2024年1月28日日曜日

命の言(2024年1月28日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 289番 みどりもふかき

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「命の言」

ヨハネの手紙一1章1~4節

関口 康

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」

今日開きました聖書の箇所は、新約聖書のヨハネの手紙一の冒頭部分です。1章1節から4節までを司会者に朗読していただきました。

「ヨハネの手紙」と題される文書は三つあります。そのうち「二」(第二の手紙)と「三」(第三の手紙)には、「長老のわたしから」と記されていて、「長老」を名乗る人物が書いた文書であることが明らかにされていますが、「一」(第一の手紙)の中には著者についての情報がありません。

ヨハネス・シュナイダーという聖書学者によると、「ヨハネ福音書とヨハネの第一の手紙の著者は同一人である」とされます(『NTD新約聖書註解 第10巻公同書簡』日本語版1975年、307頁)。しかしシュナイダーは、ヨハネ福音書とヨハネの手紙一の著者はイエス・キリストの12人の弟子の中の使徒ヨハネが書いたとするキリスト教会の伝統的な理解に立つわけではありません。使徒ヨハネではない別の誰かが書いたものであるが、今日まさにわたしたちが開いている冒頭部分の記述内容からして、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物が書いたものであるとしています。私も基本的にその線で同意します。

ヨハネの手紙一の冒頭部分に書かれているのは、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」(1節)という言葉です。この「命の言(ことば)」は「聖書」という言葉で置き換えることはできません。そうではなく、ヨハネによる福音書の冒頭部分に記されている言葉が思い起こされるべきです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1章1~5節)と記されているあの言葉です。

そうです、「命の言(ことば)」とは、真の救い主イエス・キリストのことです。人間を照らす光としての命の言はイエス・キリストご自身です。ヨハネの手紙一の冒頭部分に、その「命の言」を著者自身が「聞き」、「目で見」、「よく見」、「手で触れた」と記されています。これは明らかに、イエス・キリストと著者との間に直接的なかかわりと交わりがあったことを意味しています。

ヨハネの手紙一の「初めからあったもの」の意味は、ヨハネ福音書の「初めに言があった」と呼応しています。ヨハネ福音書の続きに「万物は言によって成った」とあるとおり、「初めから」の意味は「天地創造よりも前」です。神は天地創造のとき「光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ」(創世記1章4~5節)ました。これは、神が天地創造のとき「時間」を創造されたことを意味します。その「時間の創造」より前を指すのが今日の箇所の「初めから」の意味であり、ヨハネ福音書1章1節の「初めに言があった」の意味です。つまり、イエス・キリストは「時間の創造」よりも先におられた“永遠の存在”であるという信仰をヨハネ福音書もヨハネの手紙一も告白しています。

続きを読みます。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためである。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(2~3節)。

この言葉の意味を、正しく理解すべきです。この手紙の中で一度も自分の名を名乗っていない著者は、主イエスの地上の生涯と活動を目の当たりにした人物であることを明らかにしています。しかし、この人はそのことを自分の特権であると考えていません。「わたしとイエスさまは直接の知り合いだけれども、当時イエスさまと関係を持っていなかったあなたはそうではない。わたしとあなたは違うのだ」というような仕方で、自分の優位性を主張し、相手を見下げるような考えは全く持っていませんでした。そうではなく、わたしはイエス・キリストの福音を宣べ伝えるのだ、その福音を信じる人はだれでも、主イエスの声を直接聞き、その生涯と活動を直接見、手で触れたわたしたちと全く同じ交わりの中に入ることができるのだと、心から信じていました。

そうでないなら、教会の存在は無意味です。宣教は無意味です。主イエスの地上の生涯と活動を直接知っている二千年前の最初のひと握りの人たちだけが特別扱いされ、それ以外の人たちはその他大勢扱いされるだけであるのであれば。

ヨハネの手紙一とヨハネ福音書の共通の著者の確信は、それとは正反対です。直接の知り合いであろうとなかろうと、そのこと自体は問題でない。ユダヤ人だろうと異邦人だろうと、豊かだろうと貧しかろうと関係ない。宣べ伝えられた福音を信じる人はだれでも、国境も人種も時代もすべて超えて、御父と御子の交わりに入ることができるし、その関係は平等である。だからこそ、わたしたち教会は、あらゆる困難を乗り越えて福音を宣べ伝えるのだと、心から信じていました。

