2018年6月24日日曜日

希望が与えられる

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

今日はできるだけ聖書に張り付いたお話をします。今朝開いていただきましたのは、ローマの信徒への手紙の5章の冒頭です。他にも例がありますが「このように」という接続詞と共にパウロがこれまで書いてきたことをひとまとめにしたうえで、結論的なことを述べている箇所です。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとします。」

「本当にそうだろうか」と疑問符を付けて、これを書いているパウロに対しても、これを読んでいる自分自身に対しても厳しく問いかけながら読むことが許されているし、そういう読み方でないかぎり意味がないとさえ私は思います。

「わたしたちは信仰によって義とされた」と書かれています。「義とされた」は救われたという意味で理解してもよいと繰り返し申し上げてきました。「わたしたちは信仰によって救われた」。過去形で書かれていますが、救いは過去に一度限り起こった出来事ではなく、それが始まった過去から現在まで継続し、未来へと続く出来事です。その意図をくめば「わたしたちは信仰によって救われている」。

本当にそうだろうか。信仰など持たなければよかったと強く後悔し、今すぐにでもこれを捨てたいと願ったことがかつてなかっただろうか、実は今まさにそういう思いにとらわれていないだろうか。信仰こそ我が身を導く杖だなんて冗談でない。信仰こそ私を躓かせてきたのではないだろうか。人生を破壊し、人間関係を失う原因だったのではないだろうか。この私が「信仰によって救われている」と本当に言えるだろうか。このようにわたしたちは自らに厳しく問いかけてみるべきです。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。これこそ冗談ではない。いいかげんにしてくれと、大きな声でわめきたくなる。何が「神との平和」だ。なぜこのようなことをパウロはさらさら書けるのだろうか。私がこれだけ神と教会のために尽くしても、まるで神は無視だ。いっそ無視してくれるほうがましだ。まるで神が私を標的にして攻撃しているのではないかと感じる。平和どころか戦争だ。神に憎まれ、呪われているとしか感じない。その証拠に私の人生は破滅の一途。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。いや逆でしょうと言いたくなる。「キリストのお陰で人生めちゃくちゃだ。夢も希望も誇りもずたずただ」と言うほうが、よほど現実味がある。

いま申し上げていることが私自身の心の叫びであるかどうかは、ご想像にお任せします。そうだと思っていただくのも自由、違うと思っていただくのも自由です。そのことよりはるかに大切なことは、現実問題としてわたしたちが知らずにいるわけには行かないし、実際に知っている事柄である、多くの人々がいったん教会の門を叩き、決して短くない教会生活をしたうえで教会と信仰に背を向けて離れているという現実です。

教会に踏みとどまった人々だけが信仰の強い人で、そうでない人はそうでないと、単純に片づけることはできません。教会自身が人をつまずかせる原因になることが十分ありうるし、実際にあることは無視できないし、それはわたしたち自身の心の痛みとして覚え続けるべきことでもあります。

そのひとりひとりの心の奥底まで分け入って踏み込み、躓きの理由は何かを尋ねることは限りなく不可能に近いし、それこそ神とその方ご本人の一対一の関係の中でのみ知られうる事柄です。だれも触れるべきではない。しかし、そこで実際に起こっているのは激しい葛藤であり、神との格闘であるということは、ここにいるわたしたちは大なり小なり体験的に知っていることです。

その意味でならば、私ももちろん知っています。牧師をしながら毎日神さまと大喧嘩です。「全く冗談じゃありませんよ、もう勘弁してくださいよ」と。

私の話になっていくのは、これ以上は自主規制します。それよりも大事な問いがあります。それは、パウロが書いているのは、きれいごとなのかという問いです。彼は悩みもなく生きていたでしょうか。信仰によってあらゆる問題がすっきり見事に解決したと言えるような人生を送っていたでしょうか。だからこういうことを臆面もなく書けたのでしょうか。いろいろ調べてみると、全くそうでない事実が見えてきます。パウロの生涯の詳細について今ここで、いちいち述べることはしませんが。

しかし、もしそうであるなら、ますます疑問がわいてくる。パウロはいったい何者なのか。「わたしたちは信仰によって救われている」とか「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とか、まるで何事もなかったかのように、しゃあしゃあと書くことができる。

なるほどそうか、この人は宗教をなりわいにしている宗教商売人なので、自分の商売道具について悪く書くことができないと思っているのではないか。自分がどれほど苦労しようとおくびにも出さず、厚かましいきれいごとを平気で書けるのではないか。こういう人の口馬に乗せられるととんでもないことになる、くわばら、くわばら。

私はいま余計なことを言っているようでもありますが、この程度のことは高校生くらいにもなれば躊躇なく書いてくる、だれでも考えることですので、あえて口に出しています。そして、これらひとつひとつの問いは、冷笑されたり無視されたりしてはならないと私は考えます。紙一重の面がないとは言い切れません。パウロもひとりの人間である以上、彼だけを特別扱いすることもできません。

しかし、ここから少しずつですが、彼をかばうような言い方になっていくことをお許しください。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)とパウロが書いていることに、私は彼の本音を見出します。それこそきれいごとだなどと私は思いません。

