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関口 康
「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」
おはようございます。聖書科の関口康です。
「今週からリモートラーニングにします」という連絡を、私も受けました。とても大きな決断をなさった先生がたに心から敬意を表します。
いま私たちは、急激な変化の只中にあります。変化が急激であればあるほど大切なのは、冷静であることです。
しかし、そのことと、いま困っている人がいる、助けを求めている人がいるというような状況の中で、面倒なことに巻き込まれたくないというような、たとえばそのような理由で距離をとって冷ややかに客観視することとは全く違います。
そういうのは悪い意味の冷静さであると言えるでしょう。今日の聖書の箇所に登場するのは、その悪い意味の冷静な人たちです。
結論だけいえば、体が不自由で困っている人がいました。その人の手、体を、イエスさまが動くようにしてくださいました。しかし、それを見た人々がその次の瞬間から起こした行動が、一体どのようにしてイエスを殺してやろうかという相談だった、というのです。
なんでそうなるのでしょうか。わけが分かりません。イエスさまは、いま困っている人をいま助けただけです。
イエスさまがそれをなさった「日」が悪かったというのが、その人々の言い分でした。しかし、それがどうしたというのでしょうか。どうでもいいことです。
いま困っている人をいま助ける。そのことにためらう時間ももったいないです。そういう場面では、冷静でなく、少し冷静さを失って、熱いハートで突っ走るようなところがあってもよいと思います。イエスさまはそういう方でした。
人の命の問題にかかわるときの決断は、早いほうがいいです。しばらく皆さんにお会いできないのが寂しい、とは言いません。皆さんの命が大切です。各自の自宅で勉強に取り組む皆さんのために、毎日お祈りさせていただきます。
(祈り)神さま、どうかわたしたちの命と生活を守ってください。また元気に再会できますようにお祈りいたします。イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン
(2021年1月19日、校内放送礼拝)
関口 康
「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」
おはようございます。今日は今年度(2020年度)第2回目の「各自自宅礼拝」の2回目です。最初の「各自自宅礼拝」は昨年4月と5月に実施しました。
最初のときも不安が無かったわけではありません。私個人はそんなふうには考えませんでした、と言うのは逃げの一手を打っているようでずるい気がしますが、教会堂にみんなで集まる礼拝をせず、各自自宅で礼拝をすることにすると、みんなの心が教会から離れてしまうのではないかと。
しかし、そのように考えることはお互いの信仰を疑うことを意味しますので、失礼なことだと思います。また、私などが考えるのは、世界中を混乱に陥れている感染症の問題に教会がまるで無関心であるかのような態度をとるならば、そのことこそ教会が多くの人から信頼を失う理由になるだろう、ということです。信頼を失った教会は、伝道を続けることができません。
何が正解であるかは分かりません。「各自自宅礼拝」をいつまで続けるのかは決めていません。1月3日日曜日に行った緊急役員会で私が申し上げたことは、通常礼拝を再開しても大丈夫だとみんなが納得できるような、なんらかの分かりやすいしるしがきっと示されるでしょう、ということです。それが何かは分かりませんけれども、きっと神さまがそれを示してくださるでしょう。
今日の聖書の箇所は、新約聖書5ページ、マタイによる福音書4章18節から22節までです。イエス・キリストが最初の弟子として、「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(18節)、また「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(21節)の計4人を呼び寄せられた場面です。
この箇所は教会で繰り返し読まれ、語られてきましたので、改めて読むまでもないと言いたくなるほどです。しかし、何かわたしたちが《原点に立ち返る》必要があるときに役に立つ内容が記されていると思います。
このときペトロとアンデレは「湖で網を打っていた」(18節)最中でした。ヤコブとヨハネは「父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしている」(21節)最中でした。
つまり、彼らは仕事中でした。しかも過酷な肉体労働です。からだじゅうの筋肉がパンパンに膨れ上がるような仕事です。そして、漁師の仕事は魚をとることですから、それは当然、同じ村に住む人々や遠くから買いに来る人々にその魚を分けることで漁師自身が収入を得ることを意味します。漁師たち自身がその場で店を開いて魚を売りさばいていたかどうかは、私は知りません。しかし、その魚は人の食べ物ですから、人の命に直接かかわる仕事です。
