日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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「イエスは復活また命」
ヨハネによる福音書11章17~27節
関口 康
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
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「イエスは復活また命」
ヨハネによる福音書11章17~27節
関口 康
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
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「イエスは復活また命」
ヨハネによる福音書11章17~27節
関口 康
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」
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「新しい命」
コロサイの信徒への手紙3章1~11節
関口 康
「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。」
先週予告した今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書でした。しかし、コロサイの信徒への手紙に変更しました。変更の理由は、実際に読んでみてピンとくる箇所でなかったからです。
もう少し丁寧にいえば、マタイによる福音書のその箇所は、イエスさまが厳しい裁きの言葉をお語りになっている箇所だったからです。しかし、今のわたしたちは、裁きの言葉に耐えられません。慰めと励ましの言葉が必要です。そう思いましたので、変更しました。
タイトルは変更していません。むしろ今日選んだ聖書の箇所のほうが先週予告した「新しい命」というタイトルにふさわしい内容です。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます」から始まる箇所です。これは驚くべき言葉ですが、裁きの言葉ではありません。とらえ方によっては厳しい内容であると感じられる面がないわけではありませんが、まさにとらえ方の問題です。
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」(3節)とありますが、これは何のことでしょうか。わたしたちは死んだのでしょうか。「いや、まだ生きている」としか言いようがないでしょう。
少し前に説明があります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(2章11節)と記されています。いろんなことが書かれていますが、すべては一度に同時に起きることです。それはわたしたちが洗礼を受けることです。洗礼を受けるとは死ぬことである、というのです。
「ちょっと待ってくれ」と言いたくなるでしょうか。死んでいないし、殺されるのはまっぴらだと。たしかにわたしたちは死んでいません。その意味では、考え方の問題であるという言い方が許されて然るべきです。
洗礼を受けることは、キリストと共に死にキリストと共に復活することであると、わたしたちは考える。「考える」と言うと「哲学ではない」と言われるかもしれませんので「信じる」と言うほうがいいかもしれません。しかし、この件に関しては「考える」でも「信じる」でも大差ありません。わたしたち自身のことをまさに考えれば、分かることです。
今日この礼拝に集まっているみんながみんな、洗礼を受けている人たちばかりではありません。しかし、はっきりしているのは、だれも死んでいないということです。礼拝は、あるいは教会は、生きている人たちの集まりです。しかし、今日の箇所には「あなたがたは死んだ」と書かれています。「あなたがたはキリスト共に復活させられた」と書かれています。何を言っているか分からないでしょうか。そんなこともないと考えている、あるいは信じているのが、教会のわたしたちではないでしょうか。いえ、わたしたちはそういう者たちです。断言しておきます。
死んだとか復活させられたとか、考えるとか信じるとか、何を言っているかちんぷんかんぷんでしょうか。そういう方がおられるかもしれないので説明が必要でしょう。私がいま申し上げていることとの関係で最も注目すべき思想は、2章13節の途中から14節の途中まで記されている「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」です。
