1983年9月10日土曜日

玩具の心(1983年)

物語は終りに近づき、盛大な音楽とともに最大級の盛り上がりの場を迎えた。

それは、鬼のような子供のような主人公が彼の親の胸にすがりついて泣いた、と思いきや彼の隠し持っていたナイフは真紅の血と一緒になって彼の手と親の心臓とを連結した。

戦慄は視ている者の健全なる精神をわななかした。それは沈黙以外の何をも要求していない。ハルヲは映画に飽きたので席を立った。

外は恰かも深夜であるかのように、夕闇のゴールデン街は、人々が彼等の時間を楽しみながら多くの人々で賑わっていた。遠くを見遣ると暗い山の稜線が、高く長く遠吠えした。

しばらく目を瞠っていると、近くでラヂオだろうか、テレビからだろうか、標準時を知らせる時報の音が耳の底に響いた。

目をそっと開けたハルヲは、その刹那、自分の位置をふと見失った。心が乱れた。

どこだろう、ここは。ハルヲの瞳には、何だか全く見慣れた風景が次第に明るさを帯びて、初めは羅馬字のように、像として映り始めている。

それは思想であった。恐らく頭脳なのだろうが、今日は胃の調子が悪いのでとても複雑となっていたし、ハルヲの思いと裏腹に、それは忘却の彼方へ押し流されている途中だった。

もうすこし歩くと、彼女がいた。それが誰であるかをハルヲはよく知っていた。女は、白く油気のないきれいな顔をしているのだが、今日は頬のあたりが赤い。その目はとても明るい。モスキートがたくさんたかっている白々とした自動販売機の前で、女はビールを二本買ってじっとつっ立って待っていた。空の月は完全に黒く化した雲の中に、音もたてずに隠れていく。

彼女の方からハルヲに声をかけて来た。

「ああ、もうたくさん。酔っぱらっちゃった。あーあ。ねえ、ハルちゃん、助けてよ、ね。はあ、いいキモチ。はい、ハルちゃんの。」

女はハルヲの分として一本さし出した。

「またやってんのか。そんなにやると体に悪いぞ。」

ハルヲは自分の言葉に忠告を込めてそう言ったつもりだったが、なぜだろうか、同情のようなニュアンスになってしまっている事を自分でも感じた。ともかく彼女の白い手から取り上げて、一気に五臓六ぷを刺戟した。彼女はすると、玩具を取り上げられた子供のように泣きだした。

そうこうしている間にも、彼らの周囲を大勢の人が過ぎ去っていく。何て人の多い街なんだろう。

雨、が降りだした。傘を持っているはずもない二人はともかく通りのつき当りにある駅へかけて行った。酒に弱い彼女は、走るとまわるらしく、多少えらそうだ。

駅へ入ると、ふいにハルヲは大きな声を上げてしまった。彼の目の前を談笑しながら横切っていた女子学生達がビクッとして彼の方に振り向いたので、ちょっと恥ずかしくなってうつむいた。女子学生は互いに目くばせをして、薄笑いを浮べながら歩いていった。

「どうしたの。」

隣の女が尋ねた。その女には名前がなかった。白い肌と明るい瞳をもった女。男はその質問に答えなかった。なぜならその女は名前も無いくせに千鳥足で歩いていたからである。しかしハルヲはその女が好きだった。

大声をあげたのは、追っても追っても逃げていく、あの必死で追いかけていた昨日の記憶を、思い出してしまったからであった。

待合室のベンチに座った彼らは、目の前を通り過ぎていく若い女の、高く整った鼻から立ちのぼる煙草の煙を見つめた。その向こうのベンチでは、背が低く白髪で、髭をのばした老人が、痛そうな腰を用心そうに曲げて腰かけ、駅弁をゆっくりと食べていた。慣れない箸でもないだろうに、その老人は箸を持った手を震わせ、おぼつかない不器用な手つきでご飯粒を口に運んでいる。みると目からは涙がこぼれていた。箸を口に含んだまま老人はじっとうずくまって動こうとしない。箸を伝って涙は弁当さえ濡らしていた。がっくり落ちた肩の上にはえが一匹とまっていた事をハルヲは見逃さなかった。さっき食べた夜鳴きそばの味がビールの炭酸と一緒になって胃のあたりから立ちのぼってくるのをのどに感じ、吐き気をもよおした。

