2006年9月24日日曜日

「仕える者のようになりなさい」

ルカによる福音書22・24~30



「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」



議論「も」起こったとあります。なぜ「も」なのかと言いますと、前回の個所の最後に、ひとつめの議論が記されているからです。今日の個所の議論は、ふたつめです。



ひとつめの議論はイエスさまがお語りになったみことばに対する反応です。



イエスさまは、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」とおっしゃいました。もちろん、イエスさまが指摘しておられるのは、イスカリオテのユダの裏切りです。それに対して、弟子たちは、自分たちのうち、いったいだれがそんなことをしようとしているのかと、互いに議論をしはじめたのです。



弟子たちは、いつも一緒にいたはずのユダの裏切りに全く気づかず、だれが裏切るのだろうかと議論する。そのあまりの鈍感さは、深刻です。



最後の晩餐の席には、ユダ自身も座っていました。ところが、イエスさまは、御自身の目の前にいる裏切り者に対してもパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いてお与えになり、またぶどう酒の杯をも同じようにしてお与えになりました。ユダは、イエスさまを裏切りました。しかし、そのユダをイエスさまは愛しておられたのです。



それが、ひとつめの議論の内容です。イエスさまを裏切るのはだれなのか。つまりそれは、最低(ワースト)の弟子はだれか、という議論であった、と言えるでしょう。



それに対して、今日の個所に記されている「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」という議論は、要するに、最低(ワースト)とは正反対の、いわば最高(ベスト)の弟子は誰なのかを競うものであった、と考えることができるはずです。



つまり、問題になっているのは、最低(ワースト)の弟子と最高(ベスト)の弟子は、それぞれ誰なのか、ということだと考えることができます。



十二使徒は全員男性でした。男だからどう、女だからどう、というようなことは、軽々しく言ってはならないと思いますし、一概なことは言えません。



しかし、わたし自身も男ですので、強いて言うならば、「男」というのは、なるほどそういうことに関心を持ちすぎる存在かもしれません。おれが上だ、あいつは下だ。順位、優劣、甲乙、上下というようなことが気になる。悲しいまでに、そういうことが気になる。



それが、強いて言えば、「男」かもしれません。



「そこで、イエスは言われた。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。』」



イエスさまの教えは、はっきりしています。



男だけではないと思いますが、おれが上だ、あいつは下だ、というようなことばかりが気になり、相手を頭の上から押さえつけ、腕力・暴力・不当な政治力を用いてねじ伏せる。そういうことばかりに興味をもち、そのように実際に行動しはじめる人間の性(さが)に対して、イエスさまは、明確に反対なさいます。「あなたがたはそれではいけない」と。



「それではいけない」と言われている「あなたがた」の意味は、直接的にはイエスさまの十二人の使徒たちですが、もう少し広く言うならば、イエス・キリストを信じる信仰者すべて、すなわち、全キリスト者のことです。



わたしたちキリスト者は、「それではいけない」のです。たとえ冗談でも、そういうことを言ったり、考えたり、行ったりしてはなりません。そもそも、そういうのは冗談になりにくい態度です。洒落にならない。非常に嫌なムードです。



しかし、そういうことが気になるのは、いわば人間の性(さが)です。わたしたちの中から噴き出す激情のようなものです。関心を持つな、気にするな、と言っても、気になるものです。



だからこそ、わたしたちは、そのような思いを意識的に抑えつけなければなりません。意識的にあるいは自覚的に、まさにキリスト者である者たち、わたしたちは、腕力・暴力・不当な政治力を絶対に用いないと、心に誓わなければなりません。



「『あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。』」



いちばん偉い人は、いちばん若い人のようになりなさい。上に立つ人は、仕える者(ディアコノーン=奉仕者、執事など)のようになりなさい。イエスさまの教えは、単純明快です。



