2022年11月20日日曜日

十字架の愛(2022年11月20日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 386番 人は畑をよく耕し
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん




 「十字架の愛」

ルカによる福音書23章32~43節

関口 康

「するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」

今日の聖書の箇所は、昭島教会の週報の表紙イラストに長年描かれている場面です。いつごろから描かれるようになったかを調べました。1967年1月29日号(第792号)からだと分かりました。55年前です。石川献之助先生は49歳。昭島教会が「福島町」から現在の「中神町」に移転した直後です。

同年2月11日(日)に新会堂の献堂式が行われました。1月29日号の週報に「新会堂の十字架は、約10メートルの鉄塔を建設することになりました。献堂式までに完成の予定です」と記されています。3本の十字架が昭島教会の敷地に建てられました。なぜ3本なのかが今日の聖書の箇所で分かります。

まず「2人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」(32節)と記されています。「犯罪人」(κακουργοι)は「強盗」とも訳せますが「熱心党(ゼロテ)」とも訳せます。

「熱心党」はユダヤ教の中の熱心な人たちで、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちが政治的に解放されることを願っていました。もしその意味だとすれば、政治犯だった可能性があります。

彼らの名前は記されていません。古いラテン語の写本の中に、この2人に「ヨアタス」(Joathas)と「マガトラス」(Maggatras)という名前を付けているのがあります。後から考えられたものでしょう。

33節でルカが、他の福音書は「ゴルゴタ」と呼んでいるこの場所をその名前で呼んでいないことが分かります。「されこうべ」は頭蓋骨です。処刑場の形状が頭蓋骨のようだったことから名づけられたと考えられています。別の説として、創世記の「ノアの洪水」の後、ノアがアダムの頭蓋骨をその場所に埋めたことが名称の由来であるという古い伝説がありますが、信ぴょう性は低いです。

2人の犯罪人のうちの 1 人はイエスの十字架の右側の十字架に、もう 1 人は左側の十字架につけられました。マタイとマルコは、十字架にはりつけられる前のイエスさまに「没薬を混ぜたぶどう酒」が差し出されたが、イエスさまが拒否なさったことを記していますが、ルカは記していません。

34節の亀甲括弧が気になる方がおられるかもしれません。この括弧の意味は、新共同訳聖書の底本(聖書協会世界連盟「ギリシア語新約聖書」修正第3版)の立場で、当該箇所が「後代の加筆」の可能性があることを示しています。重要な写本(p75 vid B D* W 0124 1241 579 pc a sa Cyril etc.)で、この節が欠落しています。

しかし、私が最も重んじている註解書(J. T. Nielsen, Het Evangelie naar Lucas II, PNT, 1983)は、この節を除外すべきでないと記しています。キリスト教会の長い歴史と伝統において、イエスさまが十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、無知と無自覚ゆえに罪を犯した人々のために祈られたことが疑われたことはありません。

35節以降でイエスさまは3つの方向の人々から嘲笑をお受けになります。第1グループは最高法院(サンヘドリン)の議員たちです。

ルカは「民衆は立って見つめていた」(35節)とあえて記し、民衆が見守っていただけであることを強調しています。声を出して嘲笑したのは最高法院の議員たちだけで、他の人々はそこにいるだけで何もしていません。まるで民衆は中立の立場にいたかのようです。しかし、彼らは野次馬です。イエスさまを嘲笑する人々の側に立っています。

第2グループはローマの兵士たちです。彼らがイエスに飲ませようとした「酸いぶどう酒」(36節)の意味は「酢」です。アルコール分がすっかり抜けて酸っぱくなっています。安く買えるので、兵士や一般の人々には飲まれていました (Strack-Billerbeck II, 264)。

それをローマの兵士たちがイエスさまに飲ませようとしたのは侮辱です。イエスさまを「ユダヤ人の王」だと言いながら、「王」に安物のワインを提供することで侮辱しています。旧約聖書の詩編69編22節に「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」と記されています。苦しんでいる人に「酢」を飲ませるのは敵対的な嘲笑行為です。

そしてローマの兵士たちは、イエスさまの頭の上に掲げられた「これはユダヤ人の王」とギリシア語で書かれた札を見上げ、その字を読みながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と嘲笑し、イエスさまに屈辱感を与えようとします。最もひどい場面です。

第3の嘲笑者はグループではなく個人です。イエスさまの隣りの十字架につけられていた犯罪人の 1 人までイエスさまを罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)と言いました。「自分自身すら救えない。それどころか、今まさに十字架にはりつけられて、苦しみと呪いの中にいる。そのことがまさにお前がメシアでないことの証拠だ」と言いたかったのでしょう。

イエスさまを嘲笑した3つの方向のグループないし個人の共通点があるかもしれないと、私なりに考えました。最高法院の議員たちはローマ帝国の傀儡。ローマの兵士たちはローマ皇帝の奴隷。十字架の犯罪人は磔(はりつけ)にされて身動きがとれない。

3者とも圧倒的な力にねじ伏せられている人々です。その人々なりに抵抗を試みたことがあったかもしれませんが、抵抗に失敗しました。失敗者たちです。その人々がイエスさまを嘲笑しました。「我々ができなかったことをやれるならやってみろ。できないだろうけど」と言っているように思えます。

しかし、もうひとりの犯罪人はイエスさまを嘲笑した犯罪人をたしなめました。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40~41節)と言いました。その人は、自分の罪を認め、後悔や反省、そして悔い改める心を持つに至った人だと言えるでしょう。

そして、その人が続けた言葉は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)でした。この「わたしを思い出してください」という言葉は多くのユダヤ人が祈りの中で唱え、自分の墓に刻んできた言葉です。その言葉を、この人はイエスさまに言いました。

するとイエスさまは、その人に次のようにお答えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。

これは、イエスさまがその人の罪を赦し、全き救いの中に受け入れ、イエスさまと共に天国に連れて行ってくださる約束です。「今日」は息を引き取る瞬間を指していますので、今すぐ、ただちに、です。イエスさまは、その人と一緒に楽園のパレードの場を飾ることを約束してくださいました。

しかし、それでは、イエスさまを罵ったもうひとりの犯罪人は、どうなるのでしょうか。最高法院の議員たちは、一般民衆は、ローマの兵士たちは、どうなるのでしょうか。「わたしのことを思い出してください」とイエスさまにお願いした人だけ天国に行くことができて、あとはみんな地獄でしょうか。

そうではないことを教えるのが今日の箇所の趣旨です。悔い改めるに越したことはないでしょう。しかし、イエスさまは御自分を罵り、嘲笑した人々のためにも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(34節)と祈ってくださいました。イエスさまはその人々のためにも死んでくださり、その人々を救ってくださいました。イエスさまの十字架の愛は広くて深いです。

(2022年11月20日 聖日礼拝)


2022年11月13日日曜日

復活の意味(2022年11月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん





「復活の意味」

ルカによる福音書20章27~40節

関口 康

「すべての人は神によって生きている」

今日の聖書の箇所は、ルカによる福音書20章27節から40節です。この箇所の解説に入る前に申し上げたいのは2週続けた特別礼拝のことです。

先々週「永眠者記念礼拝」を行い、また先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」を行いました。出席者は40名と60名。延べで100名。平均すれば50名。今日から通常礼拝です。

2つの特別礼拝に共通しているテーマがあります。しかもそれは70年という長さの歴史を経て来たゆえに共通しはじめたテーマです。「教会の歴史を祝うこと」と「信仰をもって召された先達がたを記念すること」は、全く同じではないとしても、かなり重なってきたということです。

先週「昭島教会創立70周年記念礼拝」で井上とも子先生が宣教で、わたしたちが毎週日曜日の礼拝のたびに唱える信仰告白としての使徒信条に出てくる言葉について解説してくださいました。それは「われは…聖なる公同の教会…を信ず」についてです。特に強く教えてくださったのは、父なる神とイエス・キリストを信じることと等しい重さで「教会」をわたしたちの信仰の対象と受け入れることの大切さです。

わたしたちにとっては、なかなか受け入れにくい教えです。なぜ受け入れにくいかといえば、教会は「人の集まり」だからです。使徒信条の「教会を信じる」は、教会の人々を神と等しい存在として信仰しなければならないという意味なのかと疑問を持つ方々が必ずおられるでしょう。

人間につまずいたから、人間に傷つけられたから、人間に嫌気がさしたから、教会に来ましたという方々がおられます。しかし、教会に来て「教会を信じなさい」と言われるならば、結局は「人間を信じなさい」と言われているのと同じように感じます。

実際に、教会で傷つけられたことがあります。わたしはこれからどうすればいいのでしょうかと絶望の声を聞くことがよくあります。私も理解できるし、共感できます。しかし、そういう方々のために「教会」があります、ぜひ「教会」に来てくださいと申し上げたくて仕方がありません。

今日の箇所にイエスさまとサドカイ派の人たちのやりとりが出てきます。新約聖書に描かれた西暦1世紀のユダヤ教においてサドカイ派はファリサイ派と並ぶ2大勢力のひとつでした。この2つのグループは対立関係にありました。

両者の違いはいろんな点に現われました。そのひとつが「死者の復活」の教えに対する立場の違いでした。ファリサイ派は「死者の復活」を信じていましたが、サドカイ派は信じていませんでした。ファリサイ派が「死者の復活」を信じていたということは、「死者の復活」を信じる宗教はキリスト教だけではなくユダヤ教もそうであることを意味します。しかし、今日の箇所に登場するのは「死者の復活」を信じないほうのユダヤ教のサドカイ派の人々です。

その人々がイエスさまのところに来て質問しているのは、旧約聖書の律法の解釈についてです。しかし、これは明らかに、イエスさまの教えをあざわらうことを最初から意図した質問であると考える解説者がいます。私も同意します。全く可能性がないとは言い切れないかもしれないけれどもいかにも極端な例を持ち出してイエスさまに突きつけて、どうだ、あなたの教えからその例の答えを見出そうとしても無理だろう、矛盾があるだろうとイエスさまに言うために不遜な態度で寄ってきた人たちだということです。

「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というルールは、申命記25章5節に出てきます。古代社会の家族観を反映しているとしか言いようがありません。しかしサドカイ派の人たちが持ち出したのは、いちばん上の兄から順に7人の兄弟と結婚することになり、なおかつどの夫との子どもも生まれなかった、つまりその家族の跡継ぎをもうけなかった女性は、復活したときだれの妻なのかという問題です。

先ほども言いましたが、これはイエスさまをからかうために言っていることなので、真面目ではありません、ふざけています。子どもが生まれるか生まれないか、だれがだれと結婚するかというような問題はきわめてデリケートで深刻な内容を持っているのであって、ふざけてうんぬんしてよいようなことではありえません。

イエスさまもそういう手合いは相手にしなければいいのですが、そうではないのがイエスさまらしさです。きちんとお答えになりました。イエスさまのお答えは次の通りです。

「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(34~36節)。

イエスさまがおっしゃっているのは、次のような意味です。

(1)結婚制度は地上の世界だけのものなので、亡くなった人はその制度から解放されている。

(2)なんぴとも、亡くなった後で、地上の世界以外のところで別の人と結婚することはない。

(3)なんぴとも、亡くなった後で、跡継ぎをもうけることはありえない。

私はイエスさまのこのご説明が面白いと思います。ユーモアすら感じます。サドカイ派は下品な態度でからかいに来ているのに対し、イエスさまが誠実さとユーモアがある姿勢で反論されている気がします。結婚制度が地上の世界だけのものだという点は、神の国(天国)においては、男女の関係は兄弟姉妹の関係のようになる、という教えとおそらく関係しています。

なぜ亡くなった後で跡継ぎをもうけないのかといえば、天国に入った人はもう二度と死なないからです。死ぬのは1回きりです。死が繰り返されることはありません。跡継ぎが必要なのは、人が死ぬからです。もう死なないのであれば、跡継ぎは要りません。死んだあとに恋愛したり、失恋したりすることもありません。

そのことと関係してくるのが、イエスさまが28節でおっしゃっている言葉です。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」とおっしゃっています。

なぜ神は人を復活させるのかといえば、それが神の本質だからです。神は「生きている者の神」(28節)なので、死んでしまった人と神はかかわることができなくなるので、それでは困るので、神は死んだ人を復活させて、永遠に関係し続けてくださる、ということです。

人間の視点からいえば、特に熱心な信仰の持ち主は、神に仕え、神のために奉仕しつくして、神のために死ぬのが本望だという考えになりがちですが、神の視点からいえば、神は人に生きてもらいたいのです、死んでもらいたくないのです。死んでもよみがえらせてくださるのです。

わたしたちの悩みの多くは、最も身近な人に関するものです。恋人、夫婦、親子、家族、親戚。イエスさまの教えは、わたしたちが悩んで落ち込んでいるときに明るい光を与えてくださいます。

(2022年11月13日 聖日礼拝)