2005年3月27日日曜日

死に打ち勝つ真の力


コリントの信徒への手紙一15・50~58

イースターおめでとうございます。

今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストのご復活をお祝いする日曜日です。

また今日は、「召天者記念礼拝」としてこの礼拝をささげています。生前教会員だった方々、教会でまたは牧師が葬儀を行った方々、そして教会墓地に埋葬された方々の、それぞれご遺族に、今日の礼拝にお誘いするご案内状をお送りしました。

その方々には、これから毎年ご案内状を差し上げることにしました。今日ご出席くださいましたご遺族の方々は、後ほどご紹介させていただきます。

大切な方を失うこと、その方と地上ではもう二度と会うことができないということは、本当に寂しいことです。つらいことです。心にも、体にも、痛みや苦しみを感じます。

しかし、だからこそ、わたしたちは、その痛みや苦しみのなかから、助け出される必要があります。十分にいやされる必要があります。

亡くなった方々のことなどは早く忘れたほうがよい、という意味ではありません。そんな冷たい話ではありません。忘れる必要はありませんし、忘れるべきでもありません。

ただ、恐れるべきことがあります。大切な人の死は、わたしたちを容易に絶望においやってしまうのです。死の恐怖とは、絶望の恐怖です。希望を失うとき、わたしたちは、生きていく気力を失うのです。

今日は最初に、ある一人の方をご紹介いたします。

その方は、約9年前に、当時まだ二十歳に満たないご家族を病気で失い、その数日後、牧師であるご主人をも失いました。

短い間に、その家族のうちの男性二人を失いました。遺されたのは、二人の娘さんたちだけでした。それは本当につらい体験だったと、ご本人から伺いました。何日間も全く何も手につかず、寝込んでしまった、とも言われました。当然のことだと思います。

しかし、ある朝のことです。「あ、洗濯物がたまっている」ということに気づかれたそうです。それで我に帰られました。わたしには、まだしなければならないことがある、ということに気づかれたのです。

今どき、家事は主婦の仕事であると呼ぶのは、完全に時代遅れです。しかし、その方にとって、家事は、一つの救いになりました。

そうです。わたしたちは、どんなに辛いことがあったとしても、また、どんなに大切な人を失ったとしても、毎日の生活を、淡々と生きていかなければなりません。そのことに気づかなければならないのです。

その方は、牧師のおくさんだったときは、もっぱら家庭内におられました。しかし数年前、国際協力機構(JICA)の試験に合格され、現在ブラジルで、スタッフとして働いておられます。わたしのところにも、この方の活躍の様子を伝えるメールが届きます。本当に素晴らしい働きを続けておられます。

この方を立ち直らせた力は何なのかを、お話ししなければなりません。

わたしたち人間が持っている底力のようなものでしょうか。そういうものが全く無いとは申しません。

しかし、おそらく、ご本人は、そうではありません、とお答えになるでしょう。

そこでこそ、わたしはクリスチャンです、とお答えになるでしょう。

わたしには信仰がある。信仰が、神さまが、わたしを立ち直らせてくれた、とお答えになるでしょう。

キリスト教とは、復活を信じる信仰です。イエス・キリストを信じて生きる者たちには、永遠の命が与えられ、永遠の神の国を受け継ぐ者とされるという信仰です。

大切な人々、ご主人と最愛のご長男は、今も神のみもとで永遠に生きている、という信仰が、この方を立ち直らせました。

事実、キリスト教信仰には、わたしたち人間を、死の恐怖から、絶望の恐怖から、救い出し、立ち直らせてくれる力があります。

先ほど、聖書から、使徒パウロの言葉をお読みしました。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」

ここでパウロが書いている「肉と血」の意味は、一つの解説を参考にして申し上げますと、「今この地上に存在している人間」のことであると言われます。

今この地上に存在している人間は「神の国を受け継ぐことはできない」とは、どういうことでしょうか。わたしたちは、だれひとり、天国に行くことができないのでしょうか。

もちろん、そういう意味ではありません。

ただ、しかし、ここでパウロが言おうとしていることは、今この地上に存在している人間であるところの「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、という意味です。

「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」は、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません」の言い換えです。朽ちるものは、肉と血です。朽ちないものは、神の国です。