「そればかりでなく」と書かれると、本筋から少し外れたことが付け加えられているような言い方に見えますが、実際にはパウロはこのことこそ言いたかったのではないかと私には思えます。「苦難をも誇りとする」。私はこの箇所を読むたびに「苦しいですけどね、それも神の恵みですから堪えますよ」と、笑っているのか泣いているのか分からないようなパウロの顔が思い浮かぶような気がします。

そしてこの続きに、この手紙の中でも最も有名な言葉のひとつが登場します。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

この言葉の意味を考える前に申し上げておきたいことがあります。これは信仰の問題を言っているのであり、神との関係について言っているのであって、それ以外のいろんなことに当てはめて一般論にしてしまわないほうがよい、ということです。

これを一般論にしてしまいますと、だれでもよく分かる話になる面と、一般的には全く理解できない話になる面とが出てくると思います。

だれでもよく分かる話になるのは、スポーツのたとえです。厳しいトレーニングをがんばって受けて体と心を鍛えれば、強くなり、いつの日かトップレベルのアスリートになることができる、かもしれないという希望が与えられる、かもしれない。そもそも最初の厳しいトレーニングを受けなければ、目標としてのトップアスリートの実現もありえない。だからがんばれがんばれ。

たとえばこういう話と、パウロが書いていることは、よく似ているといえばよく似ているかもしれません。あるいは受験勉強のたとえでも同じようなことが言えます。分かりやすいといえば、これほど分かりやすい話は他にないと思えるほどです。

しかし、よく考えるとこれはおかしいです。わたしたちが救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであって、行いによるのではない。それは分かった。しかし、信仰もまたひとつの行為である。そうだとすれば、「わたしたちは自分自身の信仰という行為によって救われる」と考えなければならないのかというと、決してそうではなく、パウロははっきり「働きによらない信仰による救い」を述べています。そのことはすでに学びました。

もしそうだとすれば、わたしたちが信仰生活のために何かトレーニングをしなければならないことがあるのでしょうか。その訓練を受けて「強くなる」必要があるのは、わたしたちのどの部分でしょうか。そして、それによってわたしたちは本当に「強くなる」のでしょうか。かえって傲慢さや頑なさが強くなるだけではないでしょうか。「私は強い信仰の持ち主になった。私と比べてあの人たちの信仰はけしからん」と。それは強くなったと言えることでしょうか。

パウロは繰り返し「イエス・キリストによって」と書いています。「神との平和を得ること」(1節)も「神の怒りから救われること」(9節)も、パウロにとっては、イエス・キリストによることです。それは具体的にどういう意味かを考えるときに重要なのは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いによることが6節以降に記されています。

わたしたちにとって大事なことは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いと、わたしたちが苦難を忍耐して得られる練達によって生まれる希望との関係は何か、ということです。それは要するにスポーツにおけるトレーニングと同じような意味で強くなることが目的なのか、ということです。

そうではないと、私は言いたいのです。イエス・キリストは十字架上で、世にも稀なる強い人の姿を現されたでしょうか。十字架の釘の痛みの極みの中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈ることができた強い信仰の持ち主としての姿を。

たしかにそのようにもおっしゃいましたが、それだけではありません。最期の最期に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげる完全に無力な人としてのお姿も描かれています。

わたしたちの「希望」は、トレーニングによってつかみとるものではありません。それは「神の恵み」として与えられるものです。しかもそれは十字架上のイエス・キリストの無力な姿に似た者にされるという希望です。

私はなるべく使いたくない言葉ですが、キリスト教の救いが「逆説」の性格を持っていることは明らかです。それを「負け惜しみ」と言わないでください。勝ってもいませんが、負けてもいません。まだ終わっていませんので。

(2018年6月24日)

2018年6月20日水曜日

どうすれば親孝行できるか(桜美林大学)

桜美林大学(東京都町田市)
桜美林大学(東京都町田市)

ルカによる福音書16章27~31節

関口 康

「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

桜美林大学の皆さま、こんにちは。関口康と申します。よろしくお願いいたします。

今日の礼拝が「地域連携特別週間」のそれであるということを、たったいま知りました。今の教会には4月に転任したばかりですので、教会についてお話しする資格はありません。そういう準備は全くしていませんので、別の話をさせていただきます。

最初に私の自己紹介をさせていただきます。しかし、詳しいことを申し上げる時間はありませんので、ちょっとだけ。

私は一昨日月曜日に、東京都杉並区の東京女子大学のチャペルで説教させていただきました。一日置いて今日水曜日は桜美林大学のチャペルにお邪魔しています。一週間で二つの大学をお訪ねすることになりました。

ツイッターでバズった人に「お前、有名人じゃん(草)」というリプを飛ばす人がいます。私も今週ですっかり有名人です。私もツイッターをしますので、ぜひフォローしてください。しかし、今は礼拝中ですので、私の話を聴いてください。礼拝中のスマホいじりは禁止です。

しかし、という接続詞でつなぐ話ではないかもしれませんが、昨日火曜日は八王子に新しくできたばかりのインターネット通販サイト「アマゾン」の倉庫でアルバイトをしていました。

朝8時から夜7時まで10時間(休憩1時間)、時給1000円、週3日。アルバイトしながらでもないと成り立ちにくいのが牧師の仕事でもあります。すべての牧師がアルバイトしているわけではありませんが。

本当は今日もアマゾンのアルバイトに行く予定だったのですが、せっかく桜美林大学のチャペルで説教をさせていただけることになりましたので欠勤しました。事前に欠勤届を出しましたので、無断欠勤ではありません。

