫌な気持ちがするという人が、必ず出てくるのです。信仰生活・教会生活が充実している人々、喜びと感謝に満たされている人々は、そうでない人々から憎まれることにもなるのです。



牧師などをしておりますと、他の人々よりも少し厳しい見方や言われ方をされる場合もあります。「“教会さん”なのだから、もうちょっとしっかりしてくださいよ」とか。なんとなくムカッときますが、教会の名誉のために抑えて抑えて。



だから、わたしたちは、いつも暗い顔をしていましょう、という話になるでしょうか。それは、いくらなんでも変な話でしょう。喜んでいる人が無理に暗い顔をしたり、怖い顔をしたり、無理に泣いたりする必要はないはずです。偽悪者ぶる必要も、格好つける必要もないはずです。



強いて言うならば、ステファノには、この種の格好つけのようなことが、一切なかったのです。もしかしたらステファノは、ちょっと子どもっぽい感じに見えたかもしれません。心の中にある信仰の喜び、救われた者としての喜びが、彼の表情や態度を通して、外側にはっきりと見えていたというのですから!天真爛漫で無邪気で明るい信仰者の姿が、目に浮かびます。



わたしたちは、わたしの信仰に対して、わたしの心の確信に対して、そして、わたしの救い主イエス・キリストに対して、正直であるべきです。たとえ迫害の危険があっても、です!



わたしたちもステファノのように信仰の喜びをもっと外側に表わしてよいのではないか。心理的なバリアーを解除すべきではないか。そのようなことを、ステファノの姿を通して考えさせられます。皆さんはどのようなご感想をお持ちでしょうか。



さて、それでは、ここからステファノの説教の内容を見ていきたいと思います。ただし、今日は最初の段落だけにとどめます。



「大祭司が、『訴えのとおりか』と尋ねた。そこで、ステファノは言った。『兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、そこでは財産も何もお与えになりませんでした。一歩の幅の土地さえも、しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」と約束なさったのです。神はこう言われました。「彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。」更に、神は言われました。「彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。」そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。』」



この説教の最初にステファノが引き合いに出しているのは、旧約聖書の創世記12章から36章まで続く、いわゆる族長物語です。信仰の父アブラハム、その子どもイサク、そしてイサクの子どもヤコブと三代続く信仰の家系の物語です。



ステファノが語っていることは、まさに旧約聖書・創世記に書かれているとおりのことです。物語のあらすじです。しかし、興味深いことは、ステファノのまとめ方、つまり、聖書の御言葉の要約の仕方が、とても上手である、ということです。こういうのは、ぜひ真似をしてみたいところです。学ぶべき点がたくさんあります。



家族や友達から「聖書ってどういう話なの?短く要約すると何なの?」と聞かれる機会があるかどうかは分かりません。しかし、あるとしたら、わたしたちは、それにきちんと答えなければなりません。その場合、長々だらだらと答えてはなりません。話のあらすじを正確にとらえて、短く的確な言葉で語らなければ、相手は聞く耳を持ってくれません。使徒言行録7章のステファノの説教は、新共同訳聖書で1500ページ以上もある旧約聖書のあらすじをたった3ページ(!)で要約してくれているという点で、たいへん貴重な文書である、と見ることが可能です。



なぜステファノは、アブラハム、イサク、ヤコブの話をもって、とくにアブラハムの話をもって、この説教を始めたのでしょうか。この説教のこの部分の意図がどこにあるかは明白です。ステファノがはっきりと見出しているのは、アブラハムの生涯における苦難の要素です。



アブラハムは、生まれ故郷、父の家を離れて、主なる神が「行け」とお命じになった町に出かけていきました。行く先も知らずに(ヘブライ11・8)です!要するに、家出です。これほど無謀なこと、危険なこと、そして、これほどでたらめなこと、いいかげんなことが、他にあるでしょうか。私なら、自分の息子や娘が、行く先も知らずに家を出て行くと言い出したら、体を張ってでも止めると思います。しかし、アブラハムは止まらない!



ところが、アブラハムは、神さまから「行け」と言われて行った町で、まとまった財産を全く手にすることができませんでした。「一歩の幅の土地さえも」!いわばまさに“その日暮らしの生活”です。いつ追い出されても文句を言えない。自分の所有の土地や、ある一定の財産を全く持たないことが、どれほどの不安であり、どれほどの苦しみであるかは、牧師という仕事をしている者(移動生活者!)には、少し分かります。



そのなかでアブラハムがひたすら頼ったのは、神さまだけでした。格好をつけるわけではなく、他にどうすることもできないという仕方で、アブラハムは、神に祈りましたし、神の約束をひたすら信じたのです。



「行け」と言われたのは神御自身なのだから、そして「あなたを祝福する」と約束してくださったのは神御自身なのだから、神は必ずその約束を実現してくださるであろう、とアブラハムは信じたのです。“信じること”だけが、アブラハムに残された最後の選択肢であり、希望だったのです。



そのことをステファノは語ろうとしています。当時のキリスト者たちの姿をアブラハムの姿に重ね合わせているのではないでしょうか。



われわれは、土地も財産も、何にも持っていない。



しかし、信仰がある!



