2003年10月4日土曜日

H. フィサー著『創造性、道標、奉仕提供 ポスト産業都市における教会の役割』(2000年)

Hans Visser, Creativiteit, wegwijzing en dienstverlening: de rol van de kerk in de postindustriele stad. Uitgeverrij Boekencentrum, Zoetermeer, Tweede druk, 2000.

全編オランダ語ですが、上記のタイトルの興味深い本を最近入手しました。2000年に出版され、同年中に第2版が出ていますので、たぶん良く売れているのでしょう。

何が興味深いか。著者の肩書は「オランダ改革派教会社会活動協議会理事長」(Directeur van de Stichting voor Kerkelijke Sociale Arbeid van de Hervormde)というものですが、(自他共に認める)「ファン・ルーラーの創造の神学の支持者」(aanhanger van de scheppingstheologie van A. A. van Ruler)である、と紹介されているのです!

これはいわゆる「宣教学」の本です。内容はタイトルにあるとおり「ポスト産業都市における『教会の』役割」に関するもので、「都市伝道」をテーマにしています。

論述は、「序」(第1章)に続き、最初に「産業都市」(industriele stad)の発生史から開始されています(第2章)。ここで、産業都市の歴史が「プレ産業都市」(=産業都市成立以前)→「産業都市時代」→「ポスト産業都市」(=産業都市崩壊後)と三つに区分されています。しかし、「ポスト産業都市」とはまさに現在の状況であり、イメージ獲得を模索中の課題であるわけです。

そこで、次に、そのイメージの獲得方法が紹介されています(第3章)。それは大別して二つあります。「都市に対する決定論的アプローチ」と「非決定論的アプローチ」です。この区別はクラウド・S. フィッシャー著『都市体験』(1984年)から採用されたものです。C. S. フィッシャーの区別と定義は以下のとおりです。

1、決定論的理論: 人間の社会的・人格的生活を決定する「都市主義」(urbanism)がある、とする理論。

2、非決定論的理論:決定論的なものに対して全く対立する理論。

3、サブカルチャー理論:上記二者の混合理論。

そして、「ポスト産業都市での生活」についての分析が続いています(第4章)。

以上で本書の第1部が終了します。

しかし、何と言っても、われわれにとって興味深いのは、「第2部 ポスト産業都市における教会」でしょう。

第2部最初の章のタイトルは「ポスト産業都市の成立史における教会の位置づけ」です(第5章)。それは「都市伝道者としてのパウロ」という点から開始されています。これは、考えてみれば、なるほど当然のことです。

著者は、アレン(Roland Allen)が描いた「パウロの伝道戦略」(Paulus' zendings-strategie)を、次のように紹介しています。
「パウロはローマの統治領域を勘案していた。彼はギリシア文明の中心地を訪ね、貿易センターに立ち寄った。パウロは、一つの都市に到着すると、まず最初にシナゴーグを訪ねた。そして、その次にユダヤ人以外の人々(異邦人)とのコンタクトを図った。明らかなことは、パウロは教会の会衆自身を全く統治しなかった、ということだ。彼は会衆を自立させ、独立させた」。

この点でアレンは、現代においてはしばしば、諸教会があまりにも独立させられすぎている、ということにおいて、現代の伝道を批判していると、著者は付け加えています。

歴史的論述はさらに進み、「ローマ帝国における都市教会の発生」、「コルプス・クリスティアーヌム発生後の都市における道標としての教会」、「西欧の中世の教会」、「プロテスタンティズムによる都市改革」等に及び、上述の三区分に基づき、「プレ産業都市における教会」、「産業都市下の教会」、「ポスト産業都市における教会」の、それぞれ果たしてきた「役割」(rol)が明らかにされています(第5章)。

そして、これに続く「第6章 ポスト産業都市の教会的イメージ形成 (Kerkelijke beeldvorming van de postindustriele stad)」の論述は圧巻です。わたしは、この章に最も感動しました。これまでに、「都市」というものについての、ここまで鋭く明快な分析を、読んだことも、聴いたことも無いと感じました。