昨日の仕事はストーでした。ストーというのは倉庫に大量に届く商材を倉庫の棚の中に入れていく仕事です。私の作業内容は日によって違いますが、私に回してもらえる仕事は、ストー以外はピックかパックです。

ピックというのはお客さんが注文した商品の情報が倉庫に届くので、その情報に基づいて商品を探して集める作業です。パックというのは商品を梱包する作業です。

その倉庫はJR八高線「北八王子駅」徒歩15分のところにあります。アルバイトを探している方がおられるようでしたら、ぜひ応募してください。大募集中ですので、きっと採用してもらえると思います。

このままアルバイトの話を続けるほうがぜったい面白いと思いますが、私は今日、そういう話をしに来たわけではありません。今日の説教に「どうすれば親孝行できるか」という題を付けました。「どうすれば大学生の皆さんが、いちばんむかつく題になるか」を考えました。

私にも2人、子どもがいます。上が23歳、下が20歳。皆さんと同世代です。ということは、皆さんの親御さんが私と同世代の方々だということです。

その私が皆さんに「どうすれば親孝行できるか」という話をするということは、私が自分の子どもたちに「どうすれば私に親孝行してくれるのか」と説教するのと同じです。嫌でしょう、そんな親。殺意を抱くレベルかもしれません。そういうことはよく分かっているつもりです。

そして、今日の説教の結論を先に言えば、皆さんが親孝行のために特別に何かをする必要など全くない、ということです。「ナニそれ?」と思われるかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。「そんなことはどうでもいい」というのが今日の結論です。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所は、イエス・キリストのたとえ話です。お金持ちの人がいました。その人の家の前にいつも寝ているラザロという人がいました。体中に吹き出ものがありました。それを犬が近寄ってきてなめたりしました。

その後、ラザロは死にました。お金持ちの人も死にました。人生は平等です。貧しい人も死にますが、お金持ちの人も死にます。いずれにせよ人は必ず死ぬという点で、人生は平等です。

死んだラザロは天国に行きました。アブラハムという旧約聖書の登場人物が天国にいて、ラザロを迎え入れてくれました。お金持ちの人は苦しい地獄に行きました。その人が見上げると天国のラザロとアブラハムの姿が見えました。

お金持ちだった人が大声でアブラハムに、そこにいるラザロを私のところによこせと言いました。「お金持ちだった人」と過去形で言いました。だってこの人はもう死んでいるのですから。天国にも地獄にもお金を持っていくことはできませんから。

その人がアブラハムに言ったのは、ラザロの指に水をつけて私の渇いた舌を冷やさせろということでした。するとアブラハムは、それは無理だときっぱり断ってくれました。それはそうでしょう。この人は生きている間、苦しんでいるラザロに施しひとつせず、見殺しにしていたのですから。

すると、金持ちだったその人がまだ言う。私の父親の家に兄弟が5人いるので、その者たちのもとにラザロを遣わして、こんな苦しい地獄に来ないで済むようにラザロを使って言い聞かせてくださいと。そのこともアブラハムはきっぱり断ってくれました。

なんでこの人、こんなに偉そうなのでしょうか。この人のおかしさは、自分はもう死んでいるのに、ラザロがまだ自分の言うことを聞く手下になると思い込んでいることです。

さっきから言いたくて我慢している言葉を言っていいですか。こいつ、ばかです。

私は皆さんにはぜひお金持ちになっていただきたいです。皮肉でなく心からそう願っています。しかし、人を見くだす人間にならないでください。もし私が皆さんの親なら、自分の子どもにそのことをこそ願います。私もつい「ばか」と言いました。反省します。ごめんなさい。

皆さんにはぜひ会社に入ったら、リーダーになってほしいし、スーパーバイザーになってほしいです。マネージャーになってほしいし、オーナーになってほしいです。しかしそうなったとしても、アルバイトの作業員を自分の手下だとかコマだとか、そういうふうに思い込まないでほしいです。

もし私が皆さんの親なら、皆さんがどんなに偉くなっても、人を見くださない、ばかにしない人になってほしいです。すべての親が私と同じ考えかどうかは分かりませんが。

そういう人に皆さんがなることこそ「親孝行」です。親孝行のために特別にしなければならないことは、何もありません。

(2018年6月20日、桜美林大学チャペルアワー)

2018年6月18日月曜日

どうすれば天国に行けるか(東京女子大学)

東京女子大学(東京都杉並区)
東京女子大学(東京都杉並区)

ルカによる福音書14章21~24節

関口 康

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

東京女子大学の礼拝でお話しさせていただくのは2回目です。最初は1年前の2017年6月(27日)でした。そのとき「私も就活中です」と言いました。あからさまに言えば、1年前の私は無職でした。どうしてそうなったのかは話が長くなりますので割愛させていただきます。昨年の説教は私のブログで公開していますので、探してみてください。

昨年私が申し上げたのは「同情してもらいたいのではありません。『おじさんも必死で生きています』と言いたいだけです。私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください」ということでした。勝手な話ですが、そのとき私は皆さんの前で再就職の誓いを立てた気持ちでした。そして、これまた勝手な話ですが、今日は再就職完了の報告をさせていただきに参りました。

