2021年4月25日日曜日

イエスは復活また命 (2021年4月25日 主日礼拝)

 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


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「イエスは復活また命」

ヨハネによる福音書11章17~27節

関口 康

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

今日も皆様にお集まりいただき、感謝いたします。今日から5月11日まで東京、大阪、兵庫、京都への緊急事態宣言が出たということを知らずにいるわけではありません。どうかくれぐれも各自でお気をつけくださいと申し上げるほかはありません。教会は現時点では礼拝堂を閉鎖する考えはありません。しかし警戒と対策を続けていく所存です。

例外なくすべての教会は、いつからか始まった存在です。この教会では石川先生がご自身でなさったとおっしゃる「開拓伝道」の時期が、すべての教会の歴史の最初にありました。最初から大勢の人が集まって始まった教会がないわけではないでしょう。しかし、教会の中には、本当に最初はひとりだったというところもあるでしょう。

私も31年前、1990年3月に東京神学大学大学院を卒業した翌月から、日本キリスト教団南国教会に赴任し、当時の鈴木實牧師と共に南国教会の開拓伝道所である南国教会大津伝道所を立ち上げる働きに就きました。

鈴木牧師が南国教会の主任牧師であると共に、南国教会大津伝道所のほうの兼務担任教師になりました。私は南国教会大津伝道所のほうの主任担任教師であると共に南国教会のほうの兼務担任教師となりました。そのような「たすき掛け」などと呼ばれることがある方式で、2つの教会を2人の教師が牧会する形で、開拓伝道に従事しました。

その意味では、石川先生が昭島教会の開拓伝道をなさったというのと内容的に同じことを私もさせていただいた経験があると言えます。それで、私にも体験があるのは、とにかく教会は何もないところから始まるものだ、ということです。

そして、その事実に基づいて今の緊急事態の中で私なりに言いうることは、決して不遜な意味で申し上げるのではありませんが、教会の礼拝になんらかの事情でひとりも集まることができない場合には、牧師がひとりですべてを行うことになっている、ということです。それで寂しいとかなんとか、そのような気持ちになることは私にはありえない、ということです。

そもそも例外なくすべての教会が、だれもおらず、何もないところから始められたものです。仮に今日だれもいなくても、何度でも新たな思いで集まることができるし、「これで終わりだ」などという悲壮な考えを持つべきではありません。教会は神の恵みによって立っているのであり、それ以上の何ものでもありません。人の努力が無視される意味では決してありません。しかし、人は歴史の中で入れ替わっていきます。

今日開いていただいた聖書の箇所のお話をします。登場するのは、イエスさまです。そして、イエスさまが特別に愛しておられた3人姉弟が登場します。それは、姉のマルタ、妹のマリア、そして弟のラザロです。しかし、ラザロは病気で亡くなったばかりです。

イエスさまがこの姉弟を特別に愛しておられた理由は、記されていません。はっきり書かれているのは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛していた」(5節)ということだけです。しかし、なんとなく想像がつくのは、家族の中に他の人と比べて弱さの度合いが強い人がいる場合、配慮の必要がある、ということです。

書かれていないことをいろいろ想像しはじめると、きりがありません。この姉弟の両親は描かれていません。両親がいたのかいなかったのか分かりません。姉のマルタが一家の大黒柱として全責任を引き受けて常に忙しく立ち働いていたのではないかとか、妹のマリアは家にいるときはじっと座っている時間のほうが長かったのではないか(外で働いて疲れて、家の中では身動きがとれなかった?)とか、弟のラザロは体が弱く病気がちだったのではないかなど。

そのような家庭内の状況を、イエスさまがすべて把握しておられ、いつも心にかけておられたのではないかなど想像することが可能です。しかし、そのイエスさまが心にかけておられた家庭の中のラザロが亡くなりました。そこでわたしたちも驚く出来事が起こります。それは、イエスさまがその家庭にすぐに来てくださらなかった、ということです。