ぜひ想像してみていただきたいです。そのような過酷で、自分たち自身の生活がかかっていて、しかも多くの人々の命と生活を支えることに直接かかわる仕事をしている最中の人たちに対して、客観的に見れば湖のほとりをぶらぶら歩いているだけのように見えたかもしれないイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と言い出す場面を。
わたしたちの毎日の生活の中でも同じような場面があると思います。会社勤めをしている方々の勤務時間中です。産まれたばかりの赤ちゃんがいるご家庭の方々の授乳中です。医師や看護師の方々にとっては深刻な病気にかかっている人の治療や看護をしている最中です。
漁師であった彼らにとって、漁をしている最中や、網の手入れをしている最中の状況は、それと全く同じです。どの人の仕事のほうが重要で、どの人の仕事は大したことがない、などと誰も言われたくないし、事実でもありません。みんなたいへんです。自分が生きることのためにも、人を生かすためにも、みんな必死で働いています。
今日の聖書の箇所に描かれているのは、まさにその場面です。自分が長年取り組んできた仕事に対する知識と経験と技能を駆使し、神経をとがらせ、全集中の作業に取り組んでいる最中に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という声が聞こえてきたというわけです。
2つの可能性が考えられます。そのひとつは、全く堪えられないほどひどいことを言われたと感じて激怒する可能性です。まるで自分が今していることを、頭ごなしにすべて否定されたかのようです。「漁師の仕事だなんていうようなそんなつまらない仕事は、今すぐやめて、人間をとる漁師になればいい」と言われてしまったと、彼らが感じ、そのとき虫の居所が悪ければ、イエスさまに食ってかかることになったかもしれません。
しかし、そうはなりませんでした。そうならなかった、ということは、いま申し上げた第一の可能性は、今ただちに否定してよいかもしれません。ただ、私が申し上げたいこと、みなさんに考えていただきたいことは、イエスさまが、あるいは弟子になった人たちが、漁師だなんていうつまらない仕事を、というように考えることがなかったとしても、この聖書の箇所を読むわたしたち自身がそのように考えてしまう可能性がありうる、ということです。
それは、世俗的な仕事よりも宗教的な働きのほうが上にある、というような感覚です。そんなつまらない、どうでもいいことはやめて、もっと高尚なことをしなさいと言っているのと事実上同じであるような考え方です。
わたしたちがよくよく考え、気を付けなければならないことだと私が思いますのは、いま申し上げたような感覚をわたしたちがほんの少しでも持っているようなら、伝道は不可能だということです。少なくともそれは、イエス・キリストの教会に属する者たちの考え方としてふさわしくないです。イエスさまが漁師たちのしていることを遠くから眺めて、そんなつまらない仕事よりも人間をとる漁師になるほうが高尚な生き方なので、わたしについて来なさい、というようなことをお考えになったでしょうか。ありえないです。
この場面で、4人の漁師がイエスさまの呼びかけを聞いて何を感じ、考えたので、ただちに従うことにしたのかは記されていません。しかし、彼らが腹を立てなかったことは大切な点ではないかと思います。彼らのプライドを傷つけるようなことを、イエスさまはおっしゃっていません。そういう意味ではないと、彼らの耳で聴いて分かったからこそ、4人の漁師はイエスさまに従うことができたのです。同じ言葉でも、字で読むだけでなく(心の)耳で聴くことが大事です。
第二の可能性は、「人間をとる漁師」の働きに就くことが今こそ求められていると、イエスさまの呼びかけを聞いた4人がはっきり理解できたということです。今は緊急事態であると分かったのです。人の心が弱っている。不安に陥っている。その人々を暗い海の中から希望の光へと引き上げる働きが、今こそ必要だと自覚できたので、彼らはイエスさまに従うことにしたのです。
今の私たちも同じです。毎日必死で働いている方々のために祈り、お役に立てることがあれば何でも喜んでお引き受けしたいと願うばかりです。
(2021年1月17日)
関口 康
「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。」
おはようございます。今日から再び「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルス感染拡大防止の観点からの措置です。ご理解とご協力を賜りますと幸いです。通常礼拝を再開できる日が一日も早く訪れることを共に祈ろうではありませんか。
今日の聖書の箇所は、新約聖書4ページ、マタイによる福音書3章13節から17節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリスト御自身が洗礼を受けられた、という事実です。
