2019年9月1日日曜日

信仰の証し


ヤコブの手紙1章19~27節

関口 康

「あらゆる汚れとあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたがたの魂を救うことができます。」

今日は主任牧師の説教の当番日ですが、昨日の午後4時頃お電話があり、「体調がすぐれないので、もしかしたら明日教会に行けないかもしれない」とお知らせいただきました。

「そういうときのための副牧師ですので、ご安心ください」とお返事し、その後ただちに説教準備を始めました。予告なく説教者が変更となりましたことをお詫びいたします。

主任牧師はもっと以前からですが、私は今年4月から聖日礼拝の聖書箇所を日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選んでいます。週報に印刷した今日の聖書箇所は、もし今日が私の説教担当日だったとすれば、私も必ず選んだ箇所です。

新約聖書のヤコブの手紙は、私の大好きな書物です。なぜ大好きなのかと言えば、「どんなことにも両面ある」ということを深い次元で教えてもらえる書物だと思えるからです。

何がどのように「両面」になっているのかは、この手紙を読めば分かります。先ほど朗読していただいた範囲だけでも分かりますが、最も鮮烈な響きを持つ言葉が2章18節に記されています。

「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」。

2章20節にも同様のことが記されています。「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」。

新共同訳聖書の中で「愚かな者」と訳されている箇所はすべて「バカ」と言っているのを和らげているだけです。バカ野郎と言っています。

これで著者ヤコブが何を言おうとしているのかについては説明を加える必要があると感じます。しかし、著者自身が言葉を変え、角度を変え、視点を変えながら自分で説明しようとしています。

著者が最も言いたいのは、行いが伴わない信仰はむなしい、ということです。それはもはや信仰ではない、ということです。

著者がなぜこのようなことを、ものすごく強い調子で、まるでだれかを叱り飛ばしているかのような勢いで書いているのかについては、物事を論理的に順序立てて考えた結果として出てきた抽象的な結論がこうであるというような事情ではないと思われます。何らかの具体的な「事件」が背景にあると思われます。

しかも、それはおそらく、信仰者の共同体としての「教会」の内部で起こったであろう出来事です。あろうことか教会で、とんでもないことが起こった。しかもそれは、一度や二度でなく、恒常的に続いている。

具体的に何があったのかについては、本当のところは分かりません。しかし、それを読むだけで当時の情景がありありとした映像として浮かんでくるような描写が2章2節以下に出てきます。次のように記されています。

「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。

こういうことが当時の教会の中で実際にあったのか単なるたとえなのかは分かりません。そして、はっきり言いますが、教会は金の指輪をしてはいけないところだと思わないでください。「ああ、しまった。今日は金の指輪をつけてきてしまった」と手を隠したりしないでください。そんなことを言いたいわけではありません。

もうひとつの面も同様です。書いてあるとおりではありますが、「汚(きたな)らしい服装」とはなんだ、どういう状態を指して「汚らしい」と言うのか、失礼ではないかと、私もこの箇所を読んでいて、むかむかします。「申し訳ありません」と著者に代わってお詫びしたくなります。

それらのことが枝葉末節であると私は決して思いません。しかし、著者の意図をくみとる必要があると思います。

身なりとか経済的格差とかで人を分け隔てし、「あなたはこちらの席に座ってください」とか、「あなたには席がありません」とか、そんなことを言い出すのが教会だとしたら、そんなものを信仰の共同体と呼ぶことができるのですか、できるはずがないではありませんかと、厳しいかもしれませんが、きわめて真っ当な問いかけがなされていることは間違いありません。

しかし、次のことも言っておきます。わたしたちがはっきり気づかなければならないのは、このようなことを書くのは、教会を心から愛している人だということです。教会などどうでもいいと思っている人は、こんなことは書けません。言っても意味がありません。

最初に私が、ヤコブの手紙が大好きだとする理由として、「どんなことにも両面ある」ということを教えてくれるからだと言いました。しかし私は、いま申し上げたことを次のようなことだと誤解されたくありません。

人を分け隔てするなんらかの「忌まわしい」事件が当時の教会の中に実際にあったと仮定したうえで、「しかし、そうは言っても、現実の教会はヤコブが書いているとおりである。教会も人間の集まりなので差別は当然ある。どんなことにも両面ある」というようなことを、私が言おうとしているのではありません。

言い方は悪いですが、教会を外から眺めるだけで批判している人たちがいます。ひとつふたつの教会を体験して、「ここもあそこも同じだった。私は教会の中でひどい差別を受けた。だから私はすべての教会が信用できない」とおっしゃる方々もおられます。

そのような方々が、教会であるわたしたちへと向ける厳しい視線に、わたしたちが鈍感であるわけには行きません。しかし、本当にそうなのかと、私は言いたくなります。すべての教会がそうであると言えるのか。

教会のわたしたちのだれもかれもが「そうは言っても現実はね」と、物陰でぺろりと舌を出して、ほくそ笑んでいるのか。本当にそうなのか。

私は今、べつに怒っているのではありません。しかし、あまりにも一方的で一面的な中傷誹謗のようなことを言われると、黙っていられなくなるところが私にはあります。ひとつふたつの教会だけ見て、そこで苦痛を味わったという理由で、すべての教会を非難するのは「木を見て森を見ず」ではありませんかと。

「どんなことにも両面ある」と私が申し上げたのは、そのような意味ではありません。そんなことを言いたいわけではありません。

それでは、それは何のことかをそろそろ言わなくてはなりません。それは、聖書や教会の歴史や神学を学んでこられた方々は「ああ、あのことか」とすぐにお察しになるであろうことです。しかし、専門家同士の間だけでしか分からない言葉で会話しても意味がありませんし、それこそ差別に通じます。言い方を換えなくてはなりません。

それで思い至ったのは、一カ月ほど前(7月28日)、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を聖日礼拝で取り上げてお話ししたことです。それを思い出しました。パウロとペトロが大げんかしたことが書かれていた、あの手紙です。

あのガラテヤの信徒への手紙において使徒パウロが書いていたことが、今日のヤコブの手紙に書かれていることと真っ向から対立する、正反対の内容になっているというのが「どんなことにも両面ある」と私が申し上げたことの趣旨です。

パウロが次のように書いています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2章16節)。

パウロがはっきり書いているのは、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない、ということです。行いのない信仰によってわたしたちは救われるのであって、行いは問われない、ということです。

それに対して今日のヤコブの手紙が書いているのは、行いのない信仰を見せてみろ。それほどむなしいことが他にあるのか、ありえないということになりますので、パウロの手紙とヤコブの手紙を並べて読むと「どんなことにも両面ある」と言わざるをえなくなるという次第です。

しかし、ここで私はみなさんにお尋ねしたいのです。「どちらが正しいか」という議論が必要でしょうか。そのような議論は要らないと私は思います。だって両方正しいですから。わたしたちが救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない。しかし、行いが伴わない信仰はむなしい。どちらとも、どこも間違っていません。

そして、両者はあるグループと他のグループとに分かれて言い争うようなことでもありません。両者はむしろ、ひとりの人間の心の中の葛藤のようなものだと言えます。

あるいは、私が子どもの頃によく見ていたアニメの「トムとジェリー」の関係。仲良くけんかするネコとネズミの関係。

もしそうだとすれば、一方が他方の反省材料になると思います。わたしたちの信仰を点検する必要があるときに、わたしたちの行いをチェックする。わたしたちの行いを点検する必要があるときに、わたしたちの信仰をチェックする。

両者に共通しているのは、教会を心から愛する思いです。そこは一致しています。

(2019年9月1日)