ラザロが亡くなったという連絡がイエスさまの耳に届いていなかったわけではないし、臨終の場に立ち会うことができなくても、連絡を受けた日から行動を開始してくだされば、そのこと自体で遺族の心は慰められるでしょう。しかし、聖書が記しているのは、イエスさまは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」(6節)ということであり、イエスさまが来てくださったのは「ラザロが墓に葬られて既に4日もたっていた」(17節)ということです。

それで、ラザロの2人のお姉さんたちが我慢できなくなりました。イエスさまに激しく食ってかかりました。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに」(21節)とまで言いました。マルタが言ったのと同じことをマリアも言いました(32節)。あなたのせいで弟は死んだ、と言わんばかりです。言いがかりだとは思いますが、言いたい気持ちは理解できます。すぐ来てほしかった、と言いたいだけです。それ以上の何の気持ちもなかったと思います。

そのように言われたイエスさまが、どのように反応なさったかが描かれています。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』」(34節)。「イエスは涙を流された」(35節)。しかし、ここで大切なことはイエスさまが何に腹を立てられ、興奮され、涙を流されたのかです。

イエスさまがすぐかけつけてくれなかったことに不満を抱き、噛みつくように怒っているラザロのお姉さんたちの言いがかりでイエスさまの心が深く傷つき、悲しくなられて泣いてしまわれた、という話ではありません。

そうではありませんけれども、イエスさまがなぜすぐに彼女たちのところに行かれなかったのかは、たしかに謎です。謎ですけれども、私は理解できます。様子を見た、というような冷たく突き放すような意味ではないと思います。しかし、それに少し近いところがあるかもしれません。

それが何であるかを具体的な言葉にするのは難しいです。今のわたしたちのことを考える材料になるかもしれません。ある人が病気になる、亡くなる。その方の家族が看護や介護で苦しむ。喪失感や寂しさで悲しむ、嘆く。そのような中で、教会がその方々に寄り添うこと、配慮することの意味は何か、というような問題です。

とにかく一刻も早く駆けつけることに意義がある、かもしれません。しかし、感染症の問題がある中で、それをしたくてもできないような場合、「教会は(あるいは「牧師は」)私に何もしてくれなかった」という不満が出てくることには必然性があります。しかし、大切な問題は、その先にあります。「そのとき教会は何をなしうるか」という問題を、今日の箇所が投げかけています。

(2021年4月25日 主日礼拝)


イエスは復活また命 (2021年4月25日 主日礼拝)

 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

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「イエスは復活また命」

ヨハネによる福音書11章17~27節

関口 康

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」

今日も皆様にお集まりいただき、感謝いたします。今日から5月11日まで東京、大阪、兵庫、京都への緊急事態宣言が出たということを知らずにいるわけではありません。どうかくれぐれも各自でお気をつけくださいと申し上げるほかはありません。教会は現時点では礼拝堂を閉鎖する考えはありません。しかし警戒と対策を続けていく所存です。

例外なくすべての教会は、いつからか始まった存在です。この教会では石川先生がご自身でなさったとおっしゃる「開拓伝道」の時期が、すべての教会の歴史の最初にありました。最初から大勢の人が集まって始まった教会がないわけではないでしょう。しかし、教会の中には、本当に最初はひとりだったというところもあるでしょう。

私も31年前、1990年3月に東京神学大学大学院を卒業した翌月から、日本キリスト教団南国教会に赴任し、当時の鈴木實牧師と共に南国教会の開拓伝道所である南国教会大津伝道所を立ち上げる働きに就きました。

鈴木牧師が南国教会の主任牧師であると共に、南国教会大津伝道所のほうの兼務担任教師になりました。私は南国教会大津伝道所のほうの主任担任教師であると共に南国教会のほうの兼務担任教師となりました。そのような「たすき掛け」などと呼ばれることがある方式で、2つの教会を2人の教師が牧会する形で、開拓伝道に従事しました。