契約の問題です。それはわたしたちを縛るものでもあります。税金や借金の問題であるといえば分かるでしょう。払えなければ返せなければ、いつまでもどこまでも追いかけてくる。しかし、その人が死ねば契約は終わりだというわけです。逃げ切ったという話になるかどうかは分かりませんが、それ以上追いかけることはできなくなるという話ではあります。
そのことを、ある意味でたとえ話として持ち出して洗礼の意味を説明しているのが今日の箇所であると言えます。死んだとか復活させられたとか、何の話なのかといえば、すべてはひとつの問題に集中しています。それは、あなたがたが過去に縛られていた一切のものから自由にされたのだ、ということです。
先祖代々受け継いできた宗教や、そのしきたりからも自由にされています。思想・信条、教育内容からも、自由にされています。「私の家は代々、何宗の何派なので、それを受け継がなくてはならない」というようなことは一切ありません。それは、今のわたしたちにとっては教会も同じです。親がそうだから私もそうする、というだけで済まないし、それは理由になりません。
わたしたちは、縛られるために洗礼を受けるのではありません。死んで復活させられて、その意味で過去のすべての縛りからとにかく一度解放されて自由になって、その意味での個人として、自分の意志でキリストと共に生きることの決心と約束をすることが、教会で洗礼を受けることの意味であると言っているのです。
だからこそ、過去の縛りの中に含まれる「悪いこと」を受け継ぐことの言い逃れも断たれる面があるのは、もしそれを厳しい裁きであると感じるならば、そう言えるかもしれません。今日の箇所の5節以下に書かれているのが、その「悪いこと」です。
「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(5~10節)。
教会でも時々、「逃れられない罪」とか「逃れられない悪」とかいう言葉を聞くことがあります。その趣旨が全く理解できないわけでもありませんが、「果たして本当にそうなのか」という疑問が私の中で湧き起こることがあります。
今の箇所に「捨て去りなさい」「捨てなさい」と繰り返されています。何を「みだらな行い」や「不潔な行い」と言うか、何を「うそ」と言うかと細かいことをほじくりたいのではありません。「逃れられない」と、あたかも永遠の運命に縛られているかのように言って、罪と悪にとどまり続けることは、洗礼の趣旨に反する、ということです。そのような卑怯な言い逃れを教会が率先して広めるべきではありません。わたしたちは、罪と悪から自由にされたのです。
(2021年4月18日 主日礼拝)
イースター礼拝(4月4日)の週報 |
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「復活顕現」
マタイによる福音書28章11~20節
関口 康
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」
先週のイースター礼拝を大勢の兄弟姉妹と共に行うことができたことをうれしく思っています。石川先生もおっしゃいましたが、私も同感だったのは「これほど多くの方が来られると予想していなかった」ということです。
失礼な意味で申し上げているつもりはありません。ちょうど1年前のイースター礼拝は各自自宅礼拝でした。新型コロナウィルス感染症の脅威から身を避けなくてはならない状況であることは、昨年も今年もなんら変わっていません。
しかし、1年前と今で変わったのは、全く未知の存在をただ恐れるだけの状態ではなくなった、ということでしょう。対策の方法を学びました。対策をしっかり行えば、完全に安心であるとは言えないとしても、全く集会が不可能であると考えなくてはならないほどまでではないということが分かってきた、というところでしょうか。
あとひとつ、この1年でわたしたちが学んだのは、言葉にすると感傷的に響くかもしれませんが、各自自宅礼拝はやはり寂しい、ということでしょう。マスクをつけ、手指を消毒し、互いに距離をとり、会話を少なめにする。このようなことをしながらであっても、共に相集い、安否を確認し合い、目と目で通じ合う。
この目に見える関係としての教会の存在が、わたしたちにとってはやはりかけがえのないものであるということを、1年かけて学んだという言い方ができないでしょうか。そうであると私がただ思い込んでいるだけでしょうか。皆さんにぜひ教えていただきたいことです。
イエス・キリストの復活。無理やり結びつけるつもりはありません。しかし、十字架につけられて確かに殺され死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前にお姿を現されたということを弟子たちが信じ、宣べ伝えました。その出来事が聖書という形で、今日まで伝えられています。
