2005年10月30日日曜日

「ともし火をともしていなさい」

ルカによる福音書12・35~48



今日の個所は、時間的にも内容的にも先週の個所に続いております。そうであるならば、イエスさまが「弟子たちに」(12・22)語られた説教の続きであると、読むことができます。



「『腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい』」。



このようにイエスさまが弟子たちにお語りになりました。語られているのは二つのことです。



第一は「腰に帯を締めなさい」です。



第二は「ともし火をともしていなさい」です。



この二つのことは、ひと続きに語られていることではありますが、今日は一応区別して考えておきます。



第一に語られていることは「腰に帯を締めなさい」です。これは明らかに、昔のユダヤ人たちがエジプトから脱出して、約束の地カナン(現在のパレスチナ地方)に移住した、あの出エジプトの出来事を連想させる言葉です。出エジプト記には、次のように記されています。



「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。・・・それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。・・・それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(出エジプト記12・2〜11)。



これで分かることがあります。昔のユダヤ人たちは、腰に帯を締めて、それで何をしたのかと言いますと、肉を焼いて食べたのだ、ということです。



そのようにして腹ごしらえをしました。そして、その後、出エジプトの旅に出かけたのです。つまり、腰に帯を締めて肉を食べたのは、彼らの旅支度のためでした。



このことから、ある人は、ここでイエスさまが弟子たちに向かって語っておられるのは「新たなる出エジプト」の勧めである、と解説しています。そのとおりであると、わたしも思います。



しかし、それでは、イエスさまの弟子たちは、何から、あるいは、どこから、脱出するのでしょうか。



この問いの答えとして考えられるのは、先週学んだ個所に記されていた事柄です。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(12・22)です。この種のことで思い悩むことそれ自体からの脱出、生活上の不安や恐れからの脱出です。



昔のユダヤ人が腰に帯を締めたのは、丈の長い服がだらだらして足もとにまとわりつくのを防ぐべく、腰のあたりで服を縛り、歩きやすくするためでした。



つまり、その目的は、ただ一つ、歩くためです。前に進んでいくためです。もはや後ろを振り向かない、という決意表明でもあります。邪魔になるものを、できるだけ整理し、取り除くためです。



ですから、それはちょうど、たとえばわたしたちが「さあ、これから力仕事をしよう」というときに、腕まくりをするようなものです。せっかく朝早く起きてアイロンをかけたワイシャツであっても、腕まくりしてしまえばクシャクシャです。



それでもよい、否、そうしなければならない場面が、わたしたちの人生は、いつか必ずあるわけです。



たとえば、の話です。自分の子どもが川に落ちて、おぼれている。それを親である者が「自分の服が汚れるから」という理由で助けない、ということが、ありうるでしょうか。



そんなことは、あるはずがない。あってよいはずがありません。



第二にイエスさまが語られているのは「ともし火をともしていなさい」です。



そして、これに続く36節以下の個所で、イエスさまが、この「ともし火」とは何のともし火なのか、「ともし火をともす」とはどういう意味なのかということを、説明しておられるのです。



「『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばにいて給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。』」



これは、たとえ話です。このたとえ話の中で、イエスさまが描き出しておられるのは、結婚式の終わった後の場面です。



わたしがとくに興味深いと感じるのは、このたとえ話には、新郎も新婦も出てこないことです。登場するのは、新郎または新婦の友人です。その人が「主人」と呼ばれています。



その主人が、友人の結婚式の席から帰ってきて戸を叩く。そのときに、家のともし火をともしていて、戸をすぐに開けることができるように、主人の帰りを待っている人のようでありなさいと、イエスさまが弟子たちに語っておられるのです。



どうしてでしょうか。それを理解するためのポイントは、この主人が結婚式から帰ってきたばかりの人である、ということでしょう。



普通に考えてみて、当然、この主人は、美味しいものを食べて、あるいはおそらく少しお酒なども入っていて、とても幸せな気分で帰ってきているはずです。



ですから、この主人は、たいへん上機嫌です。だからこそ、と言えるでしょう。主人が家に帰ったときに、家の戸の鍵が開いていて、明かりもついていて、家のみんなが待ってくれていた、という場合には、どうなるか。



イエスさまのご説明によりますと、その主人は、なんと気前のよいことに、自分で帯を締めて、自分の帰りを待っていた人々に、「さあさあ、お前たちも食べなさい」と鼻歌でも歌いながら給仕してくれるのだ、というのです。



