2022年3月20日日曜日

ペトロの信仰告白(2022年3月20日 聖日礼拝)


日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌 十字架の血に 436番(1、4節)

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「ペトロの信仰告白」

マルコによる福音書8章27~33節

関口 康

「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』」

今日の箇所に記されているのは、イエスさまが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになったのに対して、シモン・ペトロが「あなたはメシアです」と答える場面です。

この「メシア」はヘブライ語であり、そのギリシア語訳が「クリストゥス」と言い、日本語的にはカタカナで「キリスト」と表記します。つまり、ペトロはイエスさまからの質問に「あなたはキリストです」と答えているのと同じです。そして、この場合の「キリスト」の意味は「救い主」なので、つまりペトロは「あなたは救い主です」とイエスさまに答えているのと同じです。

わたしたちは「キリスト教」と言います。今申し上げたことからいえば、「メシア教」と言っても、「救い主教」と言っても意味は同じです。しかし、たとえ意味は同じでも、目新しさを求めていろんな言い換えをしてみても、かえって誤解を招いて混乱する要素を取り込むことになりかねませんので、伝統的な呼び方で「キリスト教」でよいと私は考えます。

「キリスト教」は歴史的にいつから始まったのかという議論に立ち入ると、百家争鳴で難しい話になりますので、やめておきます。しかし、歴史の問題としてでなく、キリスト教を本質的にとらえたときに言えるのは、「キリスト教」とは今日の箇所でシモン・ペトロがイエスさまの前で口にした「あなたはメシアです」すなわち「あなたはキリストです」という信仰告白を継承する宗教である、ということです。

呼び方は「キリスト教」で問題ありません。しかし、本質的には「イエス・キリスト教」です。だれでもキリストになれるのでなく、イエスさまだけがキリストであると告白する宗教です。

マルコによる福音書には、ペトロがこのことを言ったところ、イエスさまから「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と記されていて、箝口令が敷かれたことが分かります。

イエスさまが弟子たちや他の人たちに口止めされたのはこの箇所だけではありません。マルコによる福音書では、今日の箇所の8章30節以外に、1章44節、3章12節、5章43節でも同じことを言われています。

なぜイエスさまは御自分のことをだれにも話さないように戒められたのでしょうか。その理由を詳しく研究する人もいますが、想像の域を出ません。

このときの状況を考えると、イエスさまはすでにユダヤ教の指導者から殺意を抱かれ、殺害のための計略が立てられていた状態でした(マルコ3章6節など参照)。しかし、イエスさまの使命は、今日の箇所に続く8章31節以下の段落で明らかにされているとおりです。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである」(34~35節)と弟子たちにお教えになり、かつ、その弟子たちの前をイエスさまご自身が歩まれることです。

貧しい人を助け、病気の人を癒し、孤独な人を励ますことを懸命になさったイエスさまです。しかし、それは御自身の名声を高めて、人々から称賛されることではありません。正反対です。イエスさまの目標は「自分を捨てること」であり、「自分の十字架を背負うこと」です。このことを弟子たちに教えるだけ教えて御自分は実践なさらない有言不実行のイエスさまではありません。

しかし、口止めしないで放置するとイエスさまの働きがたちまち言い広められて、いつの間にか御自分が称賛の対象になってしまいます。それはイエスさまの御自身の目標に反することですので、それを食い止めようとなさったと考えるのがおそらく最もシンプルな結論です。

名誉欲を持っていない人はいないかもしれません。誉めてもらえば有頂天になるのが、わたしたちです。しかし、イエスさまがなさったように、自分が誉められたときは「だれにも言わないでください」と口止めするくらいで、ちょうどよさそうです。

わたしたちが神の御前で正しい生き方をしているかどうかは、見ている人は黙って見ています。大げさな反応はしてくれないかもしれませんが、いざというときに、助けてもらえたり励ましてもらえたりします。本当の評価とは、そのようなものではないでしょうか。