しかし、このイエスさまの教えは、どうも、わたしたちの現実からかけ離れているように思える、という方がおられるかもしれません。



実際のところ、この教えを聞くわたしたちの心に浮かぶ思いは、こんなことを言っても世間では通用しないとか、うちの会社で言ったらみんなに笑われるとか、社外の人に馬鹿にされる、というようなことでしょう。わたし自身の中にはそのような思いは全くありませんというと、うそになります。



牧師たちの間でさえ、そのようなことが問題になることがあります。「あの先生は、昔は何々先生のかばん持ちだった」とか、そういう話を時々聞きます。



かばんくらい、自分で持てばよいではありませんか。自分で持ったからどうで、だれかに持たせたからどうだというのでしょうか。わたしは、その種の話が嫌いです。冗談としてでも聞きたくありません。



もちろん、身分制度というのは、国際社会の中には今でも厳然と残っているところがあります。わたしたち一個人の力で、その社会のルールを根本から変える、というようなことはできない場合もあると思います。



しかし、そういうのは、本当に嫌だと感じること、憎むこと、少なくとも心の中で抵抗し続けることが重要です。



古い話ですが、「わたし食べる人、あなた作る人」というCMがあったことを、わたしはよく覚えています(一応そういう世代です)。



どちらのほうが偉いかというと、イエスさまは「食べる人」のほうが偉いと言われているわけです。そんなことを言うと今では激しく怒られると思いますが、イエスさま御自身の意図は反対です。イエスさまは、そこで腹が立つ人々の側に、立っておられます。イエスさまは、作る人であり、また給仕する人の側にお立ちになります。



しかも、それは、わざとらしい謙遜や、ぎこちないポーズや、いやらしいパフォーマンスではありません。何のためらいも、恥じらいもない。苦笑いや、照れ笑いもない。全く自然で、自由で、スムーズな振る舞いとして、人に仕えることができる。奉仕者として振舞うことができる。それがイエスさまです。



しかし、それはまた、イエスさまだけがそうであればよい、という話ではなく、イエスさまの命令として、あなたがた自身が「仕える者のようになりなさい」と語られているのですから、他人事ではなく、わたしたち自身が、イエスさまと同じように「仕える者」にならなくてはならないのです。



わたしは、今日、皆さんにこの話をしました。ですから、ここにいるわたしたちは全員、イエスさまから、この話を聞きました。聞いたことがない、知らなかったと言える人は、ここにはいません。わたしたち全員が「仕える者」になることを、決心し、約束しなくてはならないのです。



わたしが思うことは、その教会に初めて来られた人々が、ここの教会はとても雰囲気がよい、と感じる要素が、もしどこかにあるとしたら、おそらく間違いなく、このあたりのことが問題になっているはずだ、ということです。



無理やりねじ伏せようとする力が働いているような教会は、だれでも嫌でしょう。そういうのは、すぐに分かりますし、動物的直感が働きますし、わたしたちの心の危険信号が鳴り出すものです。



家庭生活、夫婦生活も同じです。会社も社会も、じつは同じです。



わたしたちの心の危険信号は、常に、鳴りっぱなしです!



仕える者として生きること、互いに仕えあうことは、安心で安全な生活を目指す道でもあるのです。



(2006年9月24日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年9月17日日曜日

「神の国で過越が成し遂げられるまで」

「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』と言われた。二人が、『どこに用意いたしましょうか』と言うと、イエスは言われた。『都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか』とあなたに言っています。」すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。』二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」



今日の個所には、イエスさまが十字架につけられる前の夜に、弟子たちと一緒に最後の食事をされた、かのいわゆる「最後の晩餐」の場面が描かれています。この「最後の晩餐」が、旧約聖書に定められている過越祭の食事だったことは、今日の個所を見るかぎり明らかです。



