2015年12月31日木曜日

牧師館より退去しました

2015年12月31日(木)をもって、11年9ヶ月過ごした松戸市小金原7丁目の牧師館より退去いたしました。東京電力、京葉ガス、松戸市水道局に電話し、電気、ガス、水道を停止してもらいました。

駐車場
石段
玄関前
玄関内
食事室
台所
居間
1F和室
階段
2F洋室1
2F洋室2
2F和室
2F物干し場
便所
裏庭通路
縁側
裏庭
庭木



2015年12月28日月曜日

年賀状割愛のお願い

みなさまへ。

12月24日(木)千葉県柏市に転居いたしました。

12月末の転居で大混乱状態ですので、誠に申し訳ありませんが、新年の年賀状はすべて割愛させていただきます。新住所は私宅(借家)につき一般公開は控えます。連絡はメール(yasushi.sekiguchi@gmail.com)かメッセージをご利用いただけますと助かります。

郵便局には新住所への転送依頼済みです。旧住所(松戸市小金原7丁目の牧師館か教会の住所)宛てのはがきや手紙のうち関口個人名義宛てのものに限り、一年間は新住所に転送されます。年賀状等をすでに送ってくださった方はご安心ください。

しかし、申し訳ありませんが、返信は割愛させていただきます。

2015年12月28日

関口 康

2015年12月26日土曜日

横浜中華街に行きました


今日(2015年12月26日土曜日)の夜は、横浜中華街の善隣門の近くにある中華料理店で家族で食事をしました。首都高速湾岸線を使い、東京湾アクアラインと横浜ベイブリッジを通って行きました。これから住む柏市の借家から横浜中華街まで往路90分、復路60分。一年間本当にお疲れさまでした。

2015年12月12日土曜日

「ウェストミンスター信仰告白との出会い」をめぐる回想

近藤勝彦『現代神学との対話』(ヨルダン社、1985年)
近藤勝彦先生の『現代神学との対話』(ヨルダン社、1985年)は過去3回は購入しましたが、人にあげるくせがあり失ったままでしたが、このたび落札することができました。私の一般教養の「哲学」の先生であり、学部の卒論と修士論文の指導教授でした。神学の講義を受けたことがないという意味です。

楽屋落ちの話をすれば、私の組織神学の先生は、組織神学Ⅰ(教義学)と組織神学Ⅲ(弁証学)が大木英夫教授、組織神学Ⅱ(倫理学)が佐藤敏夫教授でした。受講する年度が1年でも違うと教授が違うというローテーション方式だったので、私と同じ学年の人でも、受けた講義の内容が違う人がいるはずです。

楽屋落ちついでに覚えているままを書けば、1986年4月から履修した「組織神学Ⅰ(教義学)」の中で大木英夫教授が、今で言うアクティヴラーニングのようなことを学生にさせました。「あなたにとって教会とは何かを書きなさい」と言われ、書き終わったら一人ひとりに教室内でそれを発表させました。

そのとき私(学部3年、20歳から21歳になる年度)は当然のことのように、生まれたときから高校を卒業するまで通った教会の姿を思い浮かべたままを、いわば体験主義的に描写しました。ところがその同じ教室に私とは全く正反対の答えをした学生がいました。私の一学年上に学士編入してきた人でした。

と言っても29年前の記憶なので若干不鮮明なところがあることをお許しいただきたいのですが、その学生は大木教授からの「あなたにとって教会とは何かを書きなさい」という問いかけに対して、ウェストミンスター信仰告白(もしくは大小どちらかの教理問答)の教会の定義を丸暗記する形で回答しました。

そのような答え方を聞いた私は正直あっけにとられましたし、反感さえ覚えました。雑に言えば「なんだよ、すかしやがって」的な心理的リアクションがありました。しかしそのとき大木教授が「うむ。そういう答え方もある」と肯定的に受容なさるのを聞いて、これまた驚き、目が開かれる思いを抱きました。

その学生に対して大木教授がおっしゃったことを、私の記憶しているかぎりですがもう少し正確に言えば、「うむ。そういう答え方もある。そういう伝統の教会がある」でした。そのお答えに私が驚いたのは、私が生まれたときから高校を卒業するまで通った教会の伝統には全く欠片もない要素だったからです。

しかし、その体験(1986年の東京神学大学「組織神学Ⅰ(教義学)」での大木英夫教授のアクティヴラーニングでの一人の学生の回答)が私にとっての「ウェストミンスター信仰告白との最初の出会い」となり、12年後の1998年には「ウェストミンスター信仰告白に基づく教派」の一員になりました。

しかし、その私はいまだに、29年も前に自分の中で起こった「なんだよ、すかしやがって」という心理的リアクションを、さして罪悪感なしにはっきり覚えていることも事実です。現実の教会は、一つの神学や信条・信仰告白の命題だけで言い表せるものではない。そう認識することが重要だと思っています。