失業中、ハローワークに通いました。いろんなアルバイトを探しました。私が持っている免許は、自動車の普通免許と宗教科の教員免許と牧師の免許だけです。「使えないやつだ」と思われたようです。多くの会社から不採用通知を受け取りました。応募したのは、警備会社、湯灌師(おくりびと)、浮気調査の探偵会社、などなど。学校関係は競争率が高すぎて不採用。塾講師も応募しましたが不採用。

やっと採用してもらえたのが物流関係の倉庫でした。ピッキングのアルバイト。しかし、現場が自宅から遠く、交通費がかかりすぎて収入が目減りする一方なので、1か月でやめました。自宅から歩いて行ける距離に印刷関係の会社を見つけて応募したら、なんとか採用してもらえました。

今年4月から教会の牧師の仕事に復帰しました。それ以前の25年間続けてきた私の本業です。本業に戻ることができました。競争率が高いわけではありません。そもそも就職先が少なく、成り手も少ない職種です。

今は牧師の仕事をしながら、昨年の経験を活かしてアルバイトをしています。自転車で通える距離の八王子のアマゾンの倉庫で週3日、1日10時間働いています。内容はピック(注文品探し)とパック(梱包)とストー(棚入れ)です。

なぜこんな話をしているか。皆さんの参考になるかもしれないと思うからです。「おじさんとわたしたちを一緒にしないでほしい」と叱られるかもしれません。ごめんなさい。

この私の話と、今日の聖書に記されていることと、「どうすれば天国に行けるか」という今日のお話のタイトルとの三者がどういう関係にあるかを、そろそろ申し上げなくてはなりません。

これはイエス・キリストのたとえ話です。ある人が宴会を開きました。たくさんの人を招待したいと願いました。ところが、招待した人たちが、いろんな理由をつけて宴会に来ませんでした。腹を立てた主催者が、要するにだれでもいいから無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれと、しもべに言いました。天国とはそういうところだと、イエスさまがおっしゃいました。

たとえ話はその意味を考えなくてはなりません。私なりの言葉で言えば「天国は競争率が低い」ということです。タダでごちそうをいただけるのにだれも来ないし、理由をつけて逃げられる。―チャペルの礼拝のようでしょうか。今日はたくさんの方が出席してくださり、ありがとうございます。空席だらけで、行けばだれでも大歓迎してもらえる。―教会の礼拝のようでしょうか。そうかもしれません。

主人に招かれた人々が、なぜ誰も来なかったのでしょうか。タダでもらえるものには価値がないと思ったからでしょうか。自分が一生懸命頑張って手を伸ばして自分の力で勝ち取り、つかみ取るようなものでなければ。

要するにだれでもいいの例として、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の自由な人」をイエスさまが挙げておられることに差別の意図はありません。それだけは誤解のないように言っておきます。しかし、競争社会の中で遅れがちになりやすい人々であるのは否定しにくいことではあるでしょう。

「世の中は違う。そんなに甘くない」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。競争そのものが目的ならば話は別ですが、人生は競争だけで成り立つものではありません。

就活に悩んでいる方にぜひ考えていただきたいです。一度でいいから競争心を捨ててみませんか。「自分はあの人より上である、あの人より下かもしれないが」というその競争心を。生きていくために、仕事を得るために、世のため人のために役立つために。忍耐して生きのびたごほうびとしての「天国」に迎え入れていただくために。

(2018年6月18日、東京女子大学 日々の礼拝)

2018年6月17日日曜日

約束が与えられる

ローマの信徒への手紙4章13~25節

関口 康

「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

すでに何度かお話ししましたが、私の両親がキリスト者で、二人とも教会学校の教師をしていたこともあり、私は生まれたときから教会に通っていました。

その影響で、と言いますか、その環境の中で、と言うほうがぴったり当てはまりますが、子どもの頃から実は今日に至るまで拭いきれずにいる「教会」というものに対する私の中でのイメージは「連れて行かれる」ところだったりします。否でも応でも。

それは間違ったイメージであるということは、一方では分かっているつもりです。「連れて行かれる」を漢字の熟語にすると「連行」です。国語辞典で調べてみると、連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと。特に警察官が犯人・容疑者などを警察署へ連れて行くこと」だと書かれていました。お前の主体性はどこに行ったのかと叱られるかもしれません。

しかし他方で、私は牧師の仕事を始めて28年目ですが、今に至ってもそのイメージを拭いきれずにいます。かえってますますその感覚が強まっているとも感じています。私が牧師だからこそそのように感じるのだと言える要素があるかもしれません。

ここで申し上げたいのは、私が教会に抱くイメージのそれは、キリスト者として果たすべき「義務」だからとか、「責任」だからとか、「神の命令」だから、というような言葉で表現できることではないということです。

そうではなく、まさに「恵み」です。「神の恵み」です。それ以外に表現しようがありません、少なくとも私には。ただし、その中に強制の要素がある。「強いられた恵み」というのは矛盾に満ちた言い方かもしれませんが、まさにそれが当てはまる。そのように思うのです。

教会は日曜日だけ存在する存在ではありません。教会は建物や組織の意味だけでなく、キリスト者の存在そのものが教会です。ふだんひとりひとりが別々にいるときは教会の姿は見えにくく、日曜日に集まると、よりはっきりと姿を現します。