女はいつの間にか駅弁を手にしていた。

「おなかすいちゃった。」

その老人の隣にちょこんと座り込むと、老人のと同じ弁当を楽しそうに食べ始めた。それをハルヲは先程からじっと座ったままで見ていたのだが、その女の顔は、彼女が二十歳であるという事を感じさせない、十五・六のお嬢さんとしかいいようのない見かけだ、と何処かため息をつきながらそう思った。彼は冷笑を浮べると、ふと雨の匂いを感じた。

その時、小さく何かを刻むような音が聞こえてきた。ハルヲは腕に時計をつけていなかったが、駅の時計は音をたてずに何かを刻んでいた、それ以上にその音はハルヲの心臓を刻み、また女の心を刻んだ。その音が次第に大きくなり、誰の耳にもはっきり聞こえるようになり、誰の心の刻音もがユニゾンで共鳴し始めた時、ハルヲの頭の中に列車の警笛が大音響をもって爆発した。

女は黙って遠くを見ていた。満腹感で恍惚でいるが、その目は翳りというものを知らない。赤い頬は湿り気を帯びているが決して油気はない。肩まである髪をふとかき上げたその手の白さが妙に輝いていた。

ハルヲは顔をあげると、そこには別の女性がいた。その女性には、名前があった。

隣に静かに腰をおろしてくる。ハルヲはその女性に何か強くひき付けられるものがあった。いい香水のいい匂いがするが、そう気にならなかった。名前のある女性はとてもいい気持ちだ。知らない女性なのに、その柔らかくて冷たい膝に頭をうずめると、彼女は髪をなでたり、かきむしったり、もて遊んだ。



ハルヲは、ひどく長い夢を見た。

やけに蒸暑い潮風にのって夕日の赤が男の顔に付着した。彼は無くて体は形容詞だった。心は宙を舞い、常に新奇な刺戟の一単位を欲求した。新奇は実は陳腐の極限であるが彼は無知で無視した。彼の内部では、男はロマンで女はサスペンスだったが、夜空に浮かぶハーフムーンは暗黒の砂漠だった。彼は物質認識に偏屈だった。

彼は二年前、思想を排泄してしまったので、彼は単なる無秩序な馬鹿だった。だが自己陶酔症の狂人よりはまだ人に好かれた。

夕日の赤は彼の鼻先から飛びたったが、それは彼の生活の陳腐性を明示していた。

彼は馬鹿と呼ばれる事をひどく恐れた。なぜなら彼の内部にある馬鹿はまさしく彼であって、彼自身の具体に訴えかけられる馬鹿はこの世に存在しないからである。それは馬鹿というものの性質の上で大きな役割を果たしているのだ。(夢はしばしば、つじつまが合わない。)

思想は玩具だ。所有する事によって心に安心と快楽を、また壊れる事によって不安と絶望をもたらす。そして人からもらう事も捨てる事も取り代えることも可能である。

しかしその男は玩具を捨てたのである。小人が成長するとそうするように。

ハルヲは目が覚めた時、その夢を思いかえしてみて、その男はまさに彼の目標としている人間像かもしれない、と思った。ハルヲは何か物事を考え始めると、苦しい程に胸が高まる。それは恰かも他人に聞こえるが如く、心臓が大きな音をならすのであった。それが苦痛であった。

ハルヲは抽象的事象とか、理論とかそういうものが決してきらいではないのだが、理屈いって人にきらわれたりする事がいやだったのだ。

朝の光は、妙に冷たい風を伴ってハルヲの目を刺戟した。

「おはよう。」

名前の有る女だ。(ここはどこだ。)

彼女は服を着ているというよりはむしろ、着ていないのではないかというのが当たっていた。長い髪は懇意に愛撫された後らしく、ドライヤーの熱を帯びて香る。嗅覚が敏感なハルヲは、いい匂いに興奮する、変でもない生理を持っていた。

