2001年8月15日水曜日

日本キリスト改革派教会創立宣言に学ぶ(2)

講演2 日本キリスト改革派教会の二つの主張

「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
(エフェソの信徒への手紙4・1~6)

昨日は、講演1のために与えられた時間の半分くらいを使って、創立宣言の原文と現代語訳とを皆さんで輪読していただきました。ですから、私は、昨日は何も話をしなかったのとほとんど同じである、と思っております。

とにかく創立宣言というものを実際に読んでいただいて、おそらく今、いろいろなご感想をお持ちになっておられるだろうと思います。現代語訳を作らせていただいた者が自分で言うのも何ですが、読みづらい文語訳のままで「放置」しておくよりも、下手な現代語訳でも見ていただくほうが、はるかに多く役に立つところがあるのではないかと思います。

もちろん、言葉としてこなれていないところや間違っているところなどは、まだまだたくさんあるでしょう。ですから、私の訳などは一日も早く克服していただいて、新しい、もっと良い訳を皆さんで作っていただきたいと思います。

私の仕事は、皆さんにとって創立宣言は身近なものだと感じることができるように、ほんのさわりの部分をお話しさせていただくだけです。私としては、この修養会に参加された皆さんが、自分の家に帰ってから、修養会のことを思い出して、創立宣言のことについては何も分からなかったと言われる人が一人も出てこないように、何とかがんばって分かりやすく話したいと願っておりますので、なにとぞよろしくお願いいたします。

そして、そういうわけですから、私たちにとって創立宣言を身近なものにするために、ただ読んだというだけではなく、やはりその意味を少しでも理解する必要が出てきます。そのために私はこれから、創立宣言の文章を少しずつ取り分けながら解釈していきたいと思います。

* * * *

第一の主張:キリスト教有神的人生観・世界観に基づく国家の建設。

創立宣言の最初の部分は、当時の教会を含めた日本の状況ということを考えながら、その時代に合わせて書かれたものである、ということは、もちろん言うまでもありません。時代的限定の中にある言葉遣いで書かれています。

ただ、これは、一つの教派の創立宣言です。それは、これから新しく「教会」を作りましょう、という話です。その最初の部分に「国家」の話が出てくるというのは、考えようによっては、きわめて異様なことであると見ることができます。もっとも、これは批判的な意味で言っているわけではありません。

たとえば、一つの政党のことを考えてみる。たとえば自由民主党でも民主党でも共産党でもよい。一政党の立党宣言の中に「国家の再建」という話が出てくるのは全く当然のことです。それどころか、そういう部分が無ければ、その文章は意味をなさないわけです。

しかし、キリスト者たちが集まって、一つの新しい教派を作ろう、教会を建てようというときに、まず第一に「国家の再建」という話から始める。これは、ある意味では、ぎょっとするようなこと、考えようによっては、おかしなことです。

改革派創立宣言は、敗戦日本の再建の道の上で、そのために、その中で、教会はどのような役割を担っていくのかという話から書き始められています。一つの文章を理解する上でその文章の最初に書かれていることは、以下の文章全体を支配するようなきわめて重要な意義を持っていると読むべきです。改革派創立宣言が、何をさておいてもまず最初に「国家の再建」ということを言い始めているところに注目していただきたいと思うのです。

次の段落を見ていただきますと、ここに書かれているのは「歴史を支配する神」ということです。わたしたちの信じる神を、歴史とのかかわりでとらえる神理解です。「歴史を支配したもう神の摂理」。神というお方は、歴史を支配される方です。「摂理」とは、ごく分かりやすく言えば「お導き」です。神のお導きによって、日本が変化したのです。

どういう変化をしたのかと言いますと、ごく単純な言い方を許していただきますと、時間の横軸の中で第二次世界大戦が起こり、その前と後で日本が根本的に変わった。そこで「信教の自由」が日本にもたらされたのです。

「もたらされた」の意味は、それまでは無かったということです。そのことは、我々の世代の人間には認識できないことです。それまでの日本には無かったもの、存在しなかったものが第二次世界大戦後「もたらされた」のです。そのことは、歴史を研究する人々が一様に認めていることです。言葉の正しい意味における「デモクラシー」は、第二次世界大戦後、日本に入ってきたものです。

大木英夫先生(元東京神学大学教授)の表現を拝借して言えば、ものすごく単純な引用の仕方ではありますが、第二次世界大戦以前の日本にあった倫理は「古い共同体の倫理学」というべきものであった。しかし、それが戦後変わった。「新しい共同体の倫理学」が必要になったというふうなことが語られております。

大木先生によりますと、戦前の「古い共同体の倫理学」の代表者は和辻哲郎という人なのだと言われます。そして、和辻こそが「A級戦犯」なのだと、大木先生は繰り返し学生たちに教えてくださいました。

天皇家による国家支配、萬世一系、八紘一宇、大東亜共栄圏構想というふうな諸々の戦争用語に表現された物の見方や価値観。私たちのおじいさんやおばあさん、あるいは父親や母親たちの頭の中にかつて描かれていたし、今も描き続けられているかもしれない物の見方や価値観。こういうものが、かつてあった。

しかし、そのような物の見方や価値観が、戦後になって、とくに日本国憲法というものと結びついて入ってきた「デモクラシー」によって全く根本的に変化する。デモクラシーが日本に変化をもたらしたのです。しかしそのことを、信仰的・神学的に、あるいは改革派的に考えていくと、「神のご摂理」ということにおいて日本の国が、そのとき変わったのだ、根本的変化が起こったのだと理解することが大切です。

さらに次の段落、「今後、よりよい日本の建設のために…」以下をご覧ください。そのように、日本が戦後において一変した。もっとも、実際に変わったのは法律だけであって、人間の心は変わっていないというべきかもしれません。ですから、日本の変化はいわば単なる形式的な変化です。まさにそのような状況の中で我々は何をなすべきか、ということを書いている部分です。