根本的なところからお話ししますと、「イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳であった」とルカによる福音書3章23節に記されています。このルカの証言に基づいて、30歳になられてからのイエスさまの生涯を教会では「公生涯(こうしょうがい)」と呼ぶならわしになっています。
その「公生涯」の最初にイエスさまは「ヨハネ」という名の人から洗礼をお受けになりました。「ヨハネ」とは誰か。その答えがマタイによる福音書3章の1節から4節までに記されています。
「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。(2節省略)ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3章1~6節)。
ヨハネはこういう人でしたということで今日はお許しください。詳しい内容に踏み込むいとまはありません。ヨハネの人となりについての詳細については、機会を改めてお話ししたいと思います。それよりも今日集中したいのは、このヨハネからイエス・キリストが洗礼を受けられたという事実のほうです。なぜイエスさまはヨハネから洗礼を受けられたのかという問題のほうです。
なぜそれが「問題」になるのか、という問題があるように思います。ヨハネは「悔い改めよ」と多くの人に教えました。しかし、いったい人は何を「悔い」、何を「改め」なくてはならないのでしょうか。その答えは、自分が犯した「罪」を悔い、自分の常態にすっかりなってしまっている「罪深い生活」を改めなくてはならないということになるでしょう。
そして、その「悔い改め」のしるしとして洗礼を受けなさいと、ヨハネは教えたのです。そのときの「洗礼」は、ヨルダン川に行って、川の中に入り、その水で体を洗う行為です。
しかし、そこで問題が生じます。イエスさまは「罪のないお方」だったのではありませんか。それなのになぜ「悔い改める」必要があるのでしょうか。「悔い改め」のしるしとしての洗礼を、イエスさまがなぜ受けなければならないのでしょうか。イエスさまも罪人(つみびと)のひとりだったということでしょうか。もしそうであれば、イエスさまは「罪のないお方」であるという話と矛盾するではありませんか、という問題です。
いまご紹介した一連の問いは、他の様々な問題から切り離してこれだけを考えると、なんだか全くどうでもいい、我々の人生と無関係な屁理屈であるように思えるところがあります。しかし、そうではなく、いろんな別の問題とのかかわりを考え始めると、とても深くて複雑で悩ましく、我々の人生にかかわる問題であるということが分かってきます。
いちばん分かりやすいかもしれない点だけいえば、わたしたちの中には、教会で洗礼を受けた人と、まだ受けていない人がいます。「洗礼を受ける」とは何を意味するのか、「受けていない」とは何を意味するのかを、すでに洗礼を受けている人もまだ受けていない人も、必ず毎日考えているということまでは無いにしても、何かの拍子に考える機会があるのではないかと思います。そういうことに今日の箇所の問題がかかわる、ということです。
イエス・キリストは「罪のない方」であるにもかかわらず、「悔い改めよ」と呼びかけるヨハネの言葉に応じ、ヨハネが悔い改めのしるしとしての意味を与えた洗礼をイエス様ご自身が受けられた、ということになりますと、要するに洗礼とは「罪の悔い改め」を意味し、またイエスさまは「罪ある方」だったことを意味する、ということになる。
そして、もしそうであるとするならば、わたしたちが教会で受ける洗礼の意味も、それと同じであることになる。しかし、もしそうであるならば、教会というのは、要するに、犯罪者が収容されて更生を目指す刑務所のようなところなのかというような考え方が成り立つかもしれないでしょう。その考え方が完全に間違っているかどうかはともかく、教会で洗礼を受けることがもしそのようなことだけをもっぱら意味するのだとすれば、進んで喜んで洗礼を受けようと決心する人は誰もいなくなるのではないでしょうか。自ら進んで受刑者になるという意味ですから。
いろいろ考えはじめるときりがありません。今日はひとつの結論だけ申し上げて終わります。実を言いますと、イエス・キリストはなぜ洗礼をお受けになったのかというこの問題は、二千年前の古代教会から問い続けられ、今でも問われ続けているものです。問われ続けている、ということは、はっきりした答えがまだ分かっていない、ということです。しかし、「分かりません」で話を済ませるわけにもいきません。
私より少し上の世代から私より少し若い世代までくらいの多くの牧師が学生時代に読んだ書物の中に、日本語版ではカール・バルトとオスカー・クルマンの共著という形になっている『洗礼とは何か』というタイトルの本があります。
それは、わたしたちと同じ西東京教区の日本キリスト教団国立教会で長年牧会され、つい最近隠退された宍戸達先生がドイツ語から訳され、1971年に出版されました。その本のバルトでなくクルマンが書いたほうの論文に出てくる「総代洗礼」(Generaltaufe(ゲネラールタウフェ))という言葉が有名です。クルマンは次のように書いています。
