2020年7月26日日曜日

破局からの救い


使徒言行録27章33~44節

関口 康

「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。」

今日の箇所に記されている出来事は、先週の箇所に記されていたことと時間的にも内容的にもつながっています。

使徒パウロが2回目の伝道旅行を終えてエルサレムに戻ったとき、40人以上のユダヤ人たちがパウロに襲い掛かりました。しかし、客観的に見てパウロに罪はないと考えたローマ軍の千人隊長がパウロを助け、なんと470人もの兵士にパウロを守らせて、エルサレムの隣町カイサリアまでパウロを護送したというのです。

そして、カイサリアに着いたパウロは、ローマ総督フェリクスの前で弁明を求められたので、そこで自分は悪いことをしていないと言い、死者の復活というユダヤ教のファリサイ派の人々も受け入れているのと同じ信仰を叫んだだけだと言ったというのが、先週の箇所に記されていたことのあらすじです。

その続きの話が今日の箇所に記されています。カイサリアのフェリクスのもとで弁明を終えたのち、パウロはさらに、なんとローマ皇帝に謁見することが許可され、ローマまで護送してもらえることになりました。

「してもらえる」という言い方を意図的にしています。客観的あるいは相対的に見て一般市民のひとりにすぎないパウロが、ローマ軍を護衛につけてローマ皇帝のもとまで連れて行ってもらえるというのは、驚くばかりのことであり、奇跡に近いと考えるほうがよいと思うからです。

西暦60年代から70年代にかけて、ユダヤとローマ帝国の間で、歴史家が「第一次ユダヤ戦争」と呼ぶ戦争が起こりました。しかし、その戦争のことは使徒言行録には描かれていません。今日の箇所を含む使徒言行録に描かれているのは、すべて西暦60年代より前の出来事です。

そのことが意味するのは、イエスが十字架につけられた西暦30年頃から30年も経たないうちにキリスト教会がローマ帝国の目から見て無視できない存在になっていたということです。その約300年後の西暦4世紀にはキリスト教がローマ帝国の国教になります。そのような実際の歴史的な流れを考えながら読むと、今日の箇所はとても興味深いものになるでしょう。

それでは今日の箇所に描かれていることは何でしょう。ローマ軍の兵士たちとパウロを乗せた船が地中海で暴風に遭い、漂流しはじめたというのです。せっかくローマ皇帝に謁見できる運びになったのに、途中で交通事故に巻き込まれて足止めを食らいました。足止めどころか、海の上で全員が死んでしまう危険性がありました。しかしその中で、パウロが活躍したというのです。

今日の箇所の少し前の27章20節に「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」と書かれています。その船に乗っていた人の数は276人でした(37節)。これだけの人々が暗闇の海の上で絶望的状況に追い込まれました。

その中で「パウロが活躍しました」と先ほど言いました。しかし、客観的に見て、そのときのパウロは、その船の中でどう考えても指導的な立場にあったとは言えません。そこにはローマ軍の百人隊長もいるし、軍人たちもいました。船長もいれば、船員たちもいました。しかし、その人々は、難破船の中で、ただおろおろしているだけでした。

ひとり、パウロが語りはじめました。客観的に見れば一般市民であり、旅人であり、この時点では囚人のパウロです。何も持たず、足には足かせを付けられていたことでしょう。そんな無力で何も持たないパウロが、鎧やかぶとや剣をもった兵士たちに対し、力強い言葉で励ました、というのです。何かとんでもないことが起こっていると、認識すべきでしょう。

漂流14日目の夜にどこかの陸地に近づいたことが分かった船員たちが、暗礁に乗り上げるのを恐れて船から逃げだそうとしました。しかしそのときパウロが、百人隊長と兵士たちに「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言って船員たちが逃げ出すのを阻止した、という逸話が描かれています。

パウロは勉強家だったようですので、もしかすると、船を動かす技術や海についての専門的な知識を持っていたかもしれませんが、そうかどうかは全く定かではありません。そのような知識は一切持っていなかったかもしれません。

しかし、パウロに分かったことがあったのです。危機的な状況の中で、人間が何を考えるか、どのような行動をとるかが。この中で、ずるい人はだれか、逃げ出す人はだれか、だます人はだれかが。

なぜ分かったかといえば、それはパウロが教会の牧会者だったからだ、としか私には言いようがありません。牧師の立場で教会をシビアに見ていくと、同じことがあてはまると、パウロの目には見えていたのだと思います。

そしてパウロがみんなに呼びかけたのは、一緒に食事をしましょうということでした。そしてその食事の前に、パウロが感動的なメッセージを語っています。

「今日で14日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」

こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた、と記されています。総勢276人の大宴会の始まりです。

このときパウロは、教会の聖餐式や愛餐会を思い浮かべていたのではないでしょうか。コロナ禍の今、わたしたちが、その「教会の食事」を一緒にできないのが残念でなりません。

それでみんなが元気になりました。「十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした」と記されています。残りの食べ物は無い、ということは、彼らが背水の陣を敷いたことを意味しています。

私にとって興味深いことがあります。それはパウロが彼らに「神を信じなさい」と言わないことです。「わたしは神を信じています」(25節)とは言いました。しかし、ローマ軍の兵士たちにパウロが語ったのは「元気を出しなさい」であり、「何か食べてください」という言葉でした。

これはわたしたちにとってとても大切なことです。人の不安や不幸に乗じて特定の宗教を一方的に押し付けられると、わたしたちだって警戒心を持つではありませんか。「伝道のチャンスだ」などと思わず、窮地を乗り越えることにおいて互いに協力しあうことに集中するのが大事です。