そのイエス・キリストの復活を信じる信仰をわたしたちが持つこと、その信仰をもって生きることと、日曜日ごとにわたしたちが教会に集まり礼拝を行うこととは、全く同じであるとは言えないとしても、ほとんど同じであるとは言えると、今の私には思えてなりません。
何を言っているのでしょうか。説明が必要でしょう。この1年でわたしたちが学んだことは、教会にみんなで集まって礼拝をすることと各自自宅礼拝は、どう控えめに考えても、全く同じでであるとは言えないということでしょう。どこに差があるかといえば、目に見えるか見えないかであるとしか私には言いようがありません。目をつぶってもつぶらなくても、心の中で想像しながらひとりで行う礼拝と、互いの存在を目で見て確認しながら行う礼拝が、全く同じであるとは私にはどうしても思えないです。
イエスさまが殺されて死んで墓の中に葬られることまでされたのに目に見えるお姿で弟子たちの前に戻ってきてくださったという出来事は、わたしたちにとっては、聖書に書かれている言葉どおりのことがたぶん起こったのだろう、という程度で受け入れるというくらいが精一杯であるとは思います。それはどのようにして起こったのか、どういう仕組みなのかというようなことをいくら問うても、答えはないかもしれません。
しかし、私も今年で55年、欠かさず教会に通い、礼拝に出席してきました。皆さんの中には、私は90年以上という方もおられますし、私は80年、私は70年とおっしゃる方々もおられます。長さの自慢や競争をしているわけではありません。
私の場合は30年前に牧師になり、いくつかの教会の牧会を任されてきましたので、共に礼拝をささげる仲間は行く先々の教会の人々であるということになります。ずっと同じ人たちではありません。むしろ全く違います。しかし、その私だからこそ言えると思えるのは、これまで55年間、どこの教会でささげる礼拝も、本質的には同じであると感じられた、ということです。
私は牧師である前にいちキリスト者ですので、説教者という立場だけで礼拝に出席するわけではありません。初めて行く教会、初めて出席する礼拝を多く味わって来ました。それで分かるのは、もし違いがあれば違和感や緊張感を覚えるに決まっているわけですが、それが無いのです。どこの教会に行っても違和感がない、同じ礼拝をささげていると感じます。「そこにイエスさまがおられる」と感じるからです。
教会に集まる人たちの違いは関係ありませんと、いま私が言っているように、もし聴こえるとしたら誤解です。私の話をずっと続けているようで申し訳ありませんが、実際に感じてきたことについての「感覚」の問題を申し上げています。
55年前の私はゼロ歳でしたので、さすがに記憶はありません。記憶があるのは、物心ついた頃からです。そのときから礼拝のメンバーが一緒であるはずがありません。地理的、物理的に同じ場所にあるという意味での同じ教会であるとも言えません。しかし、私の「感覚」においては、55年前から今日まで同じ礼拝をささげてきました。違和感がありません。緊張感は、持つべきかもしれませんが、さほどありません。
そこにいつもイエスさまがおられると感じてきました。「おかしな話をしている」と思わないでいただきたいです。むしろ自然な話です。共に集まる人が変わろうと変わるまいと、そういうことはどうでもいいと言っているのでもありません。むしろ逆です、正反対。そこに人がいないと困ります。目に見える教会、目に見える礼拝でないと困ります。
どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても同じであると私が感じてきたことを、あえて無理やり合理的に説明するとしたら、聖書という書物を通してイエスさまの言葉と行いを学び、それを受け入れ、イエスさまを模範として生きていく決心と約束をしている人たちが集まるのが教会であるとすれば、どの時期の、どの教会の、どの礼拝に出席しても「そこにいつもイエスさまがおられる」と感じる点において同じであると感じるのは当たり前であるということです。
ぴったりとは当てはまりませんが、学校にも似ているところがあるでしょう。50年100年続いているような学校があります。中の人はどんどん入れ替わっていきます。しかし、いつ行っても同じ学校であると思えるとしたら、そこに流れ、受け継がれているものが同じだからでしょう。
今日の聖書の箇所に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスさまの言葉が記されています。イエスさまがおっしゃっているとおりのことを、わたしたちは教会に共に相集って、礼拝をささげるたびに、味わいます。わたしたちの心の中に、わたしたちの存在の中に、イエスさまが永遠に生きておられるのです。それで十分です。
(2021年4月11日 主日礼拝)
石川献之助牧師 |