2019年1月1日火曜日

喜べ、あなたのその人生を(2019年元旦礼拝)


テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節

関口 康

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

あけましておめでとうございます。

新年礼拝の説教は主任牧師が担当してくださることになっていましたが、主任牧師はクリスマス礼拝とクリスマスイヴの音楽礼拝で説教してくださいましたので、新年礼拝は私がさせていただくことになりました。お引き受けした以上、なんとか責任を果たしたく願っています。ふさわしくない者をお用いいただき、感謝いたします。

なぜふさわしくないと思うのかといえば、昨年の元旦礼拝には、私はここに姿かたちを現わしていなかったからです。何ごともまず一度見習いをしてからでないと、責任ある仕事に就くことができません。荷が重いです。

私がこの教会の礼拝に最初に登場したのは昨年1月28日です。あと1か月足らずで丸1年になります。私にとって、またおそらく皆さんにとっても、大きく変化した年だったと思います。教会の皆さんにとって「良い」変化だったのか悪かったのかは私には言えません。私にとっては「とても良い」変化でした。そのようにはっきり申し上げることができます。

さて、今日開いていただきました聖書の箇所は、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一の5章16節から18節までです。内容は先ほど朗読したとおりです。

これは使徒パウロがテサロニケの教会の人々に向けて書き送った言葉です。しかし、同じ趣旨の言葉がやはり同じパウロのフィリピの信徒への手紙4章4節にも記されています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。

2つの箇所を指摘するだけで断言するのは根拠に欠きますので、「私の想像では」とお断りしておきます。私の想像では、パウロはどの教会に対しても、だれに対しても、これと同じことを書いたり語ったりしていたのではないかと思います。

「いつも喜んでいなさい」と「常に喜びなさい」はもちろん同じ意味です。また、大切なことだと思うので申しますが、「喜ぶこと」と「楽しむこと」と「遊ぶこと」とは厳密に区別しなければならないようなことではありません。エンジョイすることです。

「喜びはするが、楽しまないし、遊ばない」(?)とか、「苦虫をかみつぶして喜ぶ」(?)というのは、実際にありそうな気がしなくありませんが、支離滅裂でもあります。無理して分ける必要はありません。楽しむこと、遊ぶことは、忌まわしいことではありません。自動車のハンドルに「遊び」がなければ事故を起こします。

そして、「いつも喜んでいなさい」と命令形で書かれていることも重要なポイントです。喜ぶことが命令されています。見方によっては異様なことかもしれません。

なぜ異様かもしれないのかといえば、喜ぶか喜ばないかは、きわめて内面的なことであり、心理的なことであり、主観的なことなのだから、要するに個人の問題であると言われればそのとおりだからです。何をどのように感じようとすべて個人の自由である。「喜びなさい」と人から命令されるようなことではないと感じる方がきっとおられるでしょうし、私も同感です。

それはちょうど、昨年この教会に大きな変化があったことについて、それが教会の皆さんにとって良い変化だったのか悪かったのかについては私には言えませんと申し上げたことに通じます。「良かったでしょ、喜んでください」と私が言うのはおかしいです。きっといろんなご意見やご感想がおありでしょうから。

しかし、パウロのこの言葉の中に、もしかしたら記されるべきなのに、記されていないことがあります。それは「何を」喜ぶのかです。そのことが記されていません。なぜ、もしかしたら記されるべきなのにと思うのかといえば、わたしたちにおそらく共通している「喜べることと喜べないことがある」という感覚の問題です。

それは、よく聞くけんかの口上で「言ってよいことと悪いことがある」と言うのに似ています。この言葉が聞こえたらけんかが始まると思うほうがいいです。けんかはしないほうがよいに決まっています。しかし、ところ構わず暴言をはく人や、したい放題の人がいると、止めに入らなければならない場面がないとは言えません。

そのようなときに「いつも喜んでいなさい」という今日の聖書の言葉を思い出し、今すぐ止めに入らないとトラブルが拡大するであろうことが目に見えているのに押し黙り、手をこまねいて見ているというようなことに、もしなるとしたら、それでいいのかという思いがわたしたちのうちに起こらないとは限りません。

しかし、私は今、そういうときはぜひけんかしてくださいと言おうとしているのではありません。それは誤解です。いま申し上げているのは、パウロが「何を」喜ぶのかを記していない、ということだけです。

