日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌500 みたまなるきよきかみ(1、3節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん
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「聖霊降臨の喜び」
使徒言行録2章1~11節
関口 康
「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」
今日はペンテコステ礼拝です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祝祭日です。今日はおめでたい日です。聖霊の働きによって初代教会が誕生したことをお祝いする日です。
今年は11月6日に昭島教会の創立70周年記念礼拝を行います。その日もおめでたい日です。聖霊の働きによって昭島教会が誕生したことをお祝いする日です。
いま2つ申し上げました。大げさに言ったつもりはないし、矛盾していません。「教会の誕生は聖霊の働きによる」というのは、わたしたち教会の自己理解です。それは時代も状況も超えます。どの教会も例外なく聖霊の働きによって誕生しました。
わたしたちが所属している日本キリスト教団には前史があり、いくつかのルーツがあります。そのひとつである日本で初めてのプロテスタント教団は「日本基督公会」でした。1872年3月に創立しました。今年で150周年です。
13年前の2009年の「日本プロテスタント宣教150周年」は宣教師の初来日から数えられていましたが、琉球伝道開始はもっと前であることは知っておくべきです。しかし、いま申し上げているのは別の話です。宣教開始ではなく教団設立の話です。
150年前の1872年に「日本基督公会」が誕生したときの様子が、1929年に出版された山本秀煌(やまもとひでてる)著『日本基督教會史』に記されています。著者は牧師ですが、明治学院の教授でもありました。少し長いですが、引用します。今日の聖書箇所と関係しています。
「折しも明治5年〔1872年〕正月2日横浜において数十名の日本人相集まりて祈祷会を催せり。(中略)これぞ日本人最初の祈祷会にして、また実に日本における最初の教会の出発点なりき。(中略)宣教師ジェームズ・バラ師の指導の下に、数名の学生有志の男女相集まりて使徒行伝の講義を聴き、熱烈なる説明に感じて互いに相祈りつつありしが、出席者意外に多く、少なきも20名、多き時は3、40名に達するの盛況を呈し、祈祷に次ぐ祈祷をもってし、感激の念、熱誠の情あふるるばかりにして感興尽くる時なく、予定1週間の祈祷会は、ひいて数週間の長きにわたりてなお止まず、祈祷会の進行につれて熱情ますます加わり、なかには感泣〔かんきゅう〕して神に祈り、初代教会設立当時のペンテコステの日のごとく、日本にも聖霊の降臨ましまして、キリシタン禁制のこの異教の地に、救世主イエス・キリストのご栄光のあらわれんことを切願せしもの少なからざりしが、その応験〔結果、効き目などの意味〕とや言わん、不思議にもここに数名の回心者を起こし、ついに基督公会の設立を見るに至りぬ」(山本、同上書、23~24頁。旧い漢字や送り仮名を新しく変えた。〔 〕内は関口康による補足)。
著者によると、これが「日本人最初の祈祷会」の様子です。人数は毎回20人から40人くらいだったようですが、1週間の予定が数週間に延長され、アメリカから来たジェームズ・バラ宣教師の使徒言行録の解説を感動しながら聴き、泣きながらお祈りした人たちがいました。そこに日本で最初のプロテスタント教団がつくられた、というわけです。
この文章の「初代教会設立当時のペンテコステの日のごとく、日本にも聖霊の降臨ましまして」が今日の聖書箇所そのものです。今日の箇所の聖霊降臨の出来事と同じことが日本で起こったという意味です。大げさに書いているのではありません。教会の誕生は聖霊の働きによる、というのは、教会の自己理解です。その理解に忠実に基づいて記されています。
このことを申し上げるのは、みなさんに安心していただきたいからです。「聖霊の働きとは何か」という問題への答えのひとつをお話しできると思うからです。
「聖霊の働き」とは具体的に言って何でしょうか。聖書の解説を聴いて泣くことでしょうか。泣いてはいけないという意味ではありません。しかし、聖霊が働いた証拠は、そこにいる人たちが泣くことでしょうか。そうなのかどうかは考えてみる価値があります。
聖書を自分で読んだり教会で説教を聴いたりして涙が出るほど感動できたとしたら素晴らしいことです。しかし、涙が出なかった日は聖霊が働かなかったことになるでしょうか。
あるいは、「回心者が起こること」が聖霊の働きでしょうか。使徒言行録の今日の朗読範囲の中には出てきませんが、2章41節に「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と記されています。洗礼を受ける人、教会員になる人が増えることが聖霊の働きでしょうか。そうでないときは、聖霊は働いていないことになるでしょうか。
また2つ言いました。涙が出たから聖霊が働いたとする。あるいは、洗礼を受ける人がいたので聖霊が働いたとする。話としては分かりやすいかもしれません。しかし、結果主義、業績主義の思想が潜んでいないでしょうか。結果からさかのぼって原因を突き止めるわけですから。
そして、それは多くの場合、現実の教会への批判や落胆という形で表明されます。聖霊の働きを感じられない説教だった、聖霊の働きを感じられない礼拝だったなど。
教会や牧師への批判には、真摯に耳を傾けるべきです。しかし「ちょっと待ってください」と申し上げたいところがあります。批判は批判として大事です。しかし「聖霊の働き」が「あった」の「なかった」のと言われると「それは別の問題です」と反論しなくてはならなくなります。
なぜならわたしたちは、「聖霊」は父・子・聖霊なる三位一体の神であると信じているからです。「教会の誕生は聖霊の働きによる」という教会の自己理解の意味は、「教会の設立者は神である」ということ以外にありません。人間の働きは不要であるという意味ではありませんが、人の働きは神の助けによります。教会の設立者は神です。この点を揺るがせにすることはできません。
みなさんに安心していただきたいと申し上げました。涙が出なくても、洗礼を受ける人が現れなくても聖霊は働いてくださっています。わたしたちが眠っているときも、病気や疲れで倒れているときも聖霊は働いてくださっています。聖霊は「神」ですから、人間存在を超越しています。
今日の箇所の6節では「自分の故郷の言葉」と、8節では「故郷の言葉」と訳し分けられているギリシア語は、原文では同じ言葉(ιδια διαλεκτω)です。直訳すれば「自分の言葉」です。
最初のペンテコステの出来事は、使徒の言葉をそこにいたすべての人たちが「自分の言葉」だと「分かった」ことに尽きます。それはもちろん、日本人にとって日本語という意味での各国の言語の話かもしれません。そのようにも理解できることが前後の文脈に書かれています。
しかし大切なことは、神の御心が「分かること」、そして「自分の言葉」(ιδια διαλεκτω)になることです。〝手話〟で伝えることも、〝生き方〟や〝背中〟で伝えることも、それで「分かった」になれば、聖霊が働いてくださっています。感動と興奮と成果だけが聖霊の働きではありません。いま私が申し上げていることが「分かった」方には聖霊が働いてくださっています。大丈夫です。
(2022年6月5日 ペンテコステ礼拝)