2004年2月15日日曜日

伝道者という仕事(山梨栄光教会)

コリントの信徒への手紙一4・6~13

コリントの信徒への第一の手紙を学んできました。なかなか手ごわい手紙です。

パウロは、コリント教会の内部に起こっている、その教会にとってはまさに死活問題となりうる騒動を知り、その問題に介入することを決意しつつ、この手紙を書いております。

教会が分裂しかかっている。そんなことがあってはならない。そのようにパウロは確信しております。

教会は仲良くすべきです。まさか喧嘩をするために集まっているわけではないでしょう。パウロはコリント教会の人々に、喧嘩をやめて和解することを期待しています。そうでなければならないと考えています。

しかし、その一方で、パウロは、この手紙の宛先であるコリント教会の中にある一つの問題を、はっきりと見抜いていました。彼らの問題は一つだけではありません。非常にたくさん問題がありました。そのことはこの手紙の続きをずっと読んでいけば分かることです。

しかし、そのたくさんある問題の中でも最も根本的で最も大きな問題である、とパウロが考えていたに違いない、一つの問題がありました。それは何か、ということを、今日はお話ししたいと願いながら、準備してまいりました。

パウロは、そのことを、どうしても、コリント教会の人々に伝えなければなりませんでした。何とかして。何としてでも。

ところが、それを伝えることは、実際問題としては、とても難しいことでした。

狭い意味での伝道者、牧師とか宣教師とか呼ばれている人々にとって最も難しいと感じることがあるとすれば、そもそも自分が所属している教会に対して何かを物申すということ自体が、たいへん難しいことです。自分の存在を支えている教会の問題を率直な言葉で指摘する、ということ自体が、たいへん難しいことなのです。

わたしが心から愛してやまない人々である、と確信していないような相手に対してならば、何か厳しいことを、そっけなく言い放つことは、割合簡単なことです。もっと単純に言えば、嫌いだと思っている相手に対してなら、平気で何でも言えるわけです。

しかし、伝道者たちが、教会の人々のことを、心から嫌うことなど、ありえないではありませんか。そんなことは、本当にありえないことです。教会が嫌いな人は、伝道者にはなれません。牧師も宣教師も、本来、教会の仕事なのです。

ところが、その彼らが時々突き当たる壁があります。

それは、要するに、教会の中に、「これは教会の死活問題となりうる事柄である」と感じる問題を見つけてしまったときです。

そのことを、どうしても、厳しい言葉で、教会の中のある人々に向かって、指摘しなければならない問題を見つけてしまったときです。

言いたくないことを言わなければならない状況に追い込まれてしまったときです。

そんなことは、何も伝道者とか言わなくても、どんな仕事をしている人たちでも、家庭にいるときも、みんな経験していることだよと言われるなら、そのとおりかもしれません。伝道者だけを特別扱いするつもりはありません。

しかし、その上でなお思うことは、教会の中に大きな問題を見つけ、それを厳しい言葉で指摘しなければならない状況に立たされ、そうしなければその教会はもはや教会でなくなってしまう、と確信させられてしまうような窮地に追い込まれたとき、しかし、そこで口を開いて、そのことを語ったとたん、かえって教会が大騒ぎになり、彼ら自身が教会の混乱の原因になってしまうことがありうるのだ、ということです。

そして、そのことよりも、ある意味でもっと問題なことは、たとえそのような仕方で、彼らが語った言葉自体によって、かえってますます教会が混乱しはじめ、大騒ぎになってしまったときにも、彼らはキリスト者であることを辞めることができない、ということです。キリストを信じる者であることを辞めることができません。

また、それが真理である、と確信している言葉を、黙って飲み込むことも、おそらくできません。黙って飲み込むことができる人は、たぶん伝道者になろうとは思いません。それを語らざるをえないと感じている言葉を全く語らずに済ませる人は、たぶん伝道者には向いていません。

しかしまた、彼が語った言葉が、かえって教会の混乱の原因になることは、ありえます。彼らが本当に心の底から、困ったなあ、と頭を抱えて悩むのは、そういう時なのです。

今日開いていただいた個所の最初に、パウロが書いていることは、じつは、そのようなことなのです。

「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」。

この最初の一文には、非常に翻訳しにくい言葉が使われていると一つの注解書に書いてありました。なるほど、たしかに、この新共同訳聖書の訳も、かなりの意訳です。もっと直訳しますと、すごい訳になります。