それが記されていない場合、わたしたちにできるのは2つです。ひとつは、想像力を働かせて補うことです。もうひとつは、パウロが書いていることにそもそも限定はないのだと理解することです。

私は2つは同時に成り立つとも考えます。パウロがはっきり記していることが、「いつも」または「常に」喜びなさい、ということだからです。その「いつも」「常に」を文字通り厳密にとらえてよいとしたら、パウロが命令している「喜び」には本当に全く限定がないと理解するほうがよいかもしれません。

しかしまた、もし本当に限定がないとしたら、それはそれで困ったことになるでしょう。それは、喜んでいる場合でない、大いに腹を立てるべき場面でわたしたちはどうすべきかという問題が生じる可能性があるからです。

そういう問題がありますので、たとえパウロがそれは「何」かを書いていないことであっても、想像力を働かせて補うことによって喜びの範囲を限定しておくほうがよいではないかという気持ちに私もなります。

それで、今日の説教の題にたどり着きました。「喜べ、あなたのその人生を」。パウロはこのように書いていません。パウロの言葉には、喜びの範囲の限定はありません。

しかし、「聖書にこんなことが書かれていますけど、何を喜べばいいのですかね」と尋ねられたときに笑ってごまかすのも一興ですが、それで済まない場面があります。そのときわたしたちが、だれかの質問に対して、あるいは自分自身に対して何らかの答えを考えて準備しておくのは悪いことではありません。

しかし、だからといって根拠がないことを答えるわけには行きません。それで私のひとつの提案として、「いつも」または「常に」とパウロが書いていることを文字通りとらえることで見えてくる答えを考えてみたまでです。

それは、わたしたち自身の人生です。「いつも」「常に」わたしたちと共にあるのは自分自身の存在です。わたしたちの存在とは、わたしたちの体と心です。両者は切り離すことができません。そのわたしたちの存在を自分自身で受け容れ、喜ぶことこそが、「いつも喜ぶこと、常に喜ぶこと」を意味しているのではないでしょうか。

当然のことながら、眠っているときもわたしたちは存在します。眠っているときは消えているとしたら恐ろしいことです。しかし、わたしたちの主観からすれば、眠っている間は消えています。そして、「いつも喜んでいなさい」といくら言われても、眠っている最中まで喜ぶのは難しいかもしれません。わたしたちが安心して眠っている姿を見て安心してくれる人がいれば、それでよいのではないでしょうか。

しかし、私はここで急ブレーキを踏むほうがよさそうです。何を言うか関口牧師、わたしたちにとって最も喜ぶことができない、最もまがまがしいと思っているのは他ならぬ自分のこの存在である。面倒くさくて、だらしなくて、鬱陶しい自分のこの存在に煩わされて生きなければならない、わたしたちの人生そのものである。それを喜べ喜べと言われるのは拷問に等しいと、お叱りを受けるかもしれません。

その気持ちも痛いほど分かります。私も同じ気持ちです。パウロは違うとも思いません。パウロも自分の存在を引きずるようにして苦しみながら生きた人です。そのことを書いている箇所がいくつもあります。よく知られているのは、コリントの信徒への手紙二11章23節から28節です。少し長いですが引用します。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」。

「ずっと多い」とか「比較できない」と書かれているのは、あなたがたよりも多いと、読者に言っていることです。

まだ続きがあります。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上を漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。

これだけ苦労したパウロが「いつも喜んでいなさい」と書きました。なぜ喜べるのかが分からないほどの痛い目に遭いながら。人生に絶望したとしても、だれも責めることができないほどの苦しみを味わいながら。

その意味をよく考える必要があります。どう考えても短時間で解決できる問題ではありません。元旦礼拝の説教だけで。

そうです、その意味をよく考える今年一年にしようではありませんか。どうすれば人生を喜ぶことができるのかを。わたしたちの人生は喜びに値するものかどうかを。

しかし、直感的に分かることを最後に言います。それは、苦しみの多い人生だからこそ喜びが必要であるということです。そうでもなければ堪えられません。

そして「喜び」と「楽しみ」と「遊び」はワンセットです。切り離して考える必要はありません。

そして、それがわたしたちの信仰生活・教会活動に結び付きます。苦虫をかみつぶしたような顔で「喜びの知らせ」を宣べ伝える教会は、矛盾しています。

そうでない教会で働かせていただいていることを、私は心から感謝し、光栄に思っています。

今年もよろしくお願いいたします。

(2019年1月1日、元旦礼拝)