2018年1月28日日曜日

天国と十字架

マタイによる福音書20章1~19節

関口 康

「『主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」』」

皆さま、おはようございます。日本キリスト教団教師の関口康と申します。今日はお招きいただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。

初めてお会いする方々ですので自己紹介から始めさせていただきたいところです。しかし皆さまは私の個人的な話を聴きに来られたのではなく、聖書のみことばを聴きに来られたのですから、無駄な時間は使いたくありません。すぐに聖書の解き明かしに入らせていただきます。

ただ、今日の聖書の箇所を選んだ理由についてだけ申し上げさせていただきます。私は現在、日本キリスト教団の無任所教師です。特定の教会を担任していない教師です。昨年度(2016年度)の4月から3月までの1年間は、千葉県にある日本キリスト教団関係学校の高等学校で聖書科の代用教員として働きました。高等学校だけを運営している学校法人で、私が教えたのも高校生たちでした。本当に有意義な1年間を過ごさせていただきました。

いま申し上げたことと今日の聖書の箇所を選んだ理由がどのように関係しているのかと言いますと、現在私は無任所教師としていろんな教会で説教させていただいていますが、説教奉仕がない日曜日はいま住んでいる家の近くの教会の礼拝に出席しています。その教会の先週(1月21日)の礼拝で今日のこの箇所の説教を聴いたばかりなのです。先週の説教を聴いて「よし、来週はこの箇所にしよう」と思い定めました。それが第一の理由です。

第二の理由があります。それは昨年度1年間働いた高等学校との関係です。その高校はチャプレン(宗教主事)が聖書科の授業カリキュラムを定め、それに基づいて何人かの教員が授業を行う方式を採っておりました。そのカリキュラムで今日のこの箇所について授業することが決められていました。私はこの箇所について昨年度、高校生たちに何度も話しました。そのことを先週の説教を聴いているときに思い出しました。それで今日はぜひこの箇所で説教させていただこうと思い至った次第です。
 
しかし、取り上げ方の違いがあることにも気づきました。教会の説教という形で取り上げるときと、学校の授業で取り上げるときとでこの箇所の理解の仕方や教え方が変わってくることに気づきました。それはもちろんこの箇所に限ったことではありません。聖書を「どこで」読むか、「どのような文脈で」読むかで、読み方が変わってくるのは当然です。
 
ここから内容に入ります。これはイエス・キリストがお語りになったたとえ話です。「天の国は次のようにたとえられる」(1節)と書いてあるとおりです。登場するのはぶどう園の園主と何人かの労働者です。園主は1日の働きの対価として1デナリオンを支払うという契約を労働者と結びました。
 
1デナリオンが今の日本円でいくらなのかがよく話題になります。5千円かもしれませんし、1万円かもしれません。はっきりとは分かりませんが、当時の普通の支払いでした。多すぎもせず少なすぎもせず。
 
それで、朝9時から労働を始めた人たちと、12時から始めた人たちと、15時から始めた人たちと、17時から始めた人たちがいました。ところが、園主は全員に全く同じ1デナリオンを払ったというのです。それで腹を立てたのが9時から労働を始めた人たちでした。9節以下に記されています。
 
「そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」(9~12節)。
 
しかし、園主は彼らの言葉を聴いても動じることはありませんでした。「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい』」(13~14節)。
 
園主の言う通りです。9時から働きを始めた人たちと園主との労働契約は、1日につき1デナリオンを支払うということでした。園主は契約違反をしていません。1デナリオン以上もらえると期待した人たちのほうが要求しすぎです。
 
それなのに、なぜそのようなクレームを彼らが園主に突きつける気になったのかといえば、後から来た人たちがもらった分を見て、自分たちがもらったのと全く同じであることが分かったからです。「だったら私も後から来るべきだった。朝から働いたのは愚かだった」と後悔した人がいたかもしれませんし、後から来た人たちを恨んだり呪ったりする思いにかられた人がいたかもしれません。
 
しかし、これがイエス・キリストが「天の国は次のようにたとえられる」とおっしゃった内容です。つまり天国とは、9時から働いた人にも、12時からの人にも、15時からの人にも、17時からの人にも同じ賃金が支払われるようなところであると、イエス・キリストがお語りになったのです。
 
このたとえ話をどのように理解するかについてですが、ここで最初にお話ししたことに戻ります。それは、今日私が皆さんにこの箇所についてお話ししようと思い至った二つの理由です。
 
先週出席した教会で聴いた説教の話のほうを先にします。それは「教会の視点」です。「教会は天国をどう教えるか」ということです。先週この箇所で説教してくださった牧師は、神の一方的な恵みということを強調してお話しになりました。

人が救われるのは、努力や行いや業績によるのではないのだ。どの人に対しても神は等しく恵みを与えてくださるのだ。わたしたちは他の人と自分を比較するのではなく、神の恵みを感謝して受け取るのみである。本当にそのとおりだと感銘を受けました。
 
私にも経験があります。私は現在52歳ですが、生まれたときから52年間教会に通ってきました。教会に通うと言っても、24歳から牧師(最初の2年間は伝道師)になりましたので、教会の牧師館に住み、爾来25年、毎週の礼拝で説教する職務に就きました。しかし、風邪を引いたとき以外に日曜日に教会に行かなかったことがない人間です。52歳で52年間、教会から離れたことはありません。
 