2015年12月9日水曜日

ある牧師

人口1600人強の寒村の教会に25歳で人生初の主任牧師として赴任した半年後、教会役員の親戚の会社社長と大げんかになり、日刊新聞紙上で大罵倒大会をする。赴任2年目に会社社長の親戚の教会役員が「役員やめる」と言いだす。3年目に都会の女性と結婚する。牧師夫妻は政治活動に熱心に取り組む。

会社社長と大げんかになった原因は、会社の従業員の多くが教会の会員で、その人々が「給料があまりにも少なすぎる」とこぼす声を聞き、「これは味方しなければ」と思ったから。その牧師は次々と(合計3つの)労働組合の立ち上げを支援する。それを知った会社社長はそんな牧師はつまみ出せと激怒する。

赴任4年目に初めての赤ちゃんが生まれる。その頃も牧師夫妻は政治活動に熱心に取り組む。赤ちゃんが4ヶ月になったときに戦争が始まる。ついに牧師は政治的に態度決定をし、開戦の半年後(教会赴任5年目)、戦争に大反対する側の政党に入党する。そして土日以外の週日はもっぱら政治活動に没頭する。

その牧師は赴任6年目になると(ちょうど30歳)、自分が対立している会社社長やその親戚である教会役員に当てこするようなことを日曜日の礼拝の説教の中で言うようになる。さらには、そのような内容の説教の文章を自費で印刷して、1600人強の村の全家庭に配布しはじめる。村は当然大騒ぎになる。

ということをしていたと思ったら、その年(30歳)の夏休みの直後から急に書斎に引きこもり、一冊の本を書きはじめる。若いのにがんばっているその牧師を応援したいのか、自分たちの手下にしたいのか分からない、とにかく手を差し伸べてくる大人たちを次々蹴散らし、進むべきわが道を独りで模索する。

赴任7年目は、ほぼ一年じゅう引きこもり、誰が読むかも分からない本を書き続ける。牧師の任期延長に反対するか態度を保留する教会員が85人になり(任期延長賛成者は189人)、日曜日の礼拝出席者は減り、教会分裂運動が起こっても、牧師は書斎に引きこもり、自分でも体調を崩しながら、本を書く。

翌年(赴任8年目)の夏に、その本の原稿がやっと完成する。本の形にして出版してくれる出版社が決まるまでに5ヶ月かかる。それは小さな出版社で、初版の印刷は1000部。すぐに売れたのはわずか300部だった。その後、残部を別の出版社が買い上げて売ってくれたおかげで初版はなんとか完売する。

その牧師(32歳)にとっては記念すべき本の出版予定日の前月、教会役員会の6名中4名が、牧師に対する抗議として役員を辞職する。その理由は「牧師のくせにゼネラル・ストライキを賛美した」からだという。その牧師は「賛美」した覚えはなく「解説」しただけだと釈明するが、聞き入れられなかった。

本を書くための引きこもり期間が終わり、教会役員会との決裂が修復不可能になって、かえって吹っ切れる。その翌年(赴任9年目)、牧師は大々的な政治活動を再開する。大規模なデモ行進に参加する。そして翌年(赴任10年目)、かろうじて初版が完売した本を全面的に書きなおして、第二版を出版する。

その第二版が大売れし、一大ブームになる。牧師は一躍、時の人になる。本の評判を聞いたスカウトマンたちが頭をひねり、この牧師を教会に置いたままにすると教会が壊れるばかりなので、学校で若い子たちに教える教師にしようと思いつく。こうして牧師は、10年働いた教会を辞めて、学校の教員になる。

左・第一版(1918年(表記は1919年)、右・第二版(1921年(表記は1922年)

2015年12月3日木曜日

無題

今日の来訪者とカール・バルトの話になった。バルトは牧師をやめて大学で教え始めた4年後、「私は結局のところ、ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかったという思いが私を苦しませます」と友人トゥルナイゼンに書いた(E.ブッシュ『カール・バルトの生涯』新教出版社、92頁)。

「ザーフェンヴィルの牧師としてはまったくうまくやれなかった」が、他の教会ならばうまく行ったに違いないという意味かどうかは分からない。歴史的事実としては、バルトの牧師としての経験は、ジュネーヴ教会(ドイツ語部)の副牧師だったことと、ザーフェンヴィル教会の牧師だったことがあるだけだ。

そのバルトがザーフェンヴィル教会を去るとき抱いた複雑な心境をブッシュが描いている。「一方で彼は、『私はこの10年間、まったく役に立たない僕』であったと考えた。しかし他方では、彼にとって『マタイ福音書10:14の思い出も、宗教的高慢なしで、身近に感じられた』」(同上書、178頁)。

「マタイ福音書10:14の思い出」とバルトが言っている意味は説明しがたいが、牧師たちには分かる。なんら武勇伝ではない。バルトの思いは教会の牧師としては失敗したというものだったとほぼ言える。今日の来訪者が「バルト先生にしてこの発言とは慰められますねえ」と。その言葉に私が慰められた。