しかし、それはそうとしても、日曜日に集まることが教会のほとんどすべてを集中的に現していると言えないわけではありません。その中で牧師に与えられている責任は説教の準備をすることです。日曜日は7日ごとに巡ってくる。ある意味で「襲い掛かってくる」。否応なしに。体調や状況如何にかかわらず。

感謝の気持ちはもちろんあります。感謝の気持ちしかありません。しかし、これは私の考えですが、教会は牧師にとって居心地の良い場所だけであってはならないと思っています。それは悪い意味での自己満足です。教会の私物化に通じます。教会は牧師の職場でもあるからです。

15年前に出版された『バカの壁』(2003年)が一世を風靡した養老孟司氏が何冊かの本に繰り返し書いていたのは、正確な引用ではありませんが、こういうことでした。「仕事して給料をもらえるのは仕事が苦しいものだからだ。仕事が楽しいというのはおかしい。職場は遊園地ではない。仕事が楽しいなら、職場に入園料を払わなくてはならないだろう」。すべてが教会に当てはまるとは思いませんが、痛いところは突いていると思います。

何の話をしているかといいますと、牧師はつらいよという話ではないし、教会はつらいよという話でもありません。わたしたちは「神の恵み」について語ります。「恵み」と言うかぎり、神から一方的に「与えられるもの」であることを意味します。それは、わたしたち人間の意志や願いにかかわらず、まさに「与えられるもの」であるという性格を持っています。

場合によってはそれは、わたしたち人間の意志や願いに反して与えられることもあります。自分が欲しいものだけ自分で選ぶことができるわけではない。欲しくないものまで押し付けられる。そのため、わたしたち人間の側からすると、強制的な要素があると感じるところが出てくるのではないかと思うのです。

今申し上げていることの文脈で、わたしたちには信教の自由があるので、いかなる意味でも強制があってはならないという話を持ち出すのは全く間違っています。信教の自由の理念は正しいものです。しかし、それとこれとは全く違う話です。今申し上げているのは、わたしたちが生まれたことも、人間として生きていることも、自分の願いや祈りの実現であるとは言えないという意味で強いられたものであると言っているのに近いことです。

わたしたちのうちのだれが「生まれたい」という明確な意志をもって生まれたでしょうか。DNAとかそのあたりの謎のレベルで「私は生まれたがっていた」と主張する人がいるかどうかは知りませんが、そういう話とは区別して考えていただきたいです。そういう話ではありません。

少なからぬ少年少女が、あるいは大人になってからも、私はなぜ生まれたのか、私はなぜ生きているのかという悩みを解決できずにいます。私は生まれたかったわけではない、生きていたいと思わないと。

実際そのとおりだとしか言いようがない面があります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、親にとって子どもは、子どもの意志とは全く無関係であるという意味で「勝手に」産んだものです。だからこそ親の責任は重大であると言わなければならないことは事実です。

いま、うちにテレビがありませんし、仮牧師館から牧師館に引っ越してから私用のインターネットがまだつながっていませんので、最近のニュースが全く分かりません。親が子どもを殺したとか、親子関係が悪かった人が人を殺したとか、そういう痛ましい話がいろいろあるようですが、どれも噂話のようなこととして間接的に聞いているだけで、具体的な中身がさっぱり分かりません。

ですから、いま申し上げているのは時事の出来事についてのコメントではありません。聖書的・キリスト教的な意味での一般論をお話ししているにすぎません。

先週は「信仰が与えられる」という題でお話ししました。今日は「約束が与えられる」という題です。来週は「希望が与えられる」という題であることを週報で予告しました。「信仰」も「約束」も「希望」も未来に属する事柄です。6月の関口牧師の説教は「与えられる未来シリーズ三部作」であると覚えていただくとよさそうです。

この「与えられる」に私がこめた意味が、ある意味で「強いられる」でもあると申し上げたいのです。私は二人の子どもの父親です。私は子どもたちに「ごめんなさい」と謝らなくてはならないかもしれません。「こんな目に合わせて、ごめんなさい。こんな時代に、こんな苦しい世界に立たせてしまって。もっと良い時代に生まれたかったよねえ」と。そう言うと、人のせいですが。

そこで私が「でもね、それはぼくも同じだよ」とか言い出すのは無責任な言い逃れかもしれませんが、そういう連鎖のようなところが人生にあります。人は面倒な時代の中に生まれ、その人自身が面倒の原因を作り出す。それぞれの時代に、それぞれ異なる悩みがある。大げさに言えば、人類の歴史は、そのような連鎖によって作り出されてきたものでもあります。

今日の箇所にパウロがアブラハムの生涯について、とくにイサク誕生の経緯に触れて書いています。イサクの側の視点は全く考慮されません。すべてあくまでも親であるアブラハムの側からの視点だけです。「あなたに星の数ほど多くの子孫を与える」と神が約束してくださったにもかかわらず100歳になるまで一人の子どもも与えられなかったアブラハムに、やっとイサクが与えられました。

子どもが与えられるかどうかということ自体の問題ではありません。神の約束が実現するかどうかの問題でした。アブラハムは、その約束がいつになっても実現しないので、約束そのものを疑ったことも全くなかったわけではありません。神の約束の内容とは違う方法で子どもをもうけたことまで聖書に記されています。しかし、最終的にアブラハムは神の約束に立ち戻り、それを信じ続け、ついにその約束の実現を見ることができました。