部屋を見回したハルヲは、その部屋に時計というものが無い事に気付いた。

「時計はどこ。」

「ここよ。」

女はそういってハルヲのジャンパーを箪笥から出し、そのポケットから外国製の時計を取り出した。それは彼のジャンパーから出てきたにも関わらず、彼のではなかった。

「あげるわ。」

黙ったままハルヲはそれを受取り、時間がもう昼に近いと知ると、起き上がってもうすでに出来上がっていた朝食を食べた。名前のある女と食べる初めての朝食は、とてもまずかったので、ハルヲは一晩だけの知り合いなのに、その女の事を一生忘れなかった。

ハルヲは、何かたわいのないどうでもいいような事を自分の浅はかな知恵と思慮の中でかき混ぜ、溶かし固めながらひとつの自分なりの結論を見いだしては、その行為を楽しんでいるのかと言えばそうではなく、むしろそれを苦痛としている、そんな癖があった。それが無意味なものであればある程結論はよりアイロニカルにどろどろとしてくる、それにさえ快感ではなく不快感を感じてしまう自虐的な皮肉屋だった。彼は情熱・熱中・青春といった一連の用語を忌み嫌っていた。なぜなら、それらはモラトリアム期における自己陶酔の結果としての情動の偏向性および自己忘却という目も当てられない程の低俗性、幼稚性の自認を意味しているにも関わらず、それらの欺マン的効用の有効性の方ばかりに誰もが傾けて使うからである。彼は最大の弱点を持った。それは若さであった。いくら物事に批判の視点を見出だし、自分の理想とする心象との差異をいかにして表現し、自分の方に正義と真実の軍配をあげる事による自己の存在意義の明示を欲しても、宿命的若さゆえ時間という辞引からのヴォキャブラリイを彼は取得する事が不可能な為、それが可能な大人達に勝利する事ができないのである。だから彼はいくらそんな用語が嫌いで、この世から消え去ってしまえとさえ思っても、批判の対象というよりは皮肉の対象とした。シニシズムにはしる事が唯一大人に勝てる方法だった。(外国製の時計はもう狂っている。)

だが彼は、そんな冷めた性格を持つ一面、嗅覚といった原始的な感覚に自分の感情をまかせているという面を同一方向に所有していた。確かにそれは矛盾としか名付けようがないが、それに対して彼は決して弁護をしなかった。なぜなら矛盾弁護の行為を客観視する事によってそんな行為こそがモラトリアム的行動の展型であるのだ、と彼は自覚していたからであった。しかし、そんな事は今の彼にとって全くどうでもいい事でもあった。

家に帰ると、名前のない女が部屋の中で待っていた。同い年なのに、三つ位年少に見える。彼女は今度は煙草をのんでいた。小さくすぼんだ唇の真ん中からヒュウとばかりにハルヲの顔に煙を吹きつけたその女は、小悪魔の様に笑った。(その女には、本当は名前がある事をここで白状したい。)ハルヲはアキコが顔に吹きかけてきたその匂いを嗅いで、その死臭にもがいた。

朝霧の中のゴールデン街は、それがひどく閑散としていて、石一個蹴飛ばすだけで街全体の人々が目を覚ますのではないかと思われる程冷たい動かぬ空気が張りつめていたので、散歩に出かけたアキコは、この街のはずれに位置するハルヲの下宿を出る折ひどくおびえた。何となくそれが義務であるかのように街を忍び足で歩いてその道の終わりまで来た時アキコは、よういどんとばかりに走りだした。

アキコのいってしまった後のハルヲの部屋は、それが急速に冷却されていくのを肌で感じながら、その冷気は雀が連れてきたのだと誤解を信じたくなるような、外の雀たちの鳴声が時間と共に騒々しさを増した。

胃の調子、今日も悪いな、とハルヲは胃の辺を押えながら思った。吐き気がして吐いた。

(『朝日文学』岡山県立岡山朝日高等学校生徒会文学部、1983年(昭和58年)9月10日発行)