教会が「都市」ないし「都会」に対して抱くイメージには、大別して二種類ある、と著者は考えています。「否定的な都市イメージ (Negatieve stadsbeelden)」と「肯定的な都市イメージ(Positieve stadsbeelden)」です。

まず最初に、「否定的な都市イメージ」を描いてきた(教会的)代表者として、著者は、アウグスティヌス、H. ヴィヘルン、そしてジャック・エリュールの三人の見解を紹介しています。とくに、アウグスティヌスについて、著者は次のように述べています。

「アウグスティヌスは、明らかに『否定的な都市イメージ』を描き出した、最初の重大な人物である」(189ページ)。

そして、アウグスティヌスの主著である(いわゆる)『神の国』(De Civitate Dei)が詳しく取り上げられます。そして、著者は、(われわれが従来「国」と訳してきた)Civitateの概念を、アウグスティヌスが、ギリシア(語)的な意味での「都市国家」(stadsstaat)として理解したことを問題にしています。つまり、アウグスティヌスのDe Civitate Deiは、「神の王国」ではなく、「神の都市」として考えられ、「人間的な(=邪悪な)都市」とのラディカルな対比において捉えられている、というわけです。

その上で、アウグスティヌスは、「地上の都市」と「神の都市」との葛藤(ないし闘争)を、「カインとアベルの関係」と「彼らと神との関係」という事柄へと「還元」(ないし縮小)しました。ここに「否定的な都市イメージ」の根源がある、と著者は見ています。この点で興味深いのが、「アウグスティヌスのcivitas Dei概念には十字架が欠落している」と述べた、カール・バルトのアウグスティヌス批判である。バルトによると、civitas Deiとは「ゴルゴタで十字架に架けられたキリストの連隊(het regiment van Christus, de op Golgotha gekruisigde)」である、と書かれています(198ページ)。

そして、「(教会における)否定的な都市イメージ」の次に「(教会における)肯定的な都市イメージ」が紹介されています。著者が紹介する「肯定的な都市イメージ」の代表者は、ハーヴェイ・コックスとハーヴィー・コーンです。

以上の歴史的分析に基づき、著者自身の描く「都市イメージ」が明らかにされているのは、「第7章 ポスト産業都市における教会生活」です。まさにこの章において、著者の「ファン・ルーラーの創造神学の支持者」たる所以が告白されています。ちょっと長いですが、核心に触れていると思われる文章を、引用しておきます。

「私はアーノルト・A. ファン・ルーラーの神学によって方向づけられてきた。彼の神学は、なるほど都市について何かを記しているわけではない。しかしファン・ルーラーは、健全な『創造の神学』(een deugdelijke theologie van deschepping)を発展させてきた。彼によると、創造は、それ自体において存在している。人間は、創造的活動(schepping)において、神と共なる共同創造者(medeschepper naast God)の役割を獲得する。世におけるキリストの到来は、人間の堕落の結果に最も深くかかわっている。キリストの到来は、救助(behoud)、救出(redding)、回復(herstel)、贖罪(verzoening)、解放(bevrijding)を含意する。キリストは再創造(herschepping)をもたらす。ここに大きな誘惑がある。それは、キリスト御自身ならびに世におけるキリストの体なる教会の救済的行為に基づいて都市問題にアプローチすることによって、独占的・排他的な救済的形態を教会に与えてしまうという誘惑である。ファン・ルーラーは、教会を、(たとえば)貧しい人々、家を失った人々、病気の人々、虐げられた人々といったような人間的堕落の犠牲者に配慮する存在、というふうには理解しなかった。なぜならそのとき、教会が描く(否定的な)イメージに基づく創造の業としての都市という理解に遭遇するからである。ファン・ルーラーによると、創造に対する救済論的アプローチは、実在についての歪んだイメージを提供する。そのとき、都市成立の発端としての市場(しじょう)がますます、悪の根源のように感じられるのである」(246ページ)。

あとは、推して知るべし、です。著者の立場は、明らかに、ファン・ルーラー神学に基づいて、「都市」ないし「都会」を肯定的に捉え、そこに生きる人々に「役立つ」伝道と教会形成を志向するものです。

