2020年7月19日日曜日

復活の希望


使徒言行録24章1~23節

関口 康

「彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」

今日の個所で語っているのは使徒パウロです。場所はカイサリアという町です。その直前までエルサレムにいました。パウロをエルサレムからカイサリアまで連れてきたのは、千人隊長クラウディウス・リシアと、リシアが召集した歩兵200名、騎兵70名、補助兵200名、合計470名でした(23章23節)。

この兵士たちは、エルサレムでパウロに対して「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」(22章22節)とわめき立てていた40人以上のユダヤ人たちの手からパウロを助け出し、カイサリアにいたローマ総督フェリクスのもとへパウロを護送しました。

クラウディオ・リシアがフェリクス宛てに書いた手紙の内容が、23章26節以下に記されています。

「クラウディオ・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵隊たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。

ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」

いま申し上げているのは、パウロがなぜカイサリアのローマ総督フェリクスの前に立つことになり、そこでパウロが自分の立場を説明しているのかについての背景説明です。

今日の朗読箇所の直前に、大祭司アナニアの顧問弁護士であるティルティロが語っています。最初のほうはお世辞です。面倒くさいので割愛します。問題は24章4節以下です。

「さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます」。

この箇所の内容から分かるのは、ティルティオはパウロを「疫病のような人間」であると言っています。もちろん批判の言葉として語られたものであって、誉め言葉ではありません。しかし、パウロの影響力の大きさを指して「疫病のよう」と言われているとしたら、周囲に脅威を与える存在だったことを意味するでしょう。

わたしたちはどうだろうと考えさせられます。疫病呼ばわりはごめんですが、社会の中で全く影響力がない存在であるとしたら寂しいかぎりだと思わなくはありません。

今日の箇所の10節以下がパウロの言葉です。

「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、わたしが礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ12日しかたっていません。

神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。

しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」

パウロの言うとおりだと思います。パウロがエルサレムでしたことがあるとすれば、今のわたしたちと同じように、普通にただ礼拝しただけです。聖書のお話を聞き、祈りをささげる。ただそれだけです。客観的に見れば、静かなものです。それが、しかし「疫病」呼ばわりになったり「扇動者」呼ばわりになったりです。

パウロが総督フェリクスの前で語ったのはキリスト教信仰の核心部分である「死者の復活」という点でした。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」と言われている中の「正しい」とか「正しくない」というのは神との関係を指していますので、神を信じて生きている者も神を信じていない者も、という意味になります。

この「死者の復活」という信仰は、ユダヤ教のファリサイ派の人々は信じていることでした。パウロが言おうとしているのは、キリスト教徒が「死者の復活」を信じるからといって、ユダヤ人たちから異端視される理由にならないということです。

しかし、パウロの場合は、それは先祖から受け継いだ信仰だからという理由で「死者の復活」を信じたわけではありません。パウロは、イエス・キリスト御自身が彼の目の前に本当に現れたと信じたのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは「死者の復活」という言葉にどう反応したらよいでしょうか。何を信じるべきでしょうか。何を期待すべきでしょうか。

それは、亡くなった人がたまに夢の中に現れてくれることでしょうか。あるいは、亡くなった人が地上に遺した業績を見つめながら故人の在りし日をしのぶことでしょうか。亡くなった人の体をミイラにして、かびないように保存することでしょうか。遺伝子を取り出して保存して将来その人のクローンを作ることでしょうか。立派な銅像を建てることでしょうか。

どのように信じることも、あるいは信じないことも、ある意味で自由です。ダメと言われても困るというか、人は信じたいことを信じたいように信じます。それを止めることはできませんし、止めてもとがめても効果はありません。自分の考えと違うとなれば、信じること自体をやめるか、自分の考えと近いことを言う人たちのところに行くだけです。

パウロは、自分が見たことを見たように語っただけです。初代のキリスト教徒が「死者は復活する」と信じた内容も、権力者たちが十字架にかけて殺害したイエスは生きている、ということです。権力者たちに対する抵抗の意思表示、すなわち挑戦状の意味がありました。

万人に対する生殺与奪権を持っていると思い込んでいる権力者たちが、どれほど自己保身のために邪魔になる存在を滅ぼし尽くそうとしても、それは無駄な抵抗であるということです。

イエスは生きている、イエスによって裁かれるのはお前たちだ、ということです。

(2020年7月19日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)