「朽ちない」とは、永遠性を意味します。永遠の神の国です。わたしたちの人生の目標としての天国です。そこに受け入れられ、そこを受け継ぐ者になるためには、わたしたち自身が「朽ちないもの」へとつくり変えられる必要があるのです。

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」

パウロは、「神秘」について語っています。「奥義」とも「秘儀」とも訳すことができるミステリーという言葉です。それは、科学的に実証された事実というようなものではありません。むしろ、宗教的真実というべきものです。端的に「信仰」と呼ぶことができる何かです。

「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」と言われているのは、わたしたちは、いつまでも眠り続けるわけではない、ということです。わたしたちは、「永眠者」にはならないのです。

しかし、それは、すべての人間は死なない、という意味ではありません。いやむしろ、すべての人間は、一度は必ず、たしかに死ぬのです。そして、眠りにつくのです。

ところが、パウロの信仰は、パウロの語る神秘は、それで終わりではない、と語ります。一度はたしかに死に、眠りについた者たちが、しかし、今とは異なる状態へと、すなわち、永遠に朽ちない姿へとつくりかえられるべく、よみがえるのだ、と語るのです。

そして、そのようにして、わたしたちは、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐ者になる、というのです。

ここで大切なことは、わたしたちが「今とは異なる状態に変えられる」とは、どのような意味であるか、ということです。

先ほどわたしは、「肉と血」は、このままで、今のままで、何の変化もなく、自動的に、機械的に、神の国を受け継ぐことができるわけではない、と申しました。

その意味は、そこに救いが必要である、ということです。「救われた肉と血」が、神の国を受け継ぐのです。

いまだに救われていないもの、救われていないところを持つものが、完全に救われているものになる、完全な救いを獲得することこそが、真の変化です。「今と異なる状態に変えられること」です。

そして、その救いとは、パウロによると、救い主イエス・キリストに結ばれることです。ただひたすら、そのことです。

そのために、わたしたちは、何をなすべきでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

ここでパウロが教えている、わたしたちがなすべきことの第一は、「神への感謝」です。

わたしたちの神は、わたしたちの救い主、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせることのできる全能の御力をもって、わたしたちを罪の中から救い出してくださいます。

罪の中からの救い、それこそが、神がわたしたちに与えてくださる尊い賜物であり、また宝物です。

プレゼントを贈ってくださった神への感謝の生活を送ることが、大切です。

パウロがここで教えている、わたしたちがなすべきことの第二は、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励むこと」です。

神からわたしたちに与えていただける尊い賜物であり、宝物であるところの「罪からの救い」は、しかし、このわたし個人の確信として維持し続けることは、難しいものです。

この世の中に生きるとき、じつにさまざまな罪の誘惑が、わたしたち一人一人をめがけて襲いかかって来ます。

だからこそ、わたしたちは、その誘惑に負けることなく、「動かされないようにしっかり立つ」必要があるのです。

しかし、そのためには、どうしたらよいのでしょうか。わたしたちは、ひとりで信仰を維持することは、困難ですし、ほとんど不可能とさえ言えます。

パウロは、この手紙をコリントという町にある「教会」に宛てて書きました。そのため、この手紙の中に出てくる「あなたがた」とか「わたしの愛する兄弟たち」とは常に、第一義的に「教会」のことです。

この点から言うならば、「教会」の人々に対して、ここでパウロが、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」と書いているとき、その場合の「主の業」とは、第一義的に「教会のわざ」のことなのです。

ですから、ここでパウロが勧めていることは、主の業としての教会のわざに励みなさい、という意味であると理解できます。

わたしたちには、「教会」が必要です。

わたしたちの救い、すなわち、永遠に朽ちない神の国を受け継ぐことができる者へと、わたしたち自身がつくり変えていただけるのだ、という確信をもって生きること、としての信仰を、この地上で保ち続けるために、

そして、そのわたしたちが、その信仰に裏打ちされて、死の恐怖、絶望の恐怖から立ち直り、元気に、明るく、力強く、そして自由に生きていくために、

「教会」が必要なのです。

クリスチャンなら、だれでも、死を恐れることはないのか、絶望の恐怖を味わうことはないのか、と言いますと、決してそんなことはありません。そんなはずがありません。

しかし、だからこそ、わたしたちは、毎週日曜日には教会に集まり、恵みの神を賛美し、聖書の御言葉を通して、救い主イエス・キリストにおける神の救いについて繰り返し学び、熱心に祈るのです。

