2019年1月14日月曜日

求めなさい、そうすれば与えられる(日本キリスト教団西東京教区多摩地区新年礼拝)

日本キリスト教団小金井緑町教会(東京都小金井市)

マタイによる福音書7章7~12節

関口 康

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。」

多摩地区諸教会の皆さま、あけましておめでとうございます。

今日選ばせていただきました聖書の箇所は、マタイによる福音書7章7節から12節までです。イエス・キリストの山上の説教の一節です。とても有名な箇所です。教会に通っておられない方々にも「その言葉なら知っている」と思っていただけるに違いない箇所です。

私は英語の発音が苦手なので、恥ずかしいことを多くの方の前でしないほうがよさそうです。しかし、この御言葉のニュアンスを知るための参考として、17世紀の英語聖書「改訂標準訳」(Revised Standard Version)でこの箇所の最初の三つの言葉を読ませていただきます。

Ask, and it will be given you.
Seek, and you will find.
Knock, and it will be opened.

「改訂標準訳」(RSV)の訳にこだわるつもりはありませんし、この訳が正しいかどうかを問題にしたいのでもありません。もしかしたら英語版の言葉のほうが日本語版より覚えやすいのではないかと思っただけです。

「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」は、Ask, Seek, Knockです。頭文字をとるとASK(求めなさい)です。ただの駄洒落ですが、覚えやすいでしょう。

英語版を読んでみて、もうひとつ分かったことがあります。

それは、ここで語られている三つのことは、もし事柄を厳密に考えなければならないとしたら、「求める」とはどういう意味であり、「探す」とはどういう意味であり、「門をたたく」とはどういう意味であると、ギリシャ語原典に基づいてそれぞれの言葉の意味を辞書で調べたうえで、それぞれが全く異なる内容であると言わなければならないかもしれません。

しかし、いくらか大雑把に考えることが許されるとしたら、それほど大差ない、三つでひとつのことが語られているようでもある、ということです。

そして、今日の説教の準備をしているときにはっと気づかされたのは、この三つの言葉の意味を読み解く鍵が三つめの「ノック」(Knock)の理解にあるのではないかということです。それは、私がはっと気づかされただけのことであって、私の思い込みかもしれません。

今日のこの新年礼拝は多摩地区諸教会の皆さまの大切な時間ですので、私の個人的な話に時間を費やすのは皆さまに対する失礼に当たると思いますが、まだ新入りですので、ほんのちょっとだけお許しください。

一昨年度(2016年度)の4月から3月までの1年間、私は千葉県八千代市にある日本キリスト教団関係学校である千葉英和高等学校で聖書科常勤講師として働かせていただきました。1年で終わったのは代用教員としての採用だったからで、悪いことをやらかしたわけではありません。

聖書の授業や学校礼拝の説教だけでなく、進路指導課や生活指導課などにも配属されました。そして、寒かった記憶がありますので、たしかちょうど今の時期、つまり冬だったはずですが、推薦入試を受ける何人かの生徒の面接指導もしました。その中で生徒に「ノック」のマナー指導をしました。そのことを思い出しました。

さて問題です。学校の入学試験や会社の採用試験の面接室に入る場合のノックは何回叩くのでしょうか。安田昌英先生、お答えください。はい、正解です。正確には「日本では3回」です。

国際的な儀礼ルールでは4回が正解だそうです。しかし、日本で4回は叩きすぎで、自己主張しすぎでうるさいのでNGです。逆にノック2回はトイレに入るときの回数です。中に人がいるかどうかを確かめる空室確認の回数が2回です。

しかし、面接の場合は、部屋の中に面接官がいることが当然分かっているはずなので、空室確認の2回は失礼に当たるというのがNGの理由です。その真ん中をとって3回が、日本では正解です。

このたび考えさせられたのは、イエスさまは弟子たちに、そしてわたしたちに何回ノックすることをお求めになっているだろうか、ということです。

もっとも、イエスさまご自身がノックの回数を問題になさるわけがないと、私も思います。何回叩こうと「それはマナー違反である」というようなことを理由にイエスさまがわたしたちを叱りつけなさることは考えにくいです。私が言いたいことも、そういう意味ではありません。

重要なのは、ノックをするその人の心の中にある意図は何かということです。そのことをよく考えなければならないのではないかと思いました。その意図は部屋の中でノックの音を聞く方に必ず伝わります。そもそも相手にその意図を伝えるためにノックするわけです。