しかし、こういうことを私が言いますと、必ずと言っていいほど教会の中で私に張り合って来る人が出てきます。「私は60年です」。「私は70年」。「私は80年」。私は教会生活の長さの自慢をしているわけではありません。生まれたときから教会から一度も離れたことがない、と言っているだけです。しかし、たいていいつも、長さ自慢大会が始まってしまいます。
 
しかし、私が牧師として働いた最後の教会で、10年ほど前にうれしい出来事がありました。その方は当時70歳でした。20歳のとき四国の教会で洗礼を受けられ、その直後から教会を離れて50年一度も教会に行かなかった方が、70歳になって千葉県の私がいた教会で教会生活を再開されました。それ以後は熱心に教会に通われるようになりました。まもなく復帰の願いが出されましたので、役員会で慎重に協議した末、復帰を承認しました。
 
私も教会員もその方が教会に復帰してくださったことを心から喜びました。その方自身は教会から離れておられた50年間のことを気にしておられましたが、私は「それは関係ない」と申し上げました。天国は神の一方的な恵みによって救われた人々が迎え入れられるところだからです。教会生活の長さは関係ありません。

逆に、もし関係あるとすれば、どういうことになるのでしょうか。天国には教会生活が最も長かった人だけのゴールド部屋と、中ぐらいの人たちのシルバー部屋と、最も短かった人のブロンズ部屋とを分ける間仕切りでもあるのでしょうか。そのような差は天国にはありません。
 
もう一つの視点に話を移します。私が昨年度勤めた高等学校の授業のことです。「学校の視点」です。「学校は天国をどう教えるか」ということです。聖書科のカリキュラムでこの箇所をどう教えることになっていたかといえば、我々人間には能力や才能の違いがある。しかし、神はすべての人を等しく扱ってくださるということです。
 
学校がどうしても避けて通ることができないのは、生徒の答案に点数をつけ、評価することです。教員はある意味で最も嫌な仕事です。どの生徒のどの答案にも百点満点をつけてあげたかったです。しかし、そうは行きません。それは職務放棄です。

しかし、答案の点数の差は人間としての価値の差ではない。人間の価値は神が決めるのだ。神はすべての人に等しい価値を与えてくださる方なのだ。こういうふうに教えるとき、特に遅れがちの生徒は慰めや励ましを受けるのです。
 
しかし、いま二つの視点について申し上げましたが、もう一つ視点があることに先週気づきました。それは先週の説教で教わったことですが、このたとえ話の日本語訳で、口語訳聖書でも新共同訳聖書でも訳されていない部分があるということです。原文には「天の国は次のようにたとえられる」(1節)の前に「なぜなら」(γαρ)と記されています。それが訳されていないと教えていただきました。
 
その話を聞いて私の目からうろこが落ちました。「なぜなら」と言う限り、これまで書いてきた内容を受けていることを意味しています。そしてそれはどこからの内容を受けているかをよく考える必要があります。直接的には直前の「金持ちの青年」の箇所からですが、もっと長くとれば16章21節にイエス・キリストがエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺されるとご自分でおっしゃったところからです。
 
そこから始まるすべては、イエス・キリストがなぜ殺されることになったかについて理由を述べている箇所だからです。そして、その理由の中に、このたとえ話が含まれています。だからこそ、直後の17節以下に再びイエス・キリストがご自分の死についてお語りになっているのです。
 
なぜ今日の箇所に記されているたとえ話をお語りになったことが、イエス・キリストが殺害される理由になるのかといえば、このたとえ話は当時の祭司長や律法学者や長老たち、すなわちエルサレム神殿を中心に働く宗教的特権意識を持つ人たちへの批判を意味していたからです。
 
その人たちは長年がんばって努力してその地位まで昇り詰めたのかもしれません。しかし、だからといって一般庶民を見下げてよい理由にはなりません。それを彼らはしました。その彼らをイエス・キリストは責めたのです。
 
これはわたしたちが教会を考える材料になります。ともすれば教会生活の長さ自慢大会が始まってしまう。教会での貢献度が高いかどうか。教団や教区の役職に就いたかどうか。それは大切なことかもしれませんが、そのようなことでお互いに差をつけあって争うのは話が別です。そのようなことをイエス・キリストが最もお嫌いになりました。もはや「イエス・キリストの教会」ではありません。
 
19章13節以下にはイエス・キリストのもとに子どもたちを連れて来た人たちをイエス・キリストの弟子たちが叱ったという記事が出てきます。その弟子たちをイエス・キリストがお叱りになりました。「子供たち」は、教会生活の長さ自慢大会に参加できない存在です。その意味では、17時から仕事を始めた労働者の立場に近い存在です。
 
あるいは、「5S」(整理、整頓、清掃、清潔、躾)が行き届いていない、未熟な存在が「子供たち」です。教会に対する貢献度がないのが「子供たち」です。そのような存在に大人たちは、神聖な礼拝の静寂を乱されたくないと言うべきでしょうか。

しかし、イエス・キリストは「子供たち」を庇ってくださいました。教会の秩序が維持されることも大事です。しかし、常に新しい人や子供たちを迎え入れる教会であることとそれは両立させなければなりません。なんとかして。しかし、こういうことをはっきり言うと教会はもめるかもしれません。
 
最後に申し上げたのは、今日のたとえ話を理解するための第三の視点です。「十字架の視点」です。イエス・キリストはこのたとえ話を、十字架へと向かう決意の中でお語りになりました。そのことを忘れるべきではありません。訳されていない「なぜなら」の意味をよく考える必要があります。

(2018年1月28日)