「イエスの洗礼はすでにあの終点を、その生涯の頂点である十字架を、指し示している。その十字架においてすべての者の洗礼ははじめて成就を見るのである。十字架において、イエスは総代洗礼(Generaltaufe)をお受けになる。それに至る命令を、ヨルダン川でも洗礼に際してかれは受けられたのである」(バルト、クルマン『洗礼とは何か』宍戸達訳、新教出版社、1971年、106頁)。
それは、イエスさまは十字架の上ですべての人の身代わりに死んでくださったように、すべての人の代表者として、「総代」として、洗礼をお受けになった、という理解です。
今のわたしたちの状況へと無理やり結びつける必要はないかもしれません。しかし、今日からわたしたちがそうせざるをえなくなった「各自自宅礼拝」の中で、教会の礼拝堂の中で、牧師であるわたしひとりで礼拝をささげるとき、僭越なことではありますが、教会のみんなを代表して、ある意味での「総代」として礼拝をささげているのだ、という思いなしにいることはできません。
「各自自宅礼拝」が最善の選択であるかどうかは分かりません。わたしたちは、イエスさまとは違い「罪ある者」として、自分たちの判断の正しさを常に疑い、修正を重ねつつ、神の赦しを乞いつつ、共に祈りつつ、今の状況を乗り越えていきます。それが教会です。
(2021年1月10日、日本キリスト教団昭島教会 各自自宅礼拝)
敬愛する各位
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
以下、謹んでお知らせいたします。
2021年1月3日(日)新年礼拝終了後、緊急役員会を行い、慎重に協議した結果、新型コロナウィルス感染拡大防止の観点から、本教会の「主日礼拝」を、当面の間、昨年4月から5月まで実施したのと同じ「各自自宅礼拝」の形で行うこととしました。
〇主日礼拝 来週1月10日(日)より当面の間「各自自宅礼拝」とする
〇教会学校 来週1月10日(日)より当面の間「休会」とする
〇聖書に学び祈る会 今週1月 7 日(木)より当面の間「休会」とする
週報と宣教文は毎週分を作成し、メールや郵送などでお届けします。礼拝堂での「主日礼拝」は関口康牧師がひとりで行い、賛美と祈りをささげます。午前10時30分に礼拝開始のチャイムを鳴らしますので、共に祈りを合わせていただけますと幸いです。
また、通常の主日礼拝が再開されるまで、昨年4月から5月まで行ったようにインターネット(ブログ、ツイッター、メール)の活用を考慮します。楽器演奏、写真、動画、演劇、絵画、詩、俳句、書道、等々の作品をご提供いただけますと助かります。教会ブログで紹介し、ツイッターやメールで広報します。
〇昭島教会ブログ http://akishimakyokai.blogspot.com
〇昭島教会ツイッター http://twitter.com/akishimakyokai
〇昭島教会メール akishimakyokai@gmail.com
主日礼拝ならびに諸集会の再開につきましては、国内外の動向を踏まえ、役員会で検討を重ね、できうるかぎり早期に実現したいと願っています。
役員会としては苦渋の決断でした。しかし、これは私たち自身と近親の方々の命を守るために実施することです。ご理解とご協力を賜りますと幸いです。
おひとりおひとりのため、いつもお祈りしています。どうかくれぐれもご自愛ください。
2021年1月4日
日本キリスト教団昭島教会
主任牧師 関口 康
関口 康
「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」
あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお願いいたします。
東京都内に限られたことではありませんが、少なくとも東京のすべての教会が、今日の礼拝を行うかどうかで迷い抜いたはずでしょう。通常礼拝を行っている教会もあれば、閉鎖を決断した教会もあると思います。私も迷いました。しかし、決断する勇気がありませんでした。自発的に出席をお控えになった方々のことを覚えます。ぜひ自衛していただきたいです。
今日の聖書の箇所も、いつもと同じように日本キリスト教団の聖書日課に基づいて選びました。しかし、この箇所のテーマが「避難」であることは、この段落に共同訳聖書が付けた小見出しにあるとおりです。避難すること、逃げること、これが今日の箇所のテーマです。
だれが、だれから、どこへ、なぜ逃げたのかは今日の箇所に記されているとおりです。「だれが」の答えは「生まれたばかりのイエスさまを抱いたヨセフとマリアの夫婦が」です。「だれから」は「当時のユダヤの王ヘロデから」です。「どこへ」は「エジプトへ」です。「なぜ」は「イエスさまの生命を守るため」であり、「ヘロデがイエスさまを殺そうとしていると天使が告げたから」です。
このような歴史的事実が本当にあったかどうかは分かりません。わたしたちにできるのは聖書に書いてあることを読んで、その意味を考えることだけです。しかし、わたしたちにとって大事なことは、歴史の事実がどうだったかというよりも、人の大切な生命を守る行動として避難すること、逃げることは、正当かつ適切な行動であるということを、聖書が保障し、天使が保障し、神が保障してくれているという事実を受け入れることです。