過越祭については、かなり大雑把ですが、次のように説明することができます。昔、イスラエルの民が、奴隷にされていたエジプトの地から脱出し、約束の地カナンを目指して旅をすることになりました。その彼らがエジプトを出る直前、旅支度の腹ごしらえをするため、大急ぎで羊の肉を焼いて食べ、また酵母を入れないパンを、苦菜を添えて食べ、それから出かけました。その食事を、家族みんなで、「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして、急いで食べ」ました(出エジプト記12・11)。



この故事を思い起こし、記念とするための祭が、過越祭です。



エジプトの地、奴隷の家からの脱出と解放、それはこのわたしたちのまことの主なる神御自身による救いのみわざであると、彼らは信じました。過越の食事は、神の救いのみわざを記念するための、お祝いの席なのです。



その祝いの席、喜びの食卓を、今こそ囲みたい。愛する弟子たちと共に、過越の食卓、神の救いの喜びの食卓を囲みたいと、イエスさまは願われています。皆さんに考えてみていただきたいのは、この「時」は、イエスさまにとって、どのような「時」なのかということです。



イエスさまは、明らかに、わたしの死の日は近いということを、はっきりと自覚しておられます。イエスさまは、ルカ福音書においては今日の個所までに少なくとも三度、御自身の死を予告しておられます(ルカ9・22、17・25、18・32)。



また、イエスさまはエルサレムにおられるわけですが、そもそもエルサレムに上られる決意をなさったのは、天に上げられる時期が近づいたことを自覚なさったからです(ルカ9・51)。



御自身の死の覚悟をもってエルサレムに上られたイエスさまが、その覚悟が単なる推測や予測ではなく、まさに現実となる、まもなくそうなる、ということを、はっきりと確信しておられる。それが、今日のこの場面の「時」です。



実際、まさにこの時、イエスさまを殺す計画が、祭司長や律法学者や神殿守衛長たちによって進められていました。また、あろうことか、イエスさまの十二人の弟子の一人、イスカリオテのユダまで参加することになりました。ユダはイエスさまを全く裏切ることになりました。ユダは裏切り者です。そのことを、イエスさまはよくご存じでした。



「ユダが裏切ることをイエスさまはなぜ分かったのだろう」と疑問に思うでしょうか。わたしたちにだって、こういうことは少しくらいは分かると思います。子どもたちは、こういうことに敏感です。「この人は僕のことを好きじゃない。心の中では、別のことを考えている」。そういうことを、子どもは直感的に見抜きます。イエスさまがユダの心の中を全く知らなかった、というようなことは、全くありそうもない話です。



ユダが裏切る前から、ユダヤ教の指導者たちの側に、イエスさまの殺害計画があった、と考えるのが自然でしょう。しかし、イエスさまが逮捕され、不当な裁判を受け、十字架にかけられるという一連の出来事の直接的なきっかけを用意したのは、ユダです。ユダの責任は重大です。ユダは裏切り者ではない、というような説明は、全く成り立ちません。



いずれにせよ、イエスさまは、ユダの裏切りをご存じであり、それゆえにまた御自身の死の日が目前に迫っているということを、はっきり自覚しておられます。だからこそというべきでしょう、イエスさまは、御自身の死の日が目前に迫っているということを、はっきりと自覚されたゆえに、まさに今こそ、過越の食卓、すなわち神の救いの喜びの食卓を、愛する弟子たちと共に囲みたいと願っておられるのです。



それが意味することは、明白です。まことの救い主イエス・キリストの死は、神の救いのみわざそのものであるがゆえに、御自身の死に際しては、喜びの席を囲むことこそがふさわしい、ということを、イエスさまは確信しておられるのです。



ここに、たいへん興味深い、また何となく不思議な話が出てきます。イエスさまは、御自身が願われた最後の晩餐としての過越の食卓を囲むための場所を確保する、という仕事を、二人の弟子たちに任せました。