「食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすことをもって、最高の目的にしなければなりません」。

みなさんの中にもおられる「生まれた時から改革派」という方々は、教会学校の頃から、あるいは中学・高校の頃から、ウェストミンスター小教理問答を繰り返し勉強させられてきていると思います。その第1問に、「人の主な目的は何であるか。人の主な目的は、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである」という言葉があります。その表現が、創立宣言のこの部分の背後にあるといえます。

ウェストミンスター小教理問問答においては「目的」という点でendという英語が用いられています。「人の主な目的」はMan’s chief endです。Endはもちろん「終わり」です。それが「目的」という意味にもなります。それは「行き先」であり、途中のプロセスを経て至る「終点」です。それが「目的」であり、「目標」である。こんなふうに理解することができます。

食べているときも、飲んでいるときも、何をするときでも、どんな場面でも、わたしたち人間が神の栄光を現わす、ということが起こらなければならないのです。

先ほどは、みんなで朝ご飯を食べましたが、神の栄光を現わしながら、お食べになったでしょうか。納豆を食べながら、神の栄光を現わす、とか。そんなこと言われても困るとお感じになるかもしれませんけれども、でも、要するに「すべてにおいて」なのだ、と語ることが、改革派の筋道です。眠っているときも、という言い方もよくされるわけですが、いったいどうすればよいのだろう、と正直悩んでしまいます。でも、それが、神の栄光を現わす道なのです。

そして、そのように、自分の生活のすべてにおいて、あるいは世界のどの場所においても、と考える。お風呂の中でも。お風呂の中で神の栄光を現わすとは、いったい何だろう、と考えてみていただきたいわけです。いつでもどこでも、すべてにおいて。神がいつもわたしたちを見ておられる。神の目がどこにでもある。神の眼前で生きる。そのことを意識しながら生きる生き方。また、そのようなものとして世界を理解する仕方。このことがまさに、私たちの教会の創立宣言の中に出てくる、「有神的人生観・世界観」(Theistic Life- and World view)という言葉の意味です。

それは要するに、私たちが、神の眼前で生きる、ということです。すでに皆さんは、青年修養会などいろいろな機会に、coram Deo(コーラム・デオ)という言葉を聞いたことがあると思います。「神の御前で」という意味です。神様がいつも見ておられると語られる。お風呂の中とか、洗面所の中まで見ておられるということになったら、ちょっとヤダナーと思われるかもしれませんけれども、でも、それはいったい何なのだろう、神様の目って、どういうことだろうということを、いつも考え、いつも意識し、いつも感じながら生きる。これが大切なことです。

そのような「有神的人生観・世界観」ということの関連で、またしても、最初の話題に戻っていくのです。まさにその「有神的人生観・世界観」こそが「新しい日本を建設するためのただ一つのたしかな基礎である」!

ここでまた、話題は「日本」の問題、「国家」の問題に向けられるのです。そしてまた、語られていることは、「日本キリスト改革派教会の第一の主張であり、私たちの熱心はここにあるのです」ということです。

すなわち、「国家建設」ということを、わたしたちのこの教派は、初めから言っているということです。「私たちは国を建てるのだ」と語ってきたのです。「国づくりの発想」を持ってきたのです。こういうことは、見方によっては、とても異様なことです。しかし、何だかすごいことでもある。とにかくこのようなすごい考え方をもって、わたしたちの教派は出発したのだということを覚えておいていただきたいのです。

ここでちょっとネタ晴らしのような話をします。「教会と国家」との関係という問題を考えていくときに、そもそも改革派教会が歴史的に保有してきた物の見方や判断基準があります。それをここで少しだけ紹介したいと思うのです。

まずカルヴァンの言葉をご紹介しますと、彼は「世界」を指して「神の栄光の舞台」(theatorum gloriae Dei)といいました。この表現は、牧田吉和先生が『改革派信仰とは何か』という書物の中で紹介しておられます。

「舞台」(theatorum)は劇場(theater)です。シアターです。映画館のあれです。神の栄光(gloriae Dei)はglory of Godです。「世界」というのは、我々が住んでいるこの世界(this world)。神様がお造りになった宇宙全体(コスモス)。「海外」の話をしているのではありません。「世界各地を転々と歩く」とかなんとか、そんなときに使う「世界」という意味合いではなく、「この世」、あるいは「世間」。「渡る世間は鬼ばかり」のあの「世間」です。

カルヴァンによりますと、「渡る世間」は、神の栄光が現れる舞台、あるいはまた、人間が神の栄光を現わす劇場である、というのです。

わたしたちは、たとえばこんなふうな考え方をしてしまうことがあります。「今の私は、地獄のような世の中に住んでいる。嫌々ながら生きている。しかし、神を信じ、信仰生活を送ることによって、この苦しい嫌な世の中を何とか耐え抜いている」。教会の中にいる人々に限って、世の中というもの、世間というものに対して、極端な低い評価、ないしネガティブな思いを持ちやすい傾向がある、と言われることがあります。

しかし、改革派教会が持ち続けてきた「世」についての見方は、そういうネガティブなものではないのです。讃美歌の中には、しばし世を離れて祈りに徹する、というような歌詞のものがありますが、「祈り」とは「世から逃げる手段」なのでしょうかということが、問いとして残ります。世から逃れて礼拝を守る。しかし、礼拝が終わると、また嫌な世に戻って行かなければならない、というような感覚を、われわれはしばしば持ってしまうことがあるのかもしれません。しかし、改革派教会はそんなふうには教えて来ませんでした。世の中で、世と共に、神様の栄光を現わすのだと教えてきたのです。世に対する肯定的評価!これが改革派信仰というものを理解するための一つのポイントです。

ですから、国家のために働くとか、国家を建てるというのは、いわば世俗的なこと。そんなことは政治家に任せておけ、どうせ汚いあの連中が何かごちゃごちゃやってくれるだろう。そういう世のことは世の人に任せておけ、というふうな言い方は改革派教会の筋道から出たものではないのです。教会が世に対して積極的な働きをするということが、求められているのです。