逆のことも考えておくべきでしょう。帰ってきたとき、戸の鍵が閉まっている、明かりは消えている、家の人はすっかり寝静まっているという場合には、どうなるか。そのときには機嫌が悪くなる。そういうことも考えられるわけです。



身勝手といえば、こんな身勝手な話は、他にないほどです。そんなふうに、自分の気分次第で生きられては、困る。はなはだ迷惑であるとお感じの方もおられるでしょう。



しかしまた、これこそ現実の人間の姿であり、わたしたち自身のありのままの姿である、と感じてくださる方も、おられるのではないでしょうか。



ただし、ここでよく注意しなければならない点があります。それは、このたとえ話の中に登場する、この「主人」とは、明らかに、まさにこのたとえ話を語っておられるイエスさまご自身のことである、という点です。これは忘れられてはならないことです。



「『家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」



ここで「あれ?」と思われる方もおられるでしょう。話の内容が、かなり変わってきています。思いがけない時に来るのは「泥棒」なのか、それとも「人の子」なのかということも、なんとなく不明です。



この話を聞いている弟子たちも、話の中身が、よく分からなくなってきたのではないでしょうか。それで、ペトロが次のような質問をしたのだと思います。



「そこでペトロが、『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』と言うと、主は言われた。」



イエスさまの答えは、以下のようなものでした。しかし、あまりきちんとした答えではありません。どこを読んでも、ペトロの質問に対する直接的な答えが、見当たりません。はぐらかされているような感じさえしてきます。



「『主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。』」



ここでイエスさまが何を語ろうとしておられるかを理解するためのキーワードは、二つあると思います。



第一のキーワードは、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」という中の「〔主人の〕言われたとおりにしている」です。



第二のキーワードは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」という中にある「主人の思いどおりにしなかった」です。



ここに二人の僕が登場します。一人目は、主人の言われたとおりにして、主人から信頼され、全財産を管理するという大きな仕事を任されることになった、幸せな僕です。



二人目は、主人の思いどおりにしなかったので、ひどく鞭打たれる僕です。この二人の僕の違いは、明白です。



ただし、注意しなければならないと感じることがあります。それは、「主人に言われたとおりにすること」と「主人の思いどおりにすること」とは、いくらか違うことではないか、ということです。



「主人に言われたとおりにすること」とは、主人が実際に口に出して語った“命令”に服従する、という意味でしょう。



しかし、そのことと、主人の心の中の“思い”を理解し、そして、その主人の“思い”どおりにする、ということは、区別されなければならないことであり、「言われたとおりにすること」を越えたことであり、またそれよりも深いことであると思われます。



イエスさまが弟子たちに求めておられることは、絶対服従ではありません。強制労働ではありません。そのような重苦しく、堅苦しいことであるかのように理解されるべきではありません。



むしろ、求められていることは、イエスさまの御心をよく知る、ということです。逆に言えば、イエスさまの御心をよく知る者、よく知ろうとする者こそが、イエスさまの弟子である、ということでもあるでしょう。イエスさまがペトロの質問に直接お答えになっていないのは、このことを分からせようとしておられるからではないでしょうか。



そして、イエスさまの御心の本質は、喜びです。なぜなら、この主人は、結婚式の喜びの祝宴から帰って来て、みんなをエプロン姿で喜ばせてくださる、そういうお方であると言われているのです!



わたしたちにとって、最も重要なことは、このお方の喜びを十分に知りつくし、味わいつくすことです。そのために必要なことは、何でしょうか。



一言で言えば、たくましい想像力です。よく考えることです。頭と心を、十分に用いることです。そのようにして、わたしたちが十分かつ不断に用いて主の御心はどこにあるのかを豊かに思いめぐらし、理解し、そして信じることです。



そのことこそが、今日の最初に出てくる、「ともし火をともしていなさい」という御言葉の真意なのです。



(2005年10月30日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年10月23日日曜日

「小さな群れよ、恐れるな」

ルカによる福音書12・22~34



これは、わたしたちの救い主イエス・キリスト御自身の御言葉です。「イエスさまの説教」と呼ぶこともできます。



イエスさまは、この説教の中で、いったい、何を言おうとしておられるのでしょうか。この説教の核心部分は、どこにあるのでしょうか。



みなさんには、ぜひ、今日の個所を繰り返して読んでいただきたいと願っております。しかし、おそらく、引っかかりをお感じになるところが、たくさんあるだろうと思います。



わたしにもあります。どうしても引っかかってしまう第一の点をズバリ語ることは難しいのですが、要するに、カラスだの、野原の花だの、草などと、このわたしを、どうか比較しないでください、と言いたくなる、ということです。