ところが、その際イエスさまは、なんとも不思議な指令を出しておられます。どこが不思議でしょうか。いくつか、指摘しておきます。



第一は、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う」とありますが、当時のユダヤ人の男性が水がめを運ぶことはほとんどなかった、という点です。男性は皮袋を運ぶのであり、水がめは女性が運ぶということが当時の常識だったのです。ですから、「水がめを運ぶ男」に出会うというのは、通常ありえないことだったのです。



第二は、今申し上げた第一の点に直接関係あることです。水がめを運ぶ男は、ユダヤ社会の中では通常は、めったに見かけない。しかし、もしそういうことをしている人がエルサレムの町の中を歩いているとしたら、非常に目立つ存在でありうるという点です。



これがなぜ不思議かと言いますと、考えてみていただくとすぐにお分かりいただけると思います。それは、町の中で目立つ人の後ろについていくことは、そのついていく人自身も目立つということです。人々の注目の的になる、ということです。



しかし、気になることは、今この時点で、イエスさまの弟子たちが、町の中で目立っては困るだろう、ということです。



祭司長や律法学者たちが、イエスさまを探しています。彼らは、ユダにわざわざお金を払ってでも、イエスさまの居場所を突き止めようとしていたわけです。目立つ人についていき、その人に過越の食卓を囲むための部屋を教えてもらう、ということは、イエスさまを殺すために逮捕したいと探し回っている人々に、イエスさまの居場所を、わざわざ教えているようなものです。なぜイエスさまは、そういうことを弟子たちにさせようとなさったのか。これが不思議な点です。



第三は、そもそもイエスさまは、水がめを運ぶ男がエルサレムの町にいるとか、その人が部屋を教えてくれるというようなことを、どうしてご存じだったのか、という点も、しばしば疑問視されるところです。



そしてまた、その疑問に対して、いくつかの答えが用意されてきました。



第一の答えは、イエスさまは神の御子なのだから、すべてのことはお見通しなのだ、というものでしょう。



第二の答えは、イエスさまはエルサレムの町を、あらかじめ下調べしておられたのだ、というものでしょう。



第三の答えは、当時のユダヤの社会には、過越祭のときにはだれでも、自分の家の二階の部屋を、エルサレム神殿の参拝客たちのために可能なかぎり開放して、宿泊や休憩に使わせてあげなければならないルールになっていたのだ、というものでしょう。それゆえに、イエスさまは、その人の家で、過越の食事をなさったのだ、と話は続きます。



私自身ははっきりした答えを持っているわけではありません。いろいろな本を調べて紹介するくらいしかできません。興味深かったのは、わたしが最も尊敬している改革派神学者アーノルト・A. ファン・ルーラーの解説です(※)。



(※ただし、ファン・ルーラーの解説は、ルカ福音書のものではなく、マルコ福音書の平行記事に関するのそれです。A. A. van Ruler, Marcus 14, Kok-Kampen 1971, p.44-47.)。



ファン・ルーラーが書いていたことは、今ご紹介した三つの答えの中で言えば、第三の答えに最も近いものです。



ファン・ルーラーによりますと、このエルサレムの街中を歩く水がめをもった目立つ男は、エルサレムに住む、イエスさまの公然とした、あるいは、隠れた支持者の一人であっただろう。また、その人は、おそらく金持ちで、位が高い人だっただろう、とのことです。つまり、イエスさまと弟子たちは、そのお金持ちの人の家のなかの広い部屋に宴席を借りたという解釈です。



ちなみに、ファン・ルーラーは、この解釈に基づいて、さらに話を発展させています。イエスさまという方は、貧しい人々のもとにも行かれるが、豊かな人々のもとにも行かれる。キリスト教は社会の最下層の人々によって始められただけではなく、すべての層の人々によって始められたものである。キリスト教は上流だ下流だというような区別をまったく採用しないものである、と語っています。



そしてファン・ルーラーは、このイエスさまの命令の意味を、三つ述べています。



第一は、「イエスさまの権威」という点です。イエスさまは権威あるお方として、弟子たちに部屋を探すようにお命じになったし、また、水がめの男にも間接的に部屋を探すように命令しておられる、ということです。