その意味では、石川先生が昭島教会の開拓伝道をなさったというのと内容的に同じことを私もさせていただいた経験があると言えます。それで、私にも体験があるのは、とにかく教会は何もないところから始まるものだ、ということです。

そして、その事実に基づいて今の緊急事態の中で私なりに言いうることは、決して不遜な意味で申し上げるのではありませんが、教会の礼拝になんらかの事情でひとりも集まることができない場合には、牧師がひとりですべてを行うことになっている、ということです。それで寂しいとかなんとか、そのような気持ちになることは私にはありえない、ということです。

そもそも例外なくすべての教会が、だれもおらず、何もないところから始められたものです。仮に今日だれもいなくても、何度でも新たな思いで集まることができるし、「これで終わりだ」などという悲壮な考えを持つべきではありません。教会は神の恵みによって立っているのであり、それ以上の何ものでもありません。人の努力が無視される意味では決してありません。しかし、人は歴史の中で入れ替わっていきます。

今日開いていただいた聖書の箇所のお話をします。登場するのは、イエスさまです。そして、イエスさまが特別に愛しておられた3人姉弟が登場します。それは、姉のマルタ、妹のマリア、そして弟のラザロです。しかし、ラザロは病気で亡くなったばかりです。

イエスさまがこの姉弟を特別に愛しておられた理由は、記されていません。はっきり書かれているのは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛していた」(5節)ということだけです。しかし、なんとなく想像がつくのは、家族の中に他の人と比べて弱さの度合いが強い人がいる場合、配慮の必要がある、ということです。

書かれていないことをいろいろ想像しはじめると、きりがありません。この姉弟の両親は描かれていません。両親がいたのかいなかったのか分かりません。姉のマルタが一家の大黒柱として全責任を引き受けて常に忙しく立ち働いていたのではないかとか、妹のマリアは家にいるときはじっと座っている時間のほうが長かったのではないか(外で働いて疲れて、家の中では身動きがとれなかった?)とか、弟のラザロは体が弱く病気がちだったのではないかなど。

そのような家庭内の状況を、イエスさまがすべて把握しておられ、いつも心にかけておられたのではないかなど想像することが可能です。しかし、そのイエスさまが心にかけておられた家庭の中のラザロが亡くなりました。そこでわたしたちも驚く出来事が起こります。それは、イエスさまがその家庭にすぐに来てくださらなかった、ということです。

ラザロが亡くなったという連絡がイエスさまの耳に届いていなかったわけではないし、臨終の場に立ち会うことができなくても、連絡を受けた日から行動を開始してくだされば、そのこと自体で遺族の心は慰められるでしょう。しかし、聖書が記しているのは、イエスさまは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお2日間同じ所に滞在された」(6節)ということであり、イエスさまが来てくださったのは「ラザロが墓に葬られて既に4日もたっていた」(17節)ということです。

それで、ラザロの2人のお姉さんたちが我慢できなくなりました。イエスさまに激しく食ってかかりました。「あなたがここにいてくだされば、弟は死ななかったでしょうに」(21節)とまで言いました。マルタが言ったのと同じことをマリアも言いました(32節)。あなたのせいで弟は死んだ、と言わんばかりです。言いがかりだとは思いますが、言いたい気持ちは理解できます。すぐ来てほしかった、と言いたいだけです。それ以上の何の気持ちもなかったと思います。

そのように言われたイエスさまが、どのように反応なさったかが描かれています。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』」(34節)。「イエスは涙を流された」(35節)。しかし、ここで大切なことはイエスさまが何に腹を立てられ、興奮され、涙を流されたのかです。

イエスさまがすぐかけつけてくれなかったことに不満を抱き、噛みつくように怒っているラザロのお姉さんたちの言いがかりでイエスさまの心が深く傷つき、悲しくなられて泣いてしまわれた、という話ではありません。