「逃げる」ということで、私がいつもすぐに思い出すことがあります。その最初は、旧約聖書の出エジプト記に描かれている、モーセと共にエジプトからカナンの地へと逃げるイスラエルの民の姿です。2章15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」は旧約聖書ホセア書11章1節です。ホセア書を見ると「わたしの子」が明らかにモーセを指し、出エジプトの出来事を指しています。これで分かるのは、マタイによる福音書はイエスさまを「新しいモーセ」として、イエスさまと共に始まった事態を「新しい出エジプト」として描いているということです。
次に思い出すのは世俗的な話です。毎回のようにノーベル賞候補者にあがる小説家の村上春樹氏のことです。私は村上さんの小説は読んで理解できたためしがありません。しかし、1980年代後半に、村上さんが爆発的な勢いで有名人になった頃、ちょうど私は東京にいました。きわめて高い評価をする人々がいる一方、激しく批判する人々がいたのを覚えています。その後、1990年代に村上さんが活動の拠点をアメリカに移しました。それを「村上春樹が逃げた」と言う人々がいました。しかし、「逃げた」と言われながら活動を続けた結果として今があるのですから、あれでよかったのです。
3つめは、東日本大震災です。2011年3月11日。私は千葉県松戸市の教会にいました。松戸も非常に激しく揺れました。私は教会員の安否確認をしなくてはと立ち上がりましたが、電話が通じなくなり、テレビも通常の放送をやめ、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、自動車を動かすこともできなくなりました。唯一頼りにできたのがインターネットでした。
地震と津波で一切を失った東北の教会を支援しなければと動き始めた、他教派の教会関係者がいました。3月14日の夜から高速道路を使って自動車で福島を通って仙台まで行くという情報を得ました。その人たちがインターネットで情報を発信していましたので、多くの人が見守っていました。
すると、3月15日の朝になって福島原発が爆発した(?!)というニュースが飛び込んできました。ネットで見ていた人たちの中に「行くな、止まれ」と伝えた人がいました。しかし、別の人は「イエス・キリストは逃げない!」という言葉で煽り始めました。それで私は本当に失望したのです。宗教はしばしば暴走します。教会も例外ではありません。
すべてを奪われた人々のもとにいち早くかけつけて助けなければならないという確信をもって動き始めた人々の判断は百パーセント正しいものでした。しかしだからといって「原子力発電所が爆発した」(?!)と報道されている最中に危険地域に突入することは、全く別問題です。
教会も同じです。礼拝も同じです。生涯かけて信仰を守り、礼拝を続けることと、新型コロナウィルス感染の危険が襲い掛かっている今このときに、自分自身と教会の自粛を拒むことは全く異なる次元の問題です。
そこまで言うならば、なぜ今日の礼拝を行うことにしたのか、閉鎖すればよかったではないかと思われるかもしれません。それも考えました。しかし、とにかく今申し上げているようなことについて、みなさんに直接お話ししたうえで、みんなで考えて判断する必要があるだろうと思いましたので、今日は通常礼拝を行うことにしました。
もしかしたら今週中にも政府から緊急事態宣言が発出されるかもしれません。危ないものからは逃げましょう。「逃げること」は、悪でも罪でもありません。イエス・キリストが生まれたとき、ヨセフとマリアに神が命令したことです。神の御心であれば従いましょう。
(2021年1月3日、新年礼拝)
関口 康
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
元旦礼拝の説教のタイトルが「共に生きる生活」で、その聖書の箇所が旧約聖書の詩編33編であるのを見るだけですぐにピンと来る方が、みなさんの中におられるでしょうか。
これは日本の教会で長く読まれ、今でも読まれている有名な本の題名です。その本の最初に記されているのが、先ほど朗読した旧約聖書詩編33編1節の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」です。もっとも日本語版出版当時は新共同訳聖書ではなく口語訳聖書が用いられていました。
それは、20世紀ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの本です。その最も有名な一冊『共に生きる生活』です。
日本語版が2種類あります。ひとつは『交わりの生活』(岸千年訳、聖文舎、1960年)です。もうひとつは『ボンヘッファー選集』第6巻(新教出版社、1968年)に収録され、1975年に単行本化された『共に生きる生活』(森野善右衛門訳)です。