わたしは人間だ、と言いたくなります。イエスさまが語っておられることは、まるで、思い悩んでいる人はカラスよりも劣っている、草よりも花よりも劣っている、と言われているかのようです。



引っかかってしまう第二の点は、実際のわたしたちが、ここでイエスさまが持ち出されているような問題に、全く思い悩まなくて済む、というようなことがありうるだろうか、と問いたくなる、ということです。



わたし自身のことを考えてみますと、こういうことであまり思い悩まなくて済んでいたのは、今から10年くらい前までだったように思います。30才くらいまでです。すでに結婚はしておりましたが、子どもは長男が生まれるかどうかというくらいの頃までです。



その頃までのわたしは、自分の命のことで何を食べようかとも、自分の体のことで何を着ようかとも、「思い悩む」などというようなことは、ほとんどありませんでした。



しかし、です。そんなわたしでも、ほんの少しずつではありますが、だんだん変わってきたように思います。子どもが与えられたことが、やはり大きいでしょう。「何を食べさせようか、何を着せようか」という、それまではほとんど一度も考えたこともなかったような全く新しい要素が、加わってきました。



このように今日は、まず最初にわたし自身の不信仰を告白する、というところからしか始めることができませんでした。ここにわたしの罪があると、言わなければならないのかもしれません。



しかし、です。かく言うわたし自身にとって、今日の個所で、イエスさまが強く語っておられることには、まさに痛いほど、身に染みて分かる、と感じる部分もあるのです。



それは、今日わたしがいちばん最初に問いました、今日の個所の、イエスさまの説教の中心部分は、どこにあるのか、ということを考えてみたときに、見えてくる事柄です。



中心部分は、次の御言葉であると思われます。



「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」



このイエスさまの説教は、22節に記されているとおり「弟子たちに」語られたものです。一般の不特定多数の人々、いわゆる「群集に」向かって語られたものとは一応区別されるべきです。



イエスさまの弟子である者たちは、ただ、神の国を求めるべきです。「ただ」というのは「ひたすら」という意味です。わき目もふらず、ただひたすら、という意味です。そのことに集中することです。神の国を求めることに、です。



そうすれば、です。「これらのもの」とは、食べ物や着る物のことです。生活上の必需品です。そのようなものは、「加えて」(以前の訳では「添えて」)与えられるのです。



なぜ「与えられる」のでしょうか。自分でお金を稼ぐなりして「買う」のではないのでしょうか。もらいもの、でしょうか。どこかで拾うのでしょうか。



そのような意味も、イエスさまの御言葉の中には、どこかしら含まれているような気がしてなりません。と言いますのは、先ほど申し上げましたように、この御言葉を、イエスさまは、「弟子たちに」語っておられるからです。



ただし、この場合の弟子たちとは、使徒と呼ばれるいわゆる十二人の特別な弟子だけに限定すべきかどうかは微妙です。ルカによる福音書では、すでに10章のところで、七十二人の弟子を、イエスさまが派遣しておられますので。



そして、七十二人の派遣の際にイエスさまは、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな」(10・3〜4)と語られ、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)と語られ、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10・7)と語られました。



イエス・キリストの「弟子たち」が、です。わき目もふらずに、ただひたすら、「神の国」を求めるとき、食べる物や飲む物や着る服などが「加えて与えられる」、あるいは「添えて与えられる」とは、まさにこの意味であると、考えられるのです。



「当然の報酬」と言われています。しかし、これは自分がした仕事に対する当然の対価というような意味ではありません。伝道者は“自給いくら”で働くわけではありません。



そういうことではなくて、むしろ、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一に書いている、「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(9・7)という点こそに関係しています。これは明らかに、伝道者たちが教会から受けとる生活費を指しています。



ぶどう畑で食べてもよい実とは、商品価値のない出来損ないのものや、地に落ちてしまったものでしょう。ですから、それは、落穂ひろいのようなものである、とも表現できそうです。



ですから、それは、強いて言うなら、「腹がへっては、いくさはできぬ」というくらいの意味です。



あるいは、もっと大胆に踏み込んで言わせていただくならば、要するに、イエスさまの弟子たち、とくに伝道者たちは、教会を、そして、神さまご自身を、その意味で信頼してよい、ということです。