そうではありませんけれども、イエスさまがなぜすぐに彼女たちのところに行かれなかったのかは、たしかに謎です。謎ですけれども、私は理解できます。様子を見た、というような冷たく突き放すような意味ではないと思います。しかし、それに少し近いところがあるかもしれません。

それが何であるかを具体的な言葉にするのは難しいです。今のわたしたちのことを考える材料になるかもしれません。ある人が病気になる、亡くなる。その方の家族が看護や介護で苦しむ。喪失感や寂しさで悲しむ、嘆く。そのような中で、教会がその方々に寄り添うこと、配慮することの意味は何か、というような問題です。

とにかく一刻も早く駆けつけることに意義がある、かもしれません。しかし、感染症の問題がある中で、それをしたくてもできないような場合、「教会は(あるいは「牧師は」)私に何もしてくれなかった」という不満が出てくることには必然性があります。しかし、大切な問題は、その先にあります。「そのとき教会は何をなしうるか」という問題を、今日の箇所が投げかけています。

(2021年4月25日 主日礼拝)


2021年4月18日日曜日

新しい命(2021年4月18日 主日礼拝)


讃美歌21 327番 すべての民よ、よろこべ 奏楽・長井志保乃さん

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「新しい命」

コロサイの信徒への手紙3章1~11節

関口 康

「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」

先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。

もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。

タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。

少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。

「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょうか。死んでいないし、殺されるのはまっぴらだと。たしかにわたしたちは死んでいません。その意味では、考え方の問題であるという言い方が許されて然るべきです。

洗礼を受けることは、キリストと共に死にキリストと共に復活することであると、わたしたちは考える。「考える」と言うと「哲学ではない」と言われるかもしれませんので「信じる」と言うほうがいいかもしれません。しかし、この件に関しては「考える」でも「信じる」でも大差ありません。わたしたち自身のことをまさに考えれば、分かることです。

今日この礼拝に集まっているみんながみんな、洗礼を受けている人たちばかりではありません。しかし、はっきりしているのは、だれも死んでいないということです。礼拝は、あるいは教会は、生きている人たちの集まりです。しかし、今日の箇所には「あなたがたは死んだ」と書かれています。「あなたがたはキリスト共に復活させられた」と書かれています。何を言っているか分からないでしょうか。そんなこともないと考えている、あるいは信じているのが、教会のわたしたちではないでしょうか。いえ、わたしたちはそういう者たちです。断言しておきます。

死んだとか復活させられたとか、考えるとか信じるとか、何を言っているかちんぷんかんぷんでしょうか。そういう方がおられるかもしれないので説明が必要でしょう。私がいま申し上げていることとの関係で最も注目すべき思想は、2章13節の途中から14節の途中まで記されている「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」です。

契約の問題です。それはわたしたちを縛るものでもあります。税金や借金の問題であるといえば分かるでしょう。払えなければ返せなければ、いつまでもどこまでも追いかけてくる。しかし、その人が死ねば契約は終わりだというわけです。逃げ切ったという話になるかどうかは分かりませんが、それ以上追いかけることはできなくなるという話ではあります。

そのことを、ある意味でたとえ話として持ち出して洗礼の意味を説明しているのが今日の箇所であると言えます。死んだとか復活させられたとか、何の話なのかといえば、すべてはひとつの問題に集中しています。それは、あなたがたが過去に縛られていた一切のものから自由にされたのだ、ということです。

先祖代々受け継いできた宗教や、そのしきたりからも自由にされています。思想・信条、教育内容からも、自由にされています。「私の家は代々、何宗の何派なので、それを受け継がなくてはならない」というようなことは一切ありません。それは、今のわたしたちにとっては教会も同じです。親がそうだから私もそうする、というだけで済まないし、それは理由になりません。

わたしたちは、縛られるために洗礼を受けるのではありません。死んで復活させられて、その意味で過去のすべての縛りからとにかく一度解放されて自由になって、その意味での個人として、自分の意志でキリストと共に生きることの決心と約束をすることが、教会で洗礼を受けることの意味であると言っているのです。