1回(コン)だけだと、石かゴミが風に運ばれてきて当たっただけか、それともネコかネズミが体当たりしてきただけか。いずれにせよ人間としての意思表示がなされているようでない。

2回(コンコン)だと、その意味は空室確認ですから「中にだれもいませんように」という願いが込められているようでもある。中から「コンコン」と叩き返す音が聞こえたら、立ち去る構えでいるようでもある。

3回(コンコンコン)は、日本のマナーとしては正解。中で待っている相手に対する信頼と配慮がある叩き方。

4回以上(コンコンコンコン、ドンドンドンドン)になると、中にだれがいるか、だれもいないかは、もはや問題でなくなっている。

ただ自己主張したいだけ。しびれを切らしていらいらしながら腹立ちまぎれの破壊衝動を抑えきれないでいるだけ。いっそ門を叩き壊したがっている状態。攻撃的で破壊的な意思表示ですらある。お願いの域を超えて暴力の域に達している。

そうでない場合を考えなければならないかもしれません。

そうではないのだ、神は耳が遠い方なのだ。だから聞こえないのだ。だから、わたしたちの願いを叶えていただけないのだ。何度も叩かなければ、大きな声で呼ばなければ、聞こえないし、開けてもらえないのだ。つまり、いろいろとご不自由になっておられる神への温かい配慮の気持ちで叩き続けるのだ。

あるいは逆に、制圧の意図がある場合。神よ、お前がそこにいるのは分かっている。出てこい。お前は完全に包囲されている。どこにも逃げ場はない。ドンドンドンドン、ドンドンドンドン。

あるいは脅迫。門を開けないつもりなら、ハンマーかブルドーザーで叩き壊してやる。開けろ、開けろ。ドンドンドンドン、ドンドンドンドン。

今申し上げているのは冗談で言っていることではありません。今日の聖書の箇所に記されている「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というイエス・キリストの言葉の意味は何であるかを、できるだけ具体的にイメージしながら考えているだけです。

そして、同時に、順序としては三番目の「門をたたきなさい」(ノック!)の意味をどのように理解するかが「求めよ。そうすれば、与えられる」から始まる三つの言葉の意味を理解する鍵になるのではないかという想定のもとで考えているだけです。

先ほど私は回数そのものをイエスさまが問題にすることは考えにくいと申しました。しかし、回数の問題になることが実際にはありえます。

「私の願いが叶わない」と嘆く人々に「それは祈りが足りないからだ」と教えられることがあります。「あなたは何時間祈っていますか。その祈りを何日続けていますか」と言われることがあります。

しかし、祈りは神への脅迫でしょうか。制圧でしょうか。神の耳が遠いのでしょうか。新年早々、初対面の皆さまにけんか腰で何かを申し上げたいのではありませんが、ぜひ考えていただきたいのは、いま申し上げた点です。

入室マナーの話に少し戻します。2回叩くのと3回叩くのとの違いは空室確認かどうかの違いであると先ほど申しました。それを考えているときに気づかされたことは、イエスさまが「門をたたきなさい」の後に「そうすれば、開かれる」とおっしゃっていることの意味は何かということです。

門が開くかどうかが分からないのは当然です。門を開くかどうかを決めるのは中の人です。入る側の人間が決めることではありません。門の中に入れるかどうかは、中の人が門を開けてくださるかどうかにかかっています。

イエスさまは「そうすれば、開かれる」とおっしゃっています。これは素晴らしいことです。その門を開けてくださる方が、中におられるということです。

「改訂標準訳」(RSV)では、it will be openedと受動形です。ノックしている本人が門を押し破るのではありません。自然現象として「ひとりでに開く」のでもありません。

わたしたちに求められるのは、「必ず開けてもらえる」と信頼し、開けてもらえるまで待つことです。そして、そもそも門を開けてくださる方が部屋の中に「おられる」ことを信じることです。

今申し上げていることがそのまま三つの言葉に当てはまるのだと思います。最初の「求めなさい。そうすれば、与えられる」にも、二番目の「探しなさい。そうすれば、見つかる」にも。

わたしたちに求められるのは、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださる方がおられることを信じて、求め、探すことです。

最終的に問われるのは、そのような「神」が「おられる」という「信仰」です。

(2019年1月14日、日本キリスト教団西東京教区多摩地区新年礼拝、於 小金井緑町教会)

