2023年3月19日日曜日

途方に暮れても失望せず(2023年3月19日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 436番 十字架の血に

礼拝チャイム
週報電子版
宣教要旨PDF


「途方に暮れても失望せず」

コリントの信徒への手紙二4章1~15節

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」

今日の箇所は使徒パウロのコリントの信徒への手紙二4章1節から15節です。この箇所の中に「わたしたち」という言葉が繰り返し出てきます。だれのことでしょうか。最も狭く考えても、使徒パウロのことだけでないことは明らかです。パウロだけであれば「わたし」と言います。

中身を少し読みますと、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(1節)、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節)、「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(5節)など、記されているのが分かります。

つまり「わたしたち」の意味は、パウロ自身が含まれるのは当然として、あくまでもイエス・キリストを宣べ伝える「務め」に専門的に就いており、つまり宣教活動を自分の職業にしている人だけを指し、なおかつ「あなたがた」(5節)と呼ばれているコリント教会の人々に「仕える」立場にあった人だけを指す、と考えなくてはならないでしょうか。

そうではなく、もっと広い範囲の人々を含むべきでしょうか。たとえば今日の礼拝に出席しているわたしたちを含めてよいでしょうか。読み方はひとりひとりに任されています。

しかし、ひとつの点ははっきりしています。それは、コリントの信徒への手紙(第一の手紙、第二の手紙)をパウロが書いたのは、コリント教会の中にいた、パウロが「使徒」であることを否定したり相対化したりする人々を牽制する意図があった、ということです。

鶏が先か卵が先かは一概には言えません。コリント教会の中に、パウロと馬が合わない人々がいました。パウロの信仰に照らすと「卑劣な隠れた行い」をしている人々や、「神の言葉を曲げる」人々が教会の中にいました。後者は、聖書解釈の捏造です。その人々をパウロが批判しました。その人々もパウロに反発し、パウロの使徒性を否定しました。

パウロも引かない人でした。「わたしは使徒である」と明確に主張しました。その主張が、第一の手紙においても、第二の手紙においても、前面に押し出されています。「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(1節)という言葉も、だれにも増して、わたしパウロがそうであると力説する言葉であることは明らかです。

「憐れみ」は、神の憐れみです。「わたしは神から使徒の務めを任された」とパウロは言っています。なぜ「憐れみ」なのかといえば、パウロが教会の迫害者だったことと関係あります。「使徒」たる要素がない人間なのに、神がわたしを使徒の務めに就かせてくださった、ということです。

しかし、それはパウロだけではないはずです。すべてのキリスト者も同じです。すべての使徒、伝道者、教会役員、牧師も同じです。「神の憐れみではなく、自分の実力でこの務めに就いている」と主張してもよい教会の職務はひとつもありません。それは事実に反します。

教会内で役があるか無いかも関係ありません。すべてのキリスト者が「神の憐れみ」によって選ばれた存在です。神の憐れみを具体的に表すのが洗礼式であり、役員選挙であり、牧師就任式です。わたしたちは自分で自分に洗礼を授けることはできないし、自分で自分を教会役員や牧師にすることはできません。

しかし、今申し上げていることは本題ではありません。今日お話ししたいのは、今日の箇所の「わたしたち」は、どんな試練や苦しみの中にあっても、勇気をもって忍耐する力を与えられた人々である、ということです。たとえば、4章1節の趣旨は「わたしたちは落胆しません」です。「落胆」の意味は、委縮する、断念する、疲れ果てる。そうならない人たちがいるというのです。

どんな妨害を受けても宣教の働きをやめません。たじろぎません。そして、それは個人としての働きではなく、教会の働きを指していることは明らかです。わたしたちは教会活動への参加をやめません、教会生活をやめません、ということです。引き下がりません。福音を恥としません。こういうことを語り続ける「わたしたち」が今日の箇所に登場する、ということです。

しかし、この「わたしたち」の中に、だれが含まれるのか、わたしは含まれているのかという問いは、自分の胸に手を当てて自分に問う他はありません。だれからも押し付けられるべきではありません。策を弄して誘導するなど、もってのほかです。

そして、その答えは正直なほうがいいです。教会生活を楽しんでいる人たちを故意に傷つけるようなことを言うとか、不機嫌な態度をとって嫌がらせをすることなどは慎むべきです。だからといって、心にもないことを口にする必要はありません。この点で、パウロは正直な人でした。彼の正直さがよく分かる言葉が7節以下に記されています。

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(7節)の意味は、福音を宣べ伝える務めのほうが「宝」で、その務めを担う人間の存在は「土の器」であるということです。

「土の器」は、まさに古代の土器を指しています。今のわたしたちにとっては古代の土器は、それ自体が国宝級ですが、当時は違います。「宝」を入れる「土器」は宝ではありません。貴金属、宝石などは耐久性があるのに対して、土器は耐久性が乏しく弱いものでした。器のほうが弱くて壊れやすいからこそ、貴金属や宝石を傷つけないで守ることができます。その関係性の構図が、神の言葉そのもの、福音そのものと、それを宣べ伝えるわたしたちとの関係に当てはまります。

パウロが「土の器」と呼んでいるのは、人間の骨肉の物理的存在だけではなく、人間の悩み、精神状態、心や体の苦痛、不安、周囲の敵対的な環境などのすべてを含みます。それは神の言葉そのもの、福音そのものよりも弱くなければなりません。

なぜ弱くなければならないのかといえば、「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」(7節)です。

説教者の存在が福音より目立ってはいけません。十字架の上で真の神の愛を示してくださったイエスさまの福音を宣べ伝える人は、「イエスの死を体にまとう」(10節)ことが求められます。イエスさまの十字架を背負い、その堪えがたい苦しみに身悶えすることがすべての福音宣教者に求められます。福音という「宝」よりも強い「器」は要りません。福音を傷つけてしまいます。

「途方に暮れても失望せず」「虐げられても見捨てられず」「打ち倒されても滅ぼされない」人は、「途方に暮れている」人であり、「虐げられている」人であり、「打ち倒されている」人です。客観的には敗北している人です。私もその仲間です。だいたいいつもひどい目に遭っています。しかし、なお希望があり、信頼できる教会があり、勇気をもって何度でも立ち上がります。

もう一度問います。「わたしたち」(1節)は誰でしょう。「わたしは含まれていない」とお感じの方は、「途方に暮れながら失望していない」人になることを一緒に目指そうではありませんか。

(2023年3月19日 聖日礼拝)