問題は「当てはめて」と訳されている言葉です。これを直訳しますと、「作り変える」となります。要するにパウロは、この手紙のこれまで書いてきた言葉は、あなたがたのために、つまり、コリント教会の人々を傷つけたくないという理由で、論点をぼやかした別の話に作り変えたものでした、と言っているのです。

これが意味することは、パウロが本当に書きたかったことは、自分とアポロの関係の話などではありませんでした、ということです。もっとはっきり言わなければならないことは、別のところにあるのです。しかし、そのことをズバリ指摘することは、これまでついに、できずに来たのです、と告白しているのです。

こういうふうに言われると、何とも言えず、嫌な感じがしてきます。最初からはっきり言ってくれたほうがよかったのに、と感じる人も、きっといたことでしょう。

しかし、先ほど少し紹介しました、わたしが読んだ注解書が、なぜ、この文章は非常に訳しにくい、と書いているか、その理由もよく分かるのです。

その注解者自身はその理由をほとんど何も書いていませんが、わたしが感じる一つの理由は、「作り変える」と訳してしまいますと、要するに、非常に意地悪っぽいというか、あまりにも意図的すぎるというか、パウロの人格を疑わせてしまうような悪いニュアンスを含ませてしまう危険性がある、ということです。

そうではないのです。そうではないということを、どのように説明すべきか、その言葉にまた悩みますが、とにかく、そうではないのです。最初は意図的に論点をずらして別の話をしながら、少しずつ少しずつ、核心に触れるところへと近づいていく、というような戦略的な語り方で、次第に相手を攻め落としていく、というようなことではないのです。

もっと単純なことです。言いにくいことを言えないできただけです。もっとシャイで、ある意味非常に臆病で、こんなことを言ったら教会のみんなはどう反応するだろうか、と深く悩み、毎日そのことばかり考えながら、書こうか書くまいか迷っているパウロの姿を思い浮かべるほうが、はるかに近いものがあるのです。

しかし、パウロはついに書き始めました。今まで書けずに来たことを、堰を切ったように、勢いよく。

「あなたをほかの者たちよりも、優れたものとしたのはだれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」。

ここでパウロが言おうとしていることは何でしょうか。とんでもなく重大なことを書いているらしいということは、すぐに分かります。しかし、何を言わんとしているかは必ずしも明らかではないように思います。

ただ、この文章の真意を理解するための一つのキーワードがある、と感じます。それは8節にある「あなたがたは、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっている」という言葉です。

「わたしたち」とは誰のことでしょうか。その答えは9節にあります。9節にはっきりと「わたしたち使徒」と書かれているではありませんか。「使徒」と呼ばれるイエス・キリストの弟子たちのことです。当時の全世界の教会においてキリストの死と復活を証しするために特別に立てられた、教会の指導者たちのことです。また彼らは、伝道者でもありました。教会の牧師であり、御言葉の教師でもあり、福音の宣教師でもありました。

その意味での使徒たちを、あなたがたは、抜きにしているではないか、とパウロは指摘しています。使徒の存在を無視している。あるいは、使徒の存在を不要だと思っている。より端的に言い換えるなら、使徒不要論、伝道者不要論が、あなたがたのうちにあるではないか、とパウロは指摘しているのです。

しかし、本当にそうでしょうか、とパウロは問うているのだと思います。「あなたをほかの者たちよりも優れた者にしたのはだれです」と問うています。パウロはこの問いの答えを述べていません。「それはわたしです」とも、「それはわたしたち使徒です」とも答えていません。そんな恥ずかしいことを、パウロは、おそらく口が裂けても言わないでしょう。

しかし、だからと言って、パウロは、コリント教会の一部に存在したと思われる使徒不要論、伝道者不要論に対しては、どうしても、ひとこと言わなければならないことがある、と感じていたに違いないのです。

じつは、このことは、わたしたちがこの手紙の1・10以下を学んだときに、すでに確認していたことです。

当時、コリント教会の中には、「わたしはパウロにつく」とか「わたしはアポロにつく」とか「わたしはケファにつく」と主張していた人々と共に、「わたしはキリストにつく」と主張していた人々がいました。