教会の牧師であるわたしが言うと、なんだかへんな感じになるかもしれませんが、ただひたすら、神の国を求めて献身している者たちを、教会は決して見殺しにしたり、見捨てたりすることは、ありえない、ということです。



だからこそ、です。イエスさまは、“弟子たちに”言われました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と。



そんな心配はする必要がないのだ、と。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と。すべてをご存じである神さま御自身が、あなたがたの必要を満たしてくださるのだ、と。



そのことを信頼すべきである、ということを、イエスさまは、教えておられるのです。



「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。』」



ここで「群れ」とは、砂漠で遊牧生活を送っている、ベドウィンの人々が用いる単位であると言われます。そして、その群れが「小さい」とは、およそ20〜30ほどの家畜や獣の数を示すのだそうです。



しかし、もちろん、イエスさまが語っておられるのは、家畜や獣の話ではありません。イエスさまを信じて生きる弟子たちの話であり、信仰者の共同体としての教会の話です。ですから、「小さな群れ」という言葉から、わたしたちが、20人から30人ほどの教会の姿を連想することは、決して間違いではありません。



20人から30人。これは、じつは、わたしたち日本の教会の現時点での平均的な姿です。現在の日本の教会は、依然として、間違いなく、ここでイエスさまが言われているとおりの、まさに「小さな群れ」です。



「小さな群れよ、恐れるな」と、イエスさまは、今も、わたしたちに対しても、語っておられます。



小さいからダメ、ということはありません。どの国の教会も、最初はみな、小さな群れだったのです。その人々に、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、イエスさまは、励ましの言葉を語ってくださったし、今も語っておられるのです。



この脈絡でこの話題を持ち出すことは、決して飛躍ではないと思いますので、申し上げます。



先々週川越市で開催されました、日本キリスト改革派教会第60回定期大会で決議された、重要な事項の一つとして、はっきり言って現在ジリ貧に陥っている東北中会と四国中会の諸教会を支援するために、大会所属の全教会が自由募金を行なうことになりました。その目的は牧師の生活を支えることである、ということも確認されました。



地方の教会の現状については、わたし自身も体験してきたことですので、責任をもった証言を行なうことができます。



地方の教会では、牧師たちが生活に困っている例が、いくらでもあります。地方の教会では、十年も二十年も、一人として洗礼を受ける人が現れないというケースも少なくありません。その中で、とくに若い教師たちは、伝道への意欲や自信をすっかり失ってしまうのです。それが現実です。



地方の教会は、成長しないからといって、サボっているわけではありません。また都会の教会は、地方の教会で洗礼を受けた人々によって成り立っている、という面もあります。



ですから、「都会の教会は豊かであるが、地方の教会は貧しい」というこの状況は、是正されるべきなのです。



みんなで力を寄せ合い、支え合うことが大切です。ささげる人はささげるばかり、受けとる人は受けとるばかり、という話ではありません。お互いに、支え合うのです。



わたしたちイエスさまの弟子である者たちが、教会が、「神の国」のために、喜んで自分のものを差し出し合うことが、大切です。



道は、そこから開けていくのです。



(2005年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年10月9日日曜日

「真の豊かさとは何か」

ルカによる福音書12・13~21



今日の個所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。新共同訳聖書では、「愚かな金持ちのたとえ」という小見出しが付けられています。わたしが調べた注解書の中には「豊かな愚か者」という表題が付けられたものがありました。前後をひっくり返しただけですので、だいたい同じですが、微妙なニュアンスの違いがあると言えるかもしれません。



今日の個所で、わたしがとくに慎重でありたいと考えています点を、最初に申し上げておきます。それは、ここでイエスさまは、お金を持っている人すべてが愚か者であるとか、お金を持つこと自体が愚かである、というふうに言われているわけではないということです。そうではなく、わたしたちが豊かな富を求めるその思いの中に落とし穴がある、ということです。その落とし穴に陥らないように、気をつけなければならないのです。



「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』



まず最初に記されていますのは、イエスさまがこのたとえ話をお語りになったきっかけは何か、ということです。



ここに出てくる「群集の一人」には、自分の兄弟との間に遺産相続をめぐる骨肉の争いがあったようです。そのようなことについて、この人は、イエスさまならばきっと何とかしてくださるに違いないと、おそらく真剣な思いで、持ちかけたに違いありません。