アブラハムがしたことは「あきらめなかった」ということだけです。子どもを産むことができる身体的な能力という意味での限界を超えてもなお、「神の約束は必ず実現する」と、神とその約束を信頼し続けました。

私は、100歳のアブラハムと90歳のサラに初めての子どもとしてイサクが与えられたという創世記の物語を「奇跡物語」としては受けとめていません。超自然という意味での奇跡の要素は全くありません。夫婦に子どもが与えられることに超自然の要素はありません。強いて「奇跡」だと言いうるところがあるとしたら、100歳のアブラハムが自分に子どもが与えられると信じることができた、そのことです。その信仰が奇跡です。

当時の年齢の数え方と今の年齢の数え方が違っていたのだ、というような合理的な解釈の可能性があるかもしれませんが、そういうのは私にとってはどうでもいいことです。重要なことはアブラハムもサラも「高齢者」であったということです。

そして彼らがイサクに託したのは信仰の継承でした。その信仰はアブラハムに与えられた「あなたに星のような多くの子孫を与える」という神の約束を信頼することであり、同時に未来において信仰の民が多く与えられることへの希望を持つことを意味していました。このあたりで、アブラハムの話とわたしたちの教会の話が結びついてくるものがあると私には思えます。

もうずいぶん前からですが、「日本の教会の未来がない」と嘆く声を教会の中で繰り返し聞いてきました。やれ少子高齢化だ、やれ教会に高齢者しかいない、やれ子どもや若者がいない、だから我々には未来がないと、絶望の三段論法を教会自身が言い続けるのです。

あと10年で多くの教会が消滅するそうです。すでにそれは始まっています。毎年いくつもの教会が閉鎖や合併を余儀なくされています。それはすべて事実です。

しかし、その話を聞くたびに何とも言えない気持ちになります。少子高齢化が「問題」であると言われると拒絶反応すら抱きます。だからどうしたのかと言いたくなります。教会は、恵みによって信仰によって受け継がれるものです。年齢は関係ありません。

パウロが取り組んだ「異邦人伝道」とは具体的に言うと何でしょうか。人生の多くの時間ないしほとんどの時間を異教徒ないし無神論者として過ごしてきた人を神の子どもにすることです。その仕事をわたしたちはパウロから受け継いでいます。

(2018年6月17日)

2018年6月10日日曜日

信仰が与えられる

ローマの信徒への手紙4章1~12節

関口 康

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

個人的なことでもありますが、教会の事柄でもありますので最初に申し上げます。私は昨日、JR東中神駅前の仮牧師館から牧師館に引っ越してきました。ダンボール箱80箱の本と7つの本棚は引越業者に運んでいただきました。布団とパソコンはNさんの車で、冷蔵庫と洗濯機と電子レンジはTさんの車で運んでいただきました。Nさん、Tさんありがとうございました。

残ったものはすべて、私が自転車で運びました。梱包しにくいものを自転車の前のかごにそのまま乗せて、20往復しました。距離は片道700メートルですので、それほど時間はかかりませんでしたが、疲れました。

それで昨晩から牧師館で休ませていただいています。今朝は鶏の鳴き声で目を覚ましました。コケコッコーと、ちゃんと言いました。幼稚園の鶏です。悪い意味ではありませんが、不慣れな点がまだ多く、これのスイッチはどこにあるのか、これの置き場所はどこかと探し回る感じですが、すぐに慣れるだろうと思っています。まだ若いので。

ローマの信徒への手紙は4章まで来ました。この手紙は全部で16章まであります。来年3月にすべて読み終わるように計画しています。なるべく分かりやすい話をしたいと願っております。最後までお付き合いいただけますと幸いです。

今日の箇所に書かれていることは難しいという印象をお持ちになる方が多いかもしれません。アブラハムが出てきたりダビデが出てきたりします。語られている内容もなんとなく理屈っぽい。分かるようで分からない。しかし、パウロが言おうとしている事柄の内容そのものは比較的単純なことであると申し上げておきます。

もうばれていると思いますが、私は理系の知識がほとんど全くないという意味の典型的な文系人間です。理系の知識に関しては相当でたらめなことを言いますので、そのあたりは理系の方々にお助けいただきたいと願っております。

パウロが言おうとしているのは、昔から多くの人たちが頭を悩ませてきた「卵が先か鶏が先か」という話に近いことです。鶏卵論争(けいらんろんそう)という言い方もします。鶏が卵を産み、その卵から鶏が生まれる。最初はどちらが先だったのかという話です。突き詰めていけばどちらが先かが分からなくなる。だから論争になるわけです。

今申し上げたのは、あくまでたとえです。パウロが「鶏が先か卵が先か」と問うているわけではありません。わたしたちが教えられてきたのは、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、わたしたちの行いや努力、業績や功徳を積み重ねることによって救われるのではないということです。しかし、この話も突き詰めて考えていくと分からなくなる点が必ず出てきます。

「信仰によって救われる」ということは、単純にひっくり返せば「信仰のない人は救われない」ということになります。それはそのとおりのことなので、やむを得ないことだと言って済ましてしまうのは非常に危険です。そういう言葉で切って捨てられて、ものすごく深い心の傷を負う人々が必ず出てきます。