2019年1月1日火曜日

喜べ、あなたのその人生を(2019年元旦礼拝)


テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節

関口 康

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

あけましておめでとうございます。

新年礼拝の説教は主任牧師が担当してくださることになっていましたが、主任牧師はクリスマス礼拝とクリスマスイヴの音楽礼拝で説教してくださいましたので、新年礼拝は私がさせていただくことになりました。お引き受けした以上、なんとか責任を果たしたく願っています。ふさわしくない者をお用いいただき、感謝いたします。

なぜふさわしくないと思うのかといえば、昨年の元旦礼拝には、私はここに姿かたちを現わしていなかったからです。何ごともまず一度見習いをしてからでないと、責任ある仕事に就くことができません。荷が重いです。

私がこの教会の礼拝に最初に登場したのは昨年1月28日です。あと1か月足らずで丸1年になります。私にとって、またおそらく皆さんにとっても、大きく変化した年だったと思います。教会の皆さんにとって「良い」変化だったのか悪かったのかは私には言えません。私にとっては「とても良い」変化でした。そのようにはっきり申し上げることができます。

さて、今日開いていただきました聖書の箇所は、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一の5章16節から18節までです。内容は先ほど朗読したとおりです。

これは使徒パウロがテサロニケの教会の人々に向けて書き送った言葉です。しかし、同じ趣旨の言葉がやはり同じパウロのフィリピの信徒への手紙4章4節にも記されています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。

2つの箇所を指摘するだけで断言するのは根拠に欠きますので、「私の想像では」とお断りしておきます。私の想像では、パウロはどの教会に対しても、だれに対しても、これと同じことを書いたり語ったりしていたのではないかと思います。

「いつも喜んでいなさい」と「常に喜びなさい」はもちろん同じ意味です。また、大切なことだと思うので申しますが、「喜ぶこと」と「楽しむこと」と「遊ぶこと」とは厳密に区別しなければならないようなことではありません。エンジョイすることです。

「喜びはするが、楽しまないし、遊ばない」(?)とか、「苦虫をかみつぶして喜ぶ」(?)というのは、実際にありそうな気がしなくありませんが、支離滅裂でもあります。無理して分ける必要はありません。楽しむこと、遊ぶことは、忌まわしいことではありません。自動車のハンドルに「遊び」がなければ事故を起こします。

そして、「いつも喜んでいなさい」と命令形で書かれていることも重要なポイントです。喜ぶことが命令されています。見方によっては異様なことかもしれません。

なぜ異様かもしれないのかといえば、喜ぶか喜ばないかは、きわめて内面的なことであり、心理的なことであり、主観的なことなのだから、要するに個人の問題であると言われればそのとおりだからです。何をどのように感じようとすべて個人の自由である。「喜びなさい」と人から命令されるようなことではないと感じる方がきっとおられるでしょうし、私も同感です。

それはちょうど、昨年この教会に大きな変化があったことについて、それが教会の皆さんにとって良い変化だったのか悪かったのかについては私には言えませんと申し上げたことに通じます。「良かったでしょ、喜んでください」と私が言うのはおかしいです。きっといろんなご意見やご感想がおありでしょうから。

しかし、パウロのこの言葉の中に、もしかしたら記されるべきなのに、記されていないことがあります。それは「何を」喜ぶのかです。そのことが記されていません。なぜ、もしかしたら記されるべきなのにと思うのかといえば、わたしたちにおそらく共通している「喜べることと喜べないことがある」という感覚の問題です。

それは、よく聞くけんかの口上で「言ってよいことと悪いことがある」と言うのに似ています。この言葉が聞こえたらけんかが始まると思うほうがいいです。けんかはしないほうがよいに決まっています。しかし、ところ構わず暴言をはく人や、したい放題の人がいると、止めに入らなければならない場面がないとは言えません。

そのようなときに「いつも喜んでいなさい」という今日の聖書の言葉を思い出し、今すぐ止めに入らないとトラブルが拡大するであろうことが目に見えているのに押し黙り、手をこまねいて見ているというようなことに、もしなるとしたら、それでいいのかという思いがわたしたちのうちに起こらないとは限りません。

しかし、私は今、そういうときはぜひけんかしてくださいと言おうとしているのではありません。それは誤解です。いま申し上げているのは、パウロが「何を」喜ぶのかを記していない、ということだけです。