その賛美は、その御言葉の学びは、その祈りは、「無駄にならない」のです。

「こんなことやっていて何になるのか」と、思いたくなることもあるかもしれません。しかし、どうか、教会のわざに、主の業に、失望しないでいただきたいのです。

わたしたちは、死に打ち勝つ真の力を、教会から得るのです。

(2005年3月27日、松戸小金原教会イースター礼拝)

2005年3月13日日曜日

神の国とは何か

ルカによる福音書6・12〜26


関口 康


今日は少し長く、三つの段落を読みました。


最初の段落に書かれていることは、イエス・キリストが弟子たちの中から十二人を特別に選び、「使徒」と名付けられた、という出来事です。


この中で最も気になるのは、言うまでもなく、十二番目に名前を紹介されている「後に裏切り者になったイスカリオテのユダ」のことです。


関心を抱かざるをえないことは、イエスさまはなぜこのような人をお選びになったのか、ということです。


当然考えてよいことは、少しとげのある言い方をお許しいただきたいのですが、救い主の目は節穴だったのだろうか、ということです。


この人がのちに自分を裏切るかもしれない、ということをイエス・キリストは、この人を選ぶ前に見抜くことがおできにならなかったのか、ということです。


再来週の日曜日に、わたしたちは、イースターを迎えます。その前の週に当たる来週の日曜日から、教会の暦で言うところの受難週を迎えます。


イエス・キリストがエルサレムの町に入られたとき、エルサレムの町の人々は、歓迎の意を表しました。


ところが、そのわずか4日後に、イエスさまは、ユダの裏切りによって逮捕され、その翌日、十字架につけられて死に・・・いえ、殺されました。


こんなふうに考えることは許されないでしょうか。もしこのユダがイエスさまの弟子でなかったとしたら、イエスさまが十字架にかけられることはなかったかもしれない、と。


しかし、このユダを弟子としてお選びになったのは、間違いなくイエスさま御自身でした。


そうだとしたら、イエスさまは、この人の問題性を見抜くことができなかったという点で判断を誤った、と言われても仕方がないのではないか、と。


事実としてたしかに言いうることは、ユダの裏切りがなければ、イエスさまの十字架もなかった、ということです。イエス・キリストは、ご自分がお選びになった弟子によって、死の道を歩まれることになったのです。


この問題には、ただ一つだけ、解決の道が開かれています。わたしたちは、ユダを使徒の一人に選んだことについて、イエスさまを失敗者と呼ぶことはできません。


むしろ、わたしたちに開かれているただ一つの解決の道とは、こうです。


イエスさまが十字架についてくださったのは、わたしたちを罪の中から救うためでした。


それは父なる神ご自身の御心でした。


わたしたちを罪の中から救い出すために、父なる神は、御子イエス・キリストを十字架につけてくださったのです。


そうであるならば、ユダは、父なる神と御子イエス・キリストとによる、わたしたちを罪の中から救い出すというみわざとそのご計画の中で、使徒として選ばれたのです。


恐ろしい考えかもしれません。しかし、神さまというお方は、わたしたち人間には図り知ることのできない方法で、わたしたちを救いへと導いてくださるお方なのです。


今日お読みしました第二番目の段落に書かれていることは、大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエスさまの教えを聞くために、また病気をいやしていただくために、集まってきた、という出来事です。


ここでも、イエスさまのみわざとして、二つのことが書かれています。教えることと、いやすことです。“みことば”と“ふれあい”です。


興味深いことは、この個所に書かれていることは、イエスさまが、人々に、触れられた、という話ではない、ということです。主と客が逆転しています。


人々が、イエスさまに、何とかして触れようとした、という話です。「群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした」とあるとおりです。


イエスさまに触れるとどうなるか、についても次のように書かれています。


「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」


何が興味深いか、と言いますと、そこに実際に現実にいやしが起こったとされる“ふれあい”は、まさに「ふれ“あい”」であった、ということです。双方性と相互性がある、ということです。