「場違いな話が始まった」と思われているかもしれませんが、ご安心ください。話の筋はちゃんとつなげます。元旦礼拝にふさわしい内容になります。
私がボンヘッファーの『共に生きる生活』を最初に読んだのは、東京都三鷹市の東京神学大学に高校卒業後ストレートで入学した1984年です。当時私は18歳でした。
それは本当に素晴らしい内容でした。最初私はひとりで読み、次に神学生仲間と共に読み、教会の青年会でも読み、ついに教会学校の生徒だった高校生と共に読みました。その高校生は現在日本キリスト教団出版局の看板雑誌『信徒の友』の編集長をしておられます。
しかし、昭島教会の前任担任教師の鈴木正三牧師は、私などが読みはじめるよりもはるか前に、ボンヘッファーを研究するという目的をもってハイデルベルク大学に留学された国際的なボンヘッファー研究者です。鈴木先生がそのような方であられたことを私が知ったのは、今からわずか2年半ほど前のことです。
私がいま申し上げていることで何が言いたいか。石川献之助牧師からボンヘッファーの話を伺ったことはありません。しかし鈴木正三牧師がボンヘッファーの国際的研究者であり、私も学生時代から夢中になって読んできたのがボンヘッファーの本であり、なかでも特に『共に生きる生活』です。
そのことがあるのでぜひ、昭島教会の皆さんにはボンヘッファーの名前を覚えていただき、『共に生きる生活』を読んでいただきたいということです。
しかし、私はこの元旦礼拝でボンヘッファーの話をこれ以上続けるつもりはありません。とくに伝記的な事柄については、話し始めると長くなりますので全く触れないでおきます。それよりも、今日の聖書の箇所の言葉を引用した直後にボンヘッファーが書いていることをご紹介したいと思いました。
それは次のとおりです。
「キリスト者にとって、彼がほかのキリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは、決して自明なことではない」(森野善右衛門訳)。
もうひとつの訳のほうでもご紹介いたします。
「キリスト者がキリスト者同志で生活できるというようなことは、はじめからわかりきっていることではない」(岸千年訳)。
なぜそう言えるのか。ボンヘッファーの説明は次のとおりです。
「イエス・キリストは敵のただ中で生活された。最後には、すべての弟子たちがイエスを見棄てて逃げてしまった。イエスは十字架の上で悪をなす者たちや嘲る者たちに取り囲まれて、ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである」(森野善右衛門訳)。
これほど明快なキリスト者の自己理解を、私は他に知りません。これは100パーセント教会の話にしてしまって大丈夫です。教会はキリスト者が「共に生活する」場だからです。
そして、ボンヘッファーが言いたいのは、教会に集まるのは「当たり前のこと」ではないということです。
なぜ「当たり前でない」のかといえば、イエスさまの姿を考えるがよい。敵の中で生活し、弟子たちからも裏切られ、最後は十字架の上で、おひとりで死なれたではないか。そのようにしてイエスさまは神の敵に平和をもたらされたのだ、というわけです。
その点では私たちも同じです。私たちの周りも敵だらけ。だからといって私たちは、人里離れたところで隠遁生活をするわけでなく、社会のど真ん中でキリスト者として生活する。そのキリスト者同志が互いに集まることが「当たり前のこと」であるわけがない。
私は昭島教会の中でそのような理解を持っておられる方に出会ったことはありませんが、教会は「牧師のお話を聴きに来る講演会場」であるというようなことは全くありえません。あるいは逆に「運動を開始する前に参加者同士の利害関係を調整するために事前に協議しておく必要に応じるための会議室」が教会であるわけでもありません。
そのようなことではなく、教会のわたしたちは「共に生活する」のです。それは「決して自明なことではない」(森野善右衛門訳)、あるいは「初めから分かりきっているようなことではない」(岸千年訳)というのが、ボンヘッファーの言葉です。
この点は、石川献之助先生が繰り返し教えてこられたことだと私は理解しています。教会は「人と人との出会いと交わりの場」である。その点がおろそかにされるようなら、一切は空しい、という理解です。私も大賛成なので、教会をそのようなものとして守り抜いていくように願っています。
しかし、その願いを強く持つからこそ、今の新型コロナウィルス感染拡大状況は、教会にとって恐るべき事態であるという認識を、私も石川先生も持っています。ボンヘッファーに言わせると、キリスト者同志の交わりは「自明なものではない」からです。
「自明なものではない」とは、キリスト者同志を結び付けているのは神の力であるということを言えばそのとおりだが、だからといって「神が守ってくださるから大丈夫だ」ということだけで済まされることではなく、それよりもっと大事なこととして、自明ではないからこそ大切に守り抜く課題がわたしたちに課せられているわけでしょう。そのことが、決して忘れられてはなりません。