権威とか命令というのは、今では嫌われる要素であるということをファン・ルーラーはよく知っています。しかし、救い主イエス・キリストは、主なる神御自身としての権威を持っておられる、という点は、聖書を理解するうえで重要です。



第二は、この命令の中で、イエスさまは、はっきりと御自身の死を意識しておられることがわかる、という点です。また御自身の死は、偶然起こったとか、予期せぬ出来事というようなものではなく、むしろそれは「まるで自分の手の中にあることのように、船のオールをイエスさま御自身がしっかり握っておられる」という点です。



イエスさまに、こそこそ隠れるお気持ちは、ありません。それどころか、目立つ人の後ろに堂々とついていきなさい、と言われているわけです。彼らを恐れる気持ちは、イエスさまの側には、全く見当たりません。



第三は、この命令においてまさに、イエスさまは、「死の道を前に進んでおられる」という点です。イエスさまは、御自身の死が人々の救いになることをはっきりと自覚しておられました。御自身の死こそが、全き現実の全き救いのために益になる、ということを、よくご存じでした。



今日は最後の晩餐の様子、そしてこのまさに最後の晩餐に由来して始まったとされるわたしたちキリスト教会が非常に重んじてきた聖餐式のことについて詳しくお話しする時間はありません。別の機会に譲りたいと思います。



しかし、最後に触れておきたいことは、イエスさまが「神の国で過越が成し遂げられるまでは、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」とお語りになっている意味は何か、ということです。



ルカによる福音書においては、これからイエスさまが逮捕され、不当な裁判を受け、十字架にかけられて死ぬという出来事が続くことになります。とてもつらい場面が続きます。



それをこれから学んでいく中で、何度も繰り返して振り返り、立ち帰るであろうことは、まさにこの最後の晩餐でイエスさまがお語りになっていることです。すなわち、「神の国で過越が成し遂げられる」とはどういうことか、それはどのようにして起こるのか、という点です。



それははっきりしています。大切なことは、過越の食事とは、神の救いのみわざを喜ぶために囲む、お祝いの席である、という点です。



過越は、喜びの祝宴です。それが、神の国において祝われる、ということは、わたしたち人間にとっては最高の喜び、至高の喜び、まさに至福というものを体験するときである、ということです。



わたしたちに神の救いの喜びを味わわせてくださるために、またイエスさま御自身も復活と昇天、そして再臨においてわたしたちと共に神の国の完成を喜んでくださるために、イエスさまは、十字架の苦しみを耐え抜いてくださった。



わたしたちを喜ばせるために、御自身が苦しんでくださった。



神の国でみんなで喜ぶ日まで、わたし自身は喜びの席に着くことを“封印”する。



人を助けるため、救うために、命をささげる。



このことを、イエスさまは、弟子たちの前で約束されているのです。



イエスさまの十字架への決意とその意味を深く知り、イエスさまの死によってもたらされたわたしたちの救いの意味を、よく考えたいと思います。



(2006年9月17日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年9月3日日曜日

「いつも目を覚まして祈りなさい」

ルカによる福音書21・34~22・6



「『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群集のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」



三つの段落を読みました。しかし、今日お話ししたいことは、一つのことです。最初の段落に記されているのは、21章の初めから続いてきたイエスさまの説教の、しめくくりの部分です。その中に書かれている次の御言葉に注目したいと思います。このように言われているのを見て、自分に関係があることだと感じて、ドキッとするという方がおられるのかどうかは、わたしには分かりません。



ここには「放縦や深酒や生活の煩いで」と、三つの言葉が並べられています。そして、このまさに三つの言葉で言い表されている三つの事柄によって、「心が鈍くならないように注意しなさい」と言われています。