それが記されていない場合、わたしたちにできるのは2つです。ひとつは、想像力を働かせて補うことです。もうひとつは、パウロが書いていることにそもそも限定はないのだと理解することです。

私は2つは同時に成り立つとも考えます。パウロがはっきり記していることが、「いつも」または「常に」喜びなさい、ということだからです。その「いつも」「常に」を文字通り厳密にとらえてよいとしたら、パウロが命令している「喜び」には本当に全く限定がないと理解するほうがよいかもしれません。

しかしまた、もし本当に限定がないとしたら、それはそれで困ったことになるでしょう。それは、喜んでいる場合でない、大いに腹を立てるべき場面でわたしたちはどうすべきかという問題が生じる可能性があるからです。

そういう問題がありますので、たとえパウロがそれは「何」かを書いていないことであっても、想像力を働かせて補うことによって喜びの範囲を限定しておくほうがよいではないかという気持ちに私もなります。

それで、今日の説教の題にたどり着きました。「喜べ、あなたのその人生を」。パウロはこのように書いていません。パウロの言葉には、喜びの範囲の限定はありません。

しかし、「聖書にこんなことが書かれていますけど、何を喜べばいいのですかね」と尋ねられたときに笑ってごまかすのも一興ですが、それで済まない場面があります。そのときわたしたちが、だれかの質問に対して、あるいは自分自身に対して何らかの答えを考えて準備しておくのは悪いことではありません。

しかし、だからといって根拠がないことを答えるわけには行きません。それで私のひとつの提案として、「いつも」または「常に」とパウロが書いていることを文字通りとらえることで見えてくる答えを考えてみたまでです。

それは、わたしたち自身の人生です。「いつも」「常に」わたしたちと共にあるのは自分自身の存在です。わたしたちの存在とは、わたしたちの体と心です。両者は切り離すことができません。そのわたしたちの存在を自分自身で受け容れ、喜ぶことこそが、「いつも喜ぶこと、常に喜ぶこと」を意味しているのではないでしょうか。

当然のことながら、眠っているときもわたしたちは存在します。眠っているときは消えているとしたら恐ろしいことです。しかし、わたしたちの主観からすれば、眠っている間は消えています。そして、「いつも喜んでいなさい」といくら言われても、眠っている最中まで喜ぶのは難しいかもしれません。わたしたちが安心して眠っている姿を見て安心してくれる人がいれば、それでよいのではないでしょうか。

しかし、私はここで急ブレーキを踏むほうがよさそうです。何を言うか関口牧師、わたしたちにとって最も喜ぶことができない、最もまがまがしいと思っているのは他ならぬ自分のこの存在である。面倒くさくて、だらしなくて、鬱陶しい自分のこの存在に煩わされて生きなければならない、わたしたちの人生そのものである。それを喜べ喜べと言われるのは拷問に等しいと、お叱りを受けるかもしれません。

その気持ちも痛いほど分かります。私も同じ気持ちです。パウロは違うとも思いません。パウロも自分の存在を引きずるようにして苦しみながら生きた人です。そのことを書いている箇所がいくつもあります。よく知られているのは、コリントの信徒への手紙二11章23節から28節です。少し長いですが引用します。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」。

「ずっと多い」とか「比較できない」と書かれているのは、あなたがたよりも多いと、読者に言っていることです。

まだ続きがあります。

「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上を漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。

これだけ苦労したパウロが「いつも喜んでいなさい」と書きました。なぜ喜べるのかが分からないほどの痛い目に遭いながら。人生に絶望したとしても、だれも責めることができないほどの苦しみを味わいながら。

その意味をよく考える必要があります。どう考えても短時間で解決できる問題ではありません。元旦礼拝の説教だけで。

そうです、その意味をよく考える今年一年にしようではありませんか。どうすれば人生を喜ぶことができるのかを。わたしたちの人生は喜びに値するものかどうかを。

しかし、直感的に分かることを最後に言います。それは、苦しみの多い人生だからこそ喜びが必要であるということです。そうでもなければ堪えられません。

そして「喜び」と「楽しみ」と「遊び」はワンセットです。切り離して考える必要はありません。

そして、それがわたしたちの信仰生活・教会活動に結び付きます。苦虫をかみつぶしたような顔で「喜びの知らせ」を宣べ伝える教会は、矛盾しています。

そうでない教会で働かせていただいていることを、私は心から感謝し、光栄に思っています。

今年もよろしくお願いいたします。

(2019年1月1日、元旦礼拝)