今、わたしは、カルヴァンの世に対する積極的な評価についてご説明いたしました。カルヴァン以後のカルヴァン主義者たちもまた、積極的に政治的・文化的活動をしていきました。とくにこの名前については、皆さんはすでに教会を通して聞いておられると思いますが、19世紀の後半から20世紀の前半まで活躍したオランダの改革派神学者、アブラハム・カイパーという人がいました。

カイパーの『カルヴィニズム』という本が邦訳されて、黄色い(危険な?)色のカパーを付けて売られております。これを、みなさん読みましたか?持っておられますか?今日はみなさんに、「持っていない人は、ぜひ買ってください」と言おうと思ってまいりましたら、先ほど、キリスト教書店にお勤めの方が、「これはもう品切れになっています」と教えてくださいました。非常に残念に思っています。こういう本を品切れにしてはならない!みなさんどうかこれをどこかで手に入れて、ぜひ読んでください。

この人は、改革派の神学者であり、牧師であり、政治家であり、新聞記者であり、また政治家の面はさらに進んで総理大臣になりました。今の日本キリスト改革派の牧師さんが、総理大臣になる!そういうことが想像できますか。なってほしいなあと思いますけれども。小野静雄大会議長に総理大臣になっていただく。こういう案はどうでしょうか、みなさん?すごく大変なことだと思います。教会の仕事だけでも、ものすごくたいへん。その中で政治家になり、総理大臣になる、というようなことが起これば、たぶん日本の牧師は長生きできないでしょう、間違いなく。50年も生きられないでしょうと思います。

それはともかく、カイパーの『カルヴィニズム』という書物において、またカイパーの生き方において、世から退く姿勢、後ろ向きになる姿勢はまったくありません。それどころか、世に対して非常に積極的であり、世の中に入っていって、そしてそれを変えていくという姿勢が、顕著に見られます。もちろん、世を変えるだけではなく、世を守るということも、しなければならないことです。

「これが改革派の行き方だ!」と私は信じています。もちろん皆さんはずっと改革派教会のメンバーとして生きてこられた私よりも先輩たちですから、もし皆さんが聞いて「関口の考えは間違っている」と言われるならば、素直に耳を傾けたいと思っております。

* * * *

第二の主張:信仰告白・教会政治・善き生活を具備する教会の建設。

「具備する」という言葉は、わたしたちにとって、あまり日常的には使わないものではないかと思いますので、もう少し砕いた表現が必要かもしれません。「充分に備える」(広辞苑)という意味です。
この第二の主張の部分は、創立宣言全体の流れの中で見ればちょっと唐突ではないかという感じで登場してきます。話題が急に変わっています。「そもそも人類は」と、なんとも唐突に切り出されています。ここから第二の主張が始まるというのが、矢内先生・榊原先生共著の『創立宣言の学び』などで指摘されていることです。

この『創立宣言の学び』という本は面白いもので、第3章に「宣言の学び方」とあって、どういう学び方をすればよいのかということが詳しく具体的に書いています。「段落を切ってみましょう」とかですね。だいたい全体を三つに分けることができると指摘されています。この本は、非常に優れた本でして、わたしがことさら話などしなくても、この本を読めば全部書いてあると思っていただいてよいものです。

この「そもそも人類は」というところから、矢内先生の表現をお借りして言えば、「キリスト教本質論」が始まります。もちろん、いろんな言い方ができると思います。「キリスト教の教理」、「キリスト教の教え」、「改革派信仰の内容」、「教理の要約」など。

ここに書いてあることは、みなさんが教会で教理の学びをしてこられた中で聞いたことがある話ばかりだと思います。文語で書いてありますと意味がほとんど分からない感じですが、訳してみますと、何のことはない、とてもよく分かる話です。人間には罪がある。しかし、その人間は、イエス・キリストの贖いによって、罪赦されて、きよめられて、永遠の命を与えられて、栄光に変えられていく。イエスさまを信じるだけで救われる、という宗教改革的信仰の内容が書かれています。

もっとも、ここで私は、ちょっと不満があるというか、ちょっと言いたいことがあります。それは、この部分の最初の切り出しとして、「そもそも人類は、神の御前に一体にして、等しく罪の奴隷たり」と言われていることに関してです。この「人間は罪人である」という告白がキリスト教信仰の要約の最初に出てくるというのは、ちょっと不満です。なぜかといいますと、人間は、最初から罪人だったわけではない、というのが聖書の言い分なのです。

これは、関口が何か変なことを言い出したというふうに思わないでいただきたいところです。聖書の初め、創世記の1章、2章、3章あたりを見ますと、神様はご自分がお造りになった人間を「はなはだよい」(very good)とお認めになったということがはっきり書いてあるわけです。ベリー・グッドな存在としての人間!

人間というのは、最初はアダムとエバだけだったかもしれませんけれども、最初はとにかく「よいもの」として造られたのだということが言われなければならないのです。最初から罪人であるということを言ってしまうのではなく、それより一つ前のところから話を始めなければならないのです。

このことは、何もわたしがここで握り拳を振り上げて自己主張しているようなことではなくて、改革派教会のとくに今日の神学者たちがこのことを強調しはじめているのです。牧田先生も『改革派信仰とは何か』の中で、「善き創造」の教理の重要性について説いておられます。この「善き創造」という教えが、今後、改革派教会の中で、もっともっともっともっと、あとかける数倍くらい「もっと」強調されなければならない。ここからすべてを出発させなければならないということを言わなければならないのです、本当は。

しかし、いろんな時代的制約もあるでしょう。キリスト教の教理を短く言い表すというときに、すべての事柄を網羅的に書くことは事実上不可能なことです。書き出しも、ある一つのことからしか始めることができないわけです。でも、創立宣言が、キリスト教教理の要約を「罪」から始めていることは、ちょっと不満です。かつて人間は善いものだったのだというのは、今ではいわゆる一つの悪あがきみたいなものですが、それでも、とにかくそこから出発しないと駄目なのです。