しかし、イエスさまの場合は、周りの人に評価されたいがために活動されていたというのとは違います。もしそのようなことが目的であるなら、「自分を捨て、自分の十字架を背負いなさい」と弟子たちに決してお命じにならなかったでしょう。「自分の働きを評価してもらいたがること」と「自分を捨てること」とは、正反対の意味を持つからです。

しかしまた、このようなことを申しますと、反対の意見が返ってくることがあります。「自分を捨て、自分の十字架を背負った」のはイエスさまただおひとりだけであって、すべての弟子たちがイエスさまのご命令に背いて逃げ去ったのである。イエスさまの前から逃げ去った弟子たちの中にペトロも含まれているのである。結局だれひとり「自分を捨てること」はできないのである。

だからこそイエスさまは「自分を捨てられない」すべての人の身代わりに十字架の上で死んでくださったのであって、イエスさまのおかげで、わたしたちはだれひとり自分を捨てないで済むようになったのであると、都合のよい結論を出してくる人がいないとも限りません。

「ちょっと待ってください」と言わざるをえません。「悪い意味で」と付け加えておきますが、わたしたちがキリスト教の教えを悪い意味で「聖書のみ」に限定し、それ以外のいかなる根拠も認めないという態度を採るとすれば、なるほどたしかにイエスさまの弟子たちはだれも十字架にかけられていません。しかし、新約聖書の中に収められた27巻はすべて遅くとも西暦2世紀初頭までに書かれたもので、それ以後のキリスト教会の歴史については全く記されていません。

それでは、新約聖書より後の時代のことや、時代は同じでも新約聖書に記されていない出来事について記された書物は無いのかというと、もちろんあります。それを「使徒教父文書」と言い、それについての研究も活発に行われています。それらに基づいて言えば、ペトロは晩年ローマで宣教活動を行い、ローマ皇帝ネロ(西暦37年生まれ、68年に30歳で死去)のもとで、殉教者として死にました。

ペトロもまた「自分を捨て、自分の十字架を背負うこと」を文字通り実践する人になりました。イエス・キリストがもたらしてくださった真理と平和、愛の交わりを死守するために自分の命を捨てました。

わたしたちはどうか、わたしはどうかと何度も問いかける必要があります。キリスト教会は、多くの人の血と汗と涙の結晶です。この側面は決して無視されてはなりません。

(2022年3月20日 聖日礼拝)


2022年3月13日日曜日

イエスの家族(2022年3月13日 聖日礼拝)


「イエスの家族」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 459番 飼い主わが主よ(1、4節)

「イエスの家族」

マルコによる福音書3章31~35節
関口 康

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」

今日の箇所は新約聖書のマルコによる福音書3章31節から35節までです。この箇所には大勢の人物が登場します。名前が記されているのはイエスさまだけです。あとは文字通り「大勢の人」(32節)がいます。そしてイエスさまのお母さんと兄弟姉妹たちが登場します。お母さんの名前がマリアであることはよく知られています。

「兄弟姉妹がた」(32節)はイエスさまと血のつながったマリアの子どもたちです。イエスさまは長男としてお生まれになりましたので、イエスさまに弟や妹がおられたことになります。お父さんはこの箇所に登場しません。お父さん以外のイエスさまのご家族が登場します。

イエスさまは「大勢の人」(32節)の中におられました。それがどういう状況だったかは、前の段落に「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(20節)と記されていることから考えていくしかありません。

イエスさまが帰られた「家」は、1章29節と2章1節に出てくるのと同じ家です。ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにあったシモン・ペトロとその兄弟アンデレの実家です。そこにはシモンの姑(しゅうとめ)も同居していました。姑がいたということは、シモンが結婚していたことを意味しますし、シモン夫妻の子どもたちもいて、同居していたかもしれません。