信仰によって生かされている人生があり、喜びがある!



あなたがたに、それがあるのか、迫害者たちよ。



そのような問いかけを、読み取ることができるように思います。



(2007年5月13日、松戸小金原教会主日礼拝)





2007年5月6日日曜日

「知恵と霊によって語る」

使徒言行録6・1~15



「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。さて、ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。」



今日お読みしました範囲(使徒言行録6・1~15)には、大きく分けると、二つのことが記されています。いずれも、二千年前のエルサレム教会の話です。



第一に記されている事柄は、教会が成長していった結果、なかば必然的に起こってきた出来事です。それは、はっきり言えば、教会内のトラブルと、そのトラブルの処理です。人間の集まりとしての教会には、人間の数だけトラブルが起こる可能性があります。その意味の「必然的」です。



第二に記されている事柄は、その教会内のトラブルを適切に処理し対応するという目的のために、教会がよりしっかりとした制度を持つようになった、ということです。



具体的に言えば、十二人の使徒たちのほかに、そのころ新たに起こってきた問題を専門的に扱う七人の奉仕者(執事)を、教会の役員会に加えることになった、ということです。ごく分かりやすく言えば、ある出来事をきっかけにして、教会の役員会が十二人から七人増えて十九人になった、ということです。



この二つの事柄はスムーズにつながっていなくてはなりません。悪い例があるとしたら、それは、第一の事柄が現実に存在するのに、第二の事柄が動き出さないことです。つまり、教会内に明らかにトラブルが起こっているのに、トラブルを処理する責任を教会がとろうとしないこと、です。



二千年前のエルサレム教会は、この点においてきちんとしていたということが、今日の個所から分かります。とくに注目していただきたいと願いますのは次の点です。それは、新しく起こってきた問題やトラブルの処理を担当するための新しい役員を選ぶ、ということは、逆に考えますと、新しい問題が起こったときに、従来の役員会がその問題のすべてを抱え込んでしまおうとしなかった、ということを意味している、ということです。



それは、旧役員会(今日の個所の場合は「十二使徒」)による責任の放棄ではありません。むしろ逆です。「われわれにはその面の責任までは負い切れない」ということを率直に認め、自分たち以外の多くの人々の助けを求めることは、勇気が要ることです(なぜなら、自分たちの弱さや限界を告白せざるをえませんので)。しかし、そのような態度こそが、教会においては、ふさわしいのです。



反対に、自分たちにはその責任を負いきることができそうもないことが明白であるにもかかわらず、何でもかんでも自分たちで抱え込んでしまい、結局何もできなかったということのほうが、よほど無責任です。



新しい仲間を得ること、その人々の助けを求めること、その人々に仕事を任せることは、なるほどたしかに、たいへんなことであり、またしんどいことでもあります(なぜなら、その人々を“育てる”必要が生じますので)。



しかし、長い目で見ると、そのようなことこそが教会が歴史的な歩みを続けていくために最も重要なことである、ということが分かるでしょう。



私が願うことは、今日の個所は、今私が申し上げたような意味で理解されてほしい、ということです。なぜこのような言い方をするのかといいますと、今日の個所は誤解を生む恐れがあると感じるからです。とくに誤解を生みやすいと思われるのは、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」から始まり、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」で終わる、使徒の言葉です。



「御言葉の奉仕」とは、説教のことです。またそこには説教を支える神学や教理の研究のことを含むと言ってもよいでしょう。その場合に起こりうる誤解とは、「御言葉の奉仕」と「食事の世話」を、上と下の関係に置く、ということです。



説教の仕事や神学の研究は、上の仕事。それはわたしたち上に立つ人間の仕事。食事の世話などは、下の仕事。取るに足りない、どうでもいい仕事は、シモジモのあなたがた、お願いね。このような(ひどい)考え方に基づいて、十二使徒が七人の奉仕者を選ぶことを願ったわけではない、ということを、どうかご理解いただきたいのです。



当時のエルサレム教会内に起こった問題とは、要するに、経済的な面のトラブルでした。「ギリシア語を話すユダヤ人」とは、いわば帰国子女です。この中に使徒パウロ(サウロ)も含まれます。パウロはギリシア語もヘブライ語も、ひょっとしたらラテン語も使うことができた、語学の達人であった、と考えられています。



それに対して、「ヘブライ語を話すユダヤ人」とは、(実際にはアラム語と呼ばれる言語を使用していましたが)、いわゆる土着(ネイティブ)のユダヤ人のことを指しています。両者がエルサレム教会内に共存していたようですが、あまりうまく行っていなかったようです。言葉、文化、生活習慣や生活スタイルなどに違いがあったからではないでしょうか。