「永遠の生命に定められた人々に信仰を与え、召してくださり…」以下の部分について。このような話は、皆さんが教会で先生たちから聞いておられる話だと思いますが、このあたりの記述は、いわゆる「救いの計画」(Plan of Salvation)の教理というべきものです。もう少し古い言い方をすれば、「聖定」(Decree)の教理。

みなさんの教会では最近でも「聖定」という言葉が使われているでしょうか。要するに「定め」です。予定は聖定に含まれるという話もあります。人間の救いが神の計画によって実現されていくプロセス、ないし秩序があるのだという教えです。とにかく神様の永遠の聖定において定められた計画の全内容に関する教理が、この「救いの計画」の教理です。

これが創立宣言の中に出てきます。前から順に見ていくと、予定(praedestinatio)、召命(vocatio)、義認(justificatio)、聖化(sanctificatio)と続き、最後に「神が人と共に住む」という事柄が出てきます。これは「和解」(reconciliatio)というべき出来事です。神と人間が和解するのです。

我々の救いの実現には一つの秩序があると言われます。それを「救いの秩序」(ordo salutis = Order of Salvation)の教理と言います。Orderは秩序とも順序とも訳せます。より新しい表現としては「救いのプロセス」(蘭 heilsproces)というのもあります。その秩序ないしプロセスに従って、我々は救われるのです。

しかし、これを決して我々が誤解してはならないことは、これは決して「時間的な順序」(chronological order)として考えてしまってはならない、ということです。たとえば、こんな言い方は許されないということです。「昨日、私は選ばれました。明日、義認されるでしょう。明後日、聖化されるでしょう」(?!)こういう言い方は絶対にできないのであって、我々が「救いの秩序」ないし「救いのプロセス」ということを考えるときにはいつでも「時間的順序」としてではなく、いわば「論理的順序」(logical order)として捉えなければならないのです。

もちろん、「わたしは20歳の時に回心しました」という言い方はできます。これは正しい言い方です。「その頃は他人に暴力を振るうのをやめることができませんでした。しかし40歳になって、だんだんやめることができるようになりました」。たとえば、こんなふうな具体的な問題解決という次元の話において、ある種の「時間的な順序」を認めることができるかもしれません。

ですから、救いの秩序の教理においても、「時間的な順序」というものが全く無いと言いうるかどうか。救いと歴史の関係、あるいは救いと人間の時間の中での体験の関係といったことをどのように理解するかなどの問題は残っていると思います。現実的な観点からすれば、歴史も、人間の時間的体験も、救いの実現にとっては不可欠な要素であると思われるからです。

しかし、それにもかかわらず、義認、聖化、栄光化というような事柄の実現を、時間的な順序で捉えようとするなら間違いを犯すという点は、確かなことです。誤解しないように受けとめていただきたいと思います。

「神共に住む」は「和解」であると申しました。これは、先ほど申し上げました「善き創造」との関連で理解されるべき事柄です。

もともと人間は、「善いもの」として造られました!神様に喜ばれる、はなはだよきもの、ベリーグッドなものとして造られた。しかし、それが罪を犯して堕落する。「堕落する」というのは、神との関係が崩れる、ということです。神に背を向け、離れることです。神との関係の中から「失われる」ことです。

しかし、神と人間との関係はもはや「無い」のかというと、無くなったわけではなく、崩れた関係として「ある」と言わなければならないのです。そして、その関係――すなわち、今は崩れているけれども、無くなったわけではなく、存在し続けている「神と人間との関係」――が、本来の「よきもの」へと「回復」する!これが「和解」(reconciliatio)の真理です。けんかしていたものが仲良くなることが和解の意味です。

堕落後においても、神と人間との関係がなくなったわけではなく、「悪い関係」となって残っている。だから「和解」なのです。もともと人間は神と共に生きていたのだ、というのが聖書の理解です。

なんだか我々にとっては遠い話だなあ、というふうに聞こえるかもしれません。我々の実体験からすれば、我々は神も仏もないところから救われて、そのとき神を初めて知って、神と共に生きるようになったと感じる。それが我々の体験的現実というべきものではある。しかし、人間の本質という観点から考えるなら、もともと人間は神に喜ばれる存在、はなはだ善き存在、神と共に生きる存在であったのだという点が大切なのです。

救いとは「和解」です。もともとあった関係が壊れて、まだ戻ったのだと言わなければなりません。

「四千年も昔…」以下。ここから先の話のキーワードは、「契約」ということです。しかし、この話を始めますと、非常に長くなりますので、詳細な話はできません。

よく言われることですが、旧「約」聖書と新「約」聖書の「約」は、神と人間との約束の「約」、契約の「約」です。まかり間違っても、「訳」という字は使わないでくださいね、という注意を教会で受けたことがあると思います。神と人間との契約関係について書かれた契約文書としての聖書、という意味合いが旧約・新約の「約」の字に込められております。

創立宣言には、旧約時代と新約時代との区別というような話も出てきます。

「神だけが明らかにご存知であられる、いわゆる見えない教会は…」以下。まず現代語訳の問題として申し上げておきたいことは、「具現化」と訳しました「具現せられるべきを確信し」という個所の「具現」の意味合いです。わたしは、これを訳しながら、おそらく英語に訳せばrealizeないしrealizationという意味合いではないかなと思いましたが、いかがでしょうか。

さて、この個所の内容理解に進んでいきましょう。

まず、この個所に表現された思想の筋道は、こうです。「見えない教会」というものがある。それがしかし「見える教会」になること、すなわち「見える教会」としてリアライズ(具現化、現実化など)するのだと言われているわけです。こういう考え方が改革派教会の信仰的筋道ですよ、そしてこれこそがわれわれの主張の大黒柱の一本としての「第二の主張」ですよ、と言われているわけです。