しかし、こういう話を「共生が大事です」というような一般的なスローガンにしてしまうのは、私は反対です。教会でしか決して味わうことができない特別なものがあります。それを言葉にするのは難しいですが、教会に行かないと落ち着かない、教会に行ってみるとそれが何かが分かる「何か」。
そしてボンヘッファーが次のようにも書いています。
「キリスト者がほかのキリスト者と顔と顔とを合わせて相見たいと願う時、そのことは、彼がなおあまりにも肉にあって歩んでいることとして信仰者としては恥ずべきことである、と感じる必要はない。人間はからだとして創造され、神の御子はわたしたちのために、からだをもってこの世に来られ、からだをもってよみがえられ、信仰者は礼典において主キリストのからだを受け、死人のよみがえりは、霊的・肉体的な神の被造物の完全な交わりをもたらすのである」(森野善右衛門訳)。
これと同じ理由です、石川先生も私も同じですが、あっという間に「インターネット礼拝にしましょう」という話になっていかない理由は。
今日お集まりくださったみなさんの中にも、「果たして今日私は本当に教会に来て元旦礼拝に出席してよかったのだろうか」ということが気になり、感じなくてよいほどの罪悪感を覚えておられる方がいるかもしれません。その気持ちも理由も私には分かります。
しかし、だからといって、今わたしたちが自分の体を持ち運んでみんなで集まって「対面で」礼拝をしていることと、そういうことを一切抜きにした「インターネット礼拝」が同じであるわけがありません。
このようなひとつひとつの問題を「ああでもない、こうでもない」と頭をひねりながら、心を悩ませながら過ごす1年になりそうです。
しかし、わたしたちは絶望しません。教会の存在が「当たり前」だったことは、いまだかつて一度もありません。教会の存在は神の恵みであり、奇跡です。その教会を大切に守り抜く。そのことをわたしたちは、今までしてきたように、これからも続けていくだけです。
(2021年1月1日、日本キリスト教団昭島教会 元旦礼拝)
関口 康
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
元旦礼拝の説教のタイトルが「共に生きる生活」で、その聖書の箇所が旧約聖書の詩編33編であるのを見るだけですぐにピンと来る方が、みなさんの中におられるでしょうか。
これは日本の教会で長く読まれ、今でも読まれている有名な本の題名です。その本の最初に記されているのが、先ほど朗読した旧約聖書詩編33編1節の「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」です。もっとも日本語版出版当時は新共同訳聖書ではなく口語訳聖書が用いられていました。
それは、20世紀ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの本です。その最も有名な一冊『共に生きる生活』です。
日本語版が2種類あります。ひとつは『交わりの生活』(岸千年訳、聖文舎、1960年)です。もうひとつは『ボンヘッファー選集』第6巻(新教出版社、1968年)に収録され、1975年に単行本化された『共に生きる生活』(森野善右衛門訳)です。
「場違いな話が始まった」と思われているかもしれませんが、ご安心ください。話の筋はちゃんとつなげます。元旦礼拝にふさわしい内容になります。
私がボンヘッファーの『共に生きる生活』を最初に読んだのは、東京都三鷹市の東京神学大学に高校卒業後ストレートで入学した1984年です。当時私は18歳でした。
それは本当に素晴らしい内容でした。最初私はひとりで読み、次に神学生仲間と共に読み、教会の青年会でも読み、ついに教会学校の生徒だった高校生と共に読みました。その高校生は現在日本キリスト教団出版局の看板雑誌『信徒の友』の編集長をしておられます。
しかし、昭島教会の前任担任教師の鈴木正三牧師は、私などが読みはじめるよりもはるか前に、ボンヘッファーを研究するという目的をもってハイデルベルク大学に留学された国際的なボンヘッファー研究者です。鈴木先生がそのような方であられたことを私が知ったのは、今からわずか2年半ほど前のことです。
私がいま申し上げていることで何が言いたいか。石川献之助牧師からボンヘッファーの話を伺ったことはありません。しかし鈴木正三牧師がボンヘッファーの国際的研究者であり、私も学生時代から夢中になって読んできたのがボンヘッファーの本であり、なかでも特に『共に生きる生活』です。
そのことがあるのでぜひ、昭島教会の皆さんにはボンヘッファーの名前を覚えていただき、『共に生きる生活』を読んでいただきたいということです。
しかし、私はこの元旦礼拝でボンヘッファーの話をこれ以上続けるつもりはありません。とくに伝記的な事柄については、話し始めると長くなりますので全く触れないでおきます。それよりも、今日の聖書の箇所の言葉を引用した直後にボンヘッファーが書いていることをご紹介したいと思いました。
それは次のとおりです。
「キリスト者にとって、彼がほかのキリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは、決して自明なことではない」(森野善右衛門訳)。