結果として「キリスト教の人たちは信頼できる」と思ってもらえたら、その中に「教会に行ってみようかな」と心を動かしてくださる方が、あるいは引き起こされるかもしれません。しかし、それはあくまでも結果論です。

(2020年7月26日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)

2020年7月19日日曜日

復活の希望


使徒言行録24章1~23節

関口 康

「彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」

今日の個所で語っているのは使徒パウロです。場所はカイサリアという町です。その直前までエルサレムにいました。パウロをエルサレムからカイサリアまで連れてきたのは、千人隊長クラウディウス・リシアと、リシアが召集した歩兵200名、騎兵70名、補助兵200名、合計470名でした(23章23節)。

この兵士たちは、エルサレムでパウロに対して「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」(22章22節)とわめき立てていた40人以上のユダヤ人たちの手からパウロを助け出し、カイサリアにいたローマ総督フェリクスのもとへパウロを護送しました。

クラウディオ・リシアがフェリクス宛てに書いた手紙の内容が、23章26節以下に記されています。

「クラウディオ・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵隊たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。

ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」

いま申し上げているのは、パウロがなぜカイサリアのローマ総督フェリクスの前に立つことになり、そこでパウロが自分の立場を説明しているのかについての背景説明です。

今日の朗読箇所の直前に、大祭司アナニアの顧問弁護士であるティルティロが語っています。最初のほうはお世辞です。面倒くさいので割愛します。問題は24章4節以下です。

「さて、これ以上御迷惑にならないよう手短に申し上げます。御寛容をもってお聞きください。実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます」。

この箇所の内容から分かるのは、ティルティオはパウロを「疫病のような人間」であると言っています。もちろん批判の言葉として語られたものであって、誉め言葉ではありません。しかし、パウロの影響力の大きさを指して「疫病のよう」と言われているとしたら、周囲に脅威を与える存在だったことを意味するでしょう。

わたしたちはどうだろうと考えさせられます。疫病呼ばわりはごめんですが、社会の中で全く影響力がない存在であるとしたら寂しいかぎりだと思わなくはありません。

今日の箇所の10節以下がパウロの言葉です。

「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、わたしが礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ12日しかたっていません。

神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。

しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」

パウロの言うとおりだと思います。パウロがエルサレムでしたことがあるとすれば、今のわたしたちと同じように、普通にただ礼拝しただけです。聖書のお話を聞き、祈りをささげる。ただそれだけです。客観的に見れば、静かなものです。それが、しかし「疫病」呼ばわりになったり「扇動者」呼ばわりになったりです。

パウロが総督フェリクスの前で語ったのはキリスト教信仰の核心部分である「死者の復活」という点でした。「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」と言われている中の「正しい」とか「正しくない」というのは神との関係を指していますので、神を信じて生きている者も神を信じていない者も、という意味になります。

この「死者の復活」という信仰は、ユダヤ教のファリサイ派の人々は信じていることでした。パウロが言おうとしているのは、キリスト教徒が「死者の復活」を信じるからといって、ユダヤ人たちから異端視される理由にならないということです。

しかし、パウロの場合は、それは先祖から受け継いだ信仰だからという理由で「死者の復活」を信じたわけではありません。パウロは、イエス・キリスト御自身が彼の目の前に本当に現れたと信じたのです。

わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは「死者の復活」という言葉にどう反応したらよいでしょうか。何を信じるべきでしょうか。何を期待すべきでしょうか。

それは、亡くなった人がたまに夢の中に現れてくれることでしょうか。あるいは、亡くなった人が地上に遺した業績を見つめながら故人の在りし日をしのぶことでしょうか。亡くなった人の体をミイラにして、かびないように保存することでしょうか。遺伝子を取り出して保存して将来その人のクローンを作ることでしょうか。立派な銅像を建てることでしょうか。

どのように信じることも、あるいは信じないことも、ある意味で自由です。ダメと言われても困るというか、人は信じたいことを信じたいように信じます。それを止めることはできませんし、止めてもとがめても効果はありません。自分の考えと違うとなれば、信じること自体をやめるか、自分の考えと近いことを言う人たちのところに行くだけです。

パウロは、自分が見たことを見たように語っただけです。初代のキリスト教徒が「死者は復活する」と信じた内容も、権力者たちが十字架にかけて殺害したイエスは生きている、ということです。権力者たちに対する抵抗の意思表示、すなわち挑戦状の意味がありました。

万人に対する生殺与奪権を持っていると思い込んでいる権力者たちが、どれほど自己保身のために邪魔になる存在を滅ぼし尽くそうとしても、それは無駄な抵抗であるということです。

イエスは生きている、イエスによって裁かれるのはお前たちだ、ということです。

(2020年7月19日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)

2020年7月11日土曜日

ピアノ賛美「雨だれ」富栄徳さん演奏・動画編集

富栄徳さんが「雨だれ」を演奏してくださいました。ありがとうございます!「この雨の季節にしっくり合う曲です。雨音に重ねて耳をかたむけるのもいいですね。でも豪雨にはならないでと願います。終わりに聖句(マタイ6:21)も紹介されています。」



ピアノ賛美「雨だれ」富栄徳さん演奏・動画編集

富栄徳さんが「雨だれ」を演奏してくださいました。ありがとうございます!「この雨の季節にしっくり合う曲です。雨音に重ねて耳をかたむけるのもいいですね。でも豪雨にはならないでと願います。終わりに聖句(マタイ6:21)も紹介されています。」