この「教会の具現化」ということで、何が言われているのでしょうか。その一つは、教会というものはとにかくリアルな存在であるということではないでしょうか。生身の人間が住んでいるリアルな存在としての教会。牧師さんがいて、聖書のお話をしている場所。教会とは、人間がその中で労働している場所です。あるいは、そこは一つの部屋にみんなで集まり、仲良くし、仲間づくりをする場所。誤解を恐れずに言えば、教会とは「肉感的な」関係が生じる場所です。いずれにせよ、教会は実体的なものです。

そこで求められるのは、徹底的なリアリズムです。我々は、「向こう側の世界」とか「目に見えない観念の世界」として「教会」というものを捉えてはならないのだということです。「見える教会」・「地上の教会」として、この世界の中に存在する、諸々の人間関係のごちゃごちゃもある、生身の体をもった人々の集まり。我々は教会というものを、そういうものとして実現(リアライズ)しなければならないのです。

教会において結婚式が行われる。最近では「離婚式」の是非まで取り沙汰される。そういう複雑怪奇な人間関係を取り扱う場所としての教会。人間のよい面も悪い面も持ち合わせた「人間的な」集団としての教会。「この世的もの」を内包する集団としての教会。こういうリアルなイメージが大切なのです。

ですから、創立宣言のこの個所で、「見えない教会」が「見える教会」として具現化されるべきであるというこの一連の記述において、より大きな強調が置かれているのは、「見える教会」のほうです。「見える教会」の実現ということが強調点です。「見えない教会」のほうに強調がないわけではないでしょう。しかし、いわば二次的な強調が置かれているのであって、第一の強調は「見える教会」のほうにあるのです。地上の、リアルな、人間的な、この世的な教会が、重要なのです。

キリスト教信仰、とりわけ改革派信仰とは、リアリズム(現実主義、実在論)ではあっても、決してアイデアリズム(理想主義、観念論)ではない。頭の中だけで考えた理論だけで、教会は存在しないのです。

教会とは、地上にある現実的な存在である。そういうものを形成していく中で、我々は「信仰告白」というものを必要としているのだ、というのが創立宣言の主張です。それから「教会政治」、また「善き生活」も必要である、と語られます。

見える教会には「信仰告白」と「教会政治」と「善き生活」が必要であると言われています。これらの意味を一つずつ考えていきたいと思います。

「信仰告白」の必要性。わたしたちの場合、より具体的にはウェストミンスター信仰規準の必要性という話になります。

わたしたちがウェストミンスター信仰規準というものは善いものであると考える理由は何かと考えてみますと、その一つに、これはとても「詳しい」ものである、という点があるわけです。詳細である。「詳細信条」であるということが重要です。

詳しければよい、内容は問わず、という意味ではありません。ウェストミンスター信仰規準というものが、とても緻密で、あらゆる問題に対して網羅的な解決が見られて、聖書の解釈のいろんなポイントを充分押さえているという特徴を備えているものであって、内容的にも優れているものだ、ということは事実です。

しかし、わたしたちの教派がこれを採用している大きな理由は、その「詳しさ」です。「簡単」なものでは駄目だ、「簡単信条」では教会形成は不可能であると主張したのが、日本キリスト改革派教会の創立者たちです。

「教会政治」の必要性。長老主義、長老制度が必要である、という話になります。

ここで少し、昨日の講演の後、夜の分団に私自身参加させていただいて、その中に出てきた話題を聞いていて思ったことをお話ししたいと思います。

私は昨日の講演の中で「改革派教会を外側から見る視点」ということを申し上げましたが、そのことを聞いてくださった皆さんの中にいろいろな感想があったようです。

私は決してそんなふうに思わないのですが、改革派教会というものを外側から論評する人々の口にしばしば挙がる言葉は、「硬い、暗い、冷たい、厳しい」というふうなものであるというようなことも、みなさん自身がよく知っておられて、そんなことも分団で話題になっていました。教会が「政治」を行うとか、戒規があるとか、信条を勉強しなければならないというふうなことについて、改革派以外の人々から「硬い」だの「暗い」だの「冷たい」だの「厳しい」だのと批判された経験を持っている人たちがおられて、そういう場合どう答えたらよいのか、という質問が出ていたように覚えています。

わたしたちは、なぜ「教会政治」などというものを必要としているのでしょうか。ここで話を少し前に戻す必要があります。「見える教会の具現化」という話です。見えない教会ではなく、見える教会を、我々は、この地上において実現していく、あるいは現実化していくのだということです。

たとえば、私こと関口が牧師として働いている教会はちょっと怪しい教会であるに違いないと思っていただくとよいのかもしれません。私は、こういう修養会のような場所では、とても善い人間として振舞っているかもしれません。あるいは、教会の信徒の方々の前ではいつもニコニコしているかもしれません。でも、家に帰ると、もしかしたら、自分の子どもをムチか何かで叩いているかもしれない。そのように疑ってほしいわけです。人間というのは、必ずそういう二面性を持っているものではないかと。

みなさんだってそうではないでしょか。こういう場所にいるときには、まるで「善良なる市民」であるかのような顔をしておられますけれども、家に帰るとそこで何をしているか分からない。自分の部屋に閉じこもると、そこで何をしているか分からない。そういう存在なのだということを、自分自身の胸に手を当てて思い返していただきたいわけです。

それが人間なのだ。そして、その人間がこの地上において活動する。その活動の中に教会の活動もある。そう考えるとき、すべての教会は「怪しい教会」と見られても仕方がないではありませんか。

教会とは、人間が営んでいる、人間らしい、人間くさい場所ではないか。そういうものを、しかし、「見える教会のこの地上における実現」として考えていくならば、それなりの「歯止め」のようなものが必要になってくることは、いわば当然のことです。規準とか、政治とか、法的処分など。そういうものできちんと取り締まりをしないかぎり、その団体、その教会は、アナーキー(無政府状態)、大混乱状態に陥ります。こういうものがなければ、地上の教会というのは上手くやって行けないのです。