「交わり」と訳されているギリシア語は、コイノニアです。ここでの意味は「参加すること」です。かつての英国聖書学の権威者C.H.ドッドは英語の「パートナーシップ」を意味すると理解しました。しかし、くれぐれも誤解のないように。「御父と御子イエス・キリストとのコイノニア(交わり)」を与えられた人は、神の“第四位格”へと組み入れられて、「父・子・聖霊・わたし」の四位一体(The Quaternity)にはなりません。「いち人間」として、しかし、他のキリスト者と比較して「自分はあの人より下だが、あの人より上だ」などと高ぶったことを考えるべきでなく、神の前で平等な「いちキリスト者」として、教会に参加し、伝道と教会形成のわざを通して神と教会に仕える人生を送ることができる、という意味です。それ以上でもそれ以下でもありません。

ヨハネの手紙一の冒頭部分は「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(4節)で締めくくられます。「これらのこと」はそれ以前の1節から3節までだけを指していません。そうではなく、この手紙全体を指します。さらに広げて、教会のすべての宣教を指すと言っても過言ではありません。ヨハネ福音書にもイエス・キリストご自身の言葉として同じ趣旨のみことばがあります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(ヨハネ15章11節)。

宣教の目的は「喜び」にある、ということです。「命の言(ことば)」としてのイエス・キリストが来てくださったのは、世界を喜びで満たすためである、ということです。

使徒パウロも書いています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケ一5章16~18節)。

わたしたちの今週1週間が、喜びに満たされたものでありますよう、お祈りいたします。

(2024年1月28日 聖日礼拝)

2024年1月14日日曜日

恵みの選び(2024年1月14日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 7番 ほめたたえよ


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「恵みの選び」

ガラテヤの信徒への手紙 1章11~24節

関口 康

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ(ました)。」

今日の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙1章11節から24節までです。この手紙の最初の 2 章(1~2章)の主旨はパウロの自己弁明です。わたしパウロは「使徒」であるということ。他のすべての使徒と完全に対等の存在であるということ。そのことを強く主張しています。

反発される可能性があります。パウロも人の子だった。人には傲慢をいさめ、謙遜を勧める。しかし、結局は自分と他の使徒を比較して地位や順位を競っているだけではないか。そのようなそしりを受けることをパウロ自身が知らずにいたとは思えません。しかし、パウロはだれが何と言おうと自分が「使徒」であることを弁明せざるをえませんでした。なぜなら、彼の敵対者たちが彼から「使徒」の呼び名と権利を剥奪しようとしたからです。

聖書で「使徒」と呼ばれるのはイエス・キリストの12人の弟子です。ただし、使徒のひとりのイスカリオテのユダが自害した後、くじ引きでマティアが選ばれ、ユダの穴埋めをしましたので、マティアも「使徒」です。しかし、パウロは自ら「使徒」を名乗ります。それはイエス・キリストの啓示によると主張します。そして自分は「使徒」である以上、他の使徒と同等の権威を持っているので、他の使徒たちに従属する立場になく、反論する権利があることを主張しました。

牧師は使徒ではありません。しかし、パウロの言い分は、牧師たちにはよく分かるものです。使徒と牧師の働きは本質的に同じです。旧約聖書の預言者も同様です。牧師は預言者でもありません。しかし、働きは本質的に同じです。神の言葉を預かり、民に伝えることです。

だからこそ、牧師にはパウロの言い分がよく分かります。だいたいいつも「あの人は神の言葉を語るにふさわしくない」と思われているものだからです。パウロは牧師たちの代弁者です。

「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(11~12節)とパウロは記します。

これは、「福音」(喜びの知らせ)は人間が考え出したものではなく、人間から教えられたものでもなく、イエス・キリストの啓示によるという意味です。

「イエス・キリストの啓示」とは、イエス・キリストが十字架にはりつけにされたゴルゴタの丘とその先から始まるキリストによる新しい歴史を指しています。新約聖書のどこにも「啓示」という言葉で「聖書」を意味させる箇所はありません。啓示は人が常に携帯できる物ではありません。「啓示」の意味は、隠されていたものを明らかにすることです。明らかにするのは神ご自身です。聖書の知識の伝達ではなく、神がご自身の御心(エウドキア=神の喜び)を人の心に開示することです。それを人は「信仰」という方法で受信し、理解します。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教としてどのようにふるまっていたかを聞いています」(13~14節)とあるのは、だれか特定の人がガラテヤ教会の人々にパウロの過去を言いふらしたという意味よりも、次の二つの意味の可能性を考えるほうがベターです。