イエスさまのほうから手を伸ばされたのでなくても、人びとのほうから手を伸ばしてイエスさまに触れたときにも、いやしが起こったのです。


その人々は、イエスさまのほうへと自分の手を伸ばし、イエスさまから自分のいやしを、自分で手に入れたのです。イエスさまから、力を奪い取ったのです。強奪したのです。


イエスさまから力を奪いに来た人々は、「大勢の弟子とおびただしい群集」です。イエスさまは、くたくたです。


それでも、人々は遠慮しません。イエスさまの教えを聞きたい、病気をいやしていただきたい、という強い願いを持っていたのです。


ここでわたしたちが考えるべきことは、わたしたち自身は、イエス・キリストの御言を聞きたい、病気をいやしてもらいたい、という強い願いや求めを持っているだろうか、ということです。


イエスさまがくたびれておられようと、全くお構いなし、というのは、まずいかもしれません。イエスさまの力を奪い取る、強奪する、というのも、やり方としてはひどいかもしれません。


しかし、今まさに苦しみの中にいる人が、「もしよろしければ、助けてくださいませんでしょうか」などと遠慮する必要はないのです。


ここから先はどうでもよい話ですが、わたしがこれまで経験した少し大きめの病気は、椎間板ヘルニアともう一つ、尿管結石です。


特に後者は、痛み始めると、待ったなしです。横になっていても、痛くて痛くて、バンバンと床を叩き始めます。ギブアップです。


病院に駆け込む。お医者さんと看護婦さんに、泣きそうな顔で、「この痛いの何とかしてください」とお願いする。そして、モルヒネを注射してもらって一件落着です。


何が言いたいか。助けを求めるとは、まさにそのようなことではないでしょうか、ということです。遠慮などしている場合ではないはずなのです。


イエスさまに対しても、です。父なる神に対しても、教会に対しても、わたしたちは、そうであってよいはずです。


どうか、あまり遠慮なさらないでください。悩みや苦しみを自分一人で抱え込まないでください。我慢しないでください。


そして、今日お読みしました第三番目の段落に書かれていることは、イエスさまが実際に語られた説教の内容です。


マタイによる福音書5章以下のほうが、有名かもしれません。同じ説教が紹介されています。


ただし、マタイの場合、イエス・キリストは、山の上で説教しておられます。そのため、この説教は「山上の説教」とか「山上の垂訓」と呼ばれてきました。


ところが、ルカの場合、イエスさまがおられるのは、山の上ではありません。わざわざ「イエスは彼らと一緒に山から下りて」(6・17)と書かれています。そのため、ルカ福音書のこの個所は、「平地の説教」と呼ばれています。


聖書学者たちの間で一致している意見は、ルカはマタイによる福音書を知っている、ということです。


そうであるならば、まるでルカは、マタイが書いたことを修正しているかのようです。イエスさまが説教をされた場所は、山の上でなくて、山の下である、ということを、わざわざ強調しているかのようです。


マタイとルカのどちらがより史実に近いか、というような問題は、問うてみたところで答えは出ません。そのようなことよりも、もっとわたしたちが考えてみるべきことがあります。


ルカはなぜ、マタイが書いていることをまるであからさまに否定しているかのように、イエスさまを山の上から引き下ろしているのか、その意図は何なのか、ということです。


マタイが描き出している、山の上にお立ちになって語るイエスさまのお姿は、モーセの姿に重ね合わせている、と言われます。モーセが神から律法を授かった場所は、シナイ山の上でした。


マタイによると、イエスさまは、山の上で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)と語られました。


この場合の「律法」とは、モーセの律法のことです。そしてイエスさまは、この説教の中で、モーセの律法を廃止するために、わたしが来たのではない、ということを強調しておられます。


しかし、イエスさまの教えには、新しい律法も含まれています。かつてモーセが山の上で神から受けとった古い契約を、今やイエス・キリストが、またしても山の上で新しい契約として語りなおしておられるのです。