ところが、イエスさまは、その願いを事実上拒否されました。そして、たいへん厳しい言葉を返されました。



「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」



これは、もちろん、「わたしは、あなたがたのそのような問題についての裁判官や調停人ではない」という意味です。このことをイエスさまは、どのような意図で語っておられるかについては、はっきりとは分かりません。



しかし、いずれにせよ言いうることは、イエスさまは、この人の抱えている問題に介入してくださらず、この人の味方にもなってくださらなかった、ということです。



なんとなく冷たい感じがしなくもありませんが、イエスさまのご判断を尊重すべきです。



「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい『有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』それから、イエスはたとえを話された。」



これで分かることは、イエスさまは、この「群衆の一人」が持ちかけてきた遺産相続の問題をきっかけにされながら、わたしたち人間の誰もが持っている“貪欲”という落とし穴に注意すべきであることを教えられるために、このたとえ話をお語りになったのだ、ということです。



「『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがてこう言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい・・・」



このたとえ話は、比較的分かりやすいものだと思います。どういう意味で分かりやすいかと申しますと、この話の中に登場する金持ちは、わたしたちにとって身近な人と思えるような、どこにでもいる感じの、ごく普通の人だからです。想定しうるのは、パレスチナ地方の農家の人です。



ある年の畑が豊作でした。そのため、それによって一山できた財産の扱いをどうするかという問題が浮上しました。うらやましい話です。



そこで、この人が思いついた案はと言いますと、現在の小さな倉を取り壊して、もっと大きな倉を建て、その中に畑の作物を備蓄することでした。



おそらくここまでは、だれでもすることでしょう。この人は全く当然のことをしているまでです。逆に考えてみて、こういうこと(豊かな財産を蓄えておくこと)をしない人のほうが、それこそ愚か者と言われて然るべきです。



ですから、もしこの人に何か問題があるとしたら、これに続く点であると思われます。



「『「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」』」



これを、この人の犯した誤りである、と断言できるかどうかは、微妙です。なぜなら、このようなことは、明らかに、だれでも考えることだからです。



たとえば、実際、この世の中には「これから先何年も生きて行くだけの蓄え」を持っているという自覚を持っている人は現実に存在するのだと思います。もちろん、その蓄えがどれくらいかを量る量りは、その人自身の価値観や生き方、お金の使い方に拠るところもあります。



そして、実際にそれだけの蓄えを持っている人にとって、当分の間、それ以上の財産を持つ必要がないのだとしたら、「ひと休みすること」、また「食べたり飲んだりして楽しむこと」は、ある意味でその人の自由であり、権利でもある、と語ることもできるはずです。



ここで一つ思い当たることは、いわゆる高齢者の生活、いわゆる「老後の生活」のことです。



それまでにたくさん働いてきた人々が、その働きによって得た蓄えによって、ひと休みすること、そして、人生を楽しむことは十分に許されていることです。このことは、批判されたり責められたりされてはならないことです。



また、いわゆる高齢者という範疇に属さない人々であっても、たくさん持っている人はいます。その人々が自分の財産を元手にして、ひと休みすること、人生を楽しむことは、許されて然るべきことである、と思われてなりません。



そうであるならば、です。この人の問題は、いったいどこにあるのだろうか、ということが、わたしたちの次の問題になります。



「『しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。』」



ここに、いわば突如として、神さまが登場されます。この神さまは、たくさんの財産を手にすることができた、この幸せな人の人生を、まるで強制的に終了され、中断されようとしておられるかのようです。



これは、おそらくわたしたちの身にも、現実に訪れることです。地上の人生の終わりは、まさに突然やってきます。



そして、そのとき、神さまがこの人に言われたことは、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」ということでした。



ここに至って、この人は、初めて大きな壁にぶつかっています。ここに至って、この人は、初めて自分のしてきたこと、考えてきたことの問題に気づくべきところに立たされています。



ただし、この人が自分の問題に気づくことができるかどうかは別問題です。



おそらく、その日・そのときまで、この人が用意した物は、すべて自分のものであると思っていました。自分が生活するため、あるいは、せいぜい自分の家族のために、それは用いられるべきものである、と。それ以上、何の問題も感じていませんでした。



しかし、そのためにこの人がしようとしたことは、自分の財産のすべてを、自分の倉の中に「しまっておく」ことでした。これで大丈夫だと、自分に言い聞かせることでした。



もしこの人のどこかに問題があるとするならば、まさにここにある、と言わざるをえません。なるほど、わたし自身、ここに至って、はっと気づかされることがあります。



それは、この人の発想の中には、たくさんの財産を得たときに、それを他の人々に分け与えるとか、多くの人々と共に収穫を喜ぶ、というような点が全く現れてこない、ということです。