だからこそ、過去の縛りの中に含まれる「悪いこと」を受け継ぐことの言い逃れも断たれる面があるのは、もしそれを厳しい裁きであると感じるならば、そう言えるかもしれません。今日の箇所の5節以下に書かれているのが、その「悪いこと」です。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(5~10節)。

教会でも時々、「逃れられない罪」とか「逃れられない悪」とかいう言葉を聞くことがあります。その趣旨が全く理解できないわけでもありませんが、「果たして本当にそうなのか」という疑問が私の中で湧き起こることがあります。

今の箇所に「捨て去りなさい」「捨てなさい」と繰り返されています。何を「みだらな行い」や「不潔な行い」と言うか、何を「うそ」と言うかと細かいことをほじくりたいのではありません。「逃れられない」と、あたかも永遠の運命に縛られているかのように言って、罪と悪にとどまり続けることは、洗礼の趣旨に反する、ということです。そのような卑怯な言い逃れを教会が率先して広めるべきではありません。わたしたちは、罪と悪から自由にされたのです。

(2021年4月18日 主日礼拝)

2021年4月11日日曜日

復活顕現(2021年4月11日 主日礼拝)

イースター礼拝(4月4日)の週報

讃美歌21 326番 地よ、声高く 奏楽・長井志保乃さん

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「復活顕現」

マタイによる福音書28章11~20節

関口 康

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。

失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。

しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。

あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。

この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。

イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。

そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信仰をもって生きることと、日曜日ごとにわたしたちが教会に集まり礼拝を行うこととは、全く同じであるとは言えないとしても、ほとんど同じであるとは言えると、今の私には思えてなりません。

何を言っているのでしょうか。説明が必要でしょう。この1年でわたしたちが学んだことは、教会にみんなで集まって礼拝をすることと各自自宅礼拝は、どう控えめに考えても、全く同じでであるとは言えないということでしょう。どこに差があるかといえば、目に見えるか見えないかであるとしか私には言いようがありません。目をつぶってもつぶらなくても、心の中で想像しながらひとりで行う礼拝と、互いの存在を目で見て確認しながら行う礼拝が、全く同じであるとは私にはどうしても思えないです。

イエスさまが殺されて死んで墓の中に葬られることまでされたのに目に見えるお姿で弟子たちの前に戻ってきてくださったという出来事は、わたしたちにとっては、聖書に書かれている言葉どおりのことがたぶん起こったのだろう、という程度で受け入れるというくらいが精一杯であるとは思います。それはどのようにして起こったのか、どういう仕組みなのかというようなことをいくら問うても、答えはないかもしれません。

しかし、私も今年で55年、欠かさず教会に通い、礼拝に出席してきました。皆さんの中には、私は90年以上という方もおられますし、私は80年、私は70年とおっしゃる方々もおられます。長さの自慢や競争をしているわけではありません。

私の場合は30年前に牧師になり、いくつかの教会の牧会を任されてきましたので、共に礼拝をささげる仲間は行く先々の教会の人々であるということになります。ずっと同じ人たちではありません。むしろ全く違います。しかし、その私だからこそ言えると思えるのは、これまで55年間、どこの教会でささげる礼拝も、本質的には同じであると感じられた、ということです。

私は牧師である前にいちキリスト者ですので、説教者という立場だけで礼拝に出席するわけではありません。初めて行く教会、初めて出席する礼拝を多く味わって来ました。それで分かるのは、もし違いがあれば違和感や緊張感を覚えるに決まっているわけですが、それが無いのです。どこの教会に行っても違和感がない、同じ礼拝をささげていると感じます。「そこにイエスさまがおられる」と感じるからです。

教会に集まる人たちの違いは関係ありませんと、いま私が言っているように、もし聴こえるとしたら誤解です。私の話をずっと続けているようで申し訳ありませんが、実際に感じてきたことについての「感覚」の問題を申し上げています。