しかし、ルカの場合は、この説明が成り立ちません。成り立たないように、わざわざ、ルカ自身が仕向けているかのようです。


ですから、ルカには明らかに、マタイとは異なる意図があるのです。それでは、この「平地の説教」の意図は、何でしょうか。


結論的なことをいろいろと言う前に、説教の内容に触れておきたいと思います。


ここには、四つの幸福と四つの不幸が語られています。そして、この四つの幸福と四つの不幸の内容は、対になっています。


「貧しい人々は幸いである」に対しては、「富んでいるあなたがたは不幸である」と語られています。


「今飢えている人々は、幸いである」に対しては、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である」と語られています。


「今泣いている人々は、幸いである」に対しては、「今笑っている人々は、不幸である」と語られています。


「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」に対しては、「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」と語られています。


そして、気づかされることは、「今飢えている人々」、「今泣いている人々」という仕方で、「今」ということが明らかに強調されている、ということです。


先ほどわたしが申し上げた、今まさに苦しんでいる人々は、遠慮などしないし、遠慮する必要は全く無いですよ、という意味での「今」です。


切羽詰った思いをもって、イエスさまのもとに駆けつけている人々の「今」です。


そのような人々のために、イエスさまは、一肌も、いえ何肌も脱いでくださり、くたくたになっても付き合ってくださり、助けてくださるのです。


そういう方が、今、あなたがたの前にいるのだ。このわたしが、今、あなたがたと共にいるのだ。


「神の国はあなたがたのものである」。


このわたしの救いの求めに応えてくださる救い主が、このわたしの目の前に、手を伸ばせば届く距離に、そして実際に触れ合うことができ、強い力を受けとることができる場所に、立っておられる。


そのような場所、そのような現実を、イエスさまは「神の国」とお呼びになったのです。


そのような場所、そのような現実を、わたしたちは、持っているでしょうか。


わたしたちの教会は、わたしたちの家庭は、そのような場所になっているでしょうか。


そのように、わたしたちは、自分自身に問いかけてみるべきです。


わたしは、マタイの「山上の説教」とルカの「平地の説教」が矛盾しているとか、一方が正しくて、他方は間違っている、などと言いたいわけではありません。


ただ、強調点には明らかな違いがあります。ルカの強調は、距離の近さにある、と思われます。


イエスさまは、「祈るために」山に行かれた、と書かれていました(6・12)。一緒にいたのは、信頼できる少数の弟子たちだけでした。


心静かに祈ることができる場所にいつまでも留まっていることができるなら、それはそれで、とても幸いなことでしょう。


しかし、イエスさまは、わざわざ、山の上から下りてこられました。


「大勢の弟子たちとおびただしい民衆」の中でもみくちゃにされ、面倒なことに巻き込まれることが初めから分かっているような場所へと、あえて入っていかれたのです。


イエスさまと弟子たちの関係は、上から下に、というよりも、横並びです。


「神の国」は、空の上にあるのではなく、空中にあるのでもありません。


まさに今、苦しみの中にあり、助けを求めている人々の前に、現実として、あるのです。


(2005年3月13日、松戸小金原教会主日礼拝)




2005年3月6日日曜日

安息日の主

ルカによる福音書6・1〜11


関口 康


今日は、二つの段落を読みました。あらかじめ申し上げておきたいことは、この二つの段落において扱われている主題は、同じである、ということです。


1節に「ある安息日に」と書かれています。また6節には「ほかの安息日には」と書かれています。描き出されているのは、いずれも「安息日」に起こった出来事であるということです。


旧約聖書の律法が定める「安息日」は土曜日です。そして、モーセの十戒の第四戒には、「安息日(あんそくにち)を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト記20・8、申命記5・12、いずれも口語訳聖書)と書かれています。新共同訳聖書では「安息日(あんそくび)を心に留め、これを聖別せよ」と訳されています。


そして、第四戒の続きには、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書かれています。


今日の個所、二つの段落にわたって問題になっていることは、まさに今の点です。


「安息日には・・・いかなる仕事もしてはならない」と定めているモーセの第四の戒めの真意ないし本意は何なのか、ということです。


「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」


そのときイエスさまの弟子たちは、おそらくお腹がすいていたのです。麦畑の中を通りながら、麦の穂を摘み、手でもんで食べた、というのです。


その麦畑は明らかに、弟子たち自身のものではなく、他人のものでした。しかし、彼らは、いわゆる盗みを働いたわけではありません。他人の麦畑から麦の穂を摘んで食べること自体は、許されていることでした。