日本でも、しばしば、「地方伝道」ないし「田舎伝道」と「都会伝道」との対比が語られます。どちらが「困難」で、どちらが「簡単」か、というようなことを議論しはじめる向きもありますが、その議論自体は空虚でしょう。

そんなことではなく、本当の問題は、「都会伝道」を考えるときに、「『あの邪悪な』都会!」と決めつけるところから、一切の理論と実践を引き出そうとすることにある、ということが、本書の著者と、著者の主張を裏打ちするファン・ルーラーの神学の言いたいところではないでしょうか。

とても大切な視座を教えられたような気がしました。謹んでご紹介いたします。

2003年10月2日木曜日

書評 大木英夫著『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)

関口 康

このたび出版された大木英夫氏の『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)に対して本誌『改革派神学』の読者が抱く関心事の一つは、かつての本誌主筆岡田稔の代表的な論文である「植村・高倉神学の行方」 [1]の妥当性や如何に、という点にあるのではないだろうか。

もっとも、大木氏の主要著作を見るかぎり、高倉徳太郎への肯定的評価が語られている個所はほとんどない。同氏は「東京神学大学における植村の神学的伝統は、わたしにとりましては、熊野先生を通じて受けたものであります。・・・『植村の神学的伝統』とは植村から熊野へと継承発展させられてきた太い一線であります」と語ったことがある[2]。そして『組織神学序説』は、「故熊野義孝教授」と「故渡辺善太博士」に献呈されている。「熊野先生からは『教会』と『歴史』の感覚を受け継ぎ、渡辺先生からは『聖書正典』への理解を受け継いで、問題意識を少し広げ『組織神学序説』とした」と著者は書いている[3]。

こうして大木氏が「植村・熊野神学」を自覚的・主体的・責任的・学問的に継承していることは明白である。だとすれば、本誌読者の次なる関心は「植村・熊野・大木神学の行方」である、と表現しうるであろう。

岡田は「植村神学」の弱点について、「その因って生ずる根本を追及すれば、結局、聖書観と信条観にはいたいする」と断じた[4]。とりわけ植村の信条観に関して岡田は、日本基督一致教会の組織の際に「ウェストミンスター信仰告白、基督教略問答、ハイデルベルク信仰問答、ドルト教憲」が採用された当時の様子を「ほとんど首も回らぬしぎであった」と回顧した植村に対して、「はたして、この四つの信条文書を同時に持つことが、信仰の自由活動を束縛するしぎとなるだろうか」と問うた。

岡田は言う。信条は本来、説教者が聖書を解説する時の道案内である。説教者が毎日曜日の礼拝に自由に聖書のここかしこを解説する時、その所説に首尾一貫性を見出しうるだろうか。ロマ書の3章はアウグスティヌス主義で、12章はペラギウス主義でそれを解説するような危険が起こらぬと誰が保証できるか。まして、この教師とかの教師が同じ原理で説くことなどは、思いも及ばぬ。かくして信者は、何年教会に出席してもキリスト教の筋道さえ判然せぬまま死去することになりはしないか。このように、岡田は、聴く者に強い感銘を与えるきわめて実践的な判断によって、「植村の神学的伝統」としての「簡易信条主義」の弱点を鋭く指摘した[5]。

そしてまた、岡田と同世代に当たる熊野義孝がこの点において植村の路線を全く引き継いでいたため、岡田は熊野に次のように問わざるをえなかった。「何ゆえにニカイア、カルケドンを認めて、ドルト、ウェストミンスターを拒まねばならぬのか。古カトリック教会の信仰の告白としてのニカイア、カルケドンと、宗教改革の教会の信仰の告白としてのウェストミンスターとの関係にどんな実質的差違があるのだろうか」[6]。もちろん、実質的差違は無い、と言っているのである。

他方、植村や熊野の聖書観に対する岡田の批判は、その信条観に対するそれと比べると、必ずしも歯切れのよいものとは言いがたく、防戦一方の感を否めない。岡田は、自ら師事したメイチェンあたりの聖書観を一つの標準とみなしつつ、植村はメイチェンと軌を一にする立場をとったのに対し[7]、熊野はメイチェンをファンダメンタリストの代表者と認めるのを避けなかった[8]と述べるにとどまっている。はたして本誌の読者たちは、メイチェンの聖書観をいまだに支持しえているだろうか。