それに対して、十二使徒たちは、基本的に生まれも育ちもパレスティナ。ギリシア語の勉強くらいはしていたとは思いますが、あまり得意でなかったと考えられますし、当時のエルサレム教会の日常言語はヘブライ語(アラム語)であり、ギリシア語ではなかったと思われます。



そういう場合には、使徒たちの立場からすればヘブライ語を話すユダヤ人たちに対して意識的・意図的にえこひいきをしていたわけではないとしても、実際的な判断においてはいろんな点で偏ってしまうということが起こっていたのではないでしょうか。これは具体的な例を挙げなくても理解していただけることだと思います。



また、重要な点は、この教会に起こった問題は、「日々の分配」のことであり、「仲間のやもめが軽んじられる」というような、要するに、とても複雑で微妙でデリケートな問題であった、ということです。なぜ「やもめ」なのかについてもいくつかの説明があるようですが、当時のパレスティナにも(今日と同じく!)ひっきりなしに戦争が起こっていて、軍隊に借り出されて戦死した夫の妻たちの生活を、教会が支援していたというのが、有力な説明です。



そのように、教会は、いわばただ単に礼拝だけを行っていたとか、説教だけをしていたとか、神学の研究だけをしていたというような事情には全くなく、むしろ事情は正反対なのであって、まさに複雑で微妙でデリケートな個人や社会のさまざまな問題に取り組んでいたのだと考えることができるのです。



また教会の中の経済的な問題とは、要するに献金の扱いの問題です。まさに複雑で微妙でデリケートな問題です。ここで絶対に誤解されたくないと思いますことは次のことです。それは、説教の仕事は上、お金の扱いや食事の世話は下、というような物の見方は、全く間違っている、ということです。そして、そのような間違ったことを、十二使徒たちは、決して考えていたわけではない、ということです。



彼らは、むしろ、自分たちにできることの限界を、よく知っていたのです。説教の準備や実践にも、多くの時間や力が必要です。かたや、ここに出てくる意味での「日々の分配」や「食事の世話」にも、多くの時間や力が必要です。はっきりしていることは、両方とも片手間でできるようなことではなく、また両方とも非常に重要な仕事である、ということです。だからこそ、お互いに分業する必要が生じた。それは、使徒たちの側から言えば、「日々の分配」や「食事の世話」は教会においては非常に重要な事柄であるという思いがあったからこその分業案であったに違いない、と考えることができるわけです。



もっとも、このようなことは、松戸小金原教会のように、しばしば食事会を開いたり、バザーを開いたりしている教会では至極当然のこととして受け入れていることです。口を酸っぱくして強調して語る必要のないことです。



ただし、です。ここでちょっと立ち止まって考えるほうがよさそうなことが、書かれています。それは、使徒たちの提案に基づいて選ばれた七人の奉仕者(執事)たちは、彼らの選挙の前に教会があらかじめ定めた選考基準においても、また選挙の結果においても、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」、あるいは「信仰と聖霊に満ちている人」が選ばれたという点です。



そして、それでは、その人々の内に満ち満ちていた「霊と知恵」あるいは「信仰と聖霊」というものは、実際にはどのように用いられたのかということも具体的に書かれています。その例として紹介されているのが、七人の奉仕者(執事)の筆頭に名を挙げられている、ステファノという人物です。



ここに明らかにされていることは、ステファノに限って言えば、この人物に与えられた「霊と知恵」あるいは「信仰と聖霊」が具体的な場面で最も力を発揮したのは、「語ること」においてであった、ということです。



「霊と知恵によって語る」。つまり、彼らが最も力を発揮したのは、御言葉を語ることにおいてであり、また救い主イエス・キリストの福音の反対者や教会の迫害者に対する徹底的な議論を行うことにおいてであったということです。つまり、彼らは、そのこと(語ること)を、彼ら自身の役割である日々の分配や食事の世話もしながら、同時に行っていた、と考えることができるのです。



このことから私が申し上げたいことは、少し厳しい言い方になるかもしれないことです。それは、「私は牧師や長老ではないので御言葉を語る必要はない」という話は、ステファノの例から言えば、成り立たない理屈である、ということです。



明らかなことは、教会の中での分業は悪い意味での“縄張り意識”のようなものとは無関係であるということです。すべての人がこの説教壇の上から御言葉を語るかどうかはともかく、教会の中であれ外であれ、神の御言葉を熱心に学び、教え、宣べ伝えることにおいては、「私は牧師や長老ではないから、そういうことはしなくてもよい」とか、「勘弁してください」と断る理由はありません、ということです。



使徒が「祈りと御言葉の奉仕に専念することにした」と言っているのは、教会のみんなから祈りと御言葉(を語る権利)を奪い、悪い意味で“独占”するためではありません。



伝道は、教会全体の仕事です。そのことを確認しておきます。



(2007年5月6日、松戸小金原教会主日礼拝)