55年前の私はゼロ歳でしたので、さすがに記憶はありません。記憶があるのは、物心ついた頃からです。そのときから礼拝のメンバーが一緒であるはずがありません。地理的、物理的に同じ場所にあるという意味での同じ教会であるとも言えません。しかし、私の「感覚」においては、55年前から今日まで同じ礼拝をささげてきました。違和感がありません。緊張感は、持つべきかもしれませんが、さほどありません。

そこにいつもイエスさまがおられると感じてきました。「おかしな話をしている」と思わないでいただきたいです。むしろ自然な話です。共に集まる人が変わろうと変わるまいと、そういうことはどうでもいいと言っているのでもありません。むしろ逆です、正反対。そこに人がいないと困ります。目に見える教会、目に見える礼拝でないと困ります。

どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても同じであると私が感じてきたことを、あえて無理やり合理的に説明するとしたら、聖書という書物を通してイエスさまの言葉と行いを学び、それを受け入れ、イエスさまを模範として生きていく決心と約束をしている人たちが集まるのが教会であるとすれば、どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても「そこにいつもイエスさまがおられる」と感じる点において同じであると感じるのは当たり前であるということです。

ぴったりとは当てはまりませんが、学校にも似ているところがあるでしょう。50年100年続いているような学校があります。中の人はどんどん入れ替わっていきます。しかし、いつ行っても同じ学校であると思えるとしたら、そこに流れ、受け継がれているものが同じだからでしょう。

今日の聖書の箇所に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスさまの言葉が記されています。イエスさまがおっしゃっているとおりのことを、わたしたちは教会に共に相集って、礼拝をささげるたびに、味わいます。わたしたちの心の中に、わたしたちの存在の中に、イエスさまが永遠に生きておられるのです。それで十分です。

(2021年4月11日 主日礼拝)

2021年4月4日日曜日

イエスの復活(2021年4月4日 イースター礼拝)

石川献之助牧師

讃美歌21 325番 キリスト・イエスは 奏楽・長井志保乃さん
讃美歌21 300番 十字架のもとに 奏楽・長井志保乃さん



「イエスの復活」

ヨハネによる福音書20章 1~18節

牧師 石川献之助

今年も主イエスの御復活の喜びを、互いに交わしあいたいと思います。私共の信ずる福音には、主イエスの復活の信仰があります。その信仰をより確かなものとするために、今日の復活節礼拝に心から熱き想いをもって臨み、信仰を新たにされたいと思います。 

本日は、ヨハネによる福音書20章1~18節までの御言葉が与えられています。通常復活節に 読まれることが多い聖書の箇所です。ここには、マグダラのマリヤが復活された主イエスと初めて出会う事実が記されています。ユダヤ地方にはマリヤという名前の女性はとても多いと言われています。しかしこの女性があのマグダラのマリヤであったことを特に意識するときに、この出会いは特別の意味をもつものであることを痛感するのであります。

弟子たちさえ逃げ去った主イエスの十字架の下には、マグダラのマリヤが大きな畏れを抱きながらも、聖母マリヤと共に従いました。そのマグダラのマリヤが主イエスから離れず、墓場にまで、それも朝早く主イエスのもとを訪ねたのです。聖書には「週の初めの 日 、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓に行った。」(1節)と書かれています。 当時のパレスチナでは、死体が墓に納められてから三日後に愛する者の墓を訪問することが習慣だったそうです。土曜日が安息日であったので日曜日の朝早い時間に、マリヤは主イエスへの思いからじっとしていることができず、かけつけたことが想像されます。

マグダラのマリヤについて、 ルカによる福音書8章1節~3節において、「 七つの悪霊を追い出していただい たマグダラの女と呼ばれるマリヤ」と言う記述が登場します。主イエスによって、悪霊を追い出し病気をいやしていただいた何人かの女性の一人に、マグダラのマリヤがいました。これらの婦人たちと一緒に、主イエス の福音伝道 の旅を支え、一行に奉仕をしていたと書かれています。