言ってみれば、空想の中だけで、あるいは、観念の中だけで描き出される教会としての「見えない教会」というものがあるということを否定するつもりはありません。しかし、そういう話ですべてを終わらせてしまう、そこで完結してしまうような考え方を、改革派教会は持たないのです。教会が地上に存在しなければならないかぎり、たとえ誰から「暗い」だの「冷たい」だの言われようとも、そんな言葉には耳を傾けないでいただきたい。我々には「教会政治」というものが必要なのだ、ということを語り続けて行かなければならないのです。

私の願いとしては、むしろ、みなさんには、そもそもそのような「教会政治」という考え方がない教会(教団・教派)、あるいは「教会政治」ということが十分な仕方で行われていない教会(教団・教派)と出会うときには、その教会をもっと疑ってほしいのです。「大丈夫かな?」と心配してほしい。

たとえば、我々との語らいの中で、「信仰告白?それなあに?見たことも、聞いたこともありません」というような驚くべき反応を起こすクリスチャンがいますけれども、その方が所属する教会(教団・教派)は大丈夫なのかと疑ってほしいのです。そこで何が語られているかを疑ってほしい。「教会政治?え、政治って、何かコワーイ感じ?!」という反応を起こす他教派の方々と出会う機会があると思いますけれども、しかし、我々の側からすれば驚きです。「それならば、逆に聞きたいのだけれど、もしそういうもの(教会政治)が無いならば、いったいその教会は、どうやって運営しておられるのですか」と問い返さざるをえないのです。

「善き生活」の必要性。律法というものが必要であるという話になります。律法が必要であり、律法の基準によって裁かれる「戒規」が必要である。今日において、戒規とは、より具体的に言えば、とくに聖餐式との関連で語られる事柄です。たとえば、我々の教会の中で、誰かが問題発言をした。間違った教理を教える教師が現われた。さっさと火あぶりの刑にしましょうとか、釜茹での刑にしましょうという話にはならないわけです。実力行使であるとか暴力的な裁きを、教会が執行するわけではありません。そうではなくて、聖餐式に与れないようにする(陪餐停止にする)、そして最大でも除名にすることができるだけです。

「善き生活」についても、いろいろな反論があります。「律法を重んじましょう」というだけで、「それは律法主義だ!」という反応が返ってくることがあります。ハイデルベルク信仰問答の中にも、ウェストミンスター大教理問答・小教理問答の中にも、「モーセの十戒」の解説が出ています。あれをよく勉強して、我々のものとすることが求められています。

もちろん、パーフェクトにあれを守ることはできないにしても、しかしそれでも我々は律法の示す基準に従って生きて行かなければならないと、改革派のみんなは教えられています。そういうことについて、我々は普通のことだと思っていますが、そのように感じない人々もいるわけです。「律法に従う?それは律法主義だ!」とすぐに言われます。必ず言われます。しかし、そういうことを言う人がいたら、やはり疑ってほしいのです。「じゃあ、あなたがたは善き生活、律法に従った生活をしていないのですか?」と聞いていただきたいのです。

「このようにわたしたちは、一つの見えない教会を、一つの信仰告白と、一つの教会政治と、一つの善き生活とによって、一つの見える教会として具現化し、これをもって、唯一の聖なる公同の教会の肢であるという事実を確信させられ、わたしたちの救いの確かさを証しすることを願う者として、各地に存在している各個教会の統一は、あくまでもこれら三つの要素の一致に基づくべきであり、この三点は相互に深く論理的・体系的に関係づけられているので、この三つのことは一元的なものです」(拙訳)とあります。

つまり、信仰告白と、教会政治と、善き生活との三つの相互関係は一つが欠けても成り立たないものです。三位一体という言い方はあまりしたくありません。三位一体は神ご自身の御名ですから、不敬な使い方はしたくないのですけれども、しかし、まさにそのようなことです。三つで一つ、というべきです。どれ一つも欠くことができません。

われわれが、ごくごく常識的に考えても、同じようなことを語りうると思います。一般のサークル活動などのことを考えても、基本的な考え方(信仰告白に対応)の一致とか、運営方針(教会政治に対応)の一致とか、行動パターン(善き生活に対応)の一致とかといったようなことが全くないところでは、何一つとしてまともな活動などできるはずがないのです。この修養会にロックバンドのメンバーが参加しておられるようですが、ロックバンドの運営を考えても同じことが言えるはずです。
 
この続きに、「日本キリスト教団」の問題が書いてあります。わたしがかつて属していた教団です。「日本におけるプロテスタント諸派の完全合同を目指した合同運動は、日本キリスト教団の成立によって、一応目的を達成したと考える人がいます」。

日本基督教団の中にいる人々のほとんどはそう思っています。だって、そう思っていないと、会員として面白くやって行けないわけです。

第二次世界大戦前に存在した日本におけるプロテスタントの教派で、日本キリスト教団に合同したのは三十余派ありました。本当に小さな教派もありましたから、明確な区別を付けにくい教派もあるようで、それでいつも「三十余派」というちょっと曖昧な数字が使われます。ですから、「日本キリスト教団」がどんなところかというと、「三十余種のキリスト教がミックスされている教団」と言っても、決して言い過ぎではありません。

もちろん、キリスト教は一つです。イエス・キリストはおひとりです。しかし、キリスト教の解釈や立場において、それこそ「三十余」、あるいはそれ以上に分裂している状況が創立当初から今日に至るまで続いています。そういうものが一つに集まり、一つの教団として合同した。

「けれども、日本キリスト教団は、今日に至ってもなお、今述べたような意味での一つの教会になることができているわけではありません」。すなわち、日本キリスト教団は、信仰告白・教会政治・善き生活を具備している教会として立っているわけではありません。