しかし、どうでしょうか。ここで言われていることの中に気になることが、わたしには二つほどあります。



第一は、この三つの言葉が並べられているのは、興味深いことでもありますが、しかしまた、やや不思議なことでもある、という点です。



「放縦」と「深酒」は、ほとんど同じ内容の言い換えであると思われますので、二つが並べられていてもおかしくありません。ところが、そこにもう一つ、「生活の煩い」ということが並べられている。三つのことがまるで同じようなこととして扱われている。この点が、やや不思議です。



ここで「生活の煩い」とは、明らかに、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(ルカ12・22、マタイ6・25)というあの有名なイエスさま御自身の御言葉において禁じられている事柄のことを指しています。



ですから、この「生活の煩い」という問題点に注意すること自体は、重要なことです。しかし、です。気になるのは、「生活の煩い」という問題と、「放縦と深酒」という問題が並行的に扱われていることです。このことに対して、やや不思議であるという感想を持つ人が出てきてもおかしくないだろう、と思うわけです。



気になることの第二は、「心が鈍くならないように注意しなさい」という言葉の意味が、なんとなくぼんやりしている、ということです。



おそらくこれは翻訳の問題という面が大きいように思います。「心が鈍くなる」というのは原文の直訳です。鈍感になるということでしょう。この訳自体が間違っているとはいえません。お酒を飲みすぎると周囲の物事に対して鈍感になる。そういう話でしたら、わりとよく分かる話です。



しかし、ここにもう一つ、先ほど触れました「生活の煩い」という要素が加えられます。「生活の煩い」によって「心が鈍くなる」。このつながりが、分かったようで分かりません。



わたしの語感からすればという面もありますが、自分の生活について思い煩うことは、心が鈍くなっているどころか、むしろ、かえって非常にピリピリとした、心が鋭くなっている状態なのではないか、と考えることもできるような気がします。



まとめますと、「放縦や深酒」によって鈍感になるということなら、まだ分かる。しかし、「生活の煩い」によって「心が鈍くなる」と言われると、わたしにはあまりぴんと来ない感じがする。これが、わたしが感じた疑問点です。



「放縦や深酒」と訳されている二つの言葉の原語的な意味を調べてみますと、たいへん面白いことが分かります。



「放縦」と訳されている言葉は、さらに二つの要素に分析できるようです。



酒を飲んで酔っ払って気持ちよくなるという要素と、翌日に味わう“二日酔い”の気持ち悪い要素の二つである、と言われています。



飲んでいるときの気持ちが高揚している状態と、翌日の気持ちが落ち込んでいる状態との両方の意味がある、ということです。



「深酒」と訳されている言葉は、意味自体はこのとおりでよいと思います。要するに、お酒を深く飲みすぎて、酩酊することです。



面白いのは、このギリシア語は「メテー」と言う、という点です。メテーとは酩酊(めーてー)である、ということです。



ですから、「放縦」と「深酒」は、原語では一応区別されていますが、ほとんど同じ意味です。お酒を飲むことに関係している言葉です。



これによって周囲の物事がよく見えなくなる、心が鈍感になるというのは、経験したことがある人なら、だれでも分かる話であると思います。



しかし、繰り返しますが、「生活の煩い」が「心が鈍くなること」の原因になると言われると、わたしには、ちょっと分かりにくさがあるように思われるのです。



こういうときは、やはり、辞書や注解書を丁寧に調べることが重要です。実際に調べてみました。それで、「なるほど」と理解しえたところをお話ししたいと思います。



分かったことは、ここで「放縦」と「深酒」と「生活の煩い」が並べられていることには意味がある、ということです。つまり、三つの事柄には、共通している要素がある、ということです。



どこが共通しているのでしょうか。これは非常に微妙な面があり、慎重にお話ししなければ誤解されるように思われますので、注解書の言葉をそのまま引用します。



この三つの事柄に共通していることについては、次のように書かれていました。



「それによって、人間が、現実をもはや見なくなり、幻想(イリュージョン)や作り話(フィクション)に拠り頼むようになる〔という点で、三つの事柄は共通している〕」(*)。