「植村・熊野神学」の路線を継承する、と自ら語る大木英夫氏の『組織神学序説』においては、岡田が提起した問題は克服されているのだろうか。これは日本プロテスタント神学史上、きわめて重要な問いであると思われる。

本拙論は単なる「書評」として本誌編集部から執筆を依頼されたものである。また、大木氏の『組織神学序説』はおよそ六百頁にも及ぶ大著であるので、事の詳細を評する余裕は無い。問題点を網羅的に抽出することも不可能である。ただ、非常に感銘を受けた点のみ指摘しておきたい。それは、大木氏が現代日本において「組織神学」を構築するための最も大切な土台がそれであるという仕方で、「契約神学の伝統の回復」という課題を前面に掲げている点である。これは、植村・熊野はじめ従来の日本の組織神学者の手で著されてきたいずれの教義学教本にも見られない、新しい方法である。

これがわれわれに感銘を与える理由は、次のように説明しうる。大木氏が「契約神学の伝統の回復」と呼んでいる事柄の実質的な内容は、かつて岡田が、一方の植村に向かって「四つの信条文書」を持つことが「信仰の自由活動を束縛するしぎとなるだろうか」と問い、他方の熊野に向かって「何ゆえにニカイア、カルケドンを認めて、ドルト、ウェストミンスターを拒まねばならぬのか」と批判したことに関する一つの重要な神学的レスポンスと認めうる、ということである。なぜなら、「契約神学の伝統」とは、まさに(植村が嫌忌した)あの「四つの信条文書」に代表される歴史的改革派教会の諸信条を通して現代の改革派諸教会へと脈々と受け継がれている、われわれの神学的伝統そのものだからである。

もっとも、大木氏は「日本基督教団立の神学校東京神学大学における組織神学の教授として神学教育にたずさわってきた者」[9]と自己規定しながら、「教義学(Dogmatics, Dogmatik)の課題は、通常であれば、みずからが所属する教会の信仰告白の解説を中心にすべきものであります」[10]と言い、「日本基督教団信仰告白は使徒信条に独自な前文をつけた短いものでありますが、その冒頭に聖書の正典性を認めており、それをもってプロテスタント的聖書原理に立つことを示しております」[11]と言い、「日本基督教団の教義学は、まずこの前提的課題との取り組みから開始せねばならないのであります。日本基督教団の教義学は、その背後にある長大なキリスト教思想史や教会史を遺産として受け継ぎながらも、『聖書によってたえず改革される教会』としてそれを改革的に継承すべきであり、しかも聖書に基づいての教会形成という建設課題として受け止めなければならないのであります。そのようなものとしてそれは、教会形成的教義学となるのであります」[12]と言う。これを旧来型の「簡易信条主義」の単なる反復と見るか、それとも植村・熊野からの一歩前進があると見るかは、微妙である。

そして最も疑問に思うことは、簡易信条主義を維持したままで「契約神学の伝統」を保持しうるのか、という点である。「契約神学の伝統」は、歴史的に見れば、キリスト教の主要教理の内容を精密に規定する「信条文書」と、その信条文書に基づいて教会裁判を行うことができる「長老主義的教会政治」の中でこそ保持されてきたのではないだろうか。「日本基督教団信仰告白」と「日本基督教団教憲教規」だけで、「契約神学の伝統」を保持できるのか。わたしは、それを信じることができない。

「契約神学の伝統の回復」というこの点に大木氏が強調を置くことは、大木氏独特の発想の奇抜さに依拠するというような事情では全くありえず、本書において明らかにされているとおり、「二十世紀における契約神学の発見」[13]という神学思想史的裏書きがある。大木氏はこの「発見」の立役者としてコッツェーユス研究(1923年)の著者G. シュレンク、『十七世紀のニューイングランド思想』(1953年)の著者P. ミラー、そして『ピューリタニズムの倫理思想』(1960年)の著者である大木氏自身の名を挙げている。