また、それを神さまのためにささげようとか、公共の福祉のために、というような発想が全く現れてきません。



すべては自分のためです。自分だけのためです。



強いて言うならば、ここに“貪欲”の罪があるのです。



貪欲もしくは貪りとは、第一義的には「他人のものを欲しがる」ということを意味しています。しかし、もっと広い意味もあります。



それは、自分が持っているもの、自分に与えられているものに、どこまでも満足しないこと、不平不満を持ち続けることです。そして、あたかも、この世のすべてのものが自分のものでなければならないかのように、何でもかんでも欲しがり、抱え込み、決して隣人に分け与えないことです。



これも、十分な意味で“貪欲”の罪なのです。



しかし、「今夜、お前の命は取り上げられる」。その日、そのときに、あなたの持ち物は、だれのものになるのかと、神さまは、わたしたちにも、問われるのです。



「『自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』」



このように、イエスさまは、締めくくっておられます。「神の前に豊かにならない者」、あるいは反対に言って「神の前に豊かな者」の意味は、必ずしも明確ではありません。



しかし、強いて言うならば、それは、「自分のためだけに富を積む者」の正反対の生き方をなしうる人々のことである、と言えるかもしれません。



自分のために富を積む、というこのこと自体は、とても真剣な事柄なのだと思います。必死のわざです。このこと自体は、批判されたり、軽んじられたりすべきことではありません。貧しさにも、問題があります。貧しければよい、というような話ではありません。



しかし、です。その富をただひたすら自分だけのものにする、ということを、ただひたすら望む、というような生き方が、もしあるとするならば、そのような生き方は、とてもさびしいものであると、言わざるをえないのです。



そのような考えや思いに基づいて築かれていく人生は、自分の財産を常に多くの人々と分かち合いながら生きていく人々の人生とは、どこかが違います。



厳しい言い方かもしれませんが、自分のことしか考えない人は、多くの人々から見捨てられてしまうでしょう。「今夜、お前の命は取り上げられる」という神の御声を聴く日に、孤独のさびしさを味わうでしょう。



「お金が大事である」。これは、そのとおりかもしれません。



しかし、わたしたちはお金だけで生きているわけではありません。



神さまと共に生きているということ、そして、多くの隣人と共に、神の恵みを分かち合いながら、感謝と喜びをもって生きている、という自覚こそが、大事なのです。



(2005年10月9日、松戸小金原教会主日礼拝)





2005年10月2日日曜日

聖霊の教導

ルカによる福音書12・1~12

今日の個所に記されているのは、先週の個所に記されていた出来事と同じ場所で起こった、時間的にも続いている出来事であると、読むことができます。

「とかくするうちに、数えきれないほどの群集が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」

先週の個所でイエスさまは、ファリサイ派の人々と律法の専門家たちを、非常に厳しい言葉で批判されました。その内容についての説明は、繰り返さないでおきます。

すると、やられたらやり返す、です。イエスさまから批判を受けた人々は、イエスさまに激しい敵意を抱き、反撃を開始しました。「数えきれないほどの群集が集まって来た」とは、大論争が始まったので、野次馬たちが集まってきた、ということでしょう。

「イエスは、まず弟子たちに話し始められた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』」

「パン種」とは、パンをふくらませるために小麦粉の中に混ぜ込む、酵母のことです。それは、一つ一つのパンにとっては少量で事足りるものです。そして、それ自体は目立ちません。パンの中に隠れてしまいます。

そういうものが、あなたがた、イエスさまの弟子たちの中に入り込まないように、気をつけなさいと、イエスさまは言っておられるのです。あなたがたは、ファリサイ派の人々のような「偽善者」になってはならない、と言っておられるのです。

「偽善者」の原意は、仮面をかぶった人のことです。同じ言葉が、仮面をかぶって劇に出演する“俳優”のことを意味していた時代があります。

人前では、口先では、善いこと、立派なことを語りながら、しかし、腹の中では正反対のことを考え、人の見えないところで悪事を働く人のことです。

しかも、ここでイエスさまが問題にしておられるのは、宗教の専門家たちです。多くの人々に向かって、聖書の御言葉を語る仕事をしている人々のことです。

講壇の上では、「聖書にはこのように書かれている。神の御心はこのようなものである」と語る。ところが、その後、自分の家に帰り、部屋に入る。そこでは、全く正反対のことを語り始める。