ですから、そこがどれくらいの大きさの建物だったのかは分かりませんが、小さくはない気がします。2章に描かれていたのが、病人をベッドに乗せたまま運んできた4人の男たちがその家に来て屋根によじ登り、その屋根をはがして病人をイエスさまの近くに吊り降ろした話でした。相当頑丈な家でなければ、この話そのものが成立しないでしょう。病気の人を含めて5人の体重がかかったくらいでは壊れない程度の屋根がついていた家だったでしょう。

まとめていえば、シモン・ペトロの妻と子どもたち、姑、弟くらいは一緒に住んでいて、頑丈な屋根もついている家です。そこをイエスさまは宣教活動の最初の拠点とされました。居候状態で寝泊まりされていたと考えることができます。

しかも、そこは本来あくまでもシモン・ペトロとその家族のプライベートの家でした。ところが、その家が事実上の集会所、まるで公民館のような、だれでも出入りすることが許されているかのような公開された場所になってしまいました。それは、イエスさまがそこで寝泊まりされているといううわさが広まったからですが、それでよかったのでしょうか。

ペトロとアンデレはイエスさまの弟子になったので「どうぞ、どうぞ」と誰でも歓迎したかもしれませんが、他の家族は別の考えを持っていたかもしれません。ひとつ忘れてはならない重要なポイントがあります。それは、この「家」があったカファルナウムの中にユダヤ教の「会堂」(シナゴーグ)があった(1章21節)ことです。

そちらのほうが本来かつ正規の集会所です。人がわんさか集まっても大丈夫なように、集会を初めから目的として造られた建物が「会堂」(シナゴーグ)です。うちで集まられると、はっきり言えばプライバシーの侵害だし、近所迷惑なので、集会したいなら正規の集会所ですればいいではないかと、家族から叱られる可能性がないとも限りません。イエスさまをシモンの家族全員が快く受け入れていたかどうかは分かりません。そうだったとも言えそうですし、そうでなかったとも言えそうです。

ここまでお話ししたことは今日の本題ではありませんが、全く関係ない話をしているつもりはありません。わたしたちが考えるべきことは「家族とは何か」ということです。シモン・ペトロにも家族がありました。イエスさまが来られたことで、ペトロの家族の平和が壊れたかどうかは、真剣に考えなくてならないテーマかもしれません。家の屋根まではがされてしまうという物理的な実害まで被りましたので。

しかし、ペトロの家族の話はここまでにします。今日の本題は、イエスさまのご家族についてです。そのペトロの家におられたイエスさまのところに、母マリアと兄弟姉妹が来て「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(31節)と記されています。この翻訳が私は気に障って仕方がありません。身分制度はあったでしょうが、「人をやる」とか「呼ばせた」とか、マリアが尊大な態度をとり、威圧的な物言いをしているかのようです。

もう少し穏やかな様子を想像できるほうがいいでしょう。「集会の途中で申し訳ありませんが、家庭の事情で伝えなくてはならないことがありますので、うちの息子をこちらに呼んでいただけませんでしょうか。わたしたちが皆さんの中にずかずか入っていくと、集会のご迷惑になりますので、外で待たせていただきます」くらいのほうがいいでしょう。

しかし、この箇所を読むかぎり、その情報がイエスさまに伝わったのは、ひとりの人が大勢の人をかき分けてイエスさまのもとにたどり着いて伝えたのでなく、そこにいたみんなが騒ぐような言い方で「ご家族が先生のことを探してますよ」とイエスさまにお伝えしたように読めます。

そして、だからこそ、そこにいたみんなに呼びかけて騒ぎを鎮めるように、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と、周りに座っている人々を見回して(34節)おっしゃいました。つまりこれは、個人的なひそひそ話をされたうえで、みんなに聞こえる大きな声でおっしゃったのではなく、そこにいたみんなとイエスさまとの対話であるととらえることができます。

「ご家族が先生のことを探してますよ」
「わたしの家族ってだれだい。今ここにいるみんながわたしの家族だよ」

少しうるさめの、学校の授業のようです。あるいはロックコンサート。

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(35節)と続けておられます。これは排他的な意味でとらえないほうがよさそうです。