冗談じゃないと、お感じになる方がおられるかもしれません。「生活の煩い」は、現実を直視した結果ではないかと思われるかもしれません。しかし、ここでわたしたちは、少し冷静になって、よく考えてみる必要があります。



はっきり言いますと、イエスさまは、「放縦や深酒」と「生活の煩い」を同列のものとして扱われました。この点は非常に重要なことであると思われます。



そして、そのことを逆のほうから考えてみますと、イエスさまが禁じておられる「生活の煩い」の意味は、「放縦や深酒」と同じような意味、つまり現実から逃避するという意味合いを持ちはじめるかぎりにおいて禁じられているものである、ということにもなる、ということです。



つまり、別の言い方をしますと、イエスさまが禁じておられるのは、現実を直視した結果としての「生活の煩い」ではない、ということにもなります。その面の煩いは許されることであり、必要なことであると思われます。



しかし、ここでイエスさまがお伝えになろうとしていることは、「生活の煩い」の中には、現実を直視しない、むしろ現実から逃避することを目的としているような種類の「生活の煩い」もある、ということに気づかなければならない、ということです。



ここで、話をぐっと卑近な例に移します。わたしはそれが好きなほうなのですが、思い起こしていただきたいのは、あのカタログショッピングです。最近は紙のカタログだけではなく、テレビやインターネットでのカタログショッピングというのもあります。



あれには、非常に便利な面もありますが、同時にそこで陥る罠もあると思います。それは、言うまでもなく、カタログに見とれてしまう、あるいは魅入られてしまうということです。



それによって、それを見なければ感じなかったような新たな欲求を感じはじめてしまい、その結果として今の現実の生活に不満を感じるようになる、ということです。



カタログを見るまでは感じたことがなかったような不満が、それを見ることによって生じる。高額なものであろうと、どんどん新しいものが欲しくなる。



それが「生活の煩い」の原因になる、ということです。



「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い煩うことのすべてが悪いと言われると、わたしたちは困ります。しかし、まさにカタログに見とれてしまうような仕方で、意識が現実を超えて高まってしまうところに至りますと、酒を飲んで酩酊状態であるのと変わりません。度が過ぎると、生活が破綻してしまうのです。



イエスさまの時代にカタログがあったとは思えません。しかしたとえば、ひとが持っているものを見てうらやましいと思い、それを手に入れたくなり、実際に手に入れてしまうというようなことは、当時でも間違いなくありえたことです。



飲酒による酩酊にたとえられるほどの現実逃避的な「生活の煩い」は、むさぼりの罪(第十戒!)へと限りなく接近している、ということです。



そして、まさにその結果として「心が鈍くなる」と、言われているわけです。ここまで来て、「生活の煩い」と「鈍感になること」との関係をどのように理解すべきかという点につながるわけです。



「心が鈍くなる」というこの新共同訳聖書の翻訳は、間違いとは言えませんが、かなりぼんやりしているものです。むしろ、文脈から読み取れる意図は、「心に負担がかかる」ということです。あるいは、「心に重圧がかかる」ということです。そのほうが、イエスさまの意図が、より明確になると思われます。



なぜなら、ここで言われている「放縦」と「深酒」と「生活の煩い」という三つの事柄の共通点である現実逃避という要素は、わたしたち人間が、その道を先へと進んでいけばいくほど、かえって、現実はわたしたちを追いかけ、さいなむものになる、つまり、心に負担ないし重圧がかかる、ということは、わたしたちすべてが体験済みのことだからです。



現実は、逃げれば逃げるほど、追いかけてきます。しかしまた、だからこそ、ますます深酒になる、ということが起こるのでしょう。現実を消し去るまで飲み続ける。しかし、現実は消えません。逃げることはできません。残るのは、二日酔いだけです。