ところが、です。彼らがしたことを、ファリサイ派のある人々が、強く批判しました。


「ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。」


この人々が言った「安息日にしてはならないこと」とは、先ほどご紹介しましたモーセの第四戒の「安息日には・・・いかなる仕事もしてはならない」です。ファリサイ派の人々が不満に思ったのは、弟子たちが「麦の穂を摘み、手でもんで食べた」という点です。


彼らの考えによると、「麦の穂を摘むこと」は、農業という仕事における“収穫行為”に当たりました。また「手でもむこと」は、“脱穀行為”に当たりました。つまり、弟子たちは「仕事」をした、とみなされたのです。


ですから、彼らにとって、イエスさまの弟子たちがしていたことは、全くけしからんことであり、許しがたいことである、というふうに見えたのです。


しかし、どうでしょうか。ここでやや個人的な感想めいたことを言わせていただくなら、ずいぶん大げさな物言いであると思われてなりません。ささいなことに目くじらを立てるとは、まさにこのようなことを言うのではないでしょうか。


「イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。』」


ここでイエスさまは、サムエル記上21・3〜6に記された出来事を引き合いに出しておられます。


ダビデ王とその軍隊が、さあこれから戦争に出かけよう、という場面です。「腹が減ってはいくさができぬ」とばかりに、何かを食べようとした。しかし、食べる物がなかったので、神殿の祭司のもとに行き、神殿に供えている聖別されたパンを食べさせてもらった、という物語です。


要するに、それは、ダビデたちが、お祭りの日に祭壇に置く“お供え物”のパンに手をつけた、という物語です。神の御前に聖別されたパンを、これから戦争に行くための軍人たちの腹ごしらえ、という目的に利用した、という物語です。


これは、聞く人によっては、非常にけしからん話であり、なんといかがわしいことか、と感じるような話です。しかし、そういうことが、旧約聖書の中に記されているのです。


ここでイエスさまが問題にしておられることは、「聖別された」とは、どういう意味か、ということです。


聖別されたパンを、ダビデたちは、「お腹がすいている」という理由で食べた。言うならば、これと同じように、「これを聖別せよ」と言われている安息日の過ごし方として「お腹がすいている」という理由で、麦の穂を摘み、手でもんで食べることの何が悪いのかと、イエスさまは答えておられるのです。


このイエスさまのお答えは、必ずしも、理路整然としたものではないかもしれません。しかし、ポイントは、はっきりしています。


「安息日には・・・いかなる仕事もしてはならない」という戒めを、「お腹がすいても、我慢しなさい」というように、拡大解釈してはならない、ということです。


また、もう一つ、別の観点から申し上げておきたいことがあります。ある注解者の言葉を読んで、ハッと気づかされたことです。


それは、そのとき弟子たちがしたことに対するファリサイ派の人々の批判には、イエスさまご自身がお答えになっている、ということです。


イエスさまという方は、弟子たちがしたことについて、誰かが抗議し、批判してくるときに、弟子たちに答えさせるのではなく、イエスさまご自身がお答えになる、そのようなお方である、ということです。


思い返していただきたいのは、シモン・ペトロがイエスさまの弟子になったあとに行われた二人の病人を、イエスさまがいやされたときのことです。


とくに二人目の病人(中風の人)をいやされる場面で、律法学者たちやファリサイ派の人々が「神を冒涜するこの男は何者だ」と心の中で考えはじめたとき、彼らの考えを知ったイエスさま御自身がお答えになっています。


また、レビが弟子になったあとに開かれた宴会の場面で、イエスさまの弟子たちが徴税人や罪人たちと食事をしていたことについて、またユダヤ教の断食規定を守らなかったことについて、ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちが抗議してきたときにも、イエスさまご自身がお答えになっています。


先週わたしは、イエスさまは弟子たちの行為を弁護されている、と申しました。イエスさまは、弟子たちの弁護士になってくださるのです。


もちろん、イエス・キリストの弟子であるとは、すなわち、イエス・キリストの教えに従って生きる人々であるということですから、教えを守る者たちの生き方についての責任は、教える者の側にある、と語ることができます。