「彼らの全面的な不成功」。よくぞ言ってくださいました、と思いました。わたしはこの言葉を、感謝をもって読みました。これだけちゃんと書いてくださいますと、ありがたいものだと思います。

「彼らの全面的な不成功は、それを求める方法が間違っていることに原因があると言う他はありません」と訳してみました。「求めるに道を以ってせざるに拠ると言うの外なかるべし」という日本語は、なかなかの名文だとは思うのですが、今の人には分かりません。「方法が間違っている」と言っているに違いないと理解してみましたが、誤訳のようなら、ご指摘ください。

ということは何を意味するかと申しますと、日本キリスト改革派教会創立宣言は、「方法が間違った合同」ということについては、たいへん厳しく批判しておりますけれども、しかし、逆に言いますと、「正しい方法に基づく合同」ということは十分にありうるのだということを暗に言っていると見て間違いないわけです。三つのこと、すなわち信仰告白・教会政治・善き生活というものがちゃんと備わった仕方で合同するならば、その合同は正当ですと言っているわけです。

ですから、「単なる分派主義ではありません」という話がすぐに続いて出てくるのは、理由があることです。教会が日本の、あるいは世界の中で、バラバラになっていてよいというふうに、我々は思っているわけではありません、と言っているのです。一緒になれるものなら、なりたいものです。しかし、なれないのはなぜかというと、三つの問題がちゃんと扱われていないからです。

「真に世界的で正統的な地上教会でありたいと志す、この光り輝く歴史的改革派教会の一肢として、今日日本においてわたしたちの教会が組織されたことを、神の導きとして厚く感謝します…」以下。

ここに書かれていることの中で、とくに改革派教会の信仰的特徴として注目しておきたい物の考え方が出てきます。とくにプロテスタント教会の中で、マルティン・ルターの名前と結びつく「ルーテル教会」というのがあります。ルーテル教会が「宗教改革の教会」として、「改革主義教会」と呼ばれることがあるのですが、わたしたち「改革派教会」とは、しばしば区別されて語られます。

一般に、ルーテル教会はあのドイツという国の民族主義というものに結びついてしまったので、そこからあまり発展できなかったと言われるわけです。ドイツのナショナリズムと結託したルーテル教会というふうに言われるわけです。

それに対して、カルヴァン主義の教会は、インターナショナル(国際主義的)な性格を手に入れたと言われます。どこの国にもある。そして、その国にそれぞれの拠点がある。それが改革派教会らしいあり方です。

たとえば、ローマ・カトリック教会のように、ヴァティカンが総本山で、日本のカトリック教会はヴァティカンの営業所・出張所だというような考え方を改革派教会は持たないのです。日本の改革派教会は日本に固有な拠点を持っている。そこが中心である。しかし改革派教会は韓国にもあり、アメリカにもあり、ヨーロッパにもあり、アフリカにもある。そういう、世界大の国際的な組織として存在する。インターナショナリズムというものを、カルヴァン主義も改革派教会も持っています。

しかし、他方で、このわたしたちの創立宣言にも明記されていますように、わたしたち日本キリスト改革派教会は、そのような国際的な組織の「ブランチ」(肢)であるという考えもあるわけです。

「国際組織」という言葉を聞くと、「マフィア」か何かのような怪しいものを想像する人がおられるかもしれません。たしかに「国際組織」にはさまざまな種類のものがあることは事実です。「国連」もそうですし、「社会主義インター」もそう。カトリック教会も巨大なる国際組織です。

わたしたち改革派教会も、まさに「国際組織」です。たとえば、わたしたちが外国に行って、「リフォームド・チャーチ・イン・ジャパンのメンバーです」と言えば、それだけで充分に名刺代わりになっているわけです。アメリカでもヨーロッパでもアフリカでも同じでしょう。どこに行っても分かる。そういう国際組織のブランチ(肢)としての日本キリスト改革派教会という理解の仕方が、創立宣言の中に明記されています。

しかしまた、同時に、「日本において」という告白において、日本人に主にかかわりをもつ教会を我々は建てるのだとも言われています。日本キリスト改革派教会は、国際主義的(インターナショナリスティック)であると同時に、国民主義的(ナショナリスティック)な性格を持つ教会として、建てられたのです。

創立宣言の学びにおいて、こんなふうに、ほんの小さな言葉遣いに注目してみるのも、いろいろなことが見えてきて、楽しいと思います。

この後の個所で、創立宣言は、おもに「歴史」の話を、一生懸命しています。今の時代は、「近代」という時代が終わって、これから「現代」に入ろうとしている。古代・中世・近代・現代という歴史のプロセスがあり、その中で「近代」(Modern)という時代が終わり、今はポスト・モダーンだという話になるわけです。そういう時代状況の中で、我々が果たすべき役割があるはずだ、という点が語られています。今こそ改革派教会の出番である、ということを語ろうとしています。

* * * *

以上において、わたしたちは、この創立宣言においては、主に二つの大きな主張があるということを知ることができました。

第一は、キリスト教有神的人生観・世界観に基づく国家の建設。

第二は、信仰告白・教会政治・善き生活を具備する教会の建設。

この二つの主張が、わたしたち日本キリスト改革派教会が、少なくとも創立宣言を発表した時点において描いていたヴィジョンであったということです。その後どうなって行ったかについては私は知りません。その点は、みなさんのほうが私よりもはるかによく知っていることだと思います。

『日本キリスト改革派教会史』などを読みますと、第一の主張のほうが、どんどん後退していった、というようなことが書かれているのを見ます。「国家の建設」ということを大胆に語れなくなってきた。あまりにも大きすぎると感じたからでしょうか。我々にはとても負えない課題だと感じたからでしょうか。