ひとつは、パウロがユダヤ教徒として熱心かつ忠実であったことを、多くの人が知っていた。つまり、彼は有名人だったということです。

もうひとつの意味は、ガラテヤ教会はパウロの第1回伝道旅行の成果として生み出された教会であり(これは「南ガラテヤ説」に基づく理解です)、ガラテヤ教会の人々にパウロ自身が自分の過去を直接話したことがある、という意味です。

彼の過去とは、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた」過去です。「神の教会」とはキリスト教会のことです。「神がお立てになったキリスト教会」です。しかし、その後パウロはユダヤ教から完全に距離を置くことになりました。「キリスト教」という言葉は、当時からありました。キリスト教とユダヤ教には完全な区別があり、2つの異なる領域です。

パウロは、神のみわざとしてのキリスト教会を破壊していた自分の罪を告白します。彼が迫害したのはエルサレムの教会だけでなく、外国の都市のキリスト者を迫害しました。パウロは自分が「神の教会」を迫害したことを思い出すたびに自分自身に失望しました。その罪から救われ、今の自分があるのは神の恵みによることを強く自覚し、神への感謝を忘れなかった人です。

ユダヤ人の生活は、少なくとも外面的には、完全に律法のおきてに従っていましたので、道徳的には非の打ち所がありませんでした。しかし、それらすべてが、そのまま彼の罪だと分かりました。絶対的な宗教的確信が「神の教会」を滅ぼそうとする力の源泉になっていたのですから、方向転換のためには神の雷(かみなり)が必要でした。彼は一方の絶対的な信仰から解放され、過去のものとは全く異なる、全く新しい意味でのイエス・キリストにおいて啓示された福音への絶対的な信仰へと回心しました。それは最も難しい方向転換です。神のわざそのものです。

パウロは自分の「回心」の事実を、エレミヤ書1章5節の言葉を借りて述べています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされ……」(15~16節)。

預言者エレミヤに示された主の御言葉は次のとおりです。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(1章5節)。

「母の胎から生まれる前に」の最も中心的な意味は、預言者としての資格のあるなしは本人の努力によらないということです。神の言葉を預かり、民に伝える働きにふさわしいかどうかは、人間が決めるのではなく、神ご自身が決めることです。神が恵みによって選んだ人だけが、神の言葉を民に伝える働きに就くことができます。その真理は永遠に変わりません。

パウロは、回心から 2 年後、エルサレムの使徒ペトロを訪問します。これはパウロが真の使徒になるために通るべき巡礼だったことを意味しません。パウロの意図はペトロへの自己紹介です。ペトロはキリスト教会の最高権力者でした。パウロがペトロのもとに行ったのは人々が彼を信頼しないからです。しかし、パウロはペトロの弟子になりたかったのではありません。パウロは誰の弟子でもなく、イエス・キリストの使徒です。「キリスト・イエスの僕(しもべ)(ドゥーロス=奴隷)」であるとすら名乗っています(ローマ1章1節)。僕は主人以外の誰にも従いません。

パウロは、他のだれかが築いた土台の上に立って、伝道と牧会のわざに就くことをよしとしませんでした。パウロは孤独を恐れませんでした。孤独を恐れる人に、異邦人伝道の使命を果たすことは不可能です。孤独を恐れる人に、神の言葉を民に伝える職務は果たせません。「神が恵みによってこのわたしを伝道者として選んでくださった」という確信のみが伝道者を支えます。

(2024年1月14日 聖日礼拝)

2024年1月7日日曜日

死から命へ(2024年1月7日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 211番 あさかぜしずかに

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「死から命へ」

エフェソの信徒への手紙2章1~10節

関口 康

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。」

今日は2024年最初の聖日です。今年1年も、わたしたちが各自の持ち場にあって、家庭や職場や地域社会の中で、主の前で謙遜に歩むことができますようお祈りいたします。

今日の聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙2章1節から10節までです。この箇所に記されているのは、イエス・キリストを信じる信仰を神の恵みとして与えられ、かつイエス・キリストの体なる教会に連なって生きるわたしたちへの励ましの言葉です。

ただし、これはたしかに励ましですが、単なる現状肯定や無批判な受容ではなく、わたしたちが謙遜であり続けることを求めるニュアンスが含まれています。それは、謙遜でない人を戒め、教会生活の原点としての洗礼の教えに立ち返ることを求めるニュアンスです。

今日の箇所に出てくる印象的な言葉は「あなたがた(わたしたち)は死んでいた」です。1節に「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」とあります。4節以下にも「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし(中略)キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」とあります。