イエスさまのお母さんと兄弟姉妹が「外」に立っていた(31節)のは、その集会に対する悪意や反発を態度で示していたわけではなく、遠慮していただけです。そして、その「家」(20節)は「会堂」(シナゴーグ)ではなく、民家です。その建物の「内」にいるか「外」にいるかが、宗教的な態度決定を意味していません。

そうであるならば、「神の御心を行う人」(35節)の中に「イエスの母と兄弟たち」(31節)が含まれていると考えて構いません。血縁的なつながりと信仰的なつながりを対立的に考える必要はありません。どちらのつながりも「兄弟姉妹、母」であるとイエスさまがおっしゃっています。

この話はそのまま教会に当てはまります。必ずしもすべての人の喜びや慰めにならない可能性があります。血縁的なつながりから脱出するために教会へと"亡命"した人はがっかりする話かもしれません。しかし、がっかりしないでください。「家族とは何なのか」を共に学び合いましょう。

(2022年3月13日 聖日礼拝)



2022年3月6日日曜日

荒れ野の誘惑(2022年3月6日 聖日礼拝)


「荒れ野の誘惑」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)
讃美歌21 うたがい迷いの 411番(1、4節)

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「荒れ野の誘惑」

マルコによる福音書1章12~15節

関口 康

「それから、〝霊〟はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」

今週もまだもう一日だけ、小学校の授業が残っています。それ以外は、今年度私が働いている学校での授業はすべて終了しました。学年末試験が行われている最中の学校と、まもなく始まる学校があります。それも終われば今年度の私の学校の仕事はすべて終了です。

学校内部の情報について外部で語ってよいことは全くありません。私個人について「来月から大きな変化がある」ということは言ってよいでしょう。学校での私の仕事がすべて無くなるわけではありません。今年度は3つの学校を兼任する過密な状態でした。その状態から解放されます。そして来月から始まる動きは、私にとって集中力が高まる方向にあります。

これは私の話です。しかし本質的には昭島教会の事柄です。そのように理解していただきたいです。教会の牧師がキリスト教主義学校の聖書科の教員であることで、礼拝出席者や教会員数や献金収入が増加するわけではない以上、教会にとって何の貢献もないという考えが支配的になるようなら、私は学校の仕事をやめます。しかし、そうではないと、みなさんが認めてくださっていますので、安心して学校で働いています。

そのような昭島教会の姿勢は、過去70年にわたって教会の伝道に携わりつつ、同時に幼稚園の責任をお持ちになっている石川献之助先生の一貫した姿勢から学ばれたことに違いありません。牧師が教会の中だけにいて、教会員の方々とだけ付き合っている状態が「伝道」だという考えが教会のどこにも見当たりません。反対に、牧師こそが教会の外へと、地域社会へと積極的に出て行くべきで、教会の建物や境内地は地域社会に開放されるべきだという考えが根付いています。

「牧師の働きが教会の働きである」と申し上げているのではありません。たとえ牧師が不在でも教会は教会として存在します。それは自明すぎるので、あえて言葉にする必要すらありません。しかし、教会の実務のいくつかの部分を牧師も担当させていただいていますので、このようなことを言わせていただいています。

先週の日曜日は、2021年度第2回教会定期総会を行いました。新年度役員・運営委員の選挙を行いました。そして秋場治憲伝道師招聘を満場一致で可決し、新年度教会組織が確定しました。来月から昭島教会に3人の教職です。これを「伝道の好機」と呼ばずして他に何と呼ぶでしょう。

私はこれまで以上に安心して学校で聖書を教えることができるようになります。私は単身赴任中ですので、「どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまう」(Ⅰコリント7章32節)状況にありません。ひたすら集中して御言葉を宣べ伝えることができます。

先ほど朗読いたしました聖書の箇所に、「神の子イエス・キリスト」(1節)が「ガリラヤで神の福音を宣べ伝える」(14節)宣教活動をお始めになる前に「荒れ野」(12節)で「サタンから誘惑を受けられた」(13節)ことが記されています。そのことが、とても短く書かれています。