この最後の「わたしはキリストにつく」と主張していた人々のことを、わたしは次のように説明しました。おそらく、この人々は、コリント教会の内部で起こっている論争に対して心の底から幻滅を感じていた人々に違いない、と。

パウロにつくか、アポロにつくか、ペトロにつくかなどという、結局人間の世話になることばかり考えているから、教会の問題は片付かない。

わたしたちを救うのは人間ではなく、神であり、キリストではないか。

わたしたちは人間を見るのではなく、神を見、キリストを見るべきである。

そのような理屈の中で、この人々は一種の人間不信に陥り、人間としての使徒、人間としての伝道者の存在を、事実上否定する立場に立っていた人々である、と思われるのです。

そのときわたしは同時に、このような考え方は、ある面で非常に魅力的なものでありうるとも申しました。

わたしたちを救うのは人間ではなく神であり、キリストであるという言葉は紛れも無い真実でもあります。人間としての使徒、人間としての伝道者は、多くの場面で、躓きの石になる、ということも否定できない事実でもあります。

また、もう一点付け加えることができるであろうことは、教会の中で「キリストにつく」と語る人々の言葉は、ある面で非常に正しい、また非常に美しい言葉に聞こえるはずです。彼らの言うことは全くの正論である、と聞いた人々が、当時のコリント教会の中にもいたのではないでしょうか。

なるほど、たしかにそのとおりです。しかし、だからといって、使徒たち、伝道者たちは、教会にとって本当に不要な存在なのでしょうか。単なる重荷にすぎず、できれば存在しないほうがよく、迷惑な存在にすぎないのでしょうか。

「あなたがたは・・・わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」とパウロは書いています。この意味は、よく分かりません。やや興奮しながら書かれた文章ではないでしょうか。

ただ、「既に大金持ちになっており」ともあります。教会の人々が王様のように裕福になれば、伝道者たちも裕福になれる、という意味でしょうか。使徒たち、伝道者たちさえいなければ、教会の人々は裕福になれるのに、ということでしょうか。そんなふうに後ろ指を指されながら、伝道者たちは、なお教会の人々の前に立たなければならないのでしょうか。

「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。

ここでパウロは、コリント教会の一部に存在していた使徒不要論、伝道者不要論を全面的に肯定し、受け入れています。なるほど、わたしたちは、存在する価値の無い者たちである、と。「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」と、ここまで言い切っています。

これは、口から出任せ、筆の勢いで書きなぐっている言葉ではないと、わたしは思います。本当に、心底から、わたしもそう思うと、パウロは言っているのです。

12節の後半には、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」とあります。

パウロを侮辱し、迫害し、ののしっていたのは、いったい誰なのでしょうか。教会の外側にいる人々だけでしょうか。それだけではなく、使徒不要論、伝道者不要論を主張する人々も又、教会の外側にいる人々と一緒になって、パウロを侮辱し、迫害し、ののしっていたのではないでしょうか。

しかし、パウロは、それらの言葉を甘んじて受けてきたのです。なぜでしょうか。

「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」。

パウロは、教会を、そして教会の人々を、心から愛していたのです。何を言われても、言われっ放しでよい。世の屑と呼ばれ、すべてのものの滓と呼ばれても構わない。使徒たち、伝道者たちの側に非が無い、とは言い切れないし、何を言われても仕方が無い面があることを認める。

しかし、人間としての使徒、人間としての伝道者そのものが教会には不要であるという主張を黙って見過ごすことは、パウロにはできませんでした。「キリストにつく」という主張は、最も正しく、最も美しい言葉であると同時に、教会にとって最も危険な言葉にもなりうるのです。

今日の個所の初めに、パウロは、コリント教会の人々に、「書かれているもの以上に出ない」ことを学んでほしかった、という趣旨のことを述べています。「書かれているもの」とは、1・18に引用されている「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」というイザヤ書29・14のことを指しています。

そして、パウロは、使徒たち、伝道者たちが語る説教という愚かな手段を通して、神は人を救う、と語ってきました。

世の屑であり、すべてのものの滓である者たち、教会ではお荷物、厄介者と思われている者たちを、神が用いてくださる。

そのことを、今日の個所で、パウロは、いかにも言いにくそうに述べているのです。

(2004年2月15日、山梨栄光教会主日礼拝)