あるいは、岡田稔先生の本を読みましても、今はとにかく教会形成に専念する時代なのだ、オランダと日本は違うのだ、というようなことが書かれています。いわば一種の自己批判のような言葉遣いをなさっているわけです。我々は創立宣言にこんなふうに書いたけれども、しかし今は教会形成をちゃんとしなければならない時なのだというふうな物の言い方をなさっているわけです。もちろん、創立宣言は岡田先生一人でお書きになった文章ではありませんので、岡田先生一人の責任ということは言えませんけれども。しかし、ともかく第一の主張のほうは、ずーっと後ろのほうに後退してしまった側面であると言わざるをえません。

* * * *

ここで一つ、この文章(創立宣言)を読んでいて私が感じた素朴な感想を述べさせていただきます。

それは、一つの標語のように申し上げるならば、「目標としての世界、手段としての教会」ということになります。こういう内容の事柄を、私はこの創立宣言の中に読み取らざるを得ませんでした。

この第一の主張と第二の主張とが、ただ漠然と、何の意味もなく、脈絡も無く、ただ二つ並べられているわけではないと感じたのです。

創立宣言は、第一の主張において、我々は、とにかく日本のこの国を変えなければいけないのだ、これからこの国を良くしていかなければいけないのだ、有神的人生観・世界観に基づいて、日本を建設していくのだということを、まず語っている。それが我々の「目標」なのだと、はっきり言っているわけです。

「目標」とは行き先であり、終点である、ということは、すでに申しました。

そうしますと、この話の中で「教会」(church)は、その「目標」(purpose)に至るための「手段」(means)という位置を与えられていることになります。わたしたちの創立宣言は、そういう内容を読み取ることができる文章構造になっているのだということを、覚えていただきたいのです。

事実、「教会」について書いている個所(第二の主張)を見ていただいても、ここに言い表されたような「教会」を建てることこそ、「日本とその国民に対して示す、わたしたちの愛の最も優れた表現」であると言われているわけです。ここで「第一の主張」(国家の建設)の話題に戻っているのです。

日本を建てる、日本を変えるということのために、「教会」というものが存在し、奉仕をするのだという明確な理解がここにあります。教会は「手段」である。読み方によっては、教会は「単なる手段に過ぎない」とも言いうる。究極目標は、あくまでも、世界において神の栄光が現われることである。日本が神の恵みによって変わることである。そういうことが「目標」(purpose)なのであって、それに対して教会は、いわば中間的な存在に過ぎない。教会は、その目標が達すれば、消滅しても構わない、というふうに読めるくらいに。

もちろん、これは誤解です。今わたしが申し上げたこと(一種の教会消滅論)は、完全な誤解です。しかし、そのような誤解を生み出してしまうのではないかと思うほどに、創立宣言における「教会」の位置づけは、いくらか消極的なものであるように読めてなりません。

しかし、このような理解の仕方は良い面と悪い面を持っていると思います。こういうふうな位置付けを教会に与える考え方は、おそらく間違いなく、先ほども一度名前を挙げましたオランダの改革派神学者アブラハム・カイパーの影響によるものであろうと、私は見ています。創立宣言は、カイパーの神学思想というものに忠実に従っているものとさえ言えるように思います。

カイパーの考えによると、改革派教会、ないしカルヴァン主義の教会の立場は、とくにカトリック教会の立場に反対するという理由から、神と人間との間に介在する「教会」というものを、できるかぎり「追い払う」ことが必要なのだと言われているのです。神と私の間の人格的で霊的で直接的な関係が大切であり、それが「目標」なのであって、教会なんていうものは、できるかぎり追っ払うものだとカイパーは言うのです。すごい言い方なのだと思います。それは明らかに、ローマ・カトリック教会があまりにも「教会」というものを絶対化しすぎることに対する「反動」です。このようなカイパーの立場は、創立宣言の中にはっきり現われていると思います。

この考え方の良い面は、「教会」が自己目的化することに対する非常に強い警戒があるということです。自己目的化の意味はどういうことかを理解していただくには、巷に溢れるカルト宗教のことを考えていただくと、よく分かると思います。

宗教団体が自己目的化し、自分たちの利益の追求にひた走り、私利私欲におぼれていく。金儲けに走り、肥大化していくというそのこと自体を目的としていく。そういうことに対して、わたしたちは、常に警戒しなければならないのです。

教会は自己の経済的充足や勢力の拡大だけに関心を持つのであってはならないのであって、あくまでも教会は、世のために仕えること、世に自らを献与することを目的とすべきである。教会の目的は自らの内側にあるだけでは不足であり、自らの外側にこそなければならない、ということを、常に念頭に置いていくことが大切なのです。自己目的化し、むやみに肥大化していく教会は、やはり危険な教会であると言わなければなりません。

以上は良い面です。しかし、当然、悪い面もあります。教会は手段であって、世界は目的であるというタイプの考え方は、しばしば誤解されやすいのです。このような考え方には、日本のキリスト教界の中にもいる過激な思想を持っているような人々の考え方と通じ合っている部分もあるのです。

たとえば、世界を自分たちの理想に基づいて変えていくために、教会を革命の拠点とする、というふうな考え方です。この世を変革するための拠点としての教会。いわゆる左翼の人々が、そういう言い方をします。いったい、教会は「拠点」に過ぎないものなのか、という問いが必ず残るのです。「教会」もまた、それ自体で「目的」でもあるということを、わたしたちは、はっきりと言わなければならないのです。

教会に集まって、礼拝をして、みんなで祈りをささげて、讃美歌を歌い、聖餐式をし、そのようにして主の御前に立つというそのこと自体が、われわれの人生の目的でもなければならない。この点は、はっきり言っておかなければならないことです。

だけれども、教会だけがわれわれの最高の目的になって、唯一の目的になっていくならば、非常に危険なカルト宗教化の道を辿っていくことになるでしょう。

創立宣言は、良い意味で「世に仕える教会」ということを言おうとしているのだ、ということを覚えていただきたいと思います。

講演3に続く)