また、『組織神学序説』の中では紹介されていないが、最近出版された契約神学の巨大な研究書として、オランダ国立ユトレヒト大学神学部W. J. ファン・アッセルト教授の主著『ヨハンネス・コッツェーユスの神学』(英語版2001年)[14]を数えることができるだろう。さらに、ファン・アッセルト他編『宗教改革とスコラ主義』(2001年)[15]という論文集も出版されており、R. A. ムラー(米国カルヴァン神学校教授)、W. ファン・トゥ・スペイカー(オランダキリスト改革派教会(CGKN)立・アーペルドールン神学大学元教授)といった錚々たる研究者陣が優れた論文を寄稿している。彼らの神学的アイデンティティは明確に「改革派神学」にあるが、彼らがいかなる意味でも保守主義者ではないことは、研究成果を見れば明らかである。ちなみに、ファン・アッセルトは、かつてユトレヒト大学で教鞭をとったA. ファン・ルーラーの学生の一人でもある。このような前世紀から始まった国際的な契約神学研究の興隆の中で、このたび日本を代表する神学者大木英夫氏の『組織神学序説』が世に問われたことを、わたしは、氏に対し今でも学恩を感じている一人として、心から歓迎したいと思う者である。

ところで、一点だけ、大木氏の所説の内容に踏み込んだところにも、触れておきたい。それは、本書503ページ以下に出てくる「根源的契約」という概念についてである。

大木氏が(おそらく自身のタームとして)「根源的契約」と呼んでいる事柄は「内在的三位一体における父なる神と子なる神との契約」と定義されている。「契約神学の中には、父なる神と子なる神との間に契約があるという思想があります。それは三位一体の神においては、聖なる気まぐれのような意志ではない、その神秘は非合理的な気まぐれではなく、ことばをもつ契約的な意志だということであります。だからそれは『根源的契約』と呼ばれるにふさわしいのであります」[16]。このあたりを読むかぎり、これは、歴史的改革派神学において、とくに17世紀以来論じられてきたpactum salutisを指しているものと思われるが、このラテン語の訳語として定着してきたのは「贖いの契約」(verbond der verlossing)、または「平和の計画」(raad des vredes)であろう[17]。この概念が日本プロテスタント神学史の表舞台で語られたのは、大木氏の『組織神学序説』が初めてではないだろうか。

「贖いの契約」(pactum salutis/ Covenant of Salvation)とは、ウェストミンスター信仰告白などに繰り返し登場する「恵みの契約」(foedus gratiae/ Covenant of Grace、大木氏は「恩寵の契約」と訳す)や「業の契約」(foedus operum/ Covenant of Works)とは区別される概念である。残念なことは、「贖いの契約」の概念が、その決定的な重要性にもかかわらず、どの改革派諸信条の中にも出てこないことである。その理由は、この教理の発展が17世紀になってやっと実際に始まったからである、と説明しうる[18]。とはいえ、16世紀と17世紀との契約神学の差違を過度に強調すべきではない。『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)の著者の一人と称されるカスパール・オレヴィアーヌスは、いちはやくこの方向で思索していた。それが『ハイデルベルク信仰問答』第12主日における「この方がキリスト(油注がれた者)と呼ばれる理由は、父なる神によって(以下のような職務へと)任命され(verordnen)、聖霊によって油注がれた者だからである」[19]という表現となって現われている。この「任命」(Verordnung)、すなわち「神の御子イエス・キリストの仲保者の職務への任職」(constitutio Mediatoris)こそが「贖いの契約」(pactum salutis)の意味である[20]。『ドルト教理規準』(1619年)第一教理第七条項の「永遠から任命されていた仲保者」[21]も、これである。

しかしながら、「贖いの契約」という概念については昔から多くの問題点が指摘されてきた。大木氏はコッツェーユスのpactum salutisに対するバルトの批判を知っているが、17世紀のオランダ改革派神学者ヘルマヌス・ヴィトシウス(1636~1708年)[22]が挙げたpactum salutisを支える聖書章節(ルカ17・29、ヘブライ7・22、ガラテヤ3・17、詩編68・19、イザヤ38・14、エレミヤ30・21、ゼカリヤ6・13)を紹介することによってバルトの批判を退けている。その上で大木氏は、「ヴィトシウスは、この三位一体内の根源契約に経綸的なもの(オイコノミア)の根拠を見ました。われわれはこの方法論的洞察に学ぶべきだと思っております」[23]と述べている。