そのような人々を、イエスさまは、非常にお嫌いになったのです。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。』」

彼らの悪事については、これを隠すことは、決してできない、ということです。

イエスさまが、宗教の専門家たちに対してこれほどまでに厳しい言葉を語っておられるのは、少し語弊を恐れながら言いますなら、イエスさまというお方は、ある意味で彼らと“同業者”であられたからだ、と考えることができるでしょう。

たとえば、おそらく、イエスさまも、説教が終わったあとの疲労感を味わわれました。説教も、けっこうな労働です。説教前、説教中、説教後のそれぞれに、苦労があります。説教が終わった後、説教者は、自分で語った言葉の責任をとらなければなりません。

イエスさまも、わたしたちと同じ人間の肉体を持っておられるのですから、きっとお疲れになったことでしょう。それは当然のことです。

しかし、まさにそのとき、その瞬間に、油断が起こる。油断もすきも起こるのです。宗教者の犯す罪の温床が、そのあたりにあると言えます。そのことをイエスさまは、よくご存じだったのです。

責任の重さに耐えきれないとか、ひとは誰でもどこかで息抜きが必要である、というのは、もちろん理解できない話ではありません。しかし、それは「単なる甘えにすぎない」と言われても仕方がない面があるでしょう。

人格と生活との表と裏とが、あまりにも落差があり、かけはなれたものにしないためには、どうしたらよいでしょうか。それは、ごく単純なことなのだと思います。表で、あまりにも格好をつけすぎないことです。裏で、あまりにも羽目をはずしすぎないことです。そして、わたしたちの裏も表も、すべてお見通しのお方の前で生きているという自覚を持つことです。そのお方の前では、だれ一人隠れることはできない、と信じることです。

「『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。』」

ここでイエスさまが「友人」と呼んでおられるのは、ひとまずイエスさまの弟子たちのことである、と理解することができます。しかし、おそらく、もう少し広い意味です。

それは、“現在、イエスさまの弟子である人々”のことだけではなく、“これから弟子になる人々”のことが含まれていると考えてよいでしょう。

イエスさまの「友人」になるということで、イエスさまは、わたしと同じ立場に立って、わたしと一緒に、ファリサイ派や律法学者たちの「偽善」と闘ってほしい、と呼びかけておられるのです。

しかし、問題は、その闘いの内容は何か、です。イエスさまの呼びかけに応じて、仲間に加わった人々は、何をすればよいのか、です。

この点についてイエスさまが教えておられることは、「体を殺しても、それ以上何もできない」偽善者たちを恐れるな、ということです。そして、「本当に恐れるべき方」を、もちろん、天地万物の造り主なる神さまを、恐れなさい、ということです。

ここで語られているのは、いわばそれだけです。“闘う”と言いますと、ついわたしたちは、力に対しては力をもって抵抗する、というあり方を思い浮かべてしまうのかもしれませんが、イエスさまは、そのような闘いをお望みになりませんでした。

そしてまた、イエスさまの仲間たちがなすべき“闘い”の内容として、もう一つ考えられることは、イエスさまが最初に語られました「ファリサイ派の人々のパン種に注意すること」です。

あなたがた、わたしの弟子たちの中にそれが入り込まないように、注意することです。わたしたち自身が、「偽善者」にならないように気をつけることです。

誰かを悪者にし、その人々を批判するだけで、済ませることはできません。イエスさまの弟子である者たちには、自分自身の信仰と悔い改めこそが、求められているのです。

「『言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。』」

ここで語られていることを一言にまとめて言いますなら、イエスさまの弟子である者が「わたしはイエスさまの仲間である」ということを公の場で告白するときには、他ならぬイエスさま御自身が、そして、父なる神と聖霊なる神が、天にあって、天使たちと共に、味方してくださる、ということです。「人の子」とは、イエスさまご自身のことです。

そして、だからこそ、あなたがたは、イエスさまを否定する権力者たちを前にしても、恐れることはないし、言い訳の言葉を、あらかじめ考えたり、原稿を書いておいたりする必要はない、ということです。