しかし、たしかにそうではあっても、教える者たちの中には、その意味での責任をとらない人も、決して少なくないのです。ただ教えるだけであって、自分はその教えを守ろうとしないとか、自分の教えを守っている人が批判を受けたときには、弁護するのではなく、逃げてしまう、など。


イエスさまは、このような(厳しい言い方かもしれませんが)“無責任な”教師ではなかった、ということです。イエスさまは、批判する人々の前に立ちはだかって、弟子たちを守り、弁護してくださる、そういうお方なのです。この点は、特筆に価します。


「そして、彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」


ここで「人の子」とは、イエスさま御自身のことです。ですから、「安息日の主」とは、イエスさま御自身のことです。


しかし、この意味については、注意が必要です。イエスさまは、安息日そのものを廃止するために来られた主ではありません。イエスさまの御言に、そのような意味は、ありません。


そうではなく、「安息日の主」の意味は、その日に礼拝され、讃美されるべき神御自身の御心を、自由なる意志をもって、実現されるお方である、ということに他なりません。


イエスさまが引き合いに出されたダビデの物語にも、そのことが当てはまります。


戦争をすることが正しいか間違っているか、ということは、問題にすべきことかもしれません。しかし、歴史的な事実として、そのとき戦争があり、それに参加せざるをえない人々がいた、ということまでを否定することはできません。


そういう場面において、です。お腹をすかしたままで戦いの場に人々を連れ出すことが、神の御心に適うことなのか、という問題です。そのような場面で、聖別されたパンだからという理由で、それを彼らに与えることができない、とする判断が、はたして、本当に神の御心に適うことなのか、という問題です。


ここで、わたしたち自身のことを考えることもできます。


わたしたちの信じるキリスト教安息日は、今日、まさに日曜日です。日曜日を、わたしたちは、聖別しなければなりません。


しかし、この聖別された今日の日、日曜日に、わたしたちは、どうなるのでしょうか。わたしたちは、何をするのでしょうか。


神さまに礼拝をささげること。


もちろん、そうです!


けれども、“ささげる”だけでしょうか。もっとはっきり言うなら、“奪われる”だけでしょうか。神さまから、豊かな恵みを、しっかりと“いただく”日でもなければならないのではないでしょうか。


日曜日にしっかり“いただく”ことがなくては、どうして、次の日からの仕事に、勇気と希望、喜びと感謝をもって、出かけることができるでしょうか。


「安息日の主」としてのイエス・キリストが、今日、この礼拝においても、わたしたちに、たくさんの恵みと力を与えてくださっているのです。


「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた。その人は身を起こして立った。」


第二の段落の主題も、第一の主題と同じです。


しかし、今度は、律法の拡大解釈とは言えません。明確な仕事でした。治療ないし医療行為です。右手の萎えた人のその手をいやされる、という仕事を、安息日に、イエスさまがなさったのです。


「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。』そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」


このイエスさまの問いは、わたしたちにも、向けられています。問われていることは、安息日の目的は何か、ということです。


神さまに礼拝をささげること。


もちろん、そのとおりです!


しかし、ここで注意しなければならないことは、“ささげる”ということでわたしたちが意識していることは、多分に、わたしたち自身の行為である、ということです。この礼拝において、わたしたちが何をなすべきか、ということです。


“ささげる”という言い方が、どうしても、その点を意識させます。わたしたちの中から、わたしたちの側から、“出て行くもの”や“失うもの”を意識せざるをえません。


しかしながら、安息日において、そして、その日にささげられる礼拝において、わたしたちが、じつは、もっと関心を向けるべきことがあるのです。


それは、この礼拝において、神さまご自身が、わたしたちにしてくださること、わたしたちに与えてくださるものは何か、ということです。


イエスさまのお答えは、もちろん、「善を行うこと」です。「命を救うこと」です。そのことを、「人の子」と称せられる「安息日の主」イエス・キリストが、わたしたちに、してくださるのです。


そのために、安息日があります。キリスト教安息日としての「日曜日」があります。


神さまがわたしたちに恵みを、喜びを与えてくださるために、礼拝が、教会が、あるのです。


(2005年3月6日、松戸小金原教会主日礼拝)