そして、そこでわいてくる疑問は、その場合の「信仰」とは何を意味するのかということです。信じることも人間の行為ではないかと言われれば、そのとおりです。もしそうだとしたら、結局わたしたちは「信仰という行為によって救われる」のだろうかと問わざるをえません。

そもそもわたしたちが頭を悩ませること、すなわち「考えること」も人間の重要な行為です。また少し余談になりますが、今回の引っ越しに私は一週間かかりきりでした。他の約束をすべてキャンセルして引っ越しだけに集中しました。一週間と言っても日曜日は礼拝があり、木曜日は聖書に学び祈る会がありますので、実質5日です。それで最初の3日間は何をしていたかというと、ただ考えていただけでした。

物を箱に詰める作業も、運ぶ作業も、始まってしまえばすぐに終わることです。しかし、それよりもはるかに大事なことは、教会の働きを止めないでそれを行うにはどうすればいいかということですので、それを考える必要がありました。それを考えることをしないで、ただ物を動かすことだけをしてしまいますと、すべてがめちゃくちゃになってしまいます。

しかし、人が考えている姿というのは、はたから見ると何もしないでサボっているだけのように見えるものです。考えるのをやめて働け、と言われてしまいます。しかし、考えることは人間の重要な行為です。「人間は考える葦(thinking reed)である」とブレーズ・パスカルが言ったということは最新の高校倫理の教科書にも載っています。私は一昨年、高校生たちにこういう話を一生懸命していました。

「考えること」が人間の重要な行為であるなら、「信じること」はもっとそうではないかと言えなくもないわけです。「信じること」はどこまでも私の行為です。信仰は動詞です。主語は私です。「私が信じる」のです。もしそうだとしたら、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって行いによるのではないという教えはおかしいのではないかと疑問が生じるのは当然です。信仰も行為であり、しかも、人間の重要な行為であるならば。

実際に教会の中でそういうことが問題になることがありうるわけです。あの人は熱心な信者であると言われる人は必ずいます。「熱心な人がいる」ということは、これも単純にひっくり返せば「熱心でない人もいる」ということになります。

そうしますと、その違いは何なのかが必ず問題になります。信仰が人間の重要な行為であるならば、わたしたちが救われるのは「熱心な信仰」によるのであって「熱心でない信仰」では救われないということになるのかということが現実の問題になります。そして、そういう言葉で傷つき、嫌な思いをする人々が必ず出てきます。

これはとても深刻な問題です。わたしたちが元気なときはこういうことは問題にならないかもしれません。体も心も自由に動き、なんでもできるときは。しかし、信仰は一生ものですので、途中に紆余曲折が必ずあります。年齢だけの問題ではありません。いろいろなきっかけや事情で、教会の礼拝や奉仕に参加できなくなるときが必ずあります。あれほど熱心だった人が。

わたしたちが救われるのは熱心な信仰によるのであって、熱心でない信仰では救われないのでしょうか。そういうことをパウロが言っているでしょうか。そうではないと、今日私ははっきりと申し上げたいのです。

今日の箇所に書かれていることの中でいわゆる鶏卵論争に最も似ていると私に思えるのは5節の言葉です。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます」。

これがどういう意味かお分かりでしょうか。「不信心な者」というのは訳者が遠慮し、躊躇した形跡がにじみ出ている訳であるように思えます。もっとはっきり「不信仰な者」と訳しても全く問題ありません。そういう意味のことをパウロが書いています。「信仰など全くない者」と。そして「義とされる(義とする)」は「救われる(救う)」という意味です。つまり、パウロがこの箇所に書いているのは「信仰など全くない者を救う神」のことです。

しかし、「を信じる人は」とも書いてありますので一筋縄では行きません。「信仰など全くない者を救う神を信じる人は救われる」のであれば、結局は信仰が求められているではないかという疑問がまた浮かんでくるでしょう。しかし、「働きがなくても」とはっきり書かれています。「働き」とは行為です。信仰も働きの一種、行為の一種であるならば、その行為としての信仰がなくても救われると、パウロがはっきり書いています。

それはいったい何なのか、何を意味するのかということを、わたしたちは何度も考える必要があります。考えれば考えるほど堂々巡りに陥る面がありますが、それでも考えることが重要です。

いずれにせよはっきりしているのは、神がわたしたちを救ってくださるときに、行為としての信仰は求められないということを、パウロがはっきり書いているということです。「お前はおれを信じるのか。もし信じるなら救ってやる」と神は言わない。「信仰など全くない者を神は救う」と。しかし、パウロはそのことを述べたうえで「その神を信じる者は救われる」と言っています。

その場合の「信仰」とは、具体的に言うとどのようなものでしょうか。それを考える必要があります。

人生のほとんどすべての時間を信仰など全くなしに生きてきた人が、最期の最期の局面で、遠のく意識の中で問われた問いに対してうなずく。否、うなずいたかどうかも分からないほどの、かすかな意思表示をする。否、意思表示があったかどうかすらはっきりとは分からない「信仰」。たとえそうであっても「そんなのは信仰とは言えない」などと熱心な人たちから見下げられる筋合いにはない「信仰」。

もうひとつ。今日は花の日子どもの日の礼拝として、わたしたちの前に美しいお花がたくさん飾られています。この花を見て「美しい」と言う。あるいは、口に出さなくても、心の中で思う。美しいと思うかどうかは主観的な問題でもあります。