語るべきことは、そのとき、その瞬間に、聖霊なる神が、教えてくださるからです。

この個所で、しばしば問題になるのは、「聖霊を冒涜する者は赦されない」というイエスさまの御言葉です。

この言葉には、さまざまな解釈があります。しかし、今日、わたしは、これが置かれている文脈の前後関係から、この言葉の意味を考えてみたいと思います。

イエスさまを否定する権力者たちの前で何を語るべきかをわたしたちに教えてくださる聖霊なる神を冒涜する、とは、逆に言えば、そういうことをそのとき、その瞬間に教えてくださる聖霊なる神などというものは存在しない、と考えたり語ったりすることでしょう。「冒涜する」とは、悪口を言うことであり、その存在や働きを否定し、信じないことです。

「聖霊なる神」だの「聖霊の導き」だの、そんなものは存在しないのだから、やはり、わたしたちは、そのような場面に備えて、あらかじめ原稿を書いておくべきだ、という考えを持つこと、実際に原稿を書いてしまうことも含まれている、と語りうるかもしれません。

今、わたしは、“あらかじめ原稿を書く”という表現を、あえて用いています。このことによって、わたしが申し上げたいのは、原稿ということ自体ではなく、むしろ、そのような努力をすること自体です。すなわち、「聖霊なる神」など存在しないという確信を持ち、それゆえに「聖霊の導き」というようなことに身を委ねることができず、いわばその代わりに、すべてを自分が準備し、自分で実行し、自分で後始末すること、つまり、事柄の最初から最後まで、自分自身が、ひとりで、すべての責任をとらなければならないと考え、実際に責任をとろうとする、そのような態度や生き方自体です。

それは、ある意味で、非常に真面目な、生真面目な生き方です。悪く言えば、クソ真面目です。

しかし、そのような真面目さの正体が、「聖霊なる神の導き」というような次元の事柄を信じることができないゆえに生じているものであるとするならば、そこにこそ、罪があるのです。

そして、それこそが、イエスさまが語られている「聖霊を冒涜する罪」の意味である、と考えることができるのです。イエスさまは、この罪は赦されない、と語っておられます。どんな罪でも赦されるはずではなかったのかとお感じになる方も、きっとおられるでしょう。

しかし、ここはよく考える必要があります。聖霊なる神が、わたしたちにもたらしてくださるものは、まさに罪からの救いであり、罪の赦しの恵みです。

先ほど、わたしたちは、日本キリスト改革派教会が定める式文に基づいて、「罪の告白と赦しの宣言」を行いました。

「あなたがたは、おのおの真心から自分の罪を悔い、イエス・キリストにおいて提供された神の憐れみと赦しによりすがろうとしています。このように、心から悔い改めてイエス・キリストによりすがる人には、父と子と聖霊の御名によって、罪の赦しを宣言します。アーメン。」(日本キリスト改革派教会式文集より)

この“罪の赦しの宣言”を、わたしは、牧師としての職責において、読ませていただきました。そのわたしは、この言葉を、皆さんに、ぜひ、本気で信じていただきたいのです。「わたしの罪は赦された」ということを、です。

その聖霊のみわざを冒涜し、否定するというのですから、それは、「自分の罪は、決して赦されない。そのようなことは、永久にありえない。そのような神の恵みがあることなど、全く信じられない」というような確信を持つことをも意味しているのです。

要するに、「罪の赦しを信じることができない罪は、赦されない」ということです。逆に言えば、「罪の赦しを信じる人の罪は、すべて赦される」のです。

この話は“循環”していることが、お分かりでしょうか。堂々巡りです。だからこそ、この循環は、断ち切られなければなりません。

わたしの罪は、決して赦されない。わたしの罪の重荷のすべては、自分自身で背負っていかなければならない。それは、あまりにも重苦しい考え方です。

イエスさまが、こう言われたではありませんか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11・28)

ファン・ルーラーは、イエスさまのこの御言葉〔マタイ11・28〕の解説として、「わたしたちの真面目な生き方が、わたしたちにとって、とても重荷になることがありえます」(A. A. van Ruler, Dichter bij Marcus, over het evangelie naar Marcus 1-8. G. F. Callenbach B. V. - Nijkerk, 1974, p. 50)と語っています。

これは、不真面目で不誠実な生き方を選んでよい、という意味ではありません。

そうではなく、何もかも自分ひとりで背負い込まないでよい、ということです。

わたしたちは、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊なる神の恵みと導きを選びとり、身を委ねることができます、ということです。このことこそが、わたしたちを、真の意味で“楽にする”のだ、ということです。

わたしたちは、神さまと共に生きることによって、人生を楽しむことができるのです。

(2005年10月2日、松戸小金原教会主日礼拝)