このあたりで沸いてくる強い疑問は、はたして本当にヴィトシウスが挙げた聖書章節だけで「内在的三位一体内部における父なる神と子なる神との契約」を表わすpactum salutisという17世紀的概念を今日的にも保持し続けることができるだろうかということである。保守的なことで知られるオランダキリスト改革派教会(CGKN)の教義学者J. ファン・ヘンデレンは、この教理の今日的有効性を支持している有力な一人であるが、昔から多くの人々がこの教理の根拠としてきたゼカリヤ書6・13には神的諸位格(goddelijke Personen)に関することは何も記されていない、と述べている。むしろファン・ヘンデレンが「この教理の唯一の根拠」(enige grond voor de leer)として挙げている聖書章節は(ヴィトシウスが挙げていない)ヨハネによる福音書10・36である。またペトロの手紙一1・20は、ヘルマン・バーフィンクやJ. ヘインスなど20世紀の有力な改革派神学者も挙げているゆえに看過しえない個所として紹介されている[24]。

しかし、ファン・ヘンデレンと共に、筆者自身も重要と考える聖書章句は、エフェソの信徒への手紙1・3~14である。この個所は信徒が受領しうる神の祝福だけではなく、彼らのすべての救いがそこから溢れ出る神の永遠の愛(eeuwige liefde)と神の永遠の好意(eeuwige welbehagen van God)とに関係している、とファン・ヘンデレンは述べている[25]。さらに、この個所は岡田稔がその重要性を強調してやまなかった「神の聖定の教理」(The Doctrine of God’s Eternal Decree)を支える重要な根拠でもある。「神の好意」と訳しうるwelbehagen van God(英語でGood pleasure of God)はエフェソ1・5のευδοκια の訳である。新共同訳聖書では単に「御心」と訳されているが、これがひどくつまらない。ευδοκια もwelbehagenもGood pleasureも一致して「喜び」を意味する。せめて「神の喜びに満ちた御心」と訳したいところである。

ファン・ヘンデレンは、「協定(overeenkomst/ pactum)や契約(verbond)について聖書は、改革派神学が語ってきたほどには言及していない」ことを認めつつ、「だからといってこの思想は非聖書的であるとまでは言い切れない」という線に踏みとどまる[26]。わたしもそれで異存はない。しかし、さらにもう一歩先に進んで、内在的三位一体における御父と御子とのpactum salutis(大木氏の語る「根源的契約」)の内容は、いずれにせよευδοκιαであり、welbehagenであり、Good pleasureなのだから、それは結局「喜び」(vreugde)であると語られるべきではないか、とも思う。「植村・熊野・大木神学」と歴史的改革派神学の共通目標があるとしたら、それは「喜びの神学」(Theologie van de vreugde)ではないのか、とも感じるのである[27]。

大木氏の所説においては、「根源的契約」についての今日的展開とでも言うべき深入りは見当たらない。聖書的根拠に乏しい(と思われる)「契約」理解の紹介というあたりで踏みとどまり、「アメリカの契約社会の契約神学的背景」というような社会倫理的関心へと視線を移していく。

しかし、pactum salutisの内容は最終的には「喜びの交換(交歓)」と表現すべきではないだろうか。コッツェーユスは、「業の契約」と「恵みの契約」と「贖いの契約」という三つの契約概念におけるすべての関係性(神と人間、神と選民、御父と御子)を、おしなべてamicitia(フレンドシップ)という言葉で説明した[28]。「契約」をフレンドリーな概念としてとらえるというこの発想は、17世紀の状況においては正当な評価と十分な展開の場を持つことができなかったといえる。

しかし、21世紀においてはどうだろうか。改革派神学の発展は16世紀・17世紀のままで止まっているわけではなく(それを「死んでいる」という)、「21世紀の改革派神学」というものがありうる。

一例として、「父と子が永遠の契約を締結された」と物々しく語るよりも、「父と子がいつも楽しく遊んでいる」と陽気に語るほうが、神の国の聖書的イメージを正しく伝えることができるのではないだろうか。