両者の共通点は「死ぬ」という言葉が出てくることですが、その意味はどちらも、キリスト者であるわたしたちは「これから」死ぬのではなく「以前」または「かつて」死んでいたということです。しかしその「死んでいた」わたしたちが「生きる者」となるというのですから通常の生活感覚の逆です。普通は、生きている人が亡くなる。しかし、その反対のことが言われています。つまり、ここで言われているのは生物学的な意味の「死」ではありません。宗教的な意味です。

生物学的には「生きている」状態であるが、宗教的には「死んでいる」状態とは何でしょうか。その違いは、神との関係です。神との関係が途絶えていることが宗教的な意味で「死んでいる」状態であり、反対に、神との関係が回復し、遮断していたのに再接続できるようになったことが「生きている」または「生き返った」状態です。イエス・キリストの死と復活によって、キリストと結ばれたわたしたちの存在まで死んでいた状態から生きている状態へと切り換えられました。

それでは、以前は「死んでいた」わたしたちが「生きている」者になった転機はいつかというと、それは「洗礼」であるというのがパウロの教えです。パウロは「キリストと共に死ぬこと」と「洗礼」の関係を明確に語っています。

代表的な箇所はローマの信徒への手紙6章3節以下です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」。

コリントの信徒への手紙二5章14節以下にも同じ趣旨の言葉があります。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。

いま2か所、パウロの言葉を読みました。両者に共通するのは、イエス・キリストが死んでよみがえったのは、罪によって死んでいたわたしたちが生きる者になるためであるという信仰の教えです。そして興味深いことは、ローマの信徒への手紙でも、コリントの信徒への手紙二でも、パウロがこの教えを前面に打ち出す文脈の意図は、キリスト者である者たちこそ「謙遜」であるべきことを教えることにあるという点です。

それは、わたしたちはもはや自分のために生きているのではなくキリストのために生きているのだから、自分を誇り、不遜な態度をとるのはやめようではないかと呼びかける文脈です。第二コリント書に至っては、パウロとコリント教会が激突した状態で、教会の内部にパウロを激しく批判する人々がいることを知りつつ、イエス・キリストの弟子としてふさわしい謙遜と冷静さを取り戻すことを呼びかけるために書かれた手紙です。そのためにパウロは、すべてのキリスト者が経験している「洗礼」の事実に立ち返ることを訴えています。

それでは、なぜわたしたちが「以前」死んでいたのかといえば、罪の奴隷だったからです。命をもたらす神の支配下ではなく、死をもたらす罪の支配下にいたからです。今日の箇所の3節に記されている「わたしたちは皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」が、罪の奴隷状態にある人間の姿を表しています。

誤解なきように気をつけたいのは、3節の言葉には、今はキリスト者になっている人たちが以前は「こういう者たち」や「ほかの人々」の中にいたということを責める意図があるわけではないことです。そのように理解すると、教会の交わりに参加していない人々を軽蔑したり攻撃したりする意味になってしまい、ファリサイ主義の罠にかかっています。

重要なことは、「『あんな人たち』の中にいた過去」から「『こんな人たち』の中にいる現在」へと陣地換えしたかどうかではなく、罪の奴隷状態であることから解放されているかどうかです。洗礼を受けてイエス・キリストの体なる教会の一員になったとき、それ以前の生き方とは180度方向転換すること、すなわち「回心」(conversion)が起こったかどうかです。

そして、その「回心」との関係で特に重要なことは、今日の箇所の8節以下の言葉です。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。

ここに再び、キリスト者である者こそ「謙遜」であるべきことを強く訴える教えが出てきます。信仰ですら、あるいは信仰こそ、熱心かどうかの競争を、教会の中ですら、あるいは教会の中でこそ、全力で始める人々がいつの時代にも登場するので、それを強く戒める言葉が、ここに出てきます。信仰は自分の努力や行いではなく神の賜物である。したがって、わたしたちが「信仰によって義とされる」ことの中に、いかなる意味でも本人の努力や業績に対する評価の要素はない、ということを意味します。神から「頂戴した」(プレゼントされた)信仰を、まるで自分の努力の成果や勲章のようにとらえることは許されていません。

そのような事情であることを、わたしたちひとりひとりが理解したうえで、謙遜に生きることができるようになるための訓練場がイエス・キリストの体なる教会です。ただし、教会的な意味での「謙遜」は、一般的な礼儀作法の問題ではありません。自分の名誉のために生きているか、それとも、神の栄光を現すために生きているかの問題です。その評価は神がしてくださいます。

(2024年1月7日 聖日礼拝)