「信仰など全くない者を救う神を信じる信仰によってわたしたちは救われる」と言われる場合の「信仰」とは、そのようなものではないかと私には思えます。熱心な活動もできないし、具体的な行為もできないけれども、「へえ、神さまってそういう方なのか」と、ただ思い、ただ感じ、ただ受け容れるだけの「信仰」。

「救いが先か信仰が先か」の鶏卵論争は、パウロの中では決着がついています。救いが先です。信仰は後です。信仰というわたしたちの行為がわたしたちを救うのではありません。神の一方的な恩恵によって与えられた信仰によって、わたしたちは救われるのです。

(2018年6月10日)

2018年6月3日日曜日

教会学校でのお話

おはようございます。今日はこの教会の教会学校で初めてお話しします。でもまだ最初ですので、聖書のお話というよりも、私の「この人だあれ」の自己紹介のような話をさせていただきます。みなさんにも自己紹介をしてもらいますからね。いろいろ教えてください。よろしくお願いします。

私の仕事は牧師です。4月からこの教会の牧師になりました。これまでもいくつかの教会の牧師をしてきました。高等学校で聖書を教える先生になったこともありますが、それも牧師の仕事の延長です。とにかくずっと牧師の仕事をしてきました。牧師はとても楽しい仕事です。自分ではそうだと思っています。

それで今日みなさんに考えていただきたいことがあります。もしみなさんの中に、洗礼を受けるかどうかで迷っている方がおられるようでしたら、ぜひ考えてほしいということです。それと、自分は将来何になろうかと悩んでいる方がおられるようでしたら、牧師になることをぜひ考えてほしいということです。

今まで私は誰に対しても「洗礼を受けてください」とも「牧師になってください」とも言ったことはありません。だって、それを言うと「私は〇〇先生から言われたから洗礼を受けました」とか「牧師になりました」と言い続けて、人のせいにする人が出てくるからです。

逆に、いつも意地悪く「洗礼を受けないでください」「牧師にならないでください」と言ってきました。私がそう言うと、どんどん洗礼を受けてくださり、どんどん牧師になりました。人はアマノジャクのようです。あ、アマノジャクってみんなは知らないか。(「知ってる!」という声)あ、知ってましたか。

私がどうだのと言うつもりはありませんが、楽しそうに見えるようなんですよね。牧師の仕事は楽しいです。私が楽しそうにしているので、ああいうのもいいかなと思ってくださる方がおられたかもしれません。実際どうだかは分かりませんけどね。だからみんなもぜひ考えてみてください。楽しいですから。

私は生まれたときから通っていた教会の附属の幼稚園を卒業しました。その幼稚園の年長組さんのとき、小学校に入る前のクリスマスに、自分で牧師先生に申し出て洗礼を受けました。45年も前のことですが、そのときのことははっきり覚えています。

小学校に入ってからもずっと教会に通いました。途中ですごくイヤになったことがありましたけどね。日曜なのに、眠いのに、友達はプールとか行って遊んでるのに、なんでぼくは教会に行かなくちゃいけないのとかね。でも自分で「洗礼を授けてください」と言ったことを忘れることができませんでした。

だって、神さまとの約束ですからね。その約束を破るのは、神さまにも申し訳ないですが、自分自身を裏切ることでもあると思えてきて、どんなにイヤだと思っても教会に行きました。どんなにイヤだと思っても、とかはわざわざ言わなくてもいい、余計な言い方ですけどね。でも本当にそうだったんです。

それで高校3年生の夏休みになって、自分がどこの大学に行くかとか、どういう職業に就くかで悩んでいたとき思い浮かんだことが、ぼくは小さいときからずっと教会に通ってきたので、教会で何かお仕事させていただきたいなということでした。

それで牧師先生のところに行って、どう言おうかと迷って、「先生、ぼくは将来、教会のトイレの掃除をするような仕事をしたいと思います」と言いました。今考えた作り話ではないです。本当にそう言いました。高校3年生の夏休み。そうしたら先生が「それなら牧師になりなさい」と言ってくれました。

それから牧師先生が牧師のなり方を教えてくれまして、そういう大学に行って試験を受ければ牧師になれると分かりました。それで先生が勧めてくださったのが三鷹市にある東京神学大学でした。三鷹市は近いですよね。私は岡山県にいたので、三鷹市がどこかも、東京神学大学が何かも知りませんでした。

それで、東京神学大学を卒業したのが24歳で、いま52歳です。ずっと牧師の仕事をしてきました。52から24を引くといくつ?って、それはまあいいや。ずっと楽しかったです。牧師は楽しいです。だからね、みんなもぜひ考えてみてくださいね。

イエスさまが最初の弟子を集めるときに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしましょう」とおっしゃいました。イエスさまと弟子たちの関係と、牧師と教会の人たちの関係は違いますけどね。でも、「牧師の仕事は楽しいから牧師になってください」と言えるのは、牧師さんたちだけかもしれません。

でも、私のせいにしないでくださいよ。「〇〇先生に言われたから牧師になりました」とか言うのは無しで。責任とれないし。自分自身と神さまとの約束ですからね。それは忘れないでください。私は知りませんからね。自分でしっかり考えて、神さまにお祈りして決めてください。よろしくお願いします。

(2018年6月3日、教会学校)