天と地とその中のすべてを造られた神が、イエス・キリストにおいて、聖霊を通して、自身の被造物としての全世界と全人類の存在を、終末的完成の日をめざしつつ、「喜び」をもって保持し、支配し、導いておられるという福音の全使信を正しくかつ豊かに語るための説明の仕方は、何であろうか。

わたしの記憶の中の恩師大木英夫教授はユーモアを理解される方であった。このような夢見心地な空想にもきっとお付き合いいただけるものと信じている。大著の完成に際し、心から感謝と労いを申し上げたい。



[1] 岡田の当該論文は、日本基督改革派教会第三回大会講演(1948年)を基に書かれ、『改革派世界』第六号(1949年)に掲載。その後『改革派神学』第十輯(1972年)に再録され、最終的に『岡田稔著作集』第五巻(1993年)に収録された。

[2] 大木英夫『歴史神学と社会倫理』ヨルダン社、1979年、108頁。

[3] 大木英夫『組織神学序説』、590頁。

[4] 『岡田稔著作集』第五巻、26頁。

[5] 筆者は、岡田が書いたこの一節にも深い感動を覚え、遅ればせながら日本キリスト改革派教会への加入を決意した。

[6] 岡田稔、同上書、34頁。

[7] 岡田稔、同上書、24頁。

[8] 岡田稔、同上書、33頁。

[9] 大木英夫『組織神学序説』、314頁。

[10] 大木英夫、同上。

[11] 大木英夫、同上書、315頁。

[12] 大木英夫、同上。

[13] 大木英夫、同上書、471頁以下。

[14] W. J. van Asselt, The Federal Theology of Johannes Cocceius (1603-1669), Translated by Raymond A. Blacketer, Brill, 2001.

[15] Reformation and Scholasticism. An Ecumenical Enterprise. Edited by Willem J. van Asselt and Eef Dekker, Baker, 2001.

[16] 大木英夫、同上書、503頁。

[17] たとえば、J. van Genderen en W. H. Velema, Beknopte Gereformeerde Dogmatiek, Kok- Kampen, 1993 (Tweede druk), p. 193.参照。

[18] Ibid. p.197.

[19] Der Heidelberger Katechismus, Herausgegeben von Otto Weber, 4. Aufl. Guetersloher Verlagshaus -Gerd Mohn, 1990. S. 26.

[20] J. van Genderen en W. H. Velema, op. cit., p.194.

[21] エドウィン H. パーマー著『カルヴィニズムの五特質』(鈴木英昭訳、つのぶえ社、改訂第二版1987年)巻末の「ドルト信仰規準」(鈴木訳、191頁)を借用した。

[22] ヴィトシウスについての大木氏の紹介への補足として。ヘルマヌス・ヴィトシウス(Hermannus Witsius [1636-1708])年は、北ホーラントのエイクハイゼン生まれ、フローニンゲン、ライデン、ユトレヒトの各大学で学び、1656年から牧師になり、オランダ国内の三つの教会の牧会に当り、その後1675年からフラネカーで、1680年からユトレヒトで、1698年からライデンで神学教授を歴任。正統主義神学とコッツェーユスの契約神学との仲介役を務めようとしたが失敗した、とされる。

[23] 大木英夫、同上書、506頁。

[24] J. van Genderen en W. H. Velema, op. cit., p. 196.

[25]  Ibid.

[26] Ibid. p. 197.

[27] このように書きながら、筆者は、「喜びの神学」の典型として、二十世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)において最も重要な役割を果たしたA. ファン・ルーラーの神学を思い浮かべている。

[28] W. J. ファン・アッセルト=H. G. レンガー共訳で1990年に出版されたコッツェーユスの『契約論』(オランダ語版)において、コッツェーユスのamicitiaという概念は、vriendschap(フレンドシップ、友愛、友情など)と訳されている。Vgl. Johannes Coccejus, De Leer van het Verbond en het Testament van God, Vertaling door W. J. van Asselt en H. G. Renger, Uitgeverij de Groot –Goudriaan, Kampen, 1990, p. 3.

(『改革派神学』、神戸改革派神学校、第30号特別記念号、2003年、105~112ページ掲載)