もうひとつの訳のほうでもご紹介いたします。
「キリスト者がキリスト者同志で生活できるというようなことは、はじめからわかりきっていることではない」(岸千年訳)。
なぜそう言えるのか。ボンヘッファーの説明は次のとおりです。
「イエス・キリストは敵のただ中で生活された。最後には、すべての弟子たちがイエスを見棄てて逃げてしまった。イエスは十字架の上で悪をなす者たちや嘲る者たちに取り囲まれて、ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである」(森野善右衛門訳)。
これほど明快なキリスト者の自己理解を、私は他に知りません。これは100パーセント教会の話にしてしまって大丈夫です。教会はキリスト者が「共に生活する」場だからです。
そして、ボンヘッファーが言いたいのは、教会に集まるのは「当たり前のこと」ではないということです。
なぜ「当たり前でない」のかといえば、イエスさまの姿を考えるがよい。敵の中で生活し、弟子たちからも裏切られ、最後は十字架の上で、おひとりで死なれたではないか。そのようにしてイエスさまは神の敵に平和をもたらされたのだ、というわけです。
その点では私たちも同じです。私たちの周りも敵だらけ。だからといって私たちは、人里離れたところで隠遁生活をするわけでなく、社会のど真ん中でキリスト者として生活する。そのキリスト者同志が互いに集まることが「当たり前のこと」であるわけがない。
私は昭島教会の中でそのような理解を持っておられる方に出会ったことはありませんが、教会は「牧師のお話を聴きに来る講演会場」であるというようなことは全くありえません。あるいは逆に「運動を開始する前に参加者同士の利害関係を調整するために事前に協議しておく必要に応じるための会議室」が教会であるわけでもありません。
そのようなことではなく、教会のわたしたちは「共に生活する」のです。それは「決して自明なことではない」(森野善右衛門訳)、あるいは「初めから分かりきっているようなことではない」(岸千年訳)というのが、ボンヘッファーの言葉です。
この点は、石川献之助先生が繰り返し教えてこられたことだと私は理解しています。教会は「人と人との出会いと交わりの場」である。その点がおろそかにされるようなら、一切は空しい、という理解です。私も大賛成なので、教会をそのようなものとして守り抜いていくように願っています。
しかし、その願いを強く持つからこそ、今の新型コロナウィルス感染拡大状況は、教会にとって恐るべき事態であるという認識を、私も石川先生も持っています。ボンヘッファーに言わせると、キリスト者同志の交わりは「自明なものではない」からです。
「自明なものではない」とは、キリスト者同志を結び付けているのは神の力であるということを言えばそのとおりだが、だからといって「神が守ってくださるから大丈夫だ」ということだけで済まされることではなく、それよりもっと大事なこととして、自明ではないからこそ大切に守り抜く課題がわたしたちに課せられているわけでしょう。そのことが、決して忘れられてはなりません。
しかし、こういう話を「共生が大事です」というような一般的なスローガンにしてしまうのは、私は反対です。教会でしか決して味わうことができない特別なものがあります。それを言葉にするのは難しいですが、教会に行かないと落ち着かない、教会に行ってみるとそれが何かが分かる「何か」。
そしてボンヘッファーが次のようにも書いています。
「キリスト者がほかのキリスト者と顔と顔とを合わせて相見たいと願う時、そのことは、彼がなおあまりにも肉にあって歩んでいることとして信仰者としては恥ずべきことである、と感じる必要はない。人間はからだとして創造され、神の御子はわたしたちのために、からだをもってこの世に来られ、からだをもってよみがえられ、信仰者は礼典において主キリストのからだを受け、死人のよみがえりは、霊的・肉体的な神の被造物の完全な交わりをもたらすのである」(森野善右衛門訳)。
これと同じ理由です、石川先生も私も同じですが、あっという間に「インターネット礼拝にしましょう」という話になっていかない理由は。
今日お集まりくださったみなさんの中にも、「果たして今日私は本当に教会に来て元旦礼拝に出席してよかったのだろうか」ということが気になり、感じなくてよいほどの罪悪感を覚えておられる方がいるかもしれません。その気持ちも理由も私には分かります。
しかし、だからといって、今わたしたちが自分の体を持ち運んでみんなで集まって「対面で」礼拝をしていることと、そういうことを一切抜きにした「インターネット礼拝」が同じであるわけがありません。
このようなひとつひとつの問題を「ああでもない、こうでもない」と頭をひねりながら、心を悩ませながら過ごす1年になりそうです。
しかし、わたしたちは絶望しません。教会の存在が「当たり前」だったことは、いまだかつて一度もありません。教会の存在は神の恵みであり、奇跡です。その教会を大切に守り抜く。そのことをわたしたちは、今までしてきたように、これからも続けていくだけです。
(2021年1月1日、元旦礼拝)