また、「生活の煩い」には、現実逃避という面と同時に、自分の殻に引きこもるという面があることも否定できません。わたしが生活上感じている苦しみや煩いは、だれにも理解できないほどに大きいと、それぞれ皆が感じているのです。



「それならば、どうすればよいのか」という問いに対する答えは、ものすごく単純なものです。



第一は、逃げるのをやめる、ということです。逃げるから追いかけてくるのです。立ち止まって、振り返って、現実に向き合い、それを直視し、現実に対して誠実に取り組む、ということです。こつこつと、地道に、今日なすべきことを今日取り組む、という仕方で、そうすることが大切です。



第二は、苦しいのは自分だけではないということに気づくことです。わたしと同じ悩みを持っている人は他にもいる、ということを知るだけで、けっこう気持ちが落ち着くものです。



そして第三に、です。この問題の真の解決のためにイエスさま御自身が教えておられるのが、「いつも目を覚まして祈りなさい」ということである、と気づくことです。



ここで語られている、不意の罠のように襲いかかってくる「その日」とは、終末論的な概念です。今日は、その意味を詳しく説明する時間がもうありません。



ただ一言だけ申し上げておきたいことは、終末について考えることは現実逃避ではなく、むしろ逆であるということです。世界の終わりを考え抜くことは、世界の現実と向き合うことと同義語である、ということです。



終末を教える宗教はとかく現実逃避的である、と論評されることがありますが、わたしたちの場合は逆です。わたしたち(改革派教会)の終末論は、きわめて現実的なものです。



もちろん、終末について考えることは恐ろしいことでもあります。しかし、だからこそ、わたしたちには、宗教が必要なのです。宗教なしには、恐ろしすぎて、とても耐えられるものではないのです。世界の終末的現実に向き合うことができるようになるためにこそ、「神に祈る」という要素が必要なのです。



「目を覚まして」というのは酩酊状態の反対です。毎日徹夜でとか、不眠不休で、という意味ではありません。酒を一滴も口にしてはならない、という話でもありません。



イエスさまが教えておられるのは、“非陶酔的に祈ること”の大切さです。すなわちそれは、冷静で落ち着いた判断のもとに生きていくこと、そしてその中で「神に祈る」という生活を続けることにおいて現実に向き合うこと、そのことが大切であるということです。



そしてもう一つの点、第四の点に少しだけ触れておきます。それは今日お読みしました最後の(第三の)段落の記述に関係することです。それは、イスカリオテのユダの裏切りの場面です。



このことから学びうることは、世の中には、このような裏話、裏取引はいくらでもある、ということです。こういうことが実際になされていることに驚くべきではありません。



だからこそ、というべきです。わたしたちが考えなければならないことは、「放縦や深酒や生活の煩い」によってわたしたち自身が現実から逃避している間に、この種の裏取引がどんどん先に進んでしまっているかもしれない。事態は急速に悪化しているかもしれない、ということに敏感でなければならない、ということです。



冷静であること、非陶酔的な狂いのない目で、現実を見抜くこと。そして、祈ること。イエスさまは、その道をお選びになりました。また、その道こそが、イエス・キリストの背負われた十字架の道です。



ゴルゴタの丘の上で、両手両足に釘をさされることもいとわなかった。あのわたしたちの救い主イエス・キリストの十字架の道は「現実から逃げない」道です。少しも酩酊していない、きわめて冷静で、非陶酔的な御判断の中で、イエスさまは、御自身の道を進んでいかれました。



わたしたちも、(大変とは思いますが!)、イエスさまがお選びになったのと同じ道を、選ぶべきです。



(2006年9月3日、松戸小金原教会主日礼拝)



*’waardoor mensen de werkelijkheid niet meer kunnen zien en zich optrekken aan illuisies of ficties.’(J. T. Nielsen, Het evangelie naar lucas II, PNT, 1983, p. 177)