今日の聖書箇所も日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。それは日本キリスト教団内の多くの牧師が、今日この箇所で説教している可能性を示唆しています。

実際に昨日、友人の牧師がインターネットに、「マルコの荒れ野の誘惑の記事は短すぎて、何を語ればいいか分からない」(大意)と書いておられるのを見て共感しました。この物語の拡大版は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にもあり、どちらからでもいろんな課題や教訓を引き出すことができるのに、マルコの記事は短すぎて話しにくい、というわけです。

私も同じことを考えました。そして、そうだと思うならマルコによる福音書だけにこだわらず、マタイやルカの平行記事をどんどん引用すればいいではないかという誘惑が起きましたが、その誘惑に負けないようにする必要があると思いました。

わたしたちが「テキストに縛られる」必要があるのは、自分の言いたいことが先にあり、それを補強するために都合のいい聖書の箇所だけを選んで自説を組み立てる誘惑に負けないためです。マルコによる福音書を読むときは、マルコによる福音書のテキストに縛られなければなりません。

今日の箇所の内容を理解するために、ひとつ前の段落から読む必要があります。イエスさまがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたとき「天が裂けて〝霊〟が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」(10節)と書かれています。「御自分に降った」〝霊〟は、イエスさまの外にとどまり、空中に浮遊していたでしょうか。そうでなく、イエスさまの心と体の内部に入り込んだと考えるべきでしょう。

すると、〝霊〟が「イエスを荒れ野に送り出した」(12節)というわけです。イエスさまご自身が「よし、荒れ野に行こう」と計画を立て、それを実行されたのではなく、外部から降って来て内部に入り込んだ〝霊〟が、イエスさまを荒れ野に行かせたのです。自発的でなく、強いられています。使役されています。「行かされて」います。

行き先は「荒れ野」です。砂漠を指しますが、砂しかない乾燥地帯だけを必ずしも考えなくてよいでしょう。40日間、かろうじて生命を維持できるだけの環境は確保されていたでしょう。

そして、その「荒れ野」にいたのは「サタン」と「野獣」と「天使」であると言われています。その中でイエスさまはひとりで過ごされたように描かれています。ただし、「野獣」はともかく、「天使」と「サタン」は、目に見える存在として想像しなければならないことはないでしょう。目に見えない、霊のような存在を思い浮かべてよいでしょう。だとすると、目に見える存在は、「荒れ野」の光景と「野獣」だけです。あとは何もありません。ほとんど「虚無」の状況です。

そのような何もないところで、何をするでもなく、ひたすら虚しい時間を費やすことが、その後のイエスさまの宣教活動にとって必要だったからこそ「強いられた」のです。「サタン」の誘惑と「野獣」の恐怖の中で「天使」だけに守られ、あとは何も自分を守ってくれない、圧倒的な孤独を味わう必要があったので、〝霊〟がイエスさまを強いて、荒れ野に連れ出したのです。

イエスさまだけの話であると考えなくてはならないでしょうか。私はそうは思いません。宣教に携わるすべてのキリスト者と関係があります。宣教は孤独と隣り合わせだからです。ひとりであることに全く耐えられない人が宣教の任務に耐えるのはとても難しいでしょう。「天使」だけに助けてもらい、あとは何もない。その状況と宣教が無縁であることはありません。

イエスさまがその模範を示してくださいました。イエスさまは宣教で多くの弟子を得ましたが、十字架を前にしたとき、すべての弟子が逃げ去ったので、再び孤独に戻られました。

ひとり暮らしをしている人たちへの福音です。孤独であることは決して無駄ではありません。福音宣教の大きな備えです。圧倒的な孤独の中でこそ、すべての孤独な人の思いを引き受けることができます。「荒れ野」はすでに、イエスさまにとって「十字架」と同じです。

(2022年3月6日 聖日礼拝)