主イエスと出会い 、病気が癒され、あるいは自分の罪の許しを経験した者は、自分の罪が許されるということばかりではなく、律法にもかなう新しく生きる道へと変えられていくのです。マグダラのマリヤら婦人たちは共に助けあい、主イエスと共に新しい人生を歩んだのでした。こうして、マグダラのマリヤは主イエスの十字架と埋葬に立ち会い、一番に墓を訪ね、復活なさった主イエスに最初に出会った人として重要な役割を担う人となったのです 。

マリヤはイエスの亡骸のために愛を込めて泣き悲しむこと、ただこの一事のために墓を訪れ たのでしょう。しかしその墓から石がとりのけてあるのを見て当惑し、ペトロとヨハネの所に伝えに走ります。彼らも墓にでかけ、ペトロに続き、ヨハネも墓の中に入りました。ヨハネは主イエスの御遺体を包んでいた亜麻布がきれいにもとの形をとどめ置かれていたのを見て、何が起こったのかを悟り信じたと書かれています。ヨハネが信じたのは、主イエスが甦られた この墓の光景を、 ヨハネ自身の目で見たからでありました。

その後11節からは、墓で悲しみ泣いているマリヤの墓で悲しみ泣いているマリヤのもとに主イエスが現れた箇所へと現れた箇所へと続きます。マリヤは泣きながら、墓の中を見ると、イエスの遺体のおいてあった所にマリヤは泣きながら、二人の白い衣を着た天使を見ました。

天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリヤは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」こう言いながら後ろをこう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかしそれがイエスだとは分からなかった。(13~14節)と聖書にはあります。マリヤは悲しみと涙の余り、その人がその人が復活された主イエスだと認識できなかったのです。

イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(15節)マリヤはその人が園丁であると思い「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」(15節)マリヤの心は主イエスのことで一杯であったので、空になった墓の方に向けられていました。

このようなマリヤの姿に、大切な人を失い悲しみにくれる私たちの姿をみいだすことができます。しかし、主イエスは「マリヤ」と声をかけて下さいました。主イエスの御声を聞き、マリヤはすぐに主イエスの御声を聞き「ラボ二」、先生と答えました。主イエスは自分の心の悲しみを越えて、自分の心の悲しみを越えて、兄弟たちにこの知らせを伝兄弟たちにこの知らせを伝えに行くように言われました。かつて主イエスが弟子たちに幾度も語って来られたことが、今や事実になろうとしていたのです。

マグダラのマリヤは弟子たちのところへ行って「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(18節)

主イエスが、人類の罪の許しのために十字架におかかりになったということを、深く心に留めていたのはマリヤでした。マリヤは主イエスの十字架の死を通して、人類への神の御心を本質的に理解したのです。罪許されて愛を知ったこの人は、贖いの主イエスを仰ぎ見て十字架の下にまで主イエスを仰ぎ見て主イエスに従ったのでした。思いもかけず与えられた唯一唯一の道を歩んだ、マグダラのマリヤの従順と信仰を、深く心に留めたいと思います。

復活節おめでとうございます。

神の愛に直結する主イエスの御心に深く感謝をおささげいたします。

主イエスの贖いの愛に支えられて、私たちも新しい年度を歩み始めたいと思います。

最後に讃美歌300番を味味わいつつ、おさげしたいと思います。。

1 十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う
  あらしふく時の いわおのかげ 荒れ野の中なる わが隠れ家

2 十字架の上に われはあおぐ わがため悩める 神のみ子を
  たえにも貴き 神の愛よ はかりも知られぬ 人の罪よ

3 十字架のかげに われは立ちて み顔のひかりを たえず求めん
  この世のものみな 消ゆるときも くすしく